とぼとぼ。

とぼとぼ。


行く宛てもなく、足を引き摺るように俺は歩く。



どれくらい歩いていただろう。

疲労よりも、別の問題で体が重く感じる。


飢えすら感じない。

それでも喉は渇く。


俺は、街の広場の水呑場へ向かった。
馬鹿なくらいに沢山の水を飲んだ。

すると、同い年ぐらいの少年と、
その前に群がる人の群れを見つけた。


なんだろう、と思って近付いた。



それが物語の始まりだった。











  * busker buster! *












「ほい、ほほほ、ほいっ!とね」


そんな掛け声で、少年は一つの箱から一つの箱へ飛び移る。
高低差があるにも屈せず、
宙返りをしたり手で着地したり、
色々な方法で箱の上を飛び交う。

時たま観客から拍手が起こり、
去り際にお金を箱に入れていく者も居た。




「――――」



目が合った。



俺は逸らしたかったんだ。
だけど、出来なかった。

そのまま固定されたみたいに、数秒間、いや、数分間?

随分と長いこと、視線が重なっていたように思えた。
だけど、きっと本当は一瞬のことだったのだろう。


彼は、ぷいと顔を背けた。


「それでは、今日はここまでです。
 見てくださった方、ありがとうございましたーまたいつか!」


お金が、どんどん箱へ入っていく。
ありがとうございます、と少年はその都度丁寧に頭を下げる。


俺は少し離れた位置で、
その様子を呆然と見守っていた。

いや、偶然視界に入っていたというだけで、
本当は見ているわけではなかったのだけれど。



暫くすると、人の波は、消えた。

広場は、静かになった夕方の情景となった。
見えるのは、はるか遠くにスケートボードをしている少年たちと、
歩き回っている鳩と、
通りかかりのOL風の女性、それだけだ。


「ふー、大量大量……っと」


これで今月は安泰かなー、
とかなんとか言いながら、少年は箱の蓋を閉じる。


と。


また、目が合った。



俺が動けずに居ると、
少年は胡坐を掻いたまま
挑発的な視線で俺に話し掛けてくる。


「お前、ずっと見てたよね」

「あ、ごめん…」

「いや、別に全然責めてないし」


どうしていいのか分からず、戸惑う俺。
目線だけが、重なったままで。


一瞬の隙も見せない、真っ直ぐな視線。
見透かすような、鋭い眼光。

心の奥まで読まれているようで、俺は違和感を感じた。
勿論、そんなはずはないのだろうけれど。


少年は、にっと笑った。

そして、口を開く。



「仲間に入らない?」

「な、何の…」



すっくと立ち上がると、少年は言った。


「バスカーっていうんだ」

「バスカー?」

「うん」


ひょいひょいっと、両手でいとも簡単に5つのボールでお手玉をして見せた。
(正式にはジャグリングというらしいけど、そんなこと俺は知らなかった)


「こうやって。道でパフォーマンスをしてお金を稼ぐんだ。
 本当は楽器を演奏する人のことをいうんだけど、
 言い方がカッコイイからオレは自分のことそう呼んでる」

「…大道芸人ってことかい?」


ぽぽぽ、とボールを上手くダボッとしたポケットの中に落とすと、
「ま、簡単にいえばそういうこと」と言って手を払った。

お見事。俺は思わず拍手をしそうになった。

だけど焦って手を下ろした。


「君、年は?」

「14」


やっぱり。
同じか少し下くらいだろう、と思ったら予想通りだった。

彼は荷物を鞄にしまい始めた。
俺はその背中を問い掛ける。


「学校へは行ってないのか」

「行ってない」

「どうして」

「言えない」

「どうしてもか」

「うん」


…全く。

ろくな教育を受けていないからなのか、
まともな返事すら返ってこない。


「ご家族の方は君がここに居ることを知ってるのか?
 それに対して何にも言ってこないのか?」


問う。
しかし、返事がこない。


「おい、君…っ」

「…なんなんだよお前、さっきからさぁ」


肩に手を乗せたところで、
パッと振り払われた。
屈み気味だった俺に対し、
彼はすっくと立ち上がって見下ろしてきた。

細身の体。
真っ直ぐな鋭い眼光。

何故だろう。動けなかった。



「…何しようと、オレの勝手だろ」


そう一言言い放ち、鞄を掴むとぷいと方向転換した。
そして歩き出す。


「ちょっと、君!」

「さっき誘ったことは取り消すからさ。
 さっさと家にでも帰ったらどうだよ」

「は?」

「お前の家族は知ってるのかよ、お前がここに居ること」


一瞬立ち止まって、こっちを首だけ振り返らせながら。

心の中を読まれている気がした。
だけど俺は答えたんだ。


「知ってるも何も…散歩の際にで立ち寄っただけだ。
 別にここで何か活動をするわけでもないし、君とは違う」


声が震えているのを感じた。
怒りが交じっていたのだと思う。
そして、少し怯えていた。

それに対して彼は……笑った。
軽く嘲るように。
だけどどこか、寂しそうに。


「君とは違う…ね。分かった。じゃあね」

「おい、待てよ…」

「付いてくる気ないんだろ。じゃあ帰れよ」

「俺は、君のことを心配して…」


また歩き出した彼だけど、また止まった。
今度は体ごと振り返って。


「オレのことを?心配?」

「な、何か悪いか」

「どこの誰かも知らないのに?どうしてこんなことをしてるかも?」

「だからこそ心配してるんだろう!」


気付けば本気で怒鳴っている自分が居た。
大人気ないと思いつつも、そうせずには居られなかった。
その点、動じず落ち着いていた彼は、
俺よりずっと大人だったのかもしれない。
表情一つ変えることなく。

しかし次の言葉で、俺は凍りつくこととなる。


「…お節介」

「…え?」

「偽善者。正義の味方気取りかよ」

「そ、その言い方はないだろう!?」


俺はカッと頭に来ていた。
しかし彼は、フー…と長い溜息を一つ吐いただけ。


「“君のため”みたいな言い方しといてさ」

「それは…」

「大体、余計なお世話だっつーの」


顔を斜めに逸らした。
体も背かれる、その前に俺は両肩を掴んだ。


「…なんだよ」

「さっきの言い方は悪かった。訂正する」


今更なんなんだ、という気が自分でもした。
だけど、放っておけなかったんだよ。
どうしても、見捨てることが出来なかった。

彼が、一瞬、捨て猫のように思えていたんだ。



「だけど、俺は…本気で君のことが心配なんだ……」



肩を掴んだまま、俺は首をうな垂れていた。
沈黙が辛い。だけど何も言えない、動けない。

彼からの声が掛かったのは、その十余秒後。


「馬鹿じゃねぇの」

「ばっ…!?」

「オレのこと、なーんも知らないくせにさぁ……っ」


俺は咄嗟に顔を上げて手を離した。
そして言葉を詰まらせた彼は、後ろを向いた。
すると何も言わずに、そのまま早足で進み始めた。
後ろには、何の名残も哀愁も見せない様子で。

しかし、気のせいだろうか。
最後の一瞬、ふいに、彼が泣きそうに見えたのは。


走り寄った。
肩を掴んで、無理矢理に振り向かせた。

予想通りだった。


「…馬鹿だよ、お前」

「ごめん…」

「謝るなよバーカ!」


涙声で、そう言いながらごしごしと目を擦った。

目と鼻が赤い。
唇も綺麗な赤。
髪の毛も独特の赤茶色。

真っ赤だ、とその時思った。


「仲間になる気がないなら、ここでサヨナラだ。もう付いてくんな」

「もし、仲間になる気があるって言ったら?」

「………」


ちょっと考えたみたいだった。
彼は言う。


「もう戻ってこれないかもしれないよ?」

「構わない」

「……家族は?」


少し、挑戦的な視線だと思った。
やはり知られているのだろうか。


「家族は…もう居ない。だから良いんだ」

「ん。やっぱね」


やっぱ?
どういうことだ、一体…。

考えが纏まる間もなく、彼は口を開いた。


「なんか、似た匂いがしたから」

「匂い?」


俺の疑問は無視するかのように、
彼は自分の話を続ける。


「もし、仲間になる気があるって言うんだったら…」

「言うんだったら?」


スッと。

右手が前へ差し出された。


「オレの名前は、菊丸英二だから」

「――!」


思えば、それ以来、俺は一度も
英二のことを“君”とは呼ばなくなった。

それが約束だったんだ。
そういうことだったんだ、きっと。



「大石秀一郎、よろしく」



ガシッと両手を掴んで、
その後は少し、笑った。






結局俺たちはすぐ近くに腰を下ろし、
お互いの生い立ちなどを語り合っていた。

そして、俺たちは似た境遇に立たされていたことを知った。


「もうすぐ2年かな」

「そんなにもなるのか…」


英二は、ちらっと俺に視線を向けると。


「お前は、せいぜいおとといってとこだろ。どう、アタリ?」

「…まだ1日目だ」

「おやま、それはそれは…」


申し訳無さそうに、英二は口を噤んだ。
1日も2日も、大して変わらないと思うんだけどな…
と俺は思ったが、あえて言わなかった。


「あ、そうだ」

「ん?」

「さっきは、ひどいこと言ってゴメンナサイ…」


両手は体重を支えるように体側の地面につきながら、
ぺこんと頭だけを下げてきた。
その様子が、可愛らしくさえ見えて俺は笑ってしまった。


「にゃっ!?なに笑ってんだよ!」

「あ、ごめんごめん。その、俺の方こそ…さっきは悪かった。ごめん」


俺の釣られて頭を下げた。
実際、何も知らなかったとはいえ、
酷いことをしたと思っている。



俺は昨晩、英二は2年ほど前。


お互いの家族は、所帯殺戮の被害にあった。


一家全員、皆殺しだ。
毎年何回かあるんだ。
ニュースで見たから知っている。
だけど、犯人は未だ見つかっていない。
不規則にやってくるため、
詳細が掴めないんだ。

今もまた、被害が増えているのかもしれない。
いや、うちに来たばかりだから、まだかな。


「ジェノサイドってやつだ」

「……」

「アイツ、金持ちの家ばっか狙うんだ」

「えっ?」


俺は英二の顔を見た。
少しばかし視線はあったものの、
英二はすんなりと視線を逸らした。


「見たとこ、お前も結構裕福な暮らししてたんだろ?」

「あ…まあ、それなりに」

「自分でそう言えるってことは、相当ってことだ」


確かに。
図星をつかれて、なんとなく居辛い。
いや、居辛さの理由は、それだけじゃないだろうけど。


「誰だっていいんだ…金持ちなら。
 お金さえ手に入ればどんなことしたっていいんだ」

「英二…」

「っチクショー…」


英二は首をうな垂れた。
そしてそれ以降、喋ろうとしない。

何も出来ずに、俺はそこに座っている。



5分ぐらい経っただろうか。
英二はその体制のまま、

「お前悔しくねーの?」

と聞いてきた。


俺、は――……。

なんだろう。
まだ実感が湧いてないのだろうか。
憎い、とか、悔しい、とか、
そんなことよりも、
ただ漠然と哀しくて。

胸の中が空っぽみたいだ。
心は痛むのに、何も感情が生まれてこない。


「っ……」


質問に答えようと思ったけれど、
答えが口から出てこない。
それどころか、呼吸まで詰まりそうだ。


…そうか。
誰にとか、どうしてとか、
そういう問題じゃなくて。

殺されてしまった。

それだけで充分すぎるんだ。



「…やっぱさっきの質問取り消し」


俺が何も言おうとしない様子を察して、
英二はそう言って顔を上げた。


「忘れてた」

「何を」

「オレも…初めはそうだったってこと」


そういって、俺の胸にゲンコツを当ててきた。
視線も当てられた。

不意に泣きたくなった。



「お前、強いね」

「何が」

「オレ、3日ぐらい泣きっぱなしだったもん」


そう言った英二は、今も、
尖った目の端に小さく涙を溜めていた。
多分、色々と思い出してしまったのだろう。

膝を抱えて顔を半分埋めると、なにやら呟き始めた。


「いつの間にかちぃ兄ちゃんと同い年になっちったし…。
 つーかオウムまで殺すことないじゃんな。確かによく喋るやつだったけど」

涙が、更に増えた。


「オレのこと叱ってきて…生意気なやつでさ。母さんに姉ちゃんの所為だ。
 買ってきたときは、もっと面白いこと憶えさせるつもりだったのに…」

少し、零れた。


「みんな、怒ってっかなー…」


完全に膝に顔を埋めた。
表情は何も見えなくて、ただ、
はねた赤茶の髪とその隙間から覗く耳だけだった。


「なんで…怒ってるんだ?」

「オレ…いつも悪戯ばっかしてて、不真面目で。
 あの日も家族と喧嘩して、家出してたんだ」


ぐす、と鼻を啜った。
表情は完全に崩れていた。


「まさか、家に帰ったら誰もいないなんて思わないじゃん。
 たった3時間ぐらい外に居ただけなんだぜ?」

「英二…」

「仲直りしようと思って帰ったのに」


また、顔を埋めた。


「ヒドイよぉ…」

「……」


俺は、やはり何も言えずにいる。


状況は違えど、お互い、心に深い傷を負っていることは確かだ。


家で待っているものに期待して帰って、
まさか、赤い海と肉の塊を目にするなんて、
思ってもいなかったのだから。
4人分の食料を抱えた袋は意味を無くして、
力が抜けると同時に地面に落ちて、
俺は、目の前の光景を信じることは出来なかった。

まだ、鮮明に浮かび上がる。

いや…まだ、なんてことはないんだろうな。
きっと、いつになってもそうなのだろう。
脳裏に深く刻み込まれて。
今の英二みたいない、時に思い出しては、
救いようのない絶望に拉がれたりして。


目をごしごしと擦った英二は、
腫れた目で無理に作った笑顔を見せて、

「ごめん、オレこんなんで…」

と言った。

いや…と否定の言葉を零すと、英二は

「泣きたいのは、そっちの方だよね」

と、言った。


収まっていた涙が、喉の奥までやってきた。

だけど押し留めた。


空を見上げた。
まだ日は高い。
たけど、そろそろ西に傾いてくる。


「…英二は」

「ん?」

「生きている理由って、なんだい」

「―――」


英二は、不意の質問に驚いた風で、
だけど「んー?」と少しの間考え込むと、
こっちに顔を向けていってきた。


「理由も何も、生きてるからには精一杯…みたいな感じかな」

「なるほどな」


そういう考え方も、出来るものだ。
俺も出来るようになるだろうか。
今はまだ、事件の衝撃が大きすぎるけれど。
もう少し経てば、
精一杯生きられるように、なるだろうか…?


