「大石先輩から離れなさいよ」




いつかは来るとは思ってた。




でも大丈夫。

これくらいの いたみ なら。











  * 愛災弁当 *












「どうしたんだその傷!?」

「…転んだ」


その応対に、ふいに後輩の一人の顔が浮かんだ。
どうやら、俺の周りには必要以上に頑固な人が多いらしい。
辛抱強いのは良いことだけど、
融通が利かないという考え方をすると随分と厄介だ。

「転んだだけじゃその傷は付かないだろ」
「転んだの!」


…ダメだ。

ここまできたらは絶対に譲らない。
意志が強いといえばそれだが、
こちらとしては扱い難いものだ。


明らかに、転んだことが原因とは思えない傷だ。
とはいえ、それだけなら何の問題は無い。
全く怪我せずに暮らすなど不可能だ。

問題は、何故それを隠すかということ。

それはつまり、怪我の原因が何か俺に話せないようなことだということで。
俺に話せないこと、となると…。


…何かあったら言ってくれよ?」
「うるさいなぁ、人が転んで痛い思いしてるのに」

私の不幸を楽しんでるのー?とまで言われた。
俺は手を横に振り否定する。

別に楽しんでいるわけじゃない。寧ろその逆だ。
俺はこれでも心配しているんだけど…。

と、その時チャイムが鳴った。


「じゃ、教室帰らなくちゃ」


は立ち上がる。
翻したその身を一瞬見つめてから、背中に声を掛けた。

!」
「う?」

振り返った。
そこへ、自然と生まれた、なるたけの柔らかい笑みで。


「ちゃんと前見て歩けよ」


その言葉には、暗に“もう転ぶなよ”と示したつもりだ。

それを理解したのか、は歯を剥き出しに悪戯な笑みを見せた。
そして、敬礼のポーズをする。
今度はくるりと振り返ると、廊下を小走りで通り抜けていった。
ちらりとドアから顔を覗かせると、階段で曲がるその姿が見えた。


本当に…大丈夫かな。


心配ではあったけど、俺に出来ることは今のところなさそうだ。







  * * *







やはり勘付かれた。

だけど悟られるわけにはいかない。


これ以上の苦しみを、味わいたくはない。






  **






「大石、学食行くか?」
「いや、俺は…」
「もしかして今日も愛妻弁当ってやつか?見せ付けてくれんな」

そう茶化すと、クラスメイト数名は教室を出て行った。
何か面白おかしいことでも話しているのか、笑い声がここまで届く。

愛妻弁当…と呼べるのかは分からないけど。

教室に残った俺は、一人微笑を零していた。
暫くすれば、やってくるであろう人を待ちながら。





しかし…おかしい。

もう、昼休みが始まってから15分経っている。
いつもは遅くでも10分すればはここまでやってくる。

今日は約束していなかったか?いや、
朝会って一言目が「お昼、楽しみにしててね!」であったものだから、
強く印象に残っている。

いつもなら、来られない用事が出来たら言いに来る。
数分の間を縫ってでも。
それが、今日はどうしたんだ?


何か――嫌な予感がする。


教室を飛び出した。




2年7組。覗いてみる。
顔も知らない後輩が楽しそうにお弁当を食べている。

の姿は――ない。


その場を後にした。



廊下?

他教室?

購買?

食堂?

職員室?



思いつくところは全て回った。
どこにも居ない。
気付けば昼休みは半分終わっている。

他に居るとしたら、どこだ?

テニスコート?
まさか。


―――…っ。



体育館!!







