「秀一郎!」


彼女は何故か、俺をそう呼ぶ。











  * 初めての名前で呼んで *












「はいこれうちの班のプリント」

「ありがとう」

「んじゃよろしく学級委員さん〜」


数枚の用紙を俺に手渡すと、
とびきりの笑顔を残して俺の席から去っていく彼女に
少し離れた位置でクラスメイトたちがちょっかいを掛ける。


ってなんで大石のこと名前で呼ぶの?大石のこと好きなんじゃねぇのー?」

「違うから!」

「じゃあなんでか理由言ってみろよ」

「それは…言えない」


そんな会話が聞こえた。

さんに「大石くん」と呼ばれたのは、同じクラスになって初めの一週間くらいだけ。
すぐに「秀一郎って呼んでもいい?」と聞いてきた。

断る理由もなくそうしているが、
周りのクラスメイトとのやりとりをみていても
さんが他の男子を下の名前で呼ぶことはない。
もうそうなってから3ヶ月以上経つというのに、
俺も、未だにさんが何故俺のことを秀一郎と呼ぶのか、知らない。





断る理由がなかったからそうなったし、
特に困っていないからそのまま続いている。
だけど、不自然であるのは感じていたし、
今日みたいにからかわれることもあるみたいだし。
どうして、さんは俺のことを名前で呼ぶのだろう…。


そんなことを考えて、さんのことで頭が一杯だった一日。

部活の後に教室に戻ったら、なんとそこにさんがいた。


さん、まだ残ってたのかい」

「あ、秀一郎!まあね、ちょっとね〜」


顔は笑っていたけれど、何かをはぐらかそうとした態度に見えた。
「何かあったのか?」と聞くと、
少し口を尖らせて「秀一郎のファンに呼ばれちゃったよ」と言った。


「えっ!何か、されたとか…」

「ちーがう違う!大丈夫、秀一郎のファンは過激派少ないからさ」


不二くんのファンとかヤバイらしいね〜、
そんなことを言って笑っていたけれど。


「すごくおとなしそうな子だったよ、大石先輩と付き合ってるんですか?って。
 違いますって言ったらそうですかすみませんでしたってそれだけ」


モテるね!なんて言って茶化された。

自分がモテる…とは思っていないけれど、
現に今日のようなことは起きているわけで。
さっき不二の名前が出たけれど、他のクラスでは
女の子が女の子を怪我させてしまうようなこともあったらしいし…。


さん…」

「ん?」

「…もし、俺のことを、名前で呼ばないといけない理由がないんだったら、やめないか?」


言いながらも、実はどこかで、俺も寂しい気持ちがあった。
家族以外で自分のことを名前で呼ぶ人はいないし、
呼んでもらえること自体は嫌な感じがしない。寧ろ嬉しい。

でも、もしものことがあったら…と考えると。

それとも、どうしても名字で呼べない理由があるのか…。



目の前でさんは、口をへの字にしていて。

眉はつり上がっていて。

不機嫌な。


何故?


あれ、もしかしてさん本当に俺のことが好きで
だから俺のことだけ特別扱いしている…とか。
いやそれは俺の都合の良すぎる解釈…だよな。


「やっぱ、迷惑?」

「いや、迷惑なんてことはないさ!ただ、今日みたいなこともあるみたいだし、
 もしかしたらそれだけですまないこともあるかもしれないし」


さんは、顔を伏せがちにして。

普段話すときよりも半分くらいの小さな声で、喋り始めた。



「どうしても忘れられない人がいるんだ」



その続きの言葉は、聞かなくても想像がついた。

でもさんはちゃんと言った。



「その人も“大石くん”だった」



どうして、とか。
いつどこでどんな人で、とか。
聞きたいことはいっぱいあったのに、何も聞けなかった。

俺の都合の良い解釈は、所詮都合の良い解釈だった。
現実は寧ろその逆だった。


「ごめんね、秀一郎は、その大石くんとは関係ないのにね」


いつも通りの声色で、でも眉は少し下がり気味に、そう言う。


「もうやめるね…明日からは、大石くんって呼ぶから」


さんは、自分の鞄を掴む。
そして、廊下に向けて歩を進める。



「今まで迷惑掛けてごめん」



その背中に、俺はなんと言葉を掛けて良いのかわからない。


こんなにも沈んだ気持ちになっているのは、
さんの悲しい片想いの話を聞いたから?


…違う。


俺が、さんへの片想いを自覚してしまったから、だ。




明日からさんは、俺のことを「大石くん」と呼ぶようになって。

もしかしたらクラスメイトに「どうした?フラれたか?失恋?」なんてからかわれたりして。


でも違う。

いっそ、失恋をしたのは――。



……したのか、俺は?