「あと、それから」

「ん?」

「……やっぱなんでもない」

「おいおい、そこまで言いかけたんなら教えてくれよ」


そうすると英二は、「仕方ないにゃー」と頬を掻いて、
すっと息を吸うと真剣な表情――だけど笑顔――で言った。



「敵討ちだよ」


「―――」



そのときの英二は、
正直言って、怖かった。

表情とか、言動とか、そして何より、
全身から滲み出ている負の感情が。

憎悪や悔恨の念が募ると、こうなるのだろうか。


だけど突然、
また元のふにゃっとした笑顔になって。


「ま、詳しいことはまた今度話してやるよ」

「はあ…」


俺は圧倒されて、まともな返事すら出来なかったぐらいだ。

英二は、表情を変えると、
ちらっと俺の様子を伺って。


「じゃあ…」

「ん?」

「大石は……?」


首を傾げるようにしながら、そう聞かれた。
そうだよな。聞いたのなら聞き返されるのが道理ってもんだよな。

俺は…。

なんなのだろう。


「まだ何も分からない。ただ漠然としている。
 時間が過ぎるのを待っているようなものだ」

「へー。つまんなくない?」

「まだそこまで考える余裕はないかな」


まだ、という言葉に反応した英二は、
「とと!」と口を急いで塞いだ。

遅いぞ。
俺は思わず笑った。


「でも、お蔭で楽しみは増えたかな」


英二はキョロキョロと辺りを見回すと、
「お蔭で?」と首を傾げた。

まったく、こいつは…。
俺は苦笑を零さずには居られない。
といえど、微笑に近いものではあったな、と思うけれど。


「英二…お前の存在だよ」

「えっ?あっ、それはどうも…」


イマイチよく分かってないな、という気はした。
だけど敢えて説明もしなかった。

面白いやつだな、本当に。


「よし、それじゃあインキン臭い話はやめるとして!」

「英二…それを言うなら、陰気臭い…」

「むー、まあインキ臭かろうがインク臭かろうがなんでもいいよ!」


なんでもよくはないだろう!
俺はまた、笑っていた。
久しぶりに思いっきり笑ったもので、
目の端から涙が零れるほどだった。

何故だろう。
笑うと、心の中の氷が溶け出してくるようだ。
そんなに苦しくなるほど笑ったわけでもないのに。


涙が止まらない。



「…げっ」

「げ、ってことはないだろう…」

「だだ、だって…」



自分はメソメソと泣いていたくせに、
人が泣き出すと動揺するらしい…英二は。
まあ、確かに先ほどまで動じなかった人間が、
笑い話になった途端に泣き出したら、妙かもしれないが。


服の袖で涙を拭いた。
だけど何故だろう。止まらないんだ。


そして、こういうものは不思議なもので。
泣いていない間は思い出しても平気だった
家族の顔や、一緒に過ごした思い出を、
少しでも考えるだけで、涙が何倍にもなって溢れてくる。

真顔のまま涙を流していた俺だけれど、
笑顔すら作れない。


「…ゴメン」

「んーん…」


英二は、それ以上は何も言わず、
ただ、ぎゅっと俺の肩を自分の方に引きつけた。


涙が止まらなかった。
声を出して泣くなんていつぶりだろう。

周りを気にする余裕も無くて、
ただひたすらに、涙を流し続けた。


嗚咽も収まってくる頃、
俺は英二の胸の居心地のよさに気付いた。
特別広いわけでもない、厚いわけでもない、
寧ろ余分な贅肉のない薄い胸だった。

それなのに、そこに頭を寄り掛からせているだけで、
俺はうっとりとその感触に酔い痴れていた。


かくん。
…舟を漕いでしまった。


それはそうだ。
もう30時間以上眠っていない上に、
思いっきり泣いていたもんで泣き疲れてしまった。
そして、予想以上の居心地のよさに。


「大石…?」


英二が、不安そうな顔で覗き込んでくる。

俺は一応泣き止んでは居たものの、
きっと目は真っ赤だっただろうし、
声も鼻声なんだろう…とは分かっていた。

だけど英二には心配掛けないように、
できる限りの笑顔で、返答した。


「ごめん、昨日の夜から一睡もしてないんだ…」

「あれま」

「ちょっと横になってもいいかな…」

「どーぞどーぞ、お構いなく」


本当に、目を閉じればどこででも眠れる気分だった。
俺は木を見つけると、
そこに斜めに凭れかかった。

英二が「オレも今日は早寝しよっかなー…」と言うのが聞こえた。
もう既に、意識から少し遠退いていた。


「あ、大石」

「なんだ…」

「オレそっちの気はないから、ムラムラ来たら一人でやれよ!」


………。

余計なお世話だ!
と思ったけれど、声を張り上げる気力もなかったので。
「分かった…」とだけ答えた。
そうしたら逆効果だったのか、
「あれ元気ないじゃん?ひょっとして期待してた?ねぇ?」
などと言われて、余計に頭が痛くなってきた。

「頼むから寝かせてくれ…」と目も閉じたままに言うと、
「あ、めんご〜」と返事が聞こえた。

まったく…おかしなやつだ。

と、思っていると英二はオレのすぐ横にやってきた。
何かと思って目を開けると、
「布団一枚しかないからさ」と言った。
なるほど、今はまだ適温であるけれど、
夜に外で寝るとなると寒くなるであろう。

ぱさっと、全身に少し重みが加わる。
いや、実際は布団自体は軽いものだったのだけれど、
途端に眠気が倍増した気がした。
目も体も、何もかもが重い。


「は〜あ。そういえば夕ご飯食べてないじゃん。まあいっか」


俺は敢えて返事しなかった。
元々期待していなかった、とでもいうように
英二は気にせずひとり言を続けている。


「明日は早くに目が覚めそうだなー。こんな早く寝るのいつぶりだろ」


………。



「それじゃオヤスミ、大石。良い夢見ろよ」



裏を返せば、悪い夢見るなよ、と。

そう言っているように聞こえた。
俺の考えすぎかもしれないけれど。





  **





「ん……」


なんだか、全身が痛い…。

数秒して、自分がいつもとは違う状況で寝ていることに気付いた。
そこはベッドの上どころか部屋の中でもあらず、
地面は固く冷たく、背後には大きな桑の木。


はっと横を見た。
誰も居ない。
焦って辺りを見回すと、鞄が見当たった。

ほっと胸を撫で下ろす。

一人になることに対して過敏になっているな、
と自分で感じて苦笑した。


それにしても、どうやら悪い夢はみなかったようだ。
ちょっと安心した。
実際は、夢を見るほど余裕もなく
ぐっすりと寝入ってしまっていたようだけれど。

ぐーっと伸びをした。
その時後ろから「おー、起きたかー」と声がした。英二だ。


「英二!どこに行ってたんだ?」

「ションベ。と、朝の一発」


朝の、って…。
思わずしらける俺に対し、
英二は「お前のことは死んでも食わないから安心しろー」
と言って笑った。

冗談だとは、分かっているけれど…。
俺は大苦笑。



朝食は、町のパン屋へ出掛けた。

パン屋は朝早くから働いている。
日が昇るより先に起き、
日が落ちてから眠りにつく。
大変な生活だな、と思う。


それにしても、英二の生活様式というものがイマイチ掴めない。
外で寝泊りしていて…路上で芸をしてお金を稼いで、
食事は普通にお店へ行って…。
洋服や体は結構綺麗なようだけど、
お風呂やシャワーはどうしているんだ??

当面の状態では全て謎だ。
まあ、そのうち分かるのだろうけど。



「おばちゃん、おはよー」

「いらっしゃーい」


どうやら随分と長いこと通っているらしく、
英二はそこの店員さんとは顔見知りのようだった。

ショーケースにベタっと張り付いた英二は、
舐め回すように全体を見回して、
そのままの体制で言う。


「えっと、カニクリームパン一つと、チョココロネと、
 メロンパンに、それから…チーポテデニッシュでしょ、
 あとコロッケ!」

「あいよ」


満足そうな顔の英二。
おばさんはお店の奥の方へ入っていった。


「向こうでね、コロッケ揚げてるんだよ」

「なるほど」

「ここ、パン屋のくせにコロッケがすっげー美味しいんだぜ!」


あー、楽しみー。
昨日の夜何も食べてないからお腹減ったー!!

そう話す英二は、とても楽しそうだった。
まだかなー、まだかなー、と、
お店の奥をきょろきょろと覗いている。


「大石は?何買うの?」

「えっ、俺?」


ということは、さっきのは全て英二一人の分なのか。
よく食べるんだな…。

奥から、おばさんがほかほかのコロッケを
トレイに入れて戻ってきた。
俺は、ぐるりとショーケースの中を見回す。


「オレ奢るから、遠慮しないで」

「ありがとう。それじゃあ…ハムレタスサンド一つ」


英二はきょとんとしていたが、
俺はこくんと頷いて合図をして見せた。

英二は「それで全部…です」と答えた。
大きな白い紙袋が差し出されて、
英二はレジの機械の前へ行った。

二人分の食料が入った袋を掴んだ俺を、
会計の間中、英二は睨んできていた。



お店を出る。
日が、更に高くなってきている。


たたっ、と英二は俺の横についた。


「ね、大石」

「ん?」

「サンドイッチ一つしか食べないの?」


俺は前を向いたまま、返答なし。
つまりは、肯定だ。

俺の腕にしがみ付いて、英二は「ん〜…」と唸ると声を張り上げた。


「お腹減って死んじゃうよ!」

「大丈夫だ」

「ね、本当に遠慮しなくていいから!」


だけど俺は、そっと腕を離させた。


「いいんだ、本当に…あんまり食欲もないし」

「あー、そっか……わかった」


しょぼん、と落ち込んだ様子で、
俺の斜めをとぼとぼと歩いていた。


広場に戻ってきた。
俺たちは、ベンチに腰を下ろす。


「いっただっきまーす…」

「いただきます」


手を合わせて、先ほど買った物を取り出した。
新鮮なレタスとハムが挟まった、
マヨネーズで味付けされたシンプルなサンドイッチだった。

そういえば、食事は一日ぶりだな…。
何も食べなくても数日は人間も生きていけると聞いたが、
どうやらそれは本当なようだ。


一口、齧る。

味は良い、と思うのだけれど…
何故だろう。全然美味しくない。

口を動かす気力も薄い。


英二が横で一つ目のパンを食べ終わったとき、
俺はまだ一口目を噛み締めていた。


「おおいし…」

「ん?」


平常を装って振り返った。
漸く、ごくんと呑み込んだ。
危うく戻しそうになったけど、
なんとか喉の奥で押し留めた。


「ほんと、だいじょうぶ…?」

「大丈夫だ。気にすることないぞ」

「んー…」


ご不満の様子だった。
だけど俺には何をすることも出来ず。

あとどれくらいこんな状態が持続するのだろうか。
そもそも、元通りになどなれるのだろうか。


がさごそ、と英二は何かを取り出す。
さっきのコロッケだった。


「おばちゃんのコロッケ…揚げたてですごく美味しいんだ。…食べる?」


正直、脂っこい物は食べたくない気分だった。
だけど差し出してくる英二の顔はあまりにも真剣で、
少し泣きそうで、不安そうに差し伸べてくる手が小さく見えて。

「ありがとう」と言って、
俺は一口…いや、半口ぐらいだろうか。
そのコロッケの端を齧った。

あつあつで、かりっとしていて、中は柔らかくて。
本当にとても美味しいコロッケだった。
だけどやっぱり油物は良くなかったのか、
今度は本当に胸焼けがするかのように吐き出しそうになった。
だけど、それをなんとかごくんと呑みこんだ。

ちょっと苦しいかと思ったが「美味しいよ」というと、
英二は苦い笑みで「…ん。よかった」と言った。


二つセットのサンドイッチだったが、
結局、一つしか食べきることは出来なかった。

横を見ると、英二も買ったパンの半分ほどしか食べていない様子だった。
見て見れば英二も元気がなさそうで、
俺の所為かな…とは思ったけれど、
励ますことなんて出来やしない。