  * * *







見つけないで。

気付かないで。


「あんた調子乗りすぎ」

「どうなるか分かってるでしょね」


弱い私も情けない私も居ないから。


「…さあ?」

「コノッ…!!」


痛みに耐えて、強い私だけを見せるから。



「まんざらでもないって顔じゃない。傷めつけられるのがそんなに嬉しい?」



顔。

腕。

脚。

腹。


どこもかしこも傷みが咲く。

けど。



「…そうね」


腕の生傷が痛々しく目に映ったけど。




「これくらい……全然痛くなんて無いし」




それが相手の怒りを駆り立てることになるって、分かってた。


「…っんの!」

「死ねっ!!」


鈍い音が全身を揺する。




 だけど これくらいの傷み 痛いうちになんて 入らないし。







  * * *







体育館には、誰も居なかった。
どころか、生徒の影はどこにも見当たらなかった。


参ったな…。
思いつくところは全て回ったのだけれど。

もしかして…早退とか?
あ、そういえば保健室には行っていない。

よし、保健室へ―――。


『ガラガラ』

「?」


足を体育館の外に一歩出したその瞬間、
誰も居ないと思っていた体育館の奥から物音が。

それは、体育倉庫からで……。



!?」

「あ、秀」



そこにいたは笑顔だった、けど、
明らかに今日の午前より傷が増えていた。


、その傷どうし…」

「あー、体育の後片付け頼まれてたんだけど、棚引っくり返しちゃって。
 それ片付けてたら余計に時間掛かっちゃったよ」


その笑顔が。

強かなのだけれど、今にも崩れ去りそうで。

気付けばの体を思い切り抱き締めていた。


これ以上目を離していたら、そのまま二度と手が届かぬ気がした。



「秀…痛い」

「うん。保健室行こう」

「違くて…キツ、すぎ」


あ……。


体を離した。

は、視線を逸らしていた。

腕に必要以上に力が篭っていたことに気付いた。


どうしたっていうんだ、俺。

いつでも、のことは
守ってやりたい、抱き締めていたいとは思うけれど。

こんな衝動的に抱き締めてしまったなど…初めてだ。


「ごめん」
「ううん…ヘーキ」


とりあえず、保健室へ行こうと。そう促した。
は黙ってついてきた。




 が 嘘を吐いているとは 思いたくないけれど。

 そうだとしたら この不自然な 怪我の正体は?

 なんでもないなら 何故 隠したがる?






  * * *






痛かった。痛かった。

抱きしめられた時、痛かった。

力が強すぎて、痛かった。

包む温かさが痛かった。


離されるのが怖かった。

そう思うと 痛 か っ た 。






  * * *






「…よし、これでもう平気だな」


最後に頬に絆創膏を貼り、俺はパンパンと手を叩いた。
女の子が顔に絆創膏なんて嫌かなと思ったけれど、
一生物の傷になるよりはましであろう。
それでもは、とてつもなく不機嫌そうな顔をしている。


「…、大丈夫か?」

「え?全然ダイジョビだよ」


即座に笑顔に帰るとそう言った。



しかし…のこの様子。

そう考えたくはないけれど、もしかしたら。

最悪の事態を想定してのことだけれど。


――…イジメを受けているんじゃないかって。

どうしてもそう思えてしまう。


当然、そうは思いたくないしあってほしくない。

でもこの様子、どう考えても………。


「今日の帰り、送ってやろうか?」


訊ねると、は頭にハテナマークを浮かべつつ、
不思議そうに自分自身のことを指差した。

他に誰がいるというんだ!
俺は首を縦に振った。


お互い部活がある日なら一緒に帰る。
片方が部活しかない場合は、別々に帰る。
それが自然と出来た流れで、普段はそれに従っていた。

しかし、今日のは明らかにおかしい。
今日は本当は俺しか部活がない日だけれど、
部活一回よりもの身のほうが心配だった。


送ってやろうかと訊いた俺に対し、は。


「なーに言ってるの!これぐらいの傷なら普通に歩いて帰れるって!」


それともお姫様抱っこしてくれるのー?と。
はそう訊いてきた。

さすがにそれは出来ないぞ、と。
咄嗟に俺は「いや…」と答えていた。
「それみなさい」というと、は意味もなしに胸を張っていた。


しかし、「あ…でも」と人差し指を口元に持ってきた。



「なんか、今日は一緒に帰りたい気分っ。部活終わるの待ってるよ」



そんな悪いよ、と言ったけれど、
部活があるのに送ってもらうほうが悪いよ!とは主張して止まない。

ここまで来たら譲らないのがだ。
その頑固さは今朝の一件でも証明されている。

軽く溜息を吐いた。


「じゃあ、今日は一緒に帰ろうな」

「うんっ!」


普段の流れを崩して一緒に帰りたいとか突然言い出した辺り、
やっぱりいつもとは何かが違うとは思ったけれど。
確信を持っていない俺は、それ以上は何もすることが出来なかった。

