* There ain't no Red Rose without a Thorn -4- *












「これはなんだあねえ〜〜〜!!!」
 語尾という手がかりがなければ誰のものか認識できないほどの割れた叫び声が聞こえた。帰宅の一途を辿っていた赤澤は学校寮の横で部員の一大事に足を止めることになった。建物に飛び込み、人の流れから現場は風呂場の方であると悟った。どんな良からぬことが起きたのかと早足で向かった赤澤が目にしたのは、薔薇の花びらが大量に浮かび真っ赤になった浴槽であった。
「なん……だこれは」
 脱衣所から洗い場へまさに踏み入れんとしている全裸の柳沢の肩の後ろから、薔薇風呂(と呼べばいいのか)の中でくつろいでいる観月の姿が見えた。呆れた様子の声が少しエコーが掛かった状態で耳に届く。
「なんですか藪から棒に。ボクの高尚なバスタイムを邪魔しないで頂けますか」
 なるほど、部屋には個人用のシャワールームはあるが足が伸ばせるほどの浴槽が備わっているのは共有の大浴場のみだ。それなりの広さがあるこの浴槽を埋め尽くすほどの薔薇の花びらはどのように入手したのか…疑問は浮かんだが、今問い質すべきことはそこではない。テニス部部長としては秩序を乱す部員がいては見逃すわけにはいかない。「せっかくのリラックスタイムが台無しですよ」と寧ろ愚痴を漏らしている観月に対して一言忠告する。
「おい観月、共有の風呂を私物化するな」
「別に君たちだって入ってくださって良いんですよ。香りも良いし落ち着きますよ。もっとも、君たちのような下等な感性ではこの良さがわからないかもしれませんけどね。んふっ」
 下等な感性、などと言われて怒っても良い場面ではあったが、柳沢は「こんな大量の薔薇を見てたら頭がおかしくなりそうだーね。今日は部屋のシャワーで我慢するだーねー…」と背を向けた。そして自身の部屋に戻るべく先ほど脱いだばかりの洋服に袖を通し始めるのだった。
 騒ぎの収束を見守り、押しかけた者たちはゾロゾロと脱衣所を後にするのであった。自分もさっさと帰宅しよう、と踵を返す赤澤であったが、集団の中で誰かが放った一言が引っかかった。
「やっぱりアイツは薔薇人間だな」
(…………)
 観月は確かに妙なやつだ。薔薇肌を持つという身体的特徴に加え、性格にも棘があるというのは自身も初対面で感じたことであった。そのせいで他の部員から敬遠されている。もしかしたらクラスメイトからも。そう考えると、全員が去った浴室で再び一人になった観月は、安心しているだけでなく寂しがっているようにも見えた。勝手な解釈ではあるが、そう思い込むと放っておけないのが赤澤であった。
 そのつもりではなかったので洗面用具を持参していない。タオルも汗を拭いたものしかない。まあ細かいことはいい。勢いに任せて服を脱ぎ捨てて浴室に入り、桶を使って全身を適当に湯で流すと観月のすぐ横に飛び込んだ。ザパーンと大きな音と共に湯が一気に浴槽の外へ流れ出していく。水面に浮かぶ薔薇も幾分か流れた。気持ちを落ち着けるように目を閉じていた観月は隣に現れた赤澤を一瞥し懐疑的な視線を当てる。
「ちょっと、先に体は洗ったんでしょうね」
「あー、一応湯は被った」
「まったく…」
 おもむろに大きなため息を吐いた観月は「明日からは決して誰ともかち合わないように時間を調整することにしましょう」と赤澤の目の前で述べた。そのまま目と口を噤む観月を見、赤澤は敢えて口を出す。
「裸の付き合いってのも悪くないもんだぜ?それで部員同士の親睦を深めてる部分もかなりあるからな」
 赤澤自身、実家暮らしである手前わざわざ寮の風呂に入る必要はない。聖ルドルフの生徒として使用する権利はあるため、あまりに泥だらけに汚れすぎた日はさっぱりしてから帰宅することがある。他に利用する理由があるとしたら、部員の相談に乗るときだ。腹を割って話したいときにはこの裸の付き合いが一役買うことはある。
 しかし観月は赤澤の言葉に返事をしてこなかった。心をなかなか開こうとしない観月は手強いと感じたが、先ほどの「薔薇人間」発言然り、差別的な扱いを受けることが多いのかも知れないと想像すると数々の皮肉な発言や嫌味な態度にも納得がいった。人を寄せ付けようとしないことも、棘によって怪我をさせるという物理的な問題以外にも、人と心の距離を近付けすぎないように自制しているのではないか、と。