「英二、あの…」

「ん?あ、これ、お昼ご飯!そう、お昼ご飯だから。
 大石もサンドイッチも、後で食べるといいよ、うん」


俺の視線に気付いていたのか、
英二は言い訳がましく慌てて説明をした。

自己嫌悪。


ふぅ、と英二も溜息を吐いた。
完全に滅入りそうだった。
それとももう既に滅入っていたのだろうか。


英二は立ち上がる。


「それじゃ、特訓の時間と行きますか!」

「特訓…?」


そ!と英二は自慢気に話す。


「本番で失敗するわけにはいかないだろー?
 だけど昼間は人がいるから練習できないしさ。
 朝のうちと夕方暗くなってから練習するってわけ」


ひょい、とバトンを二本取り出すと、手の周りでクルクルと回した。
思いっきり高く投げて、指先でキャッチしてみたり、
数々の目を見張る技を披露してくれた。


「凄いな、本当に…」

「感心してる場合じゃないぞ、お前もやるんだ」

「……え」


鞄の中からボールを取り出すと、
英二はそれを俺に手渡してきた。


「さすがにオレでも二人は養えないぞー」

「え、それは、つまり…」

「お前も立派な稼ぎ手だ、大石ぃ!」


本気か…!
どう考えても、冗談ではないだろう。


「でも俺、お金は一応あるんだけど…」

「そなん?」

「ああ。家に帰れば……あ」


そこで、気付く。


家はどうなるのだろう。
家の中にはまだ、家族が眠っている。
一昨日までと同じ様子で、
ただ、人が活動していないというだけで。


「家に…戻らなくちゃ」

「おおいし?」

「まだ家に、みんなが居るんだ…っ!」


そっちの方向へ走り出そうとする俺。
英二は、すっと腕を横に伸ばした。


「英二…」

「ダメだ。今は戻るな」

「どうして!?まだ、みんなが…眠っているんだ…っ」


そうだ。何をしていたのだろう。
供養することも出来ないまま、家をふらふらと出てきてしまった。
あの時は確かに呆然としていたけれど、
なんてことをしてしまったのだろう…!


「今行ったら…アイツに会っちゃう」

「え?」

「アイツは…殺した日には何も取らない。
 数日後に戻ってきて、物を物色していくんだ」


今は危険すぎる。英二はそう言った。

しかし…結構詳しい、な。
どうしてそんなところまで知っているんだろう。
英二は、どこまで犯人について知っているんだ…?

今度話してくれるとは言っていたから、
とりあえずは待つことにするけれど…。


「それに…」

「ん?」


視線を逸らした英二は、
地面の一点を見つめながら、言う。


「今、見たら…ショック受けると思う」

「………」


きっと、英二本人もショックだったのだろう。
俺は何もいえず、同じく地面を見つめるしかない。


ちょっと気まずい雰囲気になりかけたが、
表情を変えると「ま、近いうちに行こうよ」と英二は言った。


「どっちにしろ、ショックは受けるかもしれないけど…。
 とりあえず、鉢合わせになる危険性を減らすために」

「分かった。ありがとう」


よし!と英二は言った。

一体、どんなことが起こっているんだろうな。
俺の知らない間に、どんなことが。





  **





「ちーがーうっ!こっちをを投げてる間にもう一個投げたところで
 さっきのが落ちてくるはずだから掴まえて、の繰り返し。簡単だって!」

「難しいよ…」

「だーいじょうぶ!できると思えばできる」

「………」


結局俺は、英二にジャグリングを教わっている。
お手玉さえまともにやったことのない俺が、
こんなことをやるようになるなんて…。
おまけに、どうやら俺にはこの手のセンスはなさそうだ。


「しかし、利き手で2コも出来ないなんて…お前、球勘ないな?
 球技とかもまともにやったことないタイプだろ?」

「いや、これでも…ずっとテニスやってたんだけどな」

「……あそ」


それを言うと、英二は何も言わなくなってしまった。
「ま、とりあえず練習あるのみ!」と言った。


「慣れてくれば簡単だよ」

「そうだといいけど…」


まだまだ、前途多難。
横で英二は、気付けばバトンを5つほどくるくる回しながら飛ばしていた。


英二の(鬼のような)特訓は、長いこと続いた。






「はいはーい、みんな見てってねー」


お昼頃になると、広場に人影が増えてきた。
英二は人目につきやすい位置に場所を移すと、
毎度のように箱を前に置いて、道具を準備するのだった。

ちなみに、今日はまだ俺は見学の状態だ。
さすがに人前に出るほどのものは出来ない…。
最終的に、やっと右手では2つできるようになった段階だ。


「お兄ちゃん、なにやるのー」

「今日はこの魔法のステッキを作ってショーを開いちゃうよん」

「わー、楽しみー!」


「………」



英二は、凄いな。

パフォーマンスだけじゃない。
ああやって、人と楽しく話せるところとか。

凄いと思うんだ。
俺には出来ない芸当だ。



遠い意識で、英二のパフォーマンスを見ていた。
20分ぐらいとなるショーを、
新しい人の群れができるたびに繰り返し何度もやっていた。


バトンが宙を舞って、
英二の体に吸い付いているかのようにくるくる回って。

人々は、それに目を奪われている。
華麗な動きに、魅了されているんだ。


…本当に、凄いや。英二は。





  **





「大石ィ〜!どうだった、オレかっこよかった!?」


荷物を纏めた英二は
少し離れた塀に腰掛けていた俺のほうへ
スキップ交じりで戻ってきた。

あまりに楽しそうな笑顔で、
俺も自然と笑顔を返す。


「ああ、凄くな」

「へへっ。今度はもっと凄いの見せてやるからなー」


そう言って、英二は楽しそうに笑った。
そして、「いただきまーす!」と今朝の残りのパンに齧り付いた。


「うん。うまうまv」

「…なあ、英二」

「ほ?」


思いっきり頬張ったまま顔をこっちに向ける。
口をモゴモゴと動かしている英二に、俺は聞く。


「英二は…どうしてこんなことを始めようと決めたんだ?」


英二は手でタンマという意向を見せ、
口をせわしくモグモグと動かすと、
ゴクンと呑み込んで、改めて話を始めた。


「オレ…まだ子供だろ?働く場所なんて見つからないしさ。
 だけど、親が家に残したお金程度じゃ、一生暮らしていけないし。
 元々得意だったからさ、とりあえずこういうことから始めていこうって」


将来的にどうなんのかわかんないけどねー、と英二は笑った。
家族を失った2年前から学校にも行っていない見たいだし。
「x(エックス)を使った計算とかもロクに出来ないんだ、オレ」と英二は笑っていた。
よく理解できないまま、学校を辞めてしまったとか。

結構…いや、相当、過酷な人生だよな…と思った。

だけど、立派だと思った。
俺は心から英二を尊敬している。


「ところで…質問があるんだけど」

「はい、なんだしょ」

「英二、普段洗濯とかお風呂はどうしてるんだ?」


ピタ、と英二は硬直した。
何かマズイこと聞いたかな…。


「洗ってない、って言ったら?」

「でも、結構綺麗に見えるから…」


俺が真面目になって答えると、
英二は笑って「ジョーダンジョーダン」と答えた。


「実は…ね。たまに家に帰ってるんだ」

「家に?」

「…うん。荒れてるけどね、まだ使える状況なんだ」


英二は、ちょっと焦った風に早口になって喋る。


「実はね、今もそこを拠点としながら
 この辺をぐるぐる回ってるんだ。時折場所を変えて」

「へー」


なるほどな。
一定の場所には留まらないけれど、
自分の本拠地となる場所からは動かない、ということか。

だけど…。


「じゃあ、どうしてそこに住まないんだ?」

「え?そっそれは…なんか、居心地悪くって。うん。そうそれ」


口調が、今でっち上げた風に聞こえたが…。

でも、そうだよな。
家族が殺された家で、暮らしたくなんかないよな…。
食事をするってのも、なんだか気味が悪い気がするし。
外に居た方がまだ気が晴れるってものだ。





その後も少し話をして、
英二はまたショーを展開していた。

そんなことをしているうちに薄暗くなった。
夜は、ファーストフードのようなファミリーレストランのような、
軽い感じの飲食店に入った。
あまり高くないメニューを選んで、
それでも俺たちは満足した。

お店を出るとまた広場に戻って、少し雑談をして眠る。


そんな生活が何日も続いた。





  **





ピチョン。


「ん……」


顔に落ちてきた滴に起こされた。
寝ぼけ眼で辺りを見回した。

少しずつ、音が大きくなってくる。


「……雨だ」

「飴かー…」


…寝ぼけた様子の英二の声。


「英二、飴じゃない、雨だ!雨が降ってるぞ」

「ほぇ?いや、オレ要らないから…」

「そうじゃなくて!!」


肩を何度か揺さぶって、漸く英二は目を覚ました。
急いで荷物を纏めた。

俺たちが寝ていた場所は葉の生い茂った木の下だったので
あまり濡れずに済んだ。
しかし徐々に葉から滴ってくる雨粒が増えてきたので、
なんとか場所を移さなくては…というわけだ。


「どうしようか」

「んー…」


そうだなー、と英二は言う。


「そろそろいっかー」

「何が?」


ぐるんとこっちを向くと、英二は言った。



「大石の家」

「!」








そして、俺たちは歩いている。
英二が持っていた折り畳み傘を差して。
二人で使っているのでかなり狭い状態だが、
とりあえずなんとかなっている。


俺の家まで、歩いて30分もしない。
辺りは見慣れた光景。
だけど、気分が遥かに違っていて。

家に…帰るのか。
なんだか変な気持ちだった。




家に入った瞬間、嫌な匂いが立ちこめた。
肉が腐った匂いなのだろうか…。
それとも、血のこびりついた匂いか。

しかし。


「アレ……?」


覚悟していたのに。


ない。ないんだ。
体がどこにもない。

屍となっているのは分かっている。
しかし、家族がどこにもいないんだ。


「英二、みんなが…居ない」

「そっか。後だったか…」

「どういうことだ?」


ふぅ、と英二は下を向いたまま息を吐いた。


「死体も片付けるんだ。足跡を残そうとしない。
 完全犯罪ってやつだよ…悪党だ」


ゾクっとした。
背筋が凍るようだった。


「じゃあ、みんなは…」

「………」


英二は、言葉を捜しているようだった。
だけど見つからなかったみたいだ。


「…いいんだ、英二。変わり果てた姿を目にして
 ショックを受けるよりも、良いかもしれない」

「大石…」

「それより、家から必要なものがあったら持っていこう」


意外と、割り切れているみたいだった。自分の中で。
少しは、隠している部分もあったかもしれないが。


家の中を見て回ることにした。

やっぱり、お金は取られていた。
宝石類などの貴重品も、全て。

俺の仕舞ってあったお金は、あった。
お母さんがもしもの時のため…と隠してあったヘソクリも、
今がその“もしもの時”だと判断して、貰っていくこととした。


「それから、大石。布団持ってこ」

「布団?」

「うん。今一枚しかないでしょ」

「あ…そうだな」


変な気分だった。

自分の、自分の家にあったものなのに、
まるで泥棒のようで、変な気分だった。

こんな家捜しは、もうごめんだと思った。



部屋をくまなく見て回った。

数々の思い出の品があった。
日常的に使っていたものが、
遥か昔の尊い思い出のように思えた。


泣きたくなった。



「大石…」

「んー?」

「…なんでもない」

「そうか」


慣れたソファに座って、窓の外を見てみた。

慣れている、はずなのに…他人の家のように居心地が悪くって。
ずっとそわそわしていた。
それに、今すぐにでも犯人が帰ってきそうな気がして、気が気じゃなかった。

英二が俺の隣りに座って、コテンと頭を肩の上に倒してきた。
その重みだけが、俺を落ち着かせてくれる要素だった。


ずっとここに居たいのに、雨に早く止んでほしいと思った。
そうすれば、外に出ることができるから。

まったくの矛盾だった。









数時間後に雨は止み、
俺たちはそこを後にすることにした。



「それじゃあ…いいかな、大石」

「ああ」

「もしかするともう戻ってこないかもよ」

「……ああ」


本当は、少し躊躇いもあった。
自分が15年間育ってきた家であったし、
何より、家族にちゃんとした別れを告げられなかったから。

だけど、前に進むしかないと思ったんだ。


「行こう」

「うん、行こ」


歩き出した。
最後に一回だけ振り返って、小さく「さよなら」と呟いた。
英二が気付いたかどうかは分からない。





広場に戻ると、いつもは英二がショーを開く時間であったが、
動き出す様子がないので聞いてみると「今日は休業」と言った。
「雨降ってたから人も少ないしさー」と。
なるほど事実だと思った。


俺たちは、果物などを齧りながら会話をした。


「じゃあさ」

「うん」

「俺が初めて自分の家に帰ったときのことを話すよ」

「―――」


まだ、今日自分の家に行ってきたばかりの俺にとって、
それは過酷な話に思えた。
だけど英二はそれに気付かないほど無神経ではないと思った。
その証拠に、俺の表情を伺うような視線を向けてきた。
それでも話し始めた。