今はの言葉を信じるだけだった。




 の全身を包む傷が、本当にドジによるものでありますように。




変な祈り方ではあるとは思ったけれど、切実にそう思った。

嫌な予感、とか、勘、に頼るほど、
そのときの俺はまだ追い詰まっていなかったと言えるかもしれない。



これには、後から後悔することになる。






  **






「それじゃあ、俺は部活に行ってくるからな」

「うん。終わる頃の時間になったらあたしが迎えに行くー」


教室で掃除をしているに一言声を掛けてから、校舎を後にした。
下駄箱で靴を履き替えて、テニスコートの横の部室へ向かう。

いつも通りに、部活が始まった。



サーブ、レシーブ、ロブ、ボレー。

様々な種類の球が、ネットを挟んで打ち合われている。



「どーん!」
「げっ、そこでダンクスマッシュは反則だにゃ!!」
「そんなのルールブックのどこに書いてあるんスか」
「うるさいっ!桃のくせにぃっ!!」

やかましい声が聞こえると思ったら、
どうやら桃と英二だったみたいだ。
笑いを堪えながら、俺は二人の近くへ歩み寄った。

「確かに、今のは桃が正しいな」
「大石までっ!」
「ほらほら、さあ続けましょうよ」

鮮やかに決め技が決まったことが嬉しいのか、
桃はかなり上機嫌だった。
対して、鮮やかに相手に決め技を決められてしまった英二は、
不機嫌極まりないといった様子だった。

純粋にその状況を楽しんでいた。
次の瞬間までは、“あのこと”なんて忘れていた。

「随分調子良いんじゃないか、桃。何かあったのか」
「いやー、今日は体育がなかったもんで体力有り余っちゃって」
「そうか」

そんな会話を、普通に受け止めて。
そんな状況を、微笑ましく見守っていた。

だけど、ふと、気付く。


「あれ、桃は…体育は海堂のクラスと合同、だよな」
「それがどうかしたんスか?」


今の返事は、つまり、イエス。

桃のクラスも海堂のクラスも今日は体育が無かったと。

は、海堂と同じクラスだ。


今日の昼休み、は、なんと言った?



『あー、体育の後片付け頼まれてたんだけど…』



嘘だ。


嘘だ。


嘘。



は嘘を吐いた。



嘘だ。




「悪い、俺…急用!」

「え、大石っ!?」



どうしてもっと早く気付かなかったんだ。

明らかに態度がおかしかったじゃないか。

自分でも半分は勘付いていたじゃないか。


どうして、もっと早く、行動に移せなかったのか。



予感や勘を超えた、確信に近いものが、ある。


の身が危ないと。

脳の奥でそう訴えている。







  * * *







「何やってんの?」

「そんなの勝手でしょ…」

「歯向かうの?」


五月蝿い。

プライバシーの侵害してくる人に言われたくはない。


だけど、下手すると、痛みを被ることになる。


だから言わない。


「もしかして、大石先輩のこと待ってるとか言う?」

「……は?」


とりあえずは聞こえないふり。

だけど嘘は吐かない主義だから、それ以上は何も言えなかった。


嘘は吐かない主義。

そう。

嘘は吐かない。



嘘は、痛みから自分を守る時、だけ。



「『は?』じゃねぇよ!ナメてんのかよっ!!」



ガン。

机が蹴られて引っ繰り返った。


ガン。

今度は椅子。


ガシッ。

今度は体。


だけどこれくらい平気。


だって、痛くないもん。







  * * *







―――――………。



なんだ?

今、俺が目にしているのは。


廊下から斜めにして見る、教室の中の光景は、何?