失恋?


やっと想いを自覚したところなのに?

まだ、何も伝えられていないのに?


失恋……

なんてしてたまるか!行動すら起こさずに!



「…っ!待ってくれ、さん!」



教室から出て行こうとする彼女の背中に、大きな声を浴びせた。
驚いた表情で振り返ってくる。


俺は教室の中。
さんは教室と廊下の間。

そんな、中途半端な位置のまま会話が続く。



もう、これを逃したら、戻れない気がして。

もし明日になって

君が僕を「大石くん」なんて呼んでしまったら

もう戻れないと。


今しかない、そんな気がしたんだ。


「君は、僕のことをなんとも思っていないかもしれない」


首だけ振り返らせていたさんが、
何かを察したのか体ごとこちらに向ける。

彼女の顔が夕日に照らされる。



「だけど……秀一郎、って、呼んでくれて嬉しかった。迷惑なんかじゃなかった」



もしかしたら、そんな呼び方されていなかったら、意識していなかったかもしれない。


でもそんなこと関係ない。


君が好きだ。


…好きだ!




「俺は、さんのことが好きだ!」




―――……。



しん…とした時間が残った。


あ、これは…。
困らせてしまっている、かな。

どう、しよう…。



「あ、その…ごめん。突然…」

「ほんとだよ」



丸腰の俺に、想像以上のつんとした態度。
これは、怒ってる?


さん、ごめ…」

「私がさっきした話聞いてたでしょ?私には、忘れられない人がいるの」


胸が詰まった。
うまく声が出せずに、ウン。と首だけ頷かせた。



「忘れられない人が、いるはずなのに」


一言喋るごとに



「今、とても嬉しかった。嬉しいって思っちゃった」


さんの首が



「そんな自分に戸惑ってる」


項垂れていった。



「だけど、嬉しかった…」




最後は完全に下を向いたままそう言った。


葛藤を含めて、言葉はすべて、彼女の素直な気持ちだったのだろう。




俺は、意を決した。



「無理に忘れようとしなくていい。大切な記憶として忘れないでほしい」



相手がどこの誰でどんな人で、
どうして忘れられもしないような人物になっているのか
気にはなるけれど。


だけどそれは俺じゃない。

俺自身の想いには何も関係ない。



さんは下を向いたままだったけれど、
決して聞き逃されないように、俺はいつもよりも大きな声で言った。



「それでも、俺のことを好きになってほしい」



こんな大胆なことを言ったのは、初めてかもしれない。
でも、それくらい、俺は真剣だった。



「わがまま過ぎる、かな」



苦笑い。
さんは俯いていたから、俺の表情には気付いていないだろうけれど。

少しの間があったあと、ぽつりと。


「…いいよ」

「え?」

「そっちがそれでいいなら、いいよ」


俺は耳を疑った。
でも、顔を上げたさんは、こっちをまっすぐ見つめてくると言う。



「私には忘れられない人がいる。ずっとその人の面影引きずるかもしれない。
 それでも、私のことを好きでいてくれるって言えるの?」



勢いもあったと思う。
でもそのときは何故か、自信たっぷりに「うん」と答えることができた。


目の前の笑顔が、
少し涙に崩れかけた気がした。
気のせいだったみたいだけれど。


「それじゃあ、いいのかな。これからも名前で呼んで」


もちろん、と返すと、
ありがと、と、彼女は言う必要のないお礼を言った。

お礼を言いたいのは、寧ろ俺の方なのに。


俺のことが好きになったわけではないだろう。
忘れられない人がいるのだろう。
でも、俺にもまったく希望がないわけじゃない。

だって俺たちの関係は、これから築いていけるから。
……だよな?


すると、目の前の彼女はいたずらな笑みで。



「じゃあもちろん、私も呼んでくれるよね?」



言われて、俺はその名前を口に出そうとして、
あまりに気恥ずかしくて一度飲み込んで。







もう一度呼吸をし直して発したその響きは、想像以上に優しい音をしていた。



その呼びかけににこりと微笑むと、彼女もまた俺の名前を呼ぶ。



「これからもよろしくね。秀一郎」



その響きは、なんだか、今までとは違う音のように聞こえた。






















青春してぇーーー!(叫)

主人公が大石呼びできなくなるくらい忘れられない相手って何よ
あんたどんな14年間生きてきたのよ、って思って
明確な答えが出せなかったから曖昧なまま残しといた。ぁ

日本語だけでも色々解釈できるような引っ掛けタイトルなんだけど
更に英訳すると『Call me in first name』になるという一捻り。


2016/07/21