「2年前…オレが12歳の時。あの日。
 オレが家出して帰ってきたら…誰も居なくて……」


少しずつ、英二の声が小声になっていった。
俺が「うん」と相槌を打つと、英二は話を続けた。


「オレもう意味わかんなくてさ。家飛び出したよ。泣き喚きながら。
 数日歩き回って…立ち止まって…泣いて…走って…歩いて…。
 でも世界は太陽が昇ったり沈んだりする以外何も変わらなかった。
 なんにも変わんなかった」


涙が滲んで、目が潤んでいた。
俺も同じかもしれない。


「3日ぐらい…もしかしたらもっと長かったかもしれないし短かったかもしれないし、
 よく憶えてないけど…それぐらい、ずっとそんな感じで。
 水は公園で飲んで、お腹がすごく減って、お腹痛くて…でも生きてた」


なんで生きてんだろね。
小さく英二がそう呟いた。

フォローの言葉を捜している間に「なんちゃって」と聞こえたが。


「オレも死にたい…そう思ったとき突然、家のみんなのことを思い出したんだ。
 オレ、急いで家に帰った。お腹も減ってほとんど寝てないし
 足も疲れたし…体力は限界だったはずなのに。走った。
 初めてきた場所でどこが何かも分からないのに、オレ、
 たくさんたくさん走って、家に着いたんだ」


俺は、言葉を発することが出来ない。


「家の中が…荒れてて、赤くて。
 その光景を見るのは2回目だったけど…すごく、ショックだった。
 たくさん泣いた。でも暫くすると治まってくるんだ。
 悲しい代わりに…」


ふと、間があって。


「カタキを打つしかない、って。憎悪でいっぱいになった」


そのときの英二は、この前みたいに、
やっぱり…怖かった。


「そう思ったオレは、とりあえず必要な荷物をまとめて。
 それで、家族のみんなに手を合わせて…アリガトウとゴメンネをして、
 で、家から出ようとして……っ」


言葉を区切った英二を見やると、
肩が、ブルッと震えた。


「…英二?どうかしたのか?」

「え、いや、にゃんでもないー」


手をパタパタと振って否定した。

俺はどこか引っ掛かったが、
深くは追求しない方が良いと判断した。


「ま、それ以来、バスカーとしてお金を溜めたりしながら、
 ヤツについて調べたりしてるってわけ、でした。以上、終わり!」


やけにあっさりと最後を締めた。
俺には何かを隠しているように見えた。



心の傷は、

目に見えないこの傷は、

いつになったら、癒える―――?




そんなことを考えて、
俺もまた涙が滲んできた。


横に座る英二は目をごしごしと擦って、
「今日も早寝しよっ!」といって立ち上がった。
そして今日俺の家から持ってきた荷物を漁った。

その姿を斜め後ろから見ていて、
ふと、不思議な感情に駆られた。

英二は強いな、と思って、
それと同時に、何か…なんというのだろう。
愛しい、というか……。

…何を考えているんだ、俺は。
まあ確かに、このような過酷な状況で
何日も共に過ごしていたら情も芽生える。

そんなことを考えていると、英二は俺の横に来た。


「よいしょ」

「英二?」


何をするかと思えば。


古いほうの布団を下に敷いてその上に寝転がると、
新しく調達してきた布団を上に被った。


「この方が温かくない?」

「なるほどな」

「ほら、大石も早く入った入った!」


促されるがままに、俺は靴を脱いで布団の中に潜った。
わざと感覚を空けていたのに、英二から寄ってきた。


「それに、寒かったらこうやって体を寄り合わせればより温かい」

「こらこら」

「でもホントだぞー」


そう言った英二は、俺にぴたっと寄り添ったまま、
すーすーと眠りについてしまった。

…動けない。


そこに居るのは、英二だ。そして、男だ。
分かっているのに…ヘンな気を起こしそうで不安だった。
寧ろ、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、
そっちの方向へ考えが進みそうになり。


「(や、ヤバイ…かな)」


そーっと英二の体を引き離しに掛かった。
だけど寝ぼけた英二は更にしがみ付こうとし、
離れることは出来なかった。

とりあえず顔を背けてそっちを見ないようにし、
後は、早く寝ようとそのことを考えるだけだった。


これから…ずっとこうなのか。
実に、不安だった。


眠れない夜は更ける。






朝日が昇って、目が覚めて、
食料を調達に行って、芸の練習をして、
食べて、ショーを開いて、夕日が沈んで、
月が出て、星が出て、喋って、寝て、また明日へ。

そんな日々が続いた。



英二と一緒に何度かコインロッカーや銭湯に行った。
この前、自宅を拠点にしていると言っていたので
それはどうしたことかと聞いてみたら、
「あ、いや、家結構遠いからさ」と言った。

そうか、と俺はそのときは納得したものの、
遠いんだったら拠点にする意味はないんじゃないか…?
などと色々と疑問が浮かんできた。
でもとりあえず頷くしかなかった。





共同生活が始まって一ヵ月ほど経った夕方、英二が言った。


「大石。あのね」

「ん、どうした」


いつもとは違う、真面目な表情だった。
俺も自然と真剣になり、正面を向けて座った。


「明日、乗り込もうと思うんだ」

「どこへ?」


聞いた直後に、俺は理解した。

もし、俺の予想が、正しければ―――。



「敵討ち。やつのアジトへ向かう」



ドンピシャだった。








「ね、大石。焚き火しよ」

「焚き火?」


うん。と英二は頷いた。
英二はキョロキョロとしながら森の奥へ向かって歩き出し、
適度な枝を拾うとこっちを振り返った。


「ほら大石、お前も手伝えよ」

「わ…分かった」


といいながら、実はよく分かっていないのだけれど。

英二は長い枝を見つけると、
片手で押さえて足で踏んで折ったりと、
どうやら50センチ程度の枝を集めているようだった。
俺も続いて、同じように枝を探し始めた。


ある程度集めて元の場所へ戻ってくると、
英二は俺の2倍ほどの量を両手で抱えて戻ってきた。
やっぱり、慣れていると違うな、と思った。


「おーやるじゃん大石。よっしゃ、それじゃあ焚き火だ」


英二は何やら手際良く準備を進め、
荷物の中から木と紐を使った火起こし道具を見せ、
「すごいっしょ」と言うと早速火を起こし始めた。

そして…見る見るうちに火種が出来、
上手く火を大きくして、
あっという間に大きな焚き火が出来上がっていた。


「英二…お前、本当に凄いな」

「そうっしょー。オレもそう思うもん」


なんだそれは、と俺は笑ったけれど、
本当に凄いと思っていた。
単に火を起こした事実に感心したのではなく、
同い年、もしくは少し下、の少年が、
どれだけ過酷な状況で暮らしてきたかを物語っていたと思えたからだ。

おーあったかいあったかい、と手を翳して英二は呟く。

「ほら、大石も当たれよ」

「ああ。ありがとう」

俺も英二のすぐ横にしゃがんで、
同じように火に手を翳した。

手のひらは熱くて、
それによって遮られて顔は涼しい。
だけれど手を退かすと眩しすぎるので、
そのまま手と手を近づけたままにしていた。


「寝る時はね、ちゃんと消すんだよ」

「ああ、危ないからな」

「でね、この上で寝ると体がぽかぽかするんだ」


英二はそう言って笑った。
俺は、不意に泣きそうになった。


もーえろよもえろーよー。


英二の歌声は、火の粉と一緒に空へ巻き上がっていった。
そんな気がした。


明日の空はどこだろう。
満天の星空を見ながら漠然と考えた。




その日の夕食は、英二との共同生活が始まって以来
初めて自分達で熱を加えた料理を食べた。

大きな鍋に数々の食品を入れてごった煮。
「ちょっと塩加減が足りないねー。ベーコン足しちゃえ!」
なんて英二が言ったぐらいで、
調味料による味付けなんかはなしで、
素材その物の味がして本当に美味しかったんだ。

自然の恩恵だと思った。





そしてその日の夜は、英二が言った通り
火を消したその上で寝ることにした。


「勿体無いからできるだけ寄り添って寝よ」

と英二が言ったのでそうすることにした。
温かさを独り占めする気は、どちらにも無かったから。


体が完全に密着するほど寄り添って寝る俺たち。
「なんか楽しいね」と英二は嬉しそうに言った。

そっちを向いたら、
予想以上の顔の近さにドキッとした。

ビックリ、というよりかは、ドキッと。


ふるふると頭を左右に振って考えを揉み消した。

なんなんだ。この感情は。
そんなこと…あるはずない。
あってはいけない。


「おやすみー」

「おやすみ」


余分なことは、考えない。
自分の左の肩に当たる右の肩を、意識しないで。

意識さえしなければ、ただ、温かさにだけに酔い痴れることができるから。



程よい温かさに焦がれて、
少しうとうととし始めたころ、
また英二の独り言が始まった。


「ヤベー…」

「んー?」


半分眠りかけていた俺は曖昧な返事を返したが、
英二がぽつりと呟いたその一言で、意識を現に戻した。


「オレ、大石のこと好きになっちゃいそ」

「―――」


間が。

厭に長く。

といっても、返事をせず沈黙を作っているのは俺の方だ。



英二が寝返りを打って背を向けた。
少し隙間が空いて涼しくなった。


「なーんて冗談に決まってるだろ!オヤスミっ!!」

「英二!」


背中に向けて呼びかけた。
だけど結局英二は振り返らなくて、
数秒後には肩が規則正しく上下するのが見え始めていた。

狸寝入じゃないだろうか…と、俺は思っていた。
思っていたのに、


「俺も、同じ気持ちだよ…」


と、言っていた。


勿論、本人に聞こえていた。


「大石、今なんてった?」


身を起こした英二は、半目開きで俺を見る。

軽蔑の眼差しで睨んでいるのか、
眠りかけていたからなのか、
本当に聞こえていなかったから眉を潜めているのか。

視線が突き刺さる。


だけど、不思議だ。
このときの俺は、全く臆することがなかった。
堂々としていた、と後からの自分で評価するほど。


真っ直ぐに英二の目を覗いた。



「好き…なんだ、英二」



ちょっとした間には、
“になりそう”という言葉を入れようとしていた。
何故なら、それが英二の言った言葉で、
それに対して言った言葉が“俺も”だったから。

だけど、正直な気持ちに嘘は吐けない。



「大石が?オレを?」

「……ああ」


「…ふざけて言ってんの?」

「俺は真剣だ」



視線が合わさる。


俺は真っ直ぐに英二を覗き込む。
英二はそれに応えてくる。

言葉はない。
ただ、目線だけでのやり取り。


何も話さないという、会話。




「…バっカじゃねーの」




その言葉に、はっとした。

その台詞はまるで、俺たちの初対面の時とそっくりで。
そしてしかしその言葉に篭められた意味は、
単なる侮辱ではなく、だからといって笑いではなく。

あの時確か英二は、一瞬、泣きそうな顔で――…。


「…英二?」

「バカだよ、お前。ホントバカ…っ!」


俯かれた顔からは、表情は伺えない。


だけど、震える声と、ぎゅっと力の篭った手のひらと、


何より。

俺の心臓が。


「エイジ」

「ッ…!っうるさい!あっちいけバカッ!」


ドンと突かれた。
俺はバランスを崩して尻餅をつく。

英二は、そのまま森の奥のほうへ走っていってしまった。




……英二。



無意識に溜息が出た。

…立ち上がれない。






数分が経って、漸く俺も落ち着いてきた。
自分の愚かさに気付いた。

英二は、本当に冗談で言っていたのかもしれない。
元々冗談っぽく言っていたのは気付いていたけれど、
それは本心に交えて言っていたと踏んで、
勢いに任せて自分の想いを伝えてしまったのだ。
もしかしたら、本当に本心だったのかもしれない。

頭は冷えた。俺は立ち上がって、森の奥へ走る。


とりあえず、謝ろう。
軽蔑される…かもしれない。
だけどとにかく、森の奥は危ない。
仲直りして、戻ってきてもらおう。


「英二ー!聞こえるか、英二ー!」

「……ォイシ」


掠れた声が聞こえて、俺は足を止めた。


聞こえた方向へ、数歩戻る。
光が少なくて、見にくい。
月明かりを頼りに、その方向へ視線を寄せると…。


「…英二」

「………」


膝を抱え込んでいるている英二。頭はその中に埋められている。

さっきの声の様子からして、
やっぱり…泣いているだろうか。



「あの、英二」

「……」

「その、なんて言っていいのか分からないんだけど」


返事はしないけれど、
聞いていることを祈って、俺は話を続けた。


「とりあえず…ゴメン。俺、勢いに任せてあんなこと言って…」


やはり、返事はない。
構わず、俺は英二のすぐ前に腰を下ろした。
顔を上げているというだけで、英二と同じ体制になった。


「俺…嫌われちゃったかな。…ははっ、当然だよな」


英二は、首を横に振った。
一応、嫌われてはいないらしい。
話も聞いてはくれているらしい。

さて、どうしたものか。


「…正直に言って、さっきの話は…本当なんだ。
 同性だってことは分かってる。だけど、
 ずっと一緒に過ごしているうちに…英二の色々な部分を見るうちに。
 少しずつ惹かれていって、それで……」