来なれない2年の廊下。

ついこの間までは毎日通っていたここ。


何故だろう。

足が浮いているように感じられる。



本当だったら、すぐにでも飛び出さなきゃいけなかった。

自分だってそうしたいはずだった。


なのに。



初めて見せ付けられたこの光景は、あまりにも衝撃的で。


弱い。

情けない。


足が竦んだ。



その状況が怖かったわけではない。

怖かったのは、そんなことが起こっているという事態で。




「離れなさいよ、大石先輩から」


「生意気なんだよ」





まさか 自分の 一番大切な 人 に 痛い思いをさせていたのが


自分だったなんて。







痛い。


やめろ。




それ以上、傷め付けないでくれ。















―――――――――――――――俺は逃げた。









「あ、大石先輩お帰りなさい」

「どこ行ってたん?」



ハァ…ハァ…ハァ。



「ね、大石?」

「っ……大丈夫だ」


「「???」」



その場を離れた。

後ろの二人の会話は耳に入っていなかった。
(「なに今の」「返事になってなかったっスよね?」「どうしたんだろね…」)


ガン、とロッカーに手を着く。





俺は弱い。

情けない。


はずっと笑顔を見せてくれたのに。

その笑顔が俺には痛すぎたんだ。




もう、耐えられない。







  * * *







「アイチチ、また豪快にやられたね」


全身を見回しながら独り言。

さっきの奴ら――同じ学年ってだけで、他は知らない――は数分前に去った。


アイツらは、弱い。

直接は何も出来ないし、一人でも何も出来ない。


アタシは、強い。

だからどんな傷みも平気だ。


ほとぼりはそのうち冷める。

それを待つだけだ。



アノヒトから離れることだけが、アタシの痛み。







  * * *







…待たせたな」

「ううん、全然平気だよ!」


明るくそう言うと、は俺の横に立った。

さぁ行こう、と上目遣いに見上げてくる。


俺は、果たしてそれに微笑み返せていただろうか。


何も言わずに歩き出した。

動作は自然だったけれど、凄く不自然だったと思う。


その日の帰り道は、どんな会話をしたか憶えていない。

果たして会話をしていたかどうかすら、頭には残っていない。


無言だったのだろうか。

それとも、いつもみたいな相槌を無意識に繰り返していたのだろうか。


脳内を巡るのは、別のこと。


いつ。どうやって。切り出そうかと考えている。


それは、部活中に出した自分の一つの結論。

俺は逃げるんだ、あの痛みから。




バスの扉が開いて、はひらりと飛び降りて振り返る。




「秀、また明日ね」

「っ!」



声を張り上げた。

自分も焦って飛び降りた。

はこっちを睨むようにする。

両手に力が篭っているのを感じた。



朝はあんなに綺麗だったが。


今はこうして俺の前に立って。


潤んだ瞳で、不機嫌とも取れる表情をする。



唇を噛んだ。


言うしか、ない。

















  『―――――別れよう』











俺は逃げたんだ、痛みから。







  * * *







あんな傷みにもこんな傷みにも耐えてきたけど。


―――痛すぎ。







  * * *







昼休み。

いつもなら元気にやってくるの姿が、今日はない。


自分からフったんだ。

当然といえば、その通りだった。


でも。

胸がぽっかり開いてしまったような。

そんな気分だ。

これからもずっとこうなのかと思うと、変な感じがした。




でも…これで、いいんだよな?

こうする他になかったんだよな?

だって、が俺の所為で痛い目を見るなんて、耐えられない。



俺の一番の痛みは、が傷付くことなんだ。






「…大石センパイ」

「ん、海堂?」



目が合うと、海堂は無表情のままぺこりと頭を下げた。


海堂が3年の教室まで来るなんて、珍しい。

何か相談事だろうか。



「うちのクラスの、なんスけど…」


そこまで言うと、途端に早口になって「付き合ってるんスよね」と訊いてきた。

俺は首を縦に揺らしていた。

後から考えればそれは間違っていることなのだが。


それより、海堂がこれから何を言うのかが気になって。



…が、何かしたというのか?



海堂の顔だけをじっと見据える。

口が動くのを待つ。


海堂は重々しく口を開く。




「――――」


「えっ!?」




その言葉に、俺はガタンと立ち上がった。



だって、まさか。


そんな。






『昨日、自殺未遂を図ったらしくて――…』






それ以降は聞かずに、俺は教室を飛び出していた。




お願いだ。

嘘だと言ってくれ。


だって、俺の脳裏に浮かぶのは、笑顔で名を呼ぶ、その姿だけだ。


2年の教室にでも行こうものなら「あれ、秀!珍しいね」と。

誰よりも輝いた笑顔で。


それが。


―――自殺!?




