都大会最終日の翌日である日曜、聖ルドルフ学院男子テニス部は今日も練習に取り組むべくいつも通りの時刻に集合していた。普段と異なる点は、3年生たちがテニスウェアではなく制服に身を包み前に一列になっていた点である。まずは部長の赤澤から引退の挨拶が始まった。 「えー、残念ながら俺たちは都の6位ということで都大会で敗北になったわけだが、聖ルドルフ男子テニス部において過去最高の成績を残せたことを俺は誇らしく思っている。試合に出た裕太や金田を中心に、来年はもっと上を目指せるチームになってほしい。みんな、今までありがとうな」 大きな拍手に包まれた。生え抜き組にとっては勿論、補強組にとっても、赤澤は技術面精神面共に頼りになる部長であった。 追って野村、木更津、柳沢と挨拶が進んでいく。例に漏れず列の一番端に立っていた観月は、順番が回ってきて一歩前へ出た。 「皆さん、短い間でしたがありがとうございました」 そう言い終えると、頭を丁寧に下げた。それだけで挨拶が終わるのではというほど丁寧に。しかし顔を上げた後にも話は続いた。 「補強組という特殊な立場で聖ルドルフには入りましたが、半年間、ここはボクの大切な居場所でした。最後は不甲斐ない結果に終わりましたが、やるべきことは出来たと思っています。練習メニューから試合のオーダーや戦術まで、ボクの考えたことを信じて従ってきてくださった皆さんには感謝しています」 想像以上に観月が聖ルドルフを大切に思っていたことを赤澤は今更ながら知った。観月らしい言葉であったが、どこか観月らしくないとも思えた。知ったつもりになっているだけで知らないことはまだまだありそうだと思った。 「それから」と言葉はまだ続いた。 「皆さんに伝えておかなければいけませんが」 その喋り出しに、まさか、と赤澤は身を乗り出した。列の反対端で観月はいつも通り涼しげに笑っていた。 「ボクは夏休みに入ったらドイツへ引っ越すことになりました」 一同は一斉にざわつき出す。気にせず観月は言葉を続けた。 「聖ルドルフに思い入れはありますし非常に寂しくはなりますが、短い間とはいえ一員になれたことを光栄に思います。君たちのデータや他校のデータ、それからボクが作った練習メニューや戦術マニュアルなどは全て残していきますのでどうぞ役立ててください。どうもありがとうございました」 ざわつきが止まないまま観月は会釈をして一歩下がり列に直った。信じられない様子で赤澤は声を張り上げる。 「観月ウソだろ!?」 「本当ですよ」 「…………」 周りから見れば、部長でも知らなかったのなら観月さんはきっと誰にも相談していなかったんだ、と想像できたことであろう。しかしそうではない。赤澤の驚きは事態を知った上で観月がその判断をするとは思っていなかったゆえの驚きであった。その事実を知る者はいない。当人たち以外には。 「…………」 「赤澤、とりあえず一旦締める?」 「あ、ああ」 隣に立つ副部長の野村からフォローを入れられ、赤澤は「そんなわけで俺たちは引退になるけど、練習はちょくちょく見に来るからな」と準備していた言葉を掛けた。 「じゃあ後は練習頑張れよー……って帰るわけにもいかなさそうだな」 後輩たちの視線がこぞって観月に注がれている。裕太に至っては半泣きである。 「……一旦自由時間、ってことにするか新部長」 「は、はい!お願いします!」 例年ならばここで3年は去って新幹部の挨拶があって、新体制での練習が始まるはずだ。しかし赤澤の言葉を受けその新部長である裕太が我先にと観月の下に突進し、他の部員もそれに連なった。 観月さん聞いてないですよ!!とにじり寄られた観月は、それ以上近寄らないでください!と叫び散らして後退りしていたが、内心嬉しそうだ、と赤澤は思った。 (あの性格だしずっとあんな態度だったけど、なんだかんだ信頼されてたし交友関係も築けてたんだな) 輪の中心でしかめっ面をしている観月を見ながら、嬉しいようなどこか寂しいような気持ちもしている赤澤であった。 「驚いただーね」 「なんで引っ越すんだろうね。留学とか?」 「赤澤、本当に何も聞いてないの?」 