墓穴を掘っている気がしてきた。
英二も反応を示さない。

………。


「さっき言ったことは忘れて、また元通り友達で居て欲しい…っていうのは、
 自分勝手かな。…だよな。ごめん、取り消し」

「………」

「もし、俺とは一緒に居られないっていうんだったら、俺はもう…
 離れるよ。英二とは一緒に居ない」


……返事がない。
俺はそれを、肯定と取った。


立ち上がる。



「それじゃあ英二……今までありがとう」


ビクッ、と英二の体が動いた気がした。
見なかったことにした。


「だけど今日はもう暗いから、出発するのは明日の朝にしたいんだ。
 俺は、少し離れた場所に寝るから。布団は英二が両方使っていいよ。じゃあ」


そして、踵を返して一歩を踏み出した時。



「…待てよ」

「―――」



振り返る。
英二は、そっと顔を上げた。

瞳はやはり、濡れていた。



「お前さっき、言ったよな。“元通り友達で居て欲しいっていうのは、自分勝手かな”って」

「……ああ」


英二は立ち上がる。



「当たり前だろ!」



久しぶりに見た、英二の怒った顔。

俺はそのとき、苦しくて…居た堪れなくて。
いけないと思うのに足が竦んで逃げ出しそうだった。


怖かった、というより…怖かった、んだ。
英二を傷付けてしまったことが。



「えい…っ」

「あんなこと言っといて?元通り?友達?…冗談じゃない!」



一歩。

一歩。

英二が歩み寄ってくる。

月明かりの中を。


元々それほど離れていなかった俺たち。

英二が3歩も歩み寄ると、
顔は30cmほどの至近距離にまで迫った。


眉を顰めていた、英二は。




「……っ!」

「―――」




思いっきり、俺に抱き着いて―――……。




「エイ、ジ……?」

「バカヤロー!元通りになんてなれるわけないだろ!」

「あ、あの…ゴメン」

「違うよ!もう、バカ!ニブチン!オタンコナス!!」



……言われたい放題。
思いっきり抱き締められたまま、俺は一体どうすれば…。


と。
英二は俺の両肩を掴んでばっと体を離して。


次の瞬間。

その肩が、引かれて。




「――――――」




唇が。

ピッタリと合わさって、息も出来ない。



「ンっ…ェィ……ッ!」



驚いた勢いで出そうとした言葉が、
喉の奥で共鳴する。
俺が呼ぼうとした名前は、本人まで届いているのか。


そのとき。


俺の頬に、冷たいものが触れた。
英二の目から、伝っているものに気付いた。


時折苦しそうにしゃくり上げる英二。
それでも噛み付くように、何度も角度を変えて、
だけど一度も離されないまま、口は重なり続けていた。

相手を貪るように。



「……んん、ンッ!」

「っ!!ぷはっ!」



それ以上呼吸が持たなくなった俺は、
無理矢理に英二の顔を引き剥がすしかなかった。

口を離した瞬間に、二人の間には唾液の糸が伝って、
月光に照らされたそれは、細く長く、銀色に怪しく光った。


がくっと膝の力が抜けた。
正座になるように地面にどさっとしゃがみ込んだ。
英二はというと、その前から、
尻餅をついたような体制で座り込んでいた。


ハァ…ハァ…ハァ…。

お互いの荒い呼吸だけが、辺りに響く。
他の音は何も聞こえない。

フクロウの鳴く声も、コオロギの囁きも、何も。



「英、二、これは、一体……」

「ハァ……ハァ……」



俺の声が聞こえているのか居ないのか、
英二は、地面の一点を見つめたままで。
瞳は涙で全面に濡れていて。
今にも、崩れ去りそうで。


「……オェッ!」

「英二、しっかり!!」


焦って走り寄って、英二の背中を手で摩った。


「まったく、慣れないことするから!」

「だ、だって……っ」


もう大丈夫、と俺の手をそっと拒むと、
英二は体の向きを変えて、俺の足元を見て。



「元通りになんて、なれないって…」


「………」










「オレだって大石のこと好きなのに、友達なんて、思えるわけねぇって」












―――――――……。






「……えっ…?」




英二、今、なんて――…。



「えいじ…っ」

「ずっと抑えてたのに…相手も同じ気持ちだって知ったら、もう我慢できないだろ!?」



英二はすっくと立ち上がる。
視線が同じ高さになる。



「好きなんだよ、大石ぃ……っ!」

「エージ……」



その直後に俺が取った行動は、
ほぼ無意識だった、といっていい。


本能というものが働くのだろうか。
こうして、次はこうしよう、なんて、
全く以って考えていなかった。

だけど、何故か全てを知っているかのように。
長年の熟練した動きであるかのように、
自然と、お互いの体に愛を与えていた。



どちらからともなく、キスをして。

繋がったまま、滑り落ちるようにしゃがみ込んで。

俺は英二の背中に手を回して、そのまま、地面へと押し倒した。



唇。頬。額。鼻。瞼。髪の生え際。

顔をあらゆる部分を終えると、
次に俺の唇は、首元へと下がっていった。

やましいことをしているという気持ちは、なかった。
ごく普通にこの行為に至り、自然の摂理とさえ思えた。

勿論、それはとんでもない勘違いなのであろうけれど。


「……おおいし…」

「どうした?」

「ふふっ、くすぐったいよ」


首筋に唇を這わすと、
英二は身を捩って柔らかく笑った。

俺はそれが嬉しくて、夢中になって口付けの雨を降らした。


「ちょっと、大石…聞いてんの?あ、あはは、くくっ」

「聞いてない」

「えー、何ソレー………っ、ひゃんっ!」



ドクン。


……ゾクゾク。



「どうした、英二?」

「あ…やっ、オオイシ……っ」

「そんなに、くすぐったかったのか?」

「え、あ、やっやめ……いやっ、アァン!!」



少しずらした鎖骨の位置へくると、
途端に英二が違った反応を示すようになった。
舌を使って舐め上げると、更に声色が変わった。


甘美。



「おおいし…ケモノみたい」

「ケモノなんだ、森での生活長いからな」

「火の熾し方も知らないお坊ちゃまなくせに…っ」


はいはい。

俺は英二の言葉を上手く受け流した。
上半身を起こしてやると、
英二はご不満そうに視線を泳がせて、
だけど突然俺に視界を移すと、

「今度は俺の番っ!」

といって、俺を押し倒してきた。


「わっ、英二!?」

「大石にばっかイイカッコさせないからな」


オレだってやれば出来るんだ、
とかぶつぶつ言いながら、
俺のシャツを一気に捲り上げた。


「えーじ…」

「きしし、可愛いピンク色」


そういって、平らな胸の上の突起物を指で弾いた。
情けないことに、ビクッと全身で反応してしまう自分が居て。


「あ、大石、今反応したな?エッチ〜」

「英二こそ、そんなことして…悪趣味だぞ!」

「お互いさま〜」


言いながら、英二は俺の胸の先端にしゃぶりついた。
突然の温かい感触に、身体が強張る。


「はいはい、力抜いて〜怖くないですよ〜」

「エイジ…」

「いいからほら、ね?」


話し終えると、英二は、
先ほどの位置に口を戻し、
舌の先でちろちろと転がした。


「っ……!!」

「んーん?」


どーぉ?と、そう聞いているように聞こえた。

そんな、答えられるわけがないだろう!
俺はギリギリまで顔を起こしてその様子を見守ろうとしたが、
英二と目が合ってしまい、逆効果だ、
と思って頭をまた地面へ下ろした。


それにしても、乳首、なんて…自分では勿論
弄ったことなんてなかったけれど、
こうしてみると、まるでそこだけで全身の刺激を感じ取っているようだ。

少しでも気を緩めると、声を出してしまいそうで…。
俺は必死に奥歯を噛み締めていた。


英二が口を開放した。


「大石…結構普通だね」

「そうか?」

「ウン。面白くない」


なるたけの平常心でそう答えた。
英二は演技に騙されてくれたのか、
またもやご不満そうな顔に。


「んー男だと感じないのかなー…」

「英二、だからもうやめ…」


俺が身体を起こしかけた、時。


「……なーんちゃって」

「はぁ?!」


英二は俺の肩を押してまた地面に押さえつけると、
先ほどの位置を今度は、甘噛みした。


「あっ!!」

「へへへ、ビンゴ〜」


舌の全体を使って舐め上げて、今度は別の角度から。
その度に、ビクンビクンと全身が痙攣する。
俺は口も目もぎゅっと瞑って、その快感に耐えていた。


「よっしゃ、初めて大石に声出させたぞー」

「英、二…ッ」

「感じてないはずないと思ったんだよね〜。立ってるし」

「!」


気付かれた!?

と思ったけれど、英二は一度もそこに触れていないし、
多分まだ、外から見ただけでは分からない…。

でも実は、俺の秘められた大事な部分は、
布地の内側の壁を押し上げていて苦しいほどだった。


対して英二は、ほーらほーら、と嬉しそうに指で弾く。
そうか、英二が“立っている”といったのは、
乳首のことだったのか…。

……いや待て冷静になれ。
それもまた随分情けないぞ。


「英二、まだ終わらないのか…」

「まーだ。もっと虐めてやる〜、おわっ!?」


乳頭の周辺を指でなぞっていた英二だったが、
俺は腹筋で上半身を無理矢理に起こすと
その英二を逆に地面に押さえつけた。


「ず…ずるいぞっ!大石ばっかり力があって」

「俺のほうが、このポジションに向いてるってことかな」

「そんなの、認めない認めない!」


ぶんぶんと首を振る英二。
俺はお構いなしに両手首を左手で抑えると、
右手で英二の中心部を探った。


「え、ウソっ、やだ最悪!バカ!ヤメロ!!」

「俺がやめろって言って、一度でもやめたかお前」


足をジタバタさせる英二は
俺が軽く嫌味を飛ばすとキッと睨み付けてきた。


「さっき大石、一回も「ヤメロ」なんて言わなかったもん!」

「そうだったか?」

「そうだよ!あーもー変態っ!サイアクー!」


そこまでボロクソに言われちゃ、俺も黙っては居られない。
一度は止めかけた手の動きを、また再開させる。

優しく撫でつけるように。
強い刺激は与えず、ただ、触れる程度の。


「ん、あっ……ばか、ぁー……っ」


数秒前までは強がっていた英二が、
突然にしおらしくなっていった。
暴れていた足も、次第に力を無くして無抵抗となる。

寝間着に着替えていた英二は、
薄柔らかい布地の向こうで、
自身を主張し始めることとなった。
押し留める術を知らず、
それは瞬く間に隆起していく。


「オオイシ、もっ…ふぁっ」

「ん?どうした、ちゃんと言わないと分からないぞ」

「も…っと、チョウダイ……」


片言の発音でそう言うと、
英二は自ら腰を揺さぶって求めた。

背筋が、ゾクっとした。


「イキたいか?」

「おねが……あぅ!うっ…」


そこはどんどん熱を帯び肥大化していく。
薄い衣服では隠れる術もなく、
布ごとその形に盛り上がっていくのが
手のひらだけで感じられる。

全体を愛撫する。
まだ、アゲナイ。


「おおいしっ!オネガイッ、はやくぅ、ン、んっ…!」

「そう焦るな」

「だって、もう、はやく……っっ!!」


英二はほろほろと涙を流していた。

限界が近いのだろう。
布が完全に湿り、手に粘っこい温度が伝わってくる。
大きく勃起したモノは、
全てを開け放つ先を探して時折攣ったように
痙攣する様子が見受けられる。


「早いんだな」

「もう、言葉攻めはいいからぁ…っ!!」

「…言ってくれるじゃないか」


嫌味な言葉も、通じない。
いや、通じてはいるのかもしれないけれど、
それより今は、目の前に待つ快楽への扉を探すことで必死だ。

勿論鍵は、俺が握っているのだけれど。


そろそろいい…かな。

結構楽しめたし。
俺もそろそろ…苦しくなってきたからな。


衣服をずらす。
下から、英二のものが元気よく立ち上がってきて、俺は思わず苦笑。


「随分我慢してたな」

「はや、く…はやく……ぅっ」


もう、英二には嫌味に言い返す力も、
憎まれ口を叩く思考さえも満足に働いていなかった。

ただ、本能の赴くままに、快感を求めて。


赤く燃えるように主張する英二の自身に、
俺はそっと、手を宛がった。

そして、その熱さに驚いた。


俺の手はよく「温かい」と言われたけれど、
そのときばかりは、俺の手は本当は冷たいのでは、
と疑わずには居られないほど、それは熱かった。


ズ、と手を上下にずらす。

英二の表情が更に強張るのが見え、
手の中でも血流が更に激しく巡り出すのを感じた。

手を動かす速度を、速める。
英二も腰を振って応える。


自分の中心部も疼く。
俺も何度も、自分の下腹部へ手を伸ばしそうになった。
もう暴れそうな様子のない英二の両手を解放し、
そこへ自分の手を運んでしまった。
だけどズキンズキンと痛み出すそこはなんとか堪えてもらい、
英二の中心部に両手を使うことで紛らわすことにした。

焦らせば焦らすほど快感が大きいことを、本能的に感じている。


「あっ、あっ、スゴ……ゃ…アッ…あぁ……っ」


英二の片手が、そそり立つ物の下の小袋へ伸びた。
右手は熱心にそこを揉み解し、
左手は口元へ持っていかれ齧られていた。
無意識の行動であろうが、それはまた、俺を欲情させる。

俺も限界だった。


「今、イカせてやるぞ…」

「んっ、んっ……ああっ!やああああ!!」


ドピュピュッ!