2年7組。

海堂の言葉通り、居るはずのその場には居なかった。

変わりに、人が居ないことを見世物として観に来たような、
そんな人々がうずめいていた。


嘘だと言ってくれ。





そうだ。

そういえば昨日、は嘘ばかりを吐いていたじゃないか。

それならば、これもまた然り。

これも偽りに違いない。


―――でも、そこに居ないというのは、どうしても事実で。




「大石先輩…」

「―――」


横に立っていたのは、が一番仲良くしていた、という子だ。


泣きそうな、顔で。

スカートを掴んだ手が震えていた。

思わず、謝りそうになった。


でも、悪いのは俺じゃないはずだ。



―――本当に悪くないのか?




だって、を傷めつけていたのは……。





―――止めることが出来なかった。





俺、か。


俺だ。


悪いのは俺だ。



あそこで飛び出さなくてはいけなかった。



何故逃げたんだろう。
は耐えていたのに。

助けることが出来なかった。



「俺だ」


無意識に零れた。


「俺が悪いんだ…」



嘆願のような、謝罪のような、その言葉。
返されたのは、罵声に近い、この言葉。



「本当ですよ!大石先輩のバカッ!!」



まさかそんなことを言う子だとは思っていなかったし、
言われるとも思っていなかった。
ちゃんは走ってその場から居なくなった。


――なんだ、これは。


俺は確かに加害者であることは認めるけれど、
主犯ではないはず。

助けることも出来なかったけど、
傷付けることもしていないはず。



…本当にそうなのか?







  * * *







イタイ。

ズクンズクンと左手首が疼く。


警察沙汰にはならなかった。
入院もせずに済んだ。

だけど…イタスギ。



「秀のバカー」


死ンジマエー。


そんな事を真顔で言っている自分が怖かった。
だけど、納得している部分もあって。

脳の一部が壊れちゃったみたい。
修復は不可能カナ?


折角、どんな傷みにも耐えてきたのに。
たった一つの痛みを受けたくないがために。

なのにさ。





「イジメ受けてさ」





「恋人にもウラギラレテさ」







「…何を信じればいいわけよ」


たった一つの、心の拠り所だったのに。





今度こそ、本当に生きる意味無くしちゃったんだけど。


なんで死なせてくれないの。







  * * *







この世の良くて悪いところは、
何もしなくても時は経つということだ。

呆然としたまま一日が過ぎていく。


わけもわからないまま、部活。
ココロここにあらず、といった状況は、
昨日以上に酷かったと思う。
気の抜けている俺を、手塚は走らせることはしなかった。
それどころか、休んでろとまで言われた。

そうして今、俺はベンチに座っている。
竜崎先生に調子が悪いなら無理はせずに帰って良いといわれたが、
家に帰るのが怖くて、今はまだ、俺はここにいる。




 会いたい のに 会えない から?


 会いたくない のに 会わなきゃいけない気がする から?






  **






「今日の練習はここまで…解散!」

「「ありがとうございました!」」


その声にはっとした。

みんなが礼をしているというのに
ベンチでぼーっとしている自分が情けなかった。
その場で礼をするのも慌てて駆け寄るのも妙な気がして、
聞こえないふりで座ったまま黙っていた。