観月を囲う輪から少し離れて3年たちもまた観月の話で盛り上がった。質問されて赤澤は返答に迷ったが「聞いてねぇ」と答えた。 「このあと観月呼んで柳沢の部屋に集合しよ」 「なんでオレの部屋だーね!?」 「だって観月の部屋に押しかけたら怒りそうじゃん」 「なら淳の部屋でいいだーね!」 ワイワイと盛り上がる仲間たちを横目に、赤澤は大きくため息を吐いていた。 観月。どうしてだよ。確かにお前は昨日、はっきりと「行かない」と名言したわけではなかった。だけど、これからも一緒に居てほしいと伝えたとき、嬉しそうに笑っていたように見えた。気持ちは通じた手応えは確かにあった。そう感じていたのは自分だけであった…とは思いたくない。 観月にとって自分はどんな存在だったのか、何をしてやれたのか。考え込んで地面の一点を見つめていると「また君たちは本人の居ないところで噂話ですか」と声が聞こえた。 (観月……) 「あっご本人様登場だーね!事情を説明するだーね!」 「落ち着きなさい」 下級生の輪から解放されたかと思うと今度は同級生に囲まれる観月を一歩引いた位置で観察していたが、観月は「赤澤」と名前を呼んできた。そして「ちょっと」と手招きをした。「なんだーね部長だけ抜け駆けだーね」などと声を浴びせられながら引き寄せられるように観月の下へ歩み寄った。そのまま二人で部室に入る。観月はドアを閉める間際に「君たちは入ってくるんじゃありませんよ」と釘を刺した。 部室に入ってまず待っていたのは沈黙であった。こういうとき話題を切り出すのは赤澤の役目であることが多かった。しかし何から言えば良いかわからない。痺れを切らしたように観月が先に口を開いた。 「怒っていますか」 「……怒っちゃいねぇよ」 「そうですか」 「ただ……めちゃくちゃ落ち込んでる」 「……そうか」 「…………」 まだ黙り込む赤澤に観月はため息を吐いた。ため息を吐きたいのは赤澤の方であった。昨日のことがあってからの今日のあの言葉に、少なからず裏切られたような感情を抱いていた。しかし他の3年に事情説明するより先に自分だけに、と呼び出してきたということは想像できた。 となると自分に出来るのは明るく送り出すことなのでは、と考えが変わってきた。観月だって辛くないはずがないだろう、と。 「俺と居ることを選んでくれると思ったんだけどよ。ま、お前のこれからを考えたらそれが正しい選択なのかもな」 笑いながらそう言った。その笑顔がどれくらいうまく作れていたかは、自分では見えないからわからなかった。観月がどう感じたかもわからなかったが、返事は返ってきた。 「君に掛けてもらった言葉は非常に嬉しいものであったし、正直気持ちを揺さぶられました。ただ、ボクはボクの判断を変えることはしなかった…それだけです。何故なら今後の人生のシミュレーションを何パターンも想定して計算した上でそれが最善の方法だと既に導き出されていたからです」 用意されていた台詞のようにスラスラとそう言い切った観月に呆気にとられ、思わずぷっと吹き出した。 「お前はそういうやつだよな」 眉尻を下げながら赤澤は笑った。あまりに観月らしくて諦めがついてきた。お前のシナリオはいつでも完璧だ。そんなお前の気持ちを揺さぶることができたのなら、それだけで満足だよ、と。 「ですが、一つ考えが変わったこともあります」 予想外なことに終わりを迎えなかった話の続きを聞くべく首をもたげて観月の顔を見る。観月は相変わらず淡々と喋り続けた。 「赤澤、言いましたね。責任は取るって」 「……言った」 「アナタの言う一生が本当なのだったら」 一旦言葉を句切ると観月は笑った。柔らかく微笑んでいるようで強かな笑みだった。 「ボクも待っててあげてもいいですよ」 ――そうだ。何故、自分基準でしか考えられていなかったのか。観月が遠くへ行ってしまうことに嘆き、そのまま戻ってこないかもしれないことに対して嘆き。何故、自分が動くという選択肢に思い至ることができなかったのか。 「俺、絶対行くわ!ドイツ!」 気付いたら口に出していた。絶対なんて、根拠もないのに。宛があるわけでもないのに。 「いつになるかとか、どうしてとかどうやってとか…なんもわかんねぇ。