一気に手の速度を速めると、
勃ち上がったそこは白濁とした液を放ち、
先ほどまで元気一杯であったはずが情けなく萎え、
また英二本人も、全身の力を失っていた。


ハァ…ッハァ…ッハァ……ッ。

英二の吐息が、やけに大きく聞こえる気がした。
俺も、これ以上我慢できそうにはなかった。

快感の波に溺れる英二を見て、
自分もそうなりたいと、思ってしまった。



「英二」

「ん……」


これを頼むなど、恥ずかしい話ではあったけれど。

夢見心地の様子で身体を少し起こした英二に、
俺は膝立ての体制になり、意を決して頼んだ。


「俺も…してくれないか」


言葉が終わるのが先だったか、
それとも言わなくともその気だったのか、
英二は即座に俺の前に膝を付くと
俺のジーパンのファスナーを下ろした。

硬いジーンズ生地の裏に隠れていたが、
俺の分身も、激しい精力を帯びていることには気付いていた。
それは今すぐにでも、早く、解放されるときを待っている。


ズボンを下ろした英二は、
そのまま下着も下ろした。

俺の自身が、ついに頭を覗かせる。


「ひゃ……」

「なんだ、その反応は」


英二は、パチパチと瞬きを繰り返す。
そして俺の顔とソコを見比べる。


「あんまりジロジロ見ないでくれよ…」

「大石の……大きいね」


人の話を全く聞いていない英二はいつものこととして、
英二はキラキラとした目でソコを見つめているように見えた。


「俺だって、英二のことをずっと欲しがってたんだ」


だからこんなに大きくなってしまったんだ。俺はそう答えた。
実際、それは事実であった。

その言葉に、英二はやる気を出したようだった。


「そう言われると、張り合いあるじゃん」


英二は両手を合わせて「いただきます!」と言った。
何か怪しい、と思ったら、直後。

「あ〜ム!」と言いながら、
英二は即行で俺自身にしゃぶりついてきた。


「え、エイジっっ!」

「ムム、ひゅご……あひゅいひょ、ほほひひ」


何かを喋っているようだったが、
イマイチ聞き取れなかった。

それは、英二が口篭もっていたからなのか、
それとも、
俺の意識が飛ぶ寸前だったからなのか。


もう既に、イク寸前…だ。

だってまさか、突然口を使われるなんて予想していなかった!
考えてみれば…初めての経験であったし。

想像の中では、何度も繰り返された行動。
それが今、現実になっているんだ。


夜、電気も消した暗い部屋の中、
子供ながらに考えてみたことがある。

俺の中心部は、穴を塞ぐ武器となる。
その穴というのは例えば口であったり、秘部であったり。
色々な想像が頭を巡るんだ。
想像に現れた主が男か女かは、もはや覚えていない。



だけど今はそんなことはどうでもいい。
今、俺の目の前に居るのは、英二なんだ。
愛している者なんだ。

それだけで充分だった。


自分が息を荒げているのが分かる。
目の前で行われている行為が、
自分の身に働いている情事だと分かっていて
興奮しないというほうが無理というものだった。

せめて声は出さないようにしていたが、
それも無理だろう、という感じがしてきた。


「ハァ……英二、いいぞ。上手だな…」


すると英二は一瞬動きを止め口を離すと、
上目遣いにニコッと笑って。


「オレ、猫だから」


それだけ言って、また齧り付いた。
確かに、四つん這いになっているその体制や、
舌の動きや、たまに痛めつけない程度に歯を立てる様子や、
正に猫そのものだった。

再度、かぷっと口に含んだ。
ぺろぺろと舐めながら、顔を前後させる。

その顔を、可愛いと思ってしまった。
そして、白く汚れている姿も想像してしまった。


…マズイ。



「んぐっ!」


ゲホゲホ、とむせこみながら英二は顔を一度話した。
だ、大丈夫か、と聞くと、
大丈夫じゃないやい!と。


「大石、また大きくなった」

「そ、そんなこと言われても…」

「顎が外れたらどうするつもりだよー…ったく」


文句を言われ、俺は一瞬沈んだ気持ちになった。
下半身も、同じような反応を示す、ところだった。

のに。


「……ああっ!」

「へへん、不意打ち成功〜」


咥え込むのは諦めたにしろ、
英二は突然に亀頭の裏をザラリと舐め上げた。

背筋が凍るようだった。
ゾクゾクと全身の毛が逆立った。


そして英二の舌は、少し上へ標的をずらす。


「…あっ!英二、そこは……あっ、あぁっ!!」

「感ジロ。そしてイケ」


英二は、知っていたのだろうか。

足の付け根。
そこは俺が非常に感じる点だということ。

…知るはずがない。
身体を合わせたのは、お互い今日が初めてだ。
それどころか、俺だって今までは知らなかった。


もう正に、本能のまま動いている、という状態だった。
まるで真夜中の猫のように。

相手を貪る、ケモノだ。


「まだイカないの?オレ疲れてきちゃった…口は入らないし」

「英二…」

「なーんちゃってねー。へへっ。まだまだ大石をたっぷり虐められるってことだ」


つん、と鼻を小突かれた。
まったく、コイツは…。

俺が微笑を零したとき、英二は立ち上がった。
ズボンを完全に脱ぎ去りながら。


「だけどね、実はオレのココも…また既にこんな感じなワケ」


なるほど。
さっき射精したばかりにも関わらず、
英二のソコはビンビンに立ち上がっていた。
そのままの状態では辛いだろう、と俺は身をもって感じた。

情けない状態ではあったけれど俺も立ち上がろうとすると、
英二は「あ、いいよいいよ〜」と言いながらしゃがんで、
そっちから俺に顔を近付けてきた。


「大石は寝たままでイイ。俺が動くから」


ん?
動く?

それって、まさか、もしかして…。


「そのまんま挿れたら痛いのかなー。でもよくわかんないしなー」


英二はしきりに、自分の背後を気にしている。いや、
お尻を…自分のお尻を確認しているんだ。


「…本気か?」

「本気も何も、そうやってやるものなんでしょ男同士って!」


英二は、入れこそはしなかったものの、
秘められた部分に自分の指を宛がうと、
「い゙っ!」というような表情をしてパッと手を離した。


「あのさぁ」

「うん」

「なんか…汚くない?」


俺は、溜息。


「言い出したのはお前だろう…」

「えー、だってー」


俺は英二の肩をぐいと引いた。
胸の中に、細い体が転がり込んでくる。


「俺は、英二とこうしていられるだけでも幸せなんだ」


本心だった。


だけど英二は、良い表情をしない。
ガバッと立ち上がると、言い放つ。



「そうだけど!そうだけど…オレは、
 やっぱり大石と…繋がって、一つになりたいよ…!」



そこまで言われて、拒む理由など、なかった。


しかし同性愛者のセックスなんて、予備知識が一切ない。
アナルセックスなどは聞いたことがあるけれど、
それが一体どのような手順で行われるなど、全く。

とりあえず、自分が知っていることを…。


「…慣らした方が、いいのかな」

「えっ?」

「ほら、女の人の場合でも…先に少し慣らしたり、するだろう?」


あ、そっか。

英二はポンと手を叩いた。
そして直後に、眉を顰める。


「…てことは、やっぱ指入れるんでしょ、うー…」


俺はすっと、英二の横に回って、肩を引いた。
英二はちょっと不思議そうに、こっちを見る。
視線は合わせられなかったけど、俺は言った。


「俺、が…やっていいかな」

「………ウン」


英二は、少し躊躇いの様子を見せたけれど、
最終的には肯定の意を表した。

ゆっくりと体制を変え、
こっちにお尻を見せ、
動物のように四つん這いの体制になった。


「これで、いいのかな…」

「た、多分な」

「なんかこれ、恥ずかしいな〜…」

「仕方ないだろ、我慢しろ」


そして俺は、英二のお尻を見た。
筋肉の薄い、ひょろっとした形のそれ。
そして、その奥に潜む小さな穴。


ゴクッ。

唾を飲み込んだとき、
必要以上に大きな音で鳴った。


「それじゃあ、入れるぞ…」

「ん……」


俺の指が、そこへ迫る。
ドクンドクンと、緊張した空気が漂う。

そこへ来て英二が
「なんでオレなんだろー…大石でもいいのにねー。
 そういえばなんでオレなんだっけ…」
などと呟き始めた。

俺は苦笑するしかない。
確かに流れで立場が決まってしまっただろうけど…
だけどそれは、自然に辿り着いた先、ということで。


あ、そういえば。


「俺のことは死んでも食わない、英二そう言ったよな?」

「…食われないとは言ってないもん」


なるほどな。

俺はくくくと笑った。
英二は、なんだよー、と言いながら頬を赤らめる。


「じゃあやっぱり、俺がこっち側でいいんだな」

「…好きにしろよ」


ぷい、と照れた表情で顔を背けた。
つまりこれは、肯定のサイン。


後ろに手を伸ばす。
そ、とソコに触れる。
全くの未体験。

勇気を出して、指を、差し込んだ。



「うっ!あ、あぁっ……!」

「英二、痛いのか?」

「痛いってか、なんつーか……イタイ」


……硬直。


「な、なんとかならないのか?」

「我慢するから、オレが何言っても気にしないで」

「分かった…」


そうは言われたけれど、非常に不安だった。
何しろ、俺が少しでも指を動かすだけで、
「あ!」だの「い!」だの、
英二の呻き声に近い悲鳴が聞こえてくるんだ。


「あの英二、本当に…」

「しつこいな、ここまで来たんだから責任とって最後までやってよ!」


まあ確かに、その言葉は正しい。
それに、これはまだ慣らしの段階で、本番は先に待っている。

だけどまだ、一本目だぞ…。

先は長いな、と考えながら、
俺はゆっくりと指を動かすのだった。



どれくらい経ったであろう。

始めは多大なる違和感があったその行為だが、
4本目が入る頃には普通の行為として受け付けていた。
英二の声は相変わらずだが、俺の気のせいだろうか。
心なしか、声に艶が掛かったように聞こえる。
呻き声ではなくて、快感に溺れる喘ぎ声のような…。


「エージ……?」

「んっ…ん、んっ……ん…っ」


そのとき、気付いた。
俺が手の動きを緩めても、英二の声が止まらないことに。

驚くべきことに。
英二は自分で、中心に立ち上がるものをしごいていた。


「ハァ…ハァ…んっ、ん、んっ……」


もう、俺の行動も意識に届いていない。
後ろは、もう完全に慣らされたようだ。

それどころか、快感を生じさせる引き金にさえなっていた、と。


ズルン、と指を全て同時に引き抜いた。
それには流石に反応して、英二は
「ぃにゃんっ!」と声を荒げた。

本当に、猫のようだな。微笑ましくもあった。


だけど、これから行われる行為は、
微笑ましくもなんともない、
本当に、ケモノのような行為なのだろう。


不思議だった。
さっきまで、友達としても絶交したかと思っていた人物と、
こうして行為に、陥っているなど。

だけどそれは、心の奥底では、ずっと切望していたことで。
そう考えれば不思議でもなんでもなく、
願いつづけた末に叶った想いだった。


愛しいんだ。

好きなんだ、英二が。



「それじゃあ英二、いいかな……入れて」

「聞いてる暇があったら早くしろ」



了解。

英二の言うとおりにすることにした。


えーと、後ろから入れるものなんだよな、これは…?
俺は四つん這いの英二の背後に迫り、
そっと、先ほどまで自分の指が入っていたソコに
自分の分身とも言える大きな存在を宛がった。


「大石、早くして…オレもう我慢できない…っ」

「俺もだ。……いくぞ」


コクン、と英二が頷くのが見えた。
俺は…体重を少し、かけた。

しかし。



「あ……痛い痛いっ!ひっ、無理!さっきの5倍は痛い!」

「ほ、本当か…」

「大石のが大きすぎるんだよー。もー…」


ここまで来て我がままを言うのか!
だって、俺にはどうしようもないことじゃないか…。


「俺はまだ、今日一回もイってないんだ」

「ぇー…溜まってるってコト?」

「まあ……そんなところだ」


あっさり言われると、カッコがつかなくて
非常に情けない気持ちになった。

だけど、俺だって、今すぐにでも英二を手に入れたがっている。
さっきから、拡大されたそこはもうはちきれそうに痛んでいた。
早く欲しい、早く欲しいと訴えながら。


気持ちでなんとかそれを宥めながら、
俺はもう一度挑むことにした。
とはいっても、すぐに先のことを想像して興奮してしまう。

ぐっと力を加えてみるが、
本来物を受け入れる役割のないその部分は、
拒むばかりで受け入れようとしてくれない。


「……ごめん英二、無理だ」

「どうして!?」

「入らないんだ、どうしても。ごめん…」


英二は、ぐるんと身体を反転させる。
俺と向かい合った形だ。


「ごめん?謝って済むと思ってるの」

「でも……ゴメン」

「…ここまで来たら、後戻りは出来ないだろっ!」


そんな言葉は、さっき、どこかで似たような……。

何はともあれ、英二が正しいと思う。
ここまで来たら、引けない。

だけど一体どうすれば…。


考えていると、英二は立ち上がった。



「やっぱり作戦を元に戻します。大石、寝て」

「え、俺が?」

「いいからっ!!」



もしや、形勢逆転…?