すると、誰かの影が被った。
見上げると、手塚が居た。


「大石。本当に大丈夫なのか」
「あ…悪い。もう大丈夫だ」


立ち上がる。
眉を顰めている手塚の後ろから、桃が顔を覗かせた。


「良かったら、オレ送っていきましょうか?チャリだし」


横で越前が「オレは?」と口を挟んできたところで俺が答えを出した。


「大丈夫だ。一人で帰る」


別に、二人乗りを察知した手塚が表情を硬くしたからでも、
越前に遠慮したわけでも、
桃の運転が心配なわけでも、なんでもない。

「でも…」
「一人で、帰らせてくれ」

それ以上は、皆も何も言ってこなかった。

さっさと着替えて、会話の一つもしないまま帰宅することにした。



「大石、バイバイ」

「ああ、またな」



心配そうな英二の挨拶が、その日の学校では最後に聞いた言葉であった。






  **






帰り道。
一人の部活帰りでは電車なことが多いけれど、
今日は、バスに乗った。

と帰るときは、いつもバスだったんだ。
つまり、これに乗っていれば、
途中で降りればの家にも行けるし、
そのまま乗っていけば自分の家へ行ける。

選択肢はまだ両方残っていたけれど、
俺はそのまま帰るつもりだった。


しかし。



「!?」




の最寄のバス停。
そこには、を傷めつけていたと思われる人物が。

俺は急いで飛び降りた。
向こうはこっちの存在に即座に気付いたらしく、
俺が声を掛けずともバスに乗る足を止まらせていた。

扉を開けたまま待っていた運転手さんも、
暫くするとバスを発車させた。


停留所は、二人だけになった。
無言の時が続く。


向こうが何か言うまで黙り込みを決めることにした。
もし何も言わずに逃げ出そうとでもしようものなら、
話はまた別だけれど。


「…ごめんなさいっ!」


ガバッと頭を下げられた。
割と誠実そうな印象で、驚かされたほどだ。

だけど、なるたけの嫌味と皮肉を込めて言ってやった。


「それは、に言うべきなんじゃないのか」


鼻に掛かり調子の声だった。

その子は必死に訴えかけてくる。

「今言ってきました!ちゃんと謝りました」

事実なのだろうけど、一歩引くと
どうしても言い訳がましく取れてしまう。


「謝って済むことと思ってるのか!」


声が震えた。
本気で怒りを篭めた言葉だった。

その子は、肩を小さくして「ですよね…」と。
予想よりはるかにしおらしい態度に俺は驚かされてばかりだ。


「私…最低です。自分の不満を人にぶつけることでしか解決できなくて」


俺は何も言わずに口を噤んで聞いていた。


「それも…イジメなんていう人を傷つけてしまう方法で」


そうだ。
力に自信のある者は、一対一で思いをぶつけて
喧嘩なりなんなりすればいい。
でも、群れることでしか強くなれない人間は、
苛めとか、その手の手段をとりたがる。

そして、そういう人間って言うのは、
一人になった途端に驚くほどに脆かったりするのだ。


「…最低だな」
「最低デス」


そのまま返された。自己防衛だと思った。
自ら口にして認めることによって
他人から受けるダメージを最小限に食い止めているのだ。

人は、なんて弱いのだろう。


「初めは…ただ単に悔しかったんです。
 それが、いつの間にか憎らしくなってきて」

よく喋る子だな、と思った。
は、普段はやかましいほどによく喋るくせに、
こういう時だと黙り込んでしまう傾向がある。
そういう時のはあまりに小さくなっていて、
こちらが謝りたくなってしまうものだ。

なんだか弱々しくって、甘えているようだけれど、
そんなが、俺は、好きだった。


いや、好き…だ。



「適わないって分かってたからやったんです。
 こんなことになるなんて思わなくて…」



はっと現実に戻された。

そうか、俺はまだが好きなんだ。


当たり前だ。
別れたのは昨日今日だ。
それも、理由が好きだから、だったわけで。


じゃあどうして別れた?

それはが苛められている原因が俺だと分かったからで。

そして、苛めをしていた張本人は―――。



「――――っ!」



我に帰った。
前に居るその人物を睨んだ。

その子は、「そんな顔しなくたって、もう近付きませんよ」と言った。
さすがに今回のことで懲りたのか、と思ったら。


「こんなヒドイことする人だとは思っていませんでした」

私は、ちょっと傷めつけられれば良かったのに、と言う。


ちょっと?

お前、がどれだけ傷付いたと…!


反論しようと思ったとき、次のバスが来た。
その子は挨拶もなしに乗り込んでいった。

なんということだ…。


とりあえず、早急にに家に向かうことにした。


むしゃくしゃした気持ちをどうすればいいのか分からなかったが、
今は行くしかないと思った。

しかし、どうして向かっているのかは明確ではなかった。


どうして、だ?







