* There ain't no Red Rose without a Thorn -9- *












 時は流れ、新年度が始まった。赤澤に観月たちは最上級生となった。テニス部の練習にも熱が入る。部室内に掛けられているカレンダーが4月に捲られているのを赤澤は仁王立ちで見た。
「ついに新年度か。中学最後の夏が来るな」
「ええ。そしてボクにとっては聖ルドルフに来て初めての夏でもあります」
「そういえばそうだったな」
 観月が聖ルドルフに入ってきて半年が経った。初対面では妙な奴とだと思ったものではあるが、その性格も今では掌握し、何故そのような性格に至ったかさえも想像が出来るようになり、赤澤の観月に対する不信感は完全になくなっていた。今となっては最も信頼出来る部員の一人である。
 月日が流れるのは早いものだとカレンダーを眺めていると「観月さん!」と裕太が部室に飛び込んできた。
「あ、部長とお話し中ですか」
「いや大丈夫だよ。どうしました?」
「トレーニング内容について質問があって…」
 裕太は自主トレの方法について細かに観月に質問をした。観月もそれに丁寧に回答をする。聞いていると、質問されている以上のことを返しているようであった。元来観月は面倒見が良い質なのかも知れない、と赤澤は思った。裕太は観月によく懐いているし、そのやりとりの様子を見て他の部員も観月に話し掛けやすくなっているようだ。以前よりも観月とその他の部員の間にある壁は薄くなっているように感じられる。
「ありがとうございます」
「んふっ。またいつでも聞いてください」
 礼儀正しくお辞儀をすると裕太は部室を後にした。観月はそれを満足げに見送った。
「お前もすっかりチームの一員になったな」
「何を言っているんですか。ボクは入ってきた初日から聖ルドルフの一員ですよ」
「よく言うぜ」
 本気で言っているのかしらばっくれているのかわからないが、いずれにせよ観月が少しマヌケに見えて赤澤は笑った。観月は不満ありげに表情を歪めていたが。
「大会が楽しみだな」
 4月のカレンダーを捲れば書き込まれている地区大会以降の日程に思いを馳せ、赤澤は胸が熱くなるのを感じた。
「やってやろうぜ、観月」
「言われなくともそのつもりです」
 熱血漢である赤澤から出た熱い一言に、観月は涼しく返事をした。しかし赤澤は知っていた。表向きクールな観月も心の中では熱い闘志を燃やしていることを。そして冷たい言葉で周りを突っぱねる癖に誰よりも寂しがり屋であること。近付くなという言葉は相手を嫌っているからではなく傷付けないためであること。そして、自分も傷付かないためであることを。
 繊細に見えて芯は強く、だけどやはり不安定。そんな観月を支えたいと赤澤はいつしか思うようになっていた。
「なあ観月」
「なんですか」
「俺、前にお前のこと“結構好きだ”って言ったけど、訂正するぜ」
「…そうですか」
 その言葉に観月は視線を逸らした。
 しかし次の言葉にまた赤澤に向けられることになる。
「お前のことが好きだ、観月」
 理解が及ぶまで一瞬の間が空いた後にばっと振り返った観月が目にしたのは、穏やかに笑う赤澤であった。ふざけている形相ではなく。馬鹿にしている様子もなく。
「何馬鹿なことを言って…!」
「バカなことってなんだ。俺は本気で…」
「やめなさい!残念ながらボクは寧ろ苦手ですね、アナタのことは」
 そう言って観月は背を向けた。しかし赤澤はすかさずその腕に手を伸ばした。
 先ほど、好きと言ったことを訂正すると伝えたとき、すっと逸らされた視線は傷付いているという風には見えなかった。では本当に傷付いていないのか?傷付くことに慣れすぎて麻痺しているのではないだろうか。それは、なんと寂しいことだろう。
「そんなこと言えるのか、この状態で」
 赤澤が腕を掴むと観月は体を反転させて振り返った。赤澤はその眼前まで掴んだ腕を持ち上げてやった。勿論観月の視界にも入った。自身の肌を埋め尽くすほどにびっしりと生えた無数の棘が。例え本人は直視したくなくとも。
 観月は赤澤を睨んだ。本気で恨みを込めたような表情で。これは本当に嫌われているのでは…普通だったらそう思ってしまうような表情であった。しかし赤澤は落ち着き払っていた。耳の端から首に至るまで全てが真っ赤なその肌に生えている棘が消える気配はなかったからだ。観月の鬼気迫るその目線に対抗することなく、ふっと微笑みかけた。観月の目元にはより力が籠もった。しかしやはり棘は減らない。