と思ったけれど、何かが違う。


英二は俺をまたいだ。
馬乗りのような体制だ。


「英二、これは…?」

「大石はただ、オレのことを支えてくれれば良し」


そう言って英二は、俺の手を掴んで自分の足に掴まらせた。

よし、と英二は、中腰の体制になった。
そして、自分の中心を俺の中心へと近付ける。


「それじゃあ、オレが動くからね」

「英二、本当に大丈夫なのか…?」

「だーいじょうぶだって!心配すんな。
 オレが痛いと思ったらやめればいいんだし」


そうは言われても、心配だらけだった。
そして、英二が不安だらけなのも見え見えだった。

それでも俺は、英二を信じることにした。



「では、いきますよー…っと。おぉこりゃ、大石の顔が見れて丁度いいや…」


自分の手で確認しながら、英二は場所を見つけた。
そして座り込むように、体重を加えていく。
押されているのを、俺も感じる。


「お……んっ、フっ……うぅ…」

「英二、無理はしなくていいんだぞ?」

「そんなこと、言うな…出産だと思って、応援しとけ…!」


この状態を出産に例えるのは、英二らしいと思った。
言葉の一つ一つが面白くて、俺は苦笑してしまう。

でも…そうだな。
こういう時の言葉は「無理するな」じゃあないな。



「英二、ガンバレ…もう少しだ」

「オオ、イシ……」


体重が少しずつ、少しずつ加わって。
ついに、ズプッと、先端が入る感触がした。



「う、あぁぁあぁああ………っっ」

「英二、大丈夫か!?」

「だい、じょー、ぶい……へへっ」


そういって、ピースをして見せた。

月明かりが逆光になって、顔が見えない。
だけれど、声色から、笑顔であることは分かった。
無理をした作り笑顔では、あるんだろうけれど。


ハァハァと荒く短い息を繰り返した英二は、
一回深呼吸をして、もう一度大きく吸うと、
息を止めて、更に体重をかけた。

一気に奥まで入った。


「すごい…凄いぞ英二!全部、入ったぞ」

「おお、いし……やった、ね…オレ、ウレシー……」


英二の目からは涙が零れていた。
それが壮絶な痛みを物語っていた。

なんだか、俺まで泣きそうになった。


「それじゃあ、オレ、動くよ…」


ズッと、英二は半分腰を浮かすように身体を動かした。
そしてまた戻す。それの繰り返し。

その一回一回に、俺は快感の階段を駆け上がっている気分だった。
普通の道を歩いているのではない。
階段を駆け上っている。
正に、その表現が正しいと思った。


「う…うっ、ん……ンゥッ……」

「エー、ジ……っ……ハァ」


繋がっている嬉しさに、
接合部が悲鳴を上げている。
今すぐにでも全てを放りたい衝動に駆られる。
だけどもう少し、同じものを感じていたいんだ。


しかし、そこで英二のことが心配になる。
英二は、ただ痛い思いをしているだけなのではないだろうか…。


「エイジ…」

「なに、オオイ、シ……」

「今、気分は、どうだ?」



一瞬、間が合って。






「シアワセ」







英二は、それだけ答えた。



そうか。
痛い痛くないの問題ではない。
気持ち良い良くないの問題でもない。


俺たちは今“幸せ”なんだ。



意識せずとも胸一杯であったのに、
それをいざ意識すると、
更に心臓がきゅうと唸った気がした。

身体も、それについていくかのように。


「英二、俺もう…限界。イキそう」

「ん、待って……」


待って、と言われても…。
英二がそこに居るだけで、
強い締め付けで動かずともイケそうだった。
だけどなんとかコントロールしている状況だ。


「どうしたんだ、英……エージ」

「んっ…ん、んっ……」


さっきのように、英二はまた自身をしごいていた。
それは大きく立ち上がり、上向きにまた自己を主張している。



「ごめ、んね…こっちだけじゃ、イケそうにないや…」

「謝ることはないぞ!俺こそごめんな、英二の方ばっか、辛い思いさせて…」


しかし英二は、「やめてよ」と。



「辛くなんか、ないって。言ったろ?オレ、今、幸せだ、って……」



そういうと英二は、力弱げに「えへへ…っ」と笑った。



弱々しい月明かりだったけれど、英二の顔が一瞬見えた。

眉を潜めていた。
苦しそうに、どこか切なそうに。

勿論痛いのだろう。だけど、
必死に痛みに耐えている顔とは思えなかった。
逃れようとしている様子も感じられない。


だって――笑顔だったんだ。



…そうだった。
これが、英二なんだ。




「大石、オレも…イク」

「エイジ…」

「――んっ。あっ、ン……んんっ、フ…」



英二は、自分の自身を刺激すると同時に、
腰を上下に揺らして、俺に刺激を与えてきた。

そして、感じているのだろうか。
英二からの締め付けが、キツくなっているように感じた。



乱れた息が交じり合う。

もう二人とも、我を忘れていた。

あるのは、お互いの存在だけ。




二人とも絶頂の一歩手前に来た時、
英二は、俺の上にぺたんと座った状態で動けなくなってしまった。


「英二…?」

「ゴメ…もう、動けな……」

「…いいんだ。ありがとう。よく、頑張ったな…」


手を伸ばして、英二の頬に触れた。
涙でぐしゃぐしゃになった、その顔。
だけど、少しだけ、笑顔を見せた。


「ちょっと待ってろ、イカせてやる」

「ん……」


慣れないことをやった上に痛みや疲労も合間って
相当気の弱っている様子の英二だったが、
興奮した中心部は素直で、未だに立派に立ち上がっている様子だった。

その部分を、数回軽くしごくと、
英二は全てを吐き出すこととなった、のだが。


「……あっ!」


イク瞬間に、英二の秘部がキュッと締まった。
気が抜けていたこともあり、
予想外のことに、俺もあっさりイってしまった。

俺の顔に白い液が降りかかるのと同時、
俺も英二の中に欲望を注ぎ込んだのだった。




力の抜けた英二は、萎えた俺自身からあっさり抜け出すと
ぱたんとそのまま俺の体の上に倒れ込んだ。

結合部から、ごぽっと音が聞こえた。


「ゴメン英二、中で出すつもりはなかったんだけど…」

「え、どうして?」

「だって…気持ち悪くないか…」


英二は、ふるふると首を横に振った。


「オレね、嬉しかったんだよ……」


ゆっくりとした、やけに幼稚な喋りだった。
意識がはっきりとしていないのだろう。
だけど、本心であるということは間違いないようだった。


「おおいしは、キモチよかった?」

「ああ…すごくな。途中、我慢するの必死だったよ」

「そ、か。よかったー……」


はぁー、と長い息をついて。


「オレ、大石のこと、一回もイカせらんないかと思ったから…」

「えいじ…」

「良かった。よかったよぉー…」


そして、しくしくと泣き出してしまった。
俺はその崩れ去りそうな背中に、そっと手を回した。


「ありがとう英二。お疲れさま」

「こっちこそ、ありがとう大石。アリガトウ…っ」


何にお礼を言っているんだか、もはやよく分からなかった。
だけどそのとき俺は、凄く良い気持ちだったし、
そして何より、幸せだったから。
幸せを分かち合うことを許してくれたことに対して、英二にお礼を言ったんだと思う。


本当に幸せだった。


そんな英二は俺の顔をじーっと見ると、
申し訳無さそうな顔で言った。


「…ごめんね。汚しちゃった」

「ん?あ、ああ。こんなのどうってことない。別に汚くないぞ」


それは、顔に掛かった英二の精液だった。
だけど不思議なことに、汚いとかの嫌悪感は、全くなかったんだ。

それでも英二は気にしているのか、ずっと眉を潜めたままで。

ついに動いたかと思うと、なんと、
俺の顔の上に舌を這わせてきた。


「お、おい、英二?!」

「キレイにする…」

「そっちこそ、自分のモノなのに良いのか?」

「オレ、猫だし」


そう言って、ペロペロと舐め上げた。

まあ、本人が良いというのなら、良いのだろう。
どちらにしろ、全身ベタベタだという事実は変わらなかったが。


好きだ。

本当に好きだ、英二。

愛している。




神が許さない組み合わせなのかもしれない。

だけどどうしようもないんだ。

俺の心が。

体が。

細胞の一つ一つが英二を求めている。



「いつまでも、離さないからな」

「ん……」



ぎゅっと抱き締めると、英二は、
心地好さそうに目を閉じて、眠りについた。

さすがに英二を運ぶ体力もそのときの俺にはなさそうだったので、
いつも寝ている場所に布団などの荷物を取りに行くと、
温かい地面を置き去りに先ほどまでの場所に戻って、
俺たちは夢の世界へと行った。



そして、決戦の朝を迎える―――。








朝早くに起きた俺たちは、
いつものお店でパンを買うとそれを食べながら歩き始めた。


「ずっと歩いてればおひさまがてっぺんにいる辺りで着くよ」

「それって……」


5時間ぐらい歩くってことか…。
まあ、それぐらいは覚悟していたけれど。


しかし雑談をしながらの約5時間は、
あっという間に通り過ぎた。
英二と一緒だからかな、と思ったし、
実際にそれが事実なのだろうとも思った。

ここだよ、と英二は足を止めた。

目の前に見えたのは、庭が広くて綺麗な、
少し大きめというだけで何の変哲も無い家だった。


「結構、普通の家なんだな」

「ん、うん。カモフラージュじゃないかな」


表札まで普通についてる。

菊丸。


…ん?
どこかで聞いた名字のような…。

気のせいかな。物珍しい名前だけれど。


表札を見つめる俺を遮るように、
英二は声を張り上げた。


「よし、じゃあ潜入するか!」

「ああ」

「気ぃ引き締めていけよ」


言われなくとも。

俺と英二は、顔を見合わせると二ッと笑った。


「…あ、その前に大石」

「ん?」

「ちょっとした作戦があるんだ」

「………?」


そのとき俺は、英二の作戦の意味を何一つ理解していなかった。






英二は軽い身のこなしで、裏口に回り込んだ。俺は後に続く。
そして窓から中に侵入すると、入り口へと走った。

なんだか、凄く慣れているように見えるのは…気のせいだろうか。


糸を張ったような爆弾を設置した。
どうやら、ドアが開くと糸が切れて、
爆弾が爆発する…という仕組みらしい。



「さっ、早く逃げよう。後はやつが帰ってきてドアを開けるだけ」

「爆発の威力は大きいのか?」

「うん…建物ごと、爆発しちゃう」


ん?


言い方が、なんか…。

爆発“しちゃう”?


なんだ?
さっきから、違和感。


英二がこの家に、馴染んでいるような。
惜しむような言動を。

どうして?

まさか英二は、この家に―――。





ガシャーン!!





大きな音がして振り返った。
なんと黒尽くめの男が、窓を叩き割っていた。


ま、まさかこの人物が……。



「オイ……」



やばい。
どうやら間違いないようだ。


「何やってんだ、お前ら…人ん家に裏から回りこむなんて悪趣味だぞ?」

「くっ…」


逃げ道は、ない。
数メートル後ろには、入り口がある。
しかし、そこを開くわけにはいかない。
俺たちが通ってきた裏口は、男の背後にある。


絶体絶命。


「英二…」

「………」


横を見る。
英二は、男を睨んだまま、微動だにしない。


男は、くくく、と笑った。


「さすがだな、英二」

「………」

「やってくれるぜ。お前の演技には参ったよ」


演技…?
どういうことか、全く分からない。


「さあ、こっち来いよ。猿芝居は終わりだ」

「英二!?」


返事がない。

英二は男を睨み付けていた目を
すっと感情のない表情に変え、
俺の横を離れると男の横にぴたっとついた。


「どういう…ことだ!?」

「……」


英二はただ、顔を伏せ気味にするだけ。
どこか申し訳無さそうに。
だけど、謝罪の言葉などなく。


「お前は騙されたんだよ、坊主。コイツにな」

「そ、んな……」

「それにしても、一家殺人したつもりが逃しちまうなんて、
 それも2回…俺もどうしたんだかな」


かつんかつん、と男は歩み寄ってくる。


「こいつか、あのドデカイ家に住んでた息子ってのは」

「………」

「本当に見つけて連れて来るとはな。本当に、オマエはすげぇよ」


そういって、男は英二の顔を見た。
英二は顔を上げようとしない。


どうなって、るんだ……?