けど、大人になったら俺もドイツで暮らせるように頑張るから!」 道はある。そう気付いただけで、気持ちのなんて晴れやかなことか。 「信じていいんですね」 「ああ」 言葉で確認し合ってから、どちらからともなく吸い寄せられるように抱き締め合った。この痛みとも暫くお別れになるのかと思うと、この半年間に受けてきた傷の数々が既に懐かしく感じられ始めているような妙な感覚に陥った。 「だからお前も頑張れよ」 「ええ」 「忘れんなよ、俺のこと」 「それはこちらの台詞ですよ。アナタのような単細胞人間のことですから些か不安ではあります」 「テメエ」 抱き締め合いながら口喧嘩を終えて、全身に滲んだ血を見て、目の前の顔を見て、赤澤は笑った。向こうからも笑顔が返ってきていた。 結局20分ほど二人で話していただろうか。アイツらはどうしているだろうとドアを開けると、そこには壁に耳を当てている聖ルドルフ3年一同がいた。観月はヒクヒクと眉を釣り上げる。 「何をしているんですか…!」 「許すだーね!結局何も聞こえはしなかっただーね!痛いだーね痛いだーね!!」 一番前に居たというだけで標的にされてしまい柳沢は何度もノートではたかれた。柳沢を生贄にちゃっかりその場を離れた木更津と野村はその様子を見て他人事のように笑った。柳沢は「くそー」と果敢に観月に食ってかかる。 「だってズルイだーね!オレたちにも詳しく聞かせるだーね!」 「君たちにもきちんとお話しますよ!盗み聞きは趣味が悪いと言っているんです」 先ほど叩かれた頭を押さえながら「じゃあオレの部屋に来るだーね」と柳沢が先陣を切って歩き出した。一同もそれに連なった。「観月の部屋でもいいだーね」と言う柳沢の言葉に観月は「駄目です」と間髪入れず返していた。はっきりと否定されてしまい柳沢は観念した様子でちぇっと舌打ちをした。それに被せるように木更津は「赤澤とだったら二人っきりで部屋に閉じこもるのになあ、くすくす」とつぶやいた。それに触発されたか、柳沢は足を止めると恐る恐るといった様子で人差し指を持ち上げ赤澤と観月を差す。 「前から気になってはいたけど…まさかお前ら付き合ってたりするだーね…?」 唐突なパスに赤澤と観月は硬直した。木更津と野村は「あーあ聞いちゃった」「ひぇっ!赤澤と観月が!?」などと各々の反応を示している。 騒ぎ立てる仲間に対し、「んなわけねぇだろ」と真顔で返せばそれで良かった。だけどつい、楽しくなってしまった。笑顔を隠すことなんてできなかった。引退したばかりの清々しい気持ちがそうさせたのだろうか。 「さて、どうだろうな」 「赤澤ッ!?」 はっきりと否定しない赤澤に過敏反応したその態度で一同が確信を得たとも知らず、何を言っているんだそんな適当なことを言って誤解されたらどうするんだと真っ赤な顔で喚き倒す観月であった。 「後はご想像にお任せするよ。な、観月」 「!!!」 その観月の肩を赤澤が抱き寄せた、その瞬間に観月の全身は棘に覆われた。赤澤以外の3名はそれを初めて目撃した。 「あっ、もしかしてこれが薔薇肌?」 「ホントだ。初めて見たや」 「そんなことより、二人とももっと詳しく聞かせるだ〜ね〜〜!!」 やんややんやと盛り上がる輪の中心で、顔を隠すようにしゃがみ込んだ観月は「早くドイツに行きたい…」と本心から嘆いた。その様子を見て赤澤はハハッと笑い、ポンポンと肩を叩いた。 「ほら。薔薇肌のこと、お前が言うほど気にするもんじゃなかっただろ」 「……一生恨みますよ」 「一生、な」 顔を俯かせたまま暫く静止し、ふぅと大きく深呼吸をすると観月はいつも通りの涼しい顔になって立ち上がった。そして、まるで試合前にオーダーや戦術を告げてきたときのように「皆さん」と言って一同の視線を集めた。 「ボクは聖ルドルフを離れることになりますが、ここがボクのホームであったことには変わりありません」 ですから、と言葉を繋げた。目の前に並ぶ仲間たちを見据えて。 「高等部でも聖ルドルフらしい完璧な勝利を目指してくださいよ」 観月の言葉を受け、4人は返事と共にはっきりと頷いた。それはやはり、試合前の光景に似ていた。 |