「嬉しいんだったらそんな顔すんなって」
 手を放してやると、刺し殺してきそうなほどに鋭かった目元が一気に泣き出しそうに潤んだ。自身の手のひらを見つめ、観月は大きくため息を吐いた。
「……困ったものですね、この体質には」
 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。一度も見たことのない顔だ、と赤澤は思った。今まで見てきたのは、笑っていても目元は吊り上がっている印象だった。こんなに優しい表情ができるのかと。それを隠し通して生きてきているのかと思ったら胸が締め付けられた。
「でもアナタのことが苦手なのは本当ですよ」
「なんだと?」
「ボクは基本的に人には近付かれたくないのですよ。それをアナタはいつも、いとも簡単に踏み入ってくる」
 深呼吸をして、観月は一歩前へ踏み出してきた。そして手を取られた。握り込まれることはなく、触れるようにそっと。ほんの少し、チクリとした。
 次の言葉は、意識を集中させていなければ聞き漏らしてしまうほど小さな囁きとして耳に届いた。
「初めてですよ。そばに居てほしいと思うのは」
 赤澤は考えるより先に全力で抱き締めていた。観月の体を。全身に棘が刺さってから、そういえばそうだったと思い出した。抱き締めている間も刺してくる棘が増えている感触がした。だけど気にならなかった。
 こんなに幸せな痛みがあるだろうか。
「痛くないんですか」
「めちゃくちゃ痛えよ」
「離しなさい!」
「嫌だよ」
 全力で赤澤の胸を押し返す観月であったが、力で赤澤に敵うはずはなかった。観月が押し返す腕の力を込めるほど、赤澤もより力を強めるだけであった。結果、二人の体はより密着した。
「やっと捕まえたんだ。離さねぇよ」
 背中をがっしりと抱き寄せていた手が一つ頭の後ろに回った。観月の癖のある髪に指をくぐらせた。柔らかく滑らかな髪の隙間からも硬く鋭利な棘が赤澤の手をつついてきたが気にならなかった。頭を引き寄せると二人の顔は残り数センチまで迫った。
 その時。
「お〜い観月いたいた!」
 ドアを勢いよく開け放つと同時に野村が大声を張り上げながら部室に入ってきた。あと1秒遅ければ二人の唇同士は触れ合っていただろう。見事なまでのタイミングでそれは遮られ赤澤は観月に突き飛ばされていた。
「どうかしましたか」
「しっかりしてくれよ、今日はアップの仕方を変えるから部活前に時間をくれって言ったのはお前だろー」
「ああいけない、そうでしたね」
 先ほどまで頬を染め穏やかに微笑み、感情も棘もありのままにさらけ出していた観月はどこにもいなかった。練習メニューについて話す姿はいつも通りの涼しい顔つきであった。よく一瞬で切り替わるものだと赤澤は感心してその横顔を見た。きっと、感情をコントロールする能力は観月が長年掛けて培ってきたものなのであろう。
 観月、俺と話してるときとは表情が違う。野村は小心者な癖に意外と観月と臆せず話すな。赤澤はそんなことを考えながら客観的にその状況を見守った。
「ところで、赤澤はなんでそんなとこでコケてるんだ?」
「ウルセエ」
「うひぃ!」
 観月に突き飛ばされてバランスを崩した赤澤は部室の地べたに座り込む格好になっていたのだった。まさか、想いが通じ合ったことに浮かれてキスをしようと迫っていたところにお前がタイミング悪く割り込んできたからそれを逃した上に突き飛ばされてこうなったんだよ、とは口が滑っても言えないのであった。

 二人を残して部室を出ると金田がいた。挨拶を交わしてから一緒に歩き始めると金田はふと眉を潜めた。
「赤澤部長、怪我してませんか」
 金田の視線は赤澤のウェアに向けられていた。白地の布に赤茶色の汚れが何カ所かに渡り付着していた。赤澤の浅黒い肌では傷自体は目立ちにくかったが、流れ出た鮮血は隠しきれなかった。瞬時に頭を巡らせ最適な言い訳を探す。
「あー…湿疹が出て掻きむしったかも」
「湿疹ですか」
 お大事にしてください、と金田は丁寧に労った。まさか棘だらけの観月を抱き締めていたと言うわけにはいかない。
(正確には、抱き締めることで棘が発生している観月、か)
 それが何より幸せな赤澤であったが、さすがに部活前に触れるのは控えるかと反省した。


  

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