  * * *







家に帰ってきた母は、
手首から血を流した私を見て青い顔をした。


激しく取り乱した様子で、
どうしてこんなことを!? と言われた。

勿論答えなかった。


しかし、救急車の中でもしつこく問われるもので、
彼氏にフラれた と言った。

まあ! と母は叫んだ。


「そんな軽い男、別れて正解だよ」





友人に電話した。


涙ながらに伝えると 大丈夫? と訊かれた。

大丈夫 と答えた。


最後に言われた。


「最悪じゃん。大石先輩ってそういうことする人だとは思ってなかった」





私を苛めてきてた人がやってきた。


驚くほど素直に ごめん と謝られた。


一言も口を利かずにだんまりを決め込んだ。

向こうも黙った。


あんまりに沈黙が長いもんだから、
「自惚れないで。あんたの所為じゃないから」と言った。


まあ、半分はそうだけど、直接の原因は

「向こうからフラれた」

これだもん。


向こうは青い顔してた。


私は言ってやる。

「多分、あんたは、私から別れを告げるのを期待してたんでしょ」

そうすれば、悪人は私になるもんね。


すると相手は、「それどころじゃない」と言った。


「私は確かにお前が憎かった。当たり前みたいに我が物顔で
 大石先輩の横に居るから」


私は黙ったまま。


「ちょっと痛い目見せてやりたいって思ったことは事実だけど、
 別れる…とか。そんなこと全く考えてなかった」


つまり。私たちは付き合ったままなのを前提として、
私を傷めつけたかったらしい。


「どちらにしろ…適わないって分かってたから」


凄く勝手なことを言っていると思った。

しかし。


「まさかこんなことになるなんて…っ!」


あの。
泣かれても困るんですけど。

同情してほしいワケ?

…ううん。
同情されてるんだ、私が。


所詮は、私もこの人も恋する乙女なわけだ。
ただ、カタチが違うだけで。


涙を拭ったその人は。



「最低。恋人見捨てるなんて…大石先輩ってそんな人だったんだ」



バイバイと残すとその人は去っていった。






心を巡るみんなの思い。

私の気持ちと同調して。





最悪だね。そんなことする人だとは思ってなかった。



あんな軽い男、別れて正解だよ。



最低。

さいてい。


サイテ―――……。







―――なんで、みんなそんな悪く言うの?







だって、私はまだ、秀が好きなんだよ?

秀の悪口、みんなで言うの?




ズクン。

ズクン。


心臓通って、左腕が痛い。


痛い。







  * * *







体が浮いているようだ。
不安定な気持ち。


どうして、俺は向かってる?

果たして、それは俺のためになるのか?


のためになるのか?






  **





『ピンポーン』


指が震えていた。
中からは一人の女性が出てきた。
面識はなかったが、恐らくの母親であろう。
こんな形で初対面になるだなんてな。

…しかし、どう自己紹介すればいいんだ?
元彼氏です…だなんて言えるはずがない。

戸惑っていると、向こうから聞いてきた。


「もしかして…のボーイフレンドさん?」


首を横にも縦にも振れずに居た。
もう、のボーイフレンドではない。
でも、違うとは言い切れなくて。

黙っているのを肯定と取ったらしく、
「そう…そうなのね」と低い声で言ったその人は。


「出て行ってください!」


そう叫んだ。
俺は理解が出来なかった。

確かに、もう別れた。
だから、立ち入る権利は無いのかもしれない。


でも、どうしてここまで拒まれる?






―――――――……。





何も言えぬまま、俺はバス停へ引き返している。

なんで、なのか。

理由は自分で知っているような気もしつつ、手が届かない。
動転した。

この状態で頭の整理をつけようというほうが無理な気もした。


それにしても。



去り際にぽつりと、呟かれた一言が気になっている。
それは俺に聞かせるために言ったのか、
素で零れたのだったかは定かではないが。

「こんなヒドイことする人とが付き合ってただなんて」。
のお母さんは、そう呟いたんだ。


確かに、俺はを助けることが出来なかった。
確かに、遠回しに原因は俺であったかもしれない。
だけど、そんな風に言われるだなんて、心外な気がした。
なにか、勘違いでもあるのではないか。

それとも、俺がとんでもない勘違いをしているとでもいうのか?


例えば、イジメなんて始めから起こっていなかった、とか。
だけど先ほどその主犯にもあったし、現場も抑えてある。

これは違う。じゃあ他に何が。


俺がにしたことはなんだ。
出来なかったことはなんだ。
何をして何が出来なかった。

出来なかったことは、守れなかったこと。
したことは、それの償い。
それで俺は、と別れ、て―――?