俺が状況が飲み込めないでいると、
男は「お前の口から事情を説明してやったらどうだ?」と言った。
英二はためらいながら、ゆっくりと、語り始めた。



2年前、英二の家での話。
この前俺は英二からその話を聞いたが、
黒い服を着たその男に、実は英二は会っていたのだ。
それどころか、会話までしていたのだ。

それは、英二が玄関から出ようとした時―――。





ドアが抉じ開けられる。


『誰だ…』

『あ、あ……っ』

『まだ小僧が残っていたのか。全く、大所帯だな。
 家を掘り返して金もわんさか沸いてくるわけだ』

『や、やめろ…近付くな!!』

『歯向かっていいのか、こっちにはこれがあるんだぞ』

『!』


ピストル。


『大人しくできるな?』

『………』

『あ、ちなみにここは、これから俺が住ませてもらう』

『そ、そんな!?』

『文句あるのか?』


銃口を向けられる。


『建物はでかいし、庭も広いし、大通りから遠すぎず近すぎず…丁度いいんだ』

『でも、ここは……』

『よし、こうしよう。もしお前が俺と手を組んでもいいというなら、
 お前もこの家の出入りは自由にしてやる』

『俺、どうすればいいの…?』

『なあに、簡単なことさ。ちなみに、先に言っておくが、
 裏切ることは絶対に許されない。お前もコロス』

『っ!!』


こめかみに銃口が宛てられる。


『街で芸の一つや二つでもやってろ。人が寄ってくる。
 羽振りが良くて幸せそうな家族が居たら、報告しろ』

『……』

『今までは自分でターゲットを探してたんだがな。手間が省ける』


銃は下ろされた。


『……羽振りが良くて幸せそうな家族…しか狙わないのか』

『ん、それがどうした』

『お前が…オレの、家族……オレの……っ!』


銃がまた持ち上げられる。


『うるせーな。ムカツいたんだよ』

『!!!』


肩に手を乗せられた。


『歯向かったらどうなるか、分かってるよな』

『…っ』

『大人しくしてりゃあ、生活の保障はするぜ』


男は立ち去る。


『それじゃあ頼んだぜ、バスター』






――――……。





「う、そだろ……エージ…」

「……本当だ。全部、本当だ…」


信じたくなかった。
だけど英二の目は、真剣だった。


じゃあ、今まで過ごしてきた一ヶ月間は?

一緒に笑ったり、時には喧嘩をしたり。
そして、昨日の夜の、熱さは――。


一体、何だったんだ?



「お前の家族のことを報告してきたのも、コイツだったんだぞ」


そっちを向いた。
英二は、視線を逸らす。

そんな……。


「いやあ、英二は良い目利きだ。言うとおり、お前の家族は
 金持ちだったし、抵抗しないんでやりやすかったよ。
 親父が娘と妻を最後まで庇っててな…最高だった」

「!!!」

「オイ」


殴りかかろうとすると、ピストルが向けられる。

なんなんだ、一体…。
俺は、どうすれば―――。



「…ん?」



そのとき、男が何かに気付いた。
一歩、また一歩と玄関に向かい。

……あっ!!



「なんだこれは」

「……」

「爆弾じゃねぇか…っ?!」


英二は、顔を上げない。


「坊主を騙すには、手の込みすぎた演技じゃないか?えぇ!?」

「え、なんのこと?」


漸く顔を上げた英二は、
少しずつ男に歩み寄って。

しかし、気のせいだろうか。
男に歩み寄っているというよりかは、
“俺に”近付いてきているような…。


「しらばっくれんなよ…どういうつもりだ」

「だから、なんのことか分からないって」

「裏切りが何を意味するか、忘れたとは言わせねーぞ?」


男が歩み寄ってくる。


そのとき英二は、こそりと小さな声で

「ごめん。ありがと」

と言った。


反応をする間もなく、
英二は男に斬りかかっていて、
男は英二にピストルを向けていた。



パァン!!




小気味良い、音が。

響いて。

男の腹にはナイフが刺さっていて。


英二は立っていて。

…倒れて。



「ぐ、ぐぉぉっ」


「うっ…!」

「英二…エイジ?」



ナイフを抜こうとしている男など、
俺の耳には届いていなかったし視界にも入っていなかった。


反動で跳ね返って、
俺の足元まで飛んできた英二。


いつも通りのように見える。
まるで、寝ているように。


ただ一つ、不自然な、胸元に大きな赤が。




「エイジ!!!」


「ぅ……」



ウソ…だろ?

そんな、英二が……!



「えいじ、英二!返事をしてくれ、エイジ!!」

「おお、ぃし……」

「早く病院に…」


英二を抱きかかえようとした。
だけど英二は、力なさげに首を横に振る。


「もう無理だよ…」

「無理とか、そんなこと言うんじゃない!」


考えたくなかった。
必死に考えを掻き消していた。

俺はまだ諦めていなかった。
諦めたくない、というのが本当かもしれない。
だけど、信じていた。
まだ助かると。


その考えを覆したのは…英二の表情だった。

必死に痛みに耐えている顔ではない。
逃れようとしている様子もない。


―――笑顔だったんだ。

まるでその感覚を味わっているかのように。


英二は、ふっと笑った。
ごほっと咳き込むと口から少し血が出た。


「えいじ…そんな…」

「だいじょうぶ。オレひとりじゃないしさ。みんな向こうに居るしさ…」


焦ったとき、ぶわっと全身が冷たくなるように感じる時がある。

まるでそのようだった。
握っている英二の手のひらが、
どんどん冷たくなっていく。

服がどんどん赤く染まっていく。
顔がどんどん白くなっていくのに相反して。


「おおいし…ひとつだけ、いいわけさせて…。
 オレ、大石の家族を…そんな目に合わせ…るつもり、なかった」

「英二、いいんだ。もういいんだよ!」

「アイツに取り入って、油断させて、隙をねらう…それしかなかったんだ」


ふぅ、と英二は胸を上下させて呼吸をした。
深呼吸に似たものだったけれど、
それほどまで息を吸い込む力すらないらしい。


「悪いこと、したと思ってる…でもコーカイはしてない」

「………」

「だってこうして、オオイシと出会えたんだもん…」

「英二…エージ……っ!」


ごほごほ、と咽る。
更に血が出る。

目を薄らと開いた。


「きのう、シアワセだった…」

「エイジ!!!」

「ありがとう大石、アリガトウ……」


目を、閉じた。



「う、嘘だろ…英二……エージ!」



ほら、いつもみたいに
笑って…「大石!」って。
「なーんちゃって、冗談に決まってるだろ」って。
「もしかして本当に死んだと思った?」って。
そうしたら、俺は思いっきり殴ってやる。
だけど許してやろう。そう決めた。


だから。

ほら。

英二……。



「目を、開けてくれよ…」



―――――。



「英二…冗談なんだろ、英二」



揺さぶっても、反応 ナシ。



「怒らないから、本当のことを言ってくれよ…」




涙が。


止まらない。





「エイジィィィィィィーーー!!!!」






返事がない。
何も。



「えいじ…えっ、いじ……っく、エージ…」

「…………」



そこに居る英二は、まるで人形のように綺麗だった。

肌が青く感じる程に白くて。
少しひんやりとして。
だけど微かな温度は抱えていて。
伏せられた睫毛は長くて。
唇は微かに隙間を空けていて。

そこから流れている血さえ覗けば、
本当に、人形のように思えた。


だけど視線を体の方へ移すと、
洋服に大きな赤い染みがあって、
そこの上に乗った手も真っ赤で、
流れ出た真紅の液体には泡が見え、
赤の匂いが、ツンと鼻を突いた。



数ヶ月前の夜を思い出す。

寄り道してしまった所為で少し帰りが遅くなった買い物のこと。
早く食材を持って帰らないと夕ご飯が作れないのに、
つい、街角で足を止めてしまったあの日のこと。

もし、そのまま家に帰れば間に合っただろうか。
家族は殺されずに済んだだろうか。
それとも一緒にあの世へ行くこととなっただろうか。
ひとりにならずに済んだだろうか。

だけどそんなことも知らずに、足を止めてしまったんだ。

大きな人の塊を見て。
周りの人の層が厚くて見えなかったけれど、
輪の中心から、たくさんの数の虹色のボールが
上に飛び跳ねたり下へ落ちていったりするのを。
多分そこには、ジャグリングをしている人が居たんだ。


ジャグリング?


その頃、俺はそんな言葉は知らなかった。
お手玉という認識しかなくて。

正しい言葉を教えてくれたのは。



「――――エイジ…」



もしかして、あの日あそこに居たのも。
………。

“羽振りの良い幸せそうな家族”を探して、
数日前からあそこに。



「うっ……ぅぁぁぁあああ…!」



喉の奥から泣いた。
そんなこと、認めたくなくて。

あの日の夜、そこに居た英二が、
昨日の夜は、俺と一緒に居て。


もしかしたら、英二は寂しかったのかもしれない。
独りだったのかもしれない。
だから神様が巡り合わせてくださったんだ。

その夜、俺も一人になって。
次の日、俺たちは二人になって。


だけど。
だけど……。




「これから…どうすれば、いいんだ……っ…!」




俺はまた、一人だ。
いや、俺は……初めて、独りになったんだ。



初めて出合った日のこと。
涙を堪えきれずに流す俺の肩をぎゅっと引きつけた英二を、
未だに俺の体が覚えている。

だけど、もう、その腕は差し伸べてくれない。



「エイジ……えいじ、英二……」



俺、片手で3つまでできるようになったぞ。

左手はまだヘタクソなんだけどな。
だけど、2つは一応できるんだ。
両手で4つまでできる。

英二は凄いよな。
片手で俺の両手分を平気でやってしまうんだから。
両手を使えば、10個ぐらいできるだろう?
俺には一生掛かっても無理だな。
そのうちできるようになるよって英二は
励ましてくれてたけど、

もう、絶対に無理だ……。


教えてくれよ、英二。
どうすればいいのか。
練習あるのみ、って英二は言ったけれど、
慣れることなんてないんだ。

もう、これを体験するのは2度目だけれど、
前より悲しみが大きくなっている気がするんだ。


英二。どうすればいい。

俺は、どうすれば―――…。



「坊主」


振り返ると、男が立ち上がっていた。
腹部からはダラダラと血が流れ出ていたが、
それほど深手でもなかったらしい。


「きっ貴様…!」

「お、歯向かっていいのか?
 俺にはまだこれがあるんだぜ」


そういって、ピストルをくるくると回してみせた。
俺は息を吐く。


「そんなもの…怖くない」

「おー、度胸あるねぇ」

「お金だけが全てだと思っているお前たちなんか…っ!」





パァン!!






…銃口からの煙が、ゆらゆらと見える。

その向こうに、黒尽くめの男が。



「お、オマエ……!」

「お前たちなんか…殺すのも怖くない」



男は、がくっと膝を付くと、
そのままバタンと倒れた。

ハァ、ハァと息が途切れ途切れになる。
撃った反動で、右手がビリビリ痺れている。


英二……。




『大石、見て見てこれっ』

『こ、これ……ピストルじゃないか!』

『そっ。2年間ずっと隠し持ってたんだ』

『どうやって手に入れたんだ?』

『んっとね、オレの家に…落ちてたんだ。弾もまだ入ってる』



『大石』

『ん?』

『これ、大石が持っててくれないか』

『えっ?』



『そんな、俺には扱えないよ』

『簡単だから。ここを回してここを引くだけ』

『で、でも……』

『お願い』

『……分かった…』

『よっし、そうこなくっちゃ』


『でも、どうして…』

『んー?』



『オレに、ちょっとした考えがあるんだよね…ま、見ててよ』




鮮明に思い出せる、今朝の会話。
英二の言葉一つ一つ、声、仕種、
全てが思い起こされる。

まさか、こんな結末が待っていただなんて。


英二に、考えなんて元々なかったんだ。
“俺に持たせることに意味があった”のは、
“自分が持っていたのでは意味がない”というだけで。

先に自分が死ぬと、分かっていたんだ。


ピストルだって。
本当は、落ちていたなんて嘘だったんだろうな。
団と手を組んだ時に渡されたかどうかしたのだろう。
逆襲のために蓄えていたというのは、賢明な考えだったが。

例え自分が犠牲になってでも、報いるために、ずっと持っていたんだ。



「ちくしょー…チクショー!!!」



思いっきり叫んだ。

英二の気持ちが、今ならよく分かる。
漠然と哀しいだけじゃない。


あの時まだ俺は、悲しい、ただそれだけだった。
他のことを考える余裕もなく、ただ、
愛する者の“死”という衝撃が大きすぎて。


だけど冷静になって振り返れば、あるんだ。

例えばその結末に辿り着いた理由が。
金持ちであったとか。
歯向かったとか。

それから…自分に出来たことが、あったんだ。
小さな力かもしれない。
だけど、運命を変えることはできたかもしれない。


本当に、家族は死ななくてはいけなかったのだろうか?

なんとか英二が生き延びて助かる方法は、なかったのだろうか?


もし、俺がもっと早くから英二の真実に気付いていれば。
話を聞くことが、出来ていれば。



後悔ばかりが、募る。

果たせないこの思いは、どこで報いればいい?



「英二…逢えるかな、そっちで」


返事は、ない。



「人を殺めてしまった。俺は地獄行きかな…」



チャキッ。

銃を、定位置に構える。




「だけど、ゴメン。もう一人だけ、殺させてくれ……ッ!」




ゴパァッ……―――



さっきとは少し違う音が脳全体に響いて、
俺の意識は、それ以降は何も残っていない。



自分の体も行方も。

英二も。

その世界がどうなったかなんて。


何も、知らないんだ。




考える意味さえ、なくした。

芸をして歩き回っていた頃を懐かしむことさえ、できなくなったんだ。




それが物語の終わりだった。






















書き始めてから8ヶ月以上掛かりました。(白目)
頑張った…超疲れた…でも相当楽しかった…。

buskerっていう単語を辞書で調べて知って、
ネタになるなーと思って書き始めたが最後、
内容が膨らみすぎて全然終わらなかったという。(笑)
(2005年7月27日から数日の日記参照)

最終的に結構お気に入りの作品に仕上がりました。
妙な設定である代わり色々作りこんだので。パラレル万歳。
表の健全な小説になるはずがエロ有死にネタになってたのはともかく。ぁ

てか…90KBって。(爆笑)


2006/04/08