「なあ、観月」
「っ、触らないでください!」
 赤澤が肩に乗せた手を観月は険しい形相で振り払った。水しぶきと共に薔薇の花びらが数枚宙を舞った。
 あまりに極端に嫌がるものだから赤澤は正直驚いていた。しかし深刻に受け止めるほどドツボにはまると咄嗟に判断し、「ワリーワリー」と軽く返した。実はこのとき観月は観月で全く悪びれる様子のない赤澤の笑顔に毒気を抜かれていた。しかしそれを認めてはいけない。意地もあり、保身もあり。「悪いと思っているのだったらそれ相応の態度を取ってほしいですね」と背を向けるばかりであった。
「そんな目くじら立てんなよ」
「ここがお風呂でなかったらアナタは今血まみれででもおかしくないんですよ」
「風呂では棘が出ねぇのか?」
「入浴自体にリラックス効果がありますし、薔薇の香りのお陰で効果は増幅されます」
 観月は目の前から両手一杯の薔薇を掬い上げるとその香りを思い切り鼻から吸い込み肩を下ろした。真似して同様にやってみる赤澤であったが、いまいちよくわからず首を傾げることになった。キツめの花の匂いだ。これがリラックスできる香りなのかと。それが観月の感性なのだとそれ以上は深堀しないことにした。自分と観月の感性が違いすぎることなど、赤澤はこれまでに十分理解していた。風呂はリラックスできる。そこは同意だ。
「ボクにとって安らげる時間というのは何より大切なんです」
 そう言って大きく深呼吸をする観月の横顔を眺めた。何より大切。その言葉の意味を理解しようとした。
 普通ならば、ストレス発散といったら自分の好きなこと、楽しいことを思い切りやるものだ。だけど観月はそれが叶わないのかもしれない。楽しさで感情が昂ぶると棘が出る。一人のときでもそれを控えたいのかどうかはわからなかったが、人と接しているときに棘が出ないように日頃から感情が昂ぶらないように気を付けているということなのだろう。
 感情――特に、本来ならばポジティブな感情である喜びや楽しさを押し留めて生きている。そんな観月からは世界はどのように見えているのか。考えているうちに、観月の“棘のある性格”の理由もわかってきた気がした。他人には見せない観月の弱さを包んであげたいような、そんな感覚になっていた。
「まあ、リラックスは大事だわな」
「そうでしょう」
「疲れもとれるしな。そういえば、今日の練習どうだったよ」
「体力的にしんどいということはなかったですね。もっとも、ボクは途中からは見学させてもらっていましたが」
「そうだったな。いいデータは取れたか?」
「ええ。今度の休日、ボクはスカウト活動をしてみようという気になりましたよ」
「マジか」
「それから練習についてですが、より効率の良い練習メニューを今度提案させてください」
「ああ、助かるわ」
 しばらく続いた会話はそこで一旦途切れた。赤澤は水中でストレッチをして今日の練習の筋肉疲労を和らげることに努めた。観月は我関せずといった風に目を閉じていた。沈黙というのは時には気まずく感じるものであったが、二人の間にはそのような居づらさは感じられなかった。
 その静けさがどれほど続いただろう。浴槽の湯が循環を始めゴポゴポと音を立て始めたタイミングに赤澤は口を開いた。
「なあ観月、お前は俺のことが嫌いか?」
「好きも嫌いもないでしょう、ただのチームメイトですよ」
「嫌われてるわけではないと思っていいんだな」
 赤澤の唐突な質問に対し、当然のように答えた観月であったがそのまた返答には困り口を噤んだ。返事は来なかったが、構わず赤澤は言葉を続けた。
「ちなみに俺はお前のこと、結構好きだぜ」
 そう伝えると観月の眉はピクリと反応したが、すぐにいつもの涼しい目元に変わった。「そうですか」とだけ短く言い放ち視線を逸らした観月の耳がわずかに赤いのは長湯をしているからなのかはたまた照れているのか。少なくとも拒否はされなかったことにこっそりと手応えを感じながら赤澤は薔薇の花弁が浮かぶ湯を掬って顔を洗った。


  

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