………あれ?


何かが、おかしい?
分からない。
何がおかしいのか分からないのに、
何か嫌な感じがする。

落ち着け。オチツケ。


何がおかしい?


俺はどんな間違いを犯してしまった?








『ねぇ秀、聞いて聞いてっ!あのね…』









『やーだ、秀ったら…』









『今日のお昼は楽しみにしててね、秀!』










『秀、また明日ね』













『大好きだよ…秀』










ダイスキだよ……。











………っ!!








  * * *








あの人の声が聞こえた気がする。



「ねぇお母さん、今誰か来てなかった?」

「まあ、起き上がって平気なの!?」


…人の話を聞いてクダサイ。



「ね、誰か来たんじゃないの」

「ああ、あんなの追い返しといたよ」


あんなのって、ドンナノ?



、辛かったわよね…もう大丈夫なのよ!
 今回は男を見る眼がなかったと思って諦めて…」



てことは、何?



「秀が…来てたの!?」

「さあ、名前なんて知らないわよ」


そうなんだ。

そうなんだそうなんだ。



「……っ!!」

「まあ、!?」




走って追いかけた。

貧血気味なのか頭がくらくらしたけど
座り込んでいる時間なんて無かった。


痛くないから大丈夫。







  * * *







!」

「秀…っ!」



元来た道を走っていると、
そっちの方向から向かってきた人が。
その人こそ、今一番会いたくて、会いたくない人。

だけど会うことができた。



半分切らした息のまま、頭を下げる。


「…ごめん……」



消え入りそうな自分の声に驚いた。



「俺…本当に考えなしだった」



目の前のつぶらな目をしたその少女が
何に対して泣いているのか、と思いきや、

「みんなが…秀のこと、嫌いになっちゃったかもしれない」

とのことだった。


この期に及んで、そんな…。
と思ったけれど、本気でそれが原因らしい。

気付いていなかった。
守れなかったと悔やんでいた俺だけれど、
実際は、どれだけ俺はこの目の前に居る少女に助けられたのだろう。

もしかして、俺の方こそ守られているなんて事ないのか?



ぐすぐすと鼻を啜りながら語る。


「お母さんもも秀の悪口いうんだよ」


…それは俺も承知している。


「酷いよね。人の彼氏のこと悪く言うなんて」



……え?

ちょっと待て。
もし、俺の耳がおかしくなったのではないとしたら。


は照れた風に喋る。


「そういえばさ、昨日お弁当食べてくれなかったでしょ」


昨日?お弁当?

…ああ、そういえば……。



はにへらと笑った。



「明日作っていくからさぁ、今度はちゃんと食べてよね」



力の抜けた、締まりの無い顔だった。
だけどその幸せそうな表情に、
俺は涙が出そうな感情を笑いで誤魔化した。


まだ少しのわだかまりはある。
だけど、きっと修復していける。




一生癒えることのない傷なんてないのではないかと
その時は信じる事ができたんだ。








  * * *








全部許したわけじゃないんだよ。
まだ苦しいんだよ。

だけど見逃してあげる。

私、今、全然痛くないから。


「お母さんも…も……勿論秀も」

「ん?」


覗き込んでくるその顔だけで、
私の痛みは和らぐんだって。



「…好きなんだもん」



その言葉は、前に並べた人の下へ。


照れた風に視線を逸らした秀の目線は私の左腕に降り注いで。
遠慮がちに「痛くないのか」と聞かれたので
胸を張って「全然!」と答えてやった。




もうやめてね。

これ以上傷めつけることは、しないでね。





あとの痛みは、この左手首だけ。

半袖の季節までには、治ってくれるかなぁ。


そうしないと私、一生夏服着られそうにないからさ。






















なんとなく始めたのに、まさかこんなに長くなるとは、
当時の私は滅相にも思ってなかったさ。
一年以上書き続けてましたよ。いや、間は空いたけどね。

妬みでいじめられる主人公を書きたかった。
そして付き合ってた相手が悪口言われても、
「なんで、みんなそんな悪く言うの?」って。
強いよね。だけど怖いよねいろんな意味で。汗。

最後は意味深エンドにしておきます。深読み可。


2005/09/11