都大会においてそれまで快進撃を続けてきた聖ルドルフであったが、ついにその勢いが止まることになる。相手は青春学園。 序盤は観月のシナリオ通りであった。しかしそのシナリオは「データを取った時点の選手の状態」で描かれたものであった。試合の中で急成長を遂げる青学の生徒を前に、聖ルドルフは予想外に白星を落とすことになる。 一番苦戦すると思っていた赤澤・金田ペアは黄金ペア相手に辛勝を得たものの、安定と思われていた柳沢・木更津ペアの棄権負け。裕太はルーキー相手に敗北。そして観月も、例の裕太の兄である不二周助に惨敗する形になってしまった。 それでも気持ちを切り替え挑んだコンソレーション、昨年の都大会優勝校である氷帝学園を相手に並んだのは白ではなく黒い星であった。 赤澤と観月たちの夏は終わった。 試合が終わってから寮に戻ってくるまで観月は一言も発しなかった。準々決勝で青学に負けたときも一番嘆いていたのは観月だった。自ら部に馴染もうとしていなかった割に、誰よりも聖ルドルフの勝利を信じて願っていたのもまた観月であったのだ。赤澤はその観月に付き添いそのまま観月の部屋に向かった。今日は作戦会議はないとはわかっているだろうが、柳沢も木更津も何も言ってこなかった。 「ここまで来られたのはお前のお陰だよ」 ベッドに腰掛けて俯いたまま四肢を脱力させている観月に赤澤は声を掛けた。返事は返ってこなかった。 「俺たちの実力不足だ」 赤澤の深いため息が観月の耳にも届いた。長い間の後に、ぽつりと漏らすように「実力不足に関してはボクもですよ」と観月は言った。 「珍しく弱気だな」 「事実を認めているまでです」 確かに跡部は異次元の強さだった、と試合を振り返る。数時間前のことのはずが遠い過去のようだ。夏が終わったのだ。色々なことがあったものだと思い出に胸を馳せようとしたときに「でも」と観月がその思考を遮った。 「これで悔いはありませんね。清々しい気持ちです。最高に楽しい夏でしたよ」 満面の笑みであった。しかし赤澤は肩を竦める。 「嘘つけ」 「嘘じゃありませんよ」 「笑顔なのに棘が刺さらないのがその証拠だよ」 ほれ、と観月の手首を掴んで眼前に持ち上げてやった。観月はため息を吐いて「意地が悪いな赤澤は」と投げやりに言った。そう言い返されてから、そういう自分もどこまでが本当の笑顔であろう、と自問自答して確かに意地悪だったなと苦笑を漏らした。 ワリーワリーと謝ろうとしたが、それより先に「でもこれで晴れてドイツに行けます」と観月が発したことで赤澤の思考が停止した。 ドイツに行く。つまり研究への協力要請を受けるということになる。先日話した段階では迷っているという話であった。 「やっぱり行くのか?」 「本当のことを言うと、この前話した時点でボクの意思は固まっていました。関東、全国と進んだら準備期間が短くなることが気になっていたくらいです」 既に意思は固まっていた。それが本当だとしたら、この前話をしたときに決定事項として話さなかったのは何故か。心に揺らぎがあったからではないのか。後押ししてほしいのか引き留めてほしいのか。観月はどういう気持ちで事前に打ち明けてきたのか。 「そんなに思い詰めた顔をするのは君らしくありませんよ」 「……」 確かに自分らしくないかもしれない。赤澤はどちらかというと考え込むよりも動き出したいタイプであった。だけどどうしてもわからなかった。観月の本当の気持ちが。もしかしたら、観月自身もわかっていないのではないかと思った。 「観月頼む。こういうときくらい素直に答えてくれ」 赤澤は観月の両手を取った。観月はそれを振りほどこうとはしなかった。しっかりと握られた手のひらと同様に赤澤の視線もしっかりと観月を捉えた。 「俺と離れるの、お前は寂しくないのか?」 観月は、まっすぐ向かってくるその目線に自分の目線を合わせ、すぐに外した。ああまた赤澤は熱くなっていますね、とでも言いたいかのように斜めに視線を逸らしたその目元は涼しかった。 「寂しくないと言ったら嘘になりますが、生きていくうちにはどうしたって出会いと別れは発生するものです。ボクは新しい環境での生活を始めることになりますし、アナタもそのうちボクがいない日々に慣れることでしょう」 淡々と述べられたその言葉には一切の感情が籠もっていなかった。そんなに騒ぐことではないという意味か、本心を隠すためになんとも思っていない風を装っているのか。後者だ、と赤澤は考えた。これまでの観月の行動や発言を振り返ると、そうとしか思えなかった。 絶対に後者である。いや、本当は、そうでなければ自分が受け止めきれないのだ。 「無理だよ」 赤澤は観月の体を抱き締めた。 「俺は耐えられねぇよ。お前の居ない生活なんて想像がつかねぇ」 腕に更に力を込めた。観月の線の細い体が壊れそうなほどに強く。その赤澤の背後で観月の手は一瞬宙に浮きかけたが、それは背中に回されることがないまま下ろされた。 どれくらい、そのままの体勢でいただろう。 「…なあ、観月」 赤澤は声を掛けるとふっと腕の力を弱め、体を離した。 「今よ、俺は今までで一番ってくらい力を込めて抱き締めたつもりだったんだ」 赤澤は自身の手のひらを見つめた。そこには無数の棘の痕があった。腕にも。普通ならば手の甲側の方が腕は焼けるものだが、赤澤の場合は手のひら側の方が肌の色が黒くなっているのだ。それは幾度と観月と触れ合ってきた部分であった。 触れ合う度に、チクリとした痛みがあって、赤く血が滲んだ。なのに、それが今はないのだ。 「こんなのは初めてだよ」 今までは嬉しい気持ちで抱き締めていた。それが返ってきた。もしくは抱き締めることで幸せな気持ちになれていた。それを文字通り肌で感じられたのだ。 赤澤は、観月の肌に浮く棘を初めて見た瞬間のことを思い出していた。何日も一緒に過ごしていたのにやっと目にした症状に「出会ってから今日まで、お前は一度も心から楽しいという気持ちになってなかったってことだな」と言ったことを思い出した。 なら今は。 「初めて抱き締めたときから今まで、お前は必ず幸せな気持ちになってくれていたんだな」 これまで何度も抱き締めてきた。不機嫌な顔をしていることもあった。文句を言われることもあった。逃れようと押し返されることもあった。黙って無抵抗なときもあった。遠慮がちに弱々しい力で抱き返されることもあった。何度も何度も。その度に必ずその鋭利な棘に突き刺されてきた。 悲しいときは棘が出ない。知識としては知っていた事実が、改めて突きつけられるとこんなにも辛いものだとは。痛みを感じられないことがこんなに苦しいだなんて。 「痛ぇ……」 体ではなく胸が痛い。試合に負けて引退が決まった瞬間ですら浮かばなかった涙が今、赤澤の目に浮かんでいた。 「行くなよ観月」 腕に込める力を強めながら「行くな」「行くな」と何度も繰り返したが、返事は返ってこなかった。 |