突然のことだったんだ。




「英二!」



病室に大声で飛び込んだ俺。

看護婦さんは、「シー」と口元に人差し指を寄せた。




英二は、ベッドで寝ていた。

まるで死んでいるかのように、動かない。


でも、肺が上下に動くのを見て、

きちんと呼吸をしていることに気付いた。



とにかく生きていることに安心して、

俺はその後看護婦さんに告げられる言葉なんて、想像しても居なかった。





  『 彼ね もう、喋ることが 出来ないんです 』











  * the voice of a wind *












知らせを受けたのは、夕食を食べていた時。
電話に出た母さんが、随分と動揺した様子で俺に受話器を渡してきた。
「病院からだけど、何かあったのかしら…」と。

なんとなく嫌な感じはしたけど、
それがどんなことであるかは分からないまま。
箸を置くと廊下に出た俺は、電話の保留を解除した。


「…もしもし?」


途端、聞こえてきたのはとても焦った女の人の声。


突然の事態に、俺は戸惑うことしか出来なかった。
只管捲し立ててくる声に、頷くことすらせずに。


「菊丸君が大変なんです!長くないかもしれません!
 一刻も早く来てください!早く!!」


受話器を、取り落としそうになった。
震える左手をそこに添えて、俺はとりあえず場所だけを聞いて家を飛び出した。



 菊丸君が。 長くないかもしれません。



嫌な予感が、迫ってくる。

冷たい夜風の中、俺は走った。





俺が病院に着いたとき、
英二はもう緊急治療室から出て、個室に移されていた。

部屋に飛び込んだときの静寂と、
汚れ一つ見当たらない真っ白さは、今でも頭に残っている。



『気を付けて帰れよ。もう暗いから…』
そう言った俺に、

『大丈夫だって!大石は心配性だなぁ』
と、英二は笑って返した。

それから、まだ数時間と経っていないというのに。


英二は目を伏せて、音一つ立てずに寝入っている。



「ちょっと、いいですか…」

看護婦さんに呼ばれて、俺は部屋を出た。





話はこんなところだ。


英二が病院に担ぎ込まれたのは、1時間前。
なにやら、喉元を刺された、らしい。

刺されどころが良かったとでも言うのか、皮肉なことに。
動脈は上手い具合に避けられていて、出血は酷くはなかったらしい。
(といっても、勿論それなりに血は出るものらしいが。)

だけど、刃が気道にまで達していた、と。

刺されてから救急車到着まで数分と間がなかったとしても、
生きていたのはほぼ奇跡だ、とのこと。


気道に穴。
呼吸困難に陥っていたらしい。
本当に微かに息は合ったらしいが、何しろ穴が開いているんだ。
外に漏れるばかりで、肺はちゃんとは機能していない。


英二はすぐに緊急治療室に担ぎこまれた。
それによって、なんとか一命を取り留めたらしい。

英二は手術の間、
ずっと口をパクパクと動かしていて。
初めは「おーい、おーい」と誰かを呼んでいると思った医師だったらしいが、
英二の学生証の住所録の一番上に書いてあった名前、
「大石」と口の動きが一致して。
それで看護婦さんが俺に電話をくれたらしい。

俺の家から、この病院まで20分ほど掛かった。


そして、手術が終わった後、医師がした発言は、こんなところだそうだ。



「とりあえず…気道を確保することで精一杯でな。
 声帯のほうまでは、手が回っていない。…残念だけど」



この子はもう一生声を出すことは出来ないだろう、と。


医学がそのうちに成長すれば別の話だが、と加えて。







「それじゃあ、英二は…」
「えぇ。もう……」


一部始終を話してくれた看護婦さんは、その場で泣き崩れた。
俺はその体を支えながらも、自分も泣き崩れたい気分だった。



  英二の 声が もう?

   英二は 喋らない 喋れないのか??





再び、部屋に入った。
今度はゆっくりと、静かに。

部屋の白さは相変わらずで、
人の姿が見えると肌の色が嫌に際立った。


そこで漸く俺は、英二の親御さんが居ることに気付いた。
そういえば冷静に考えれば、
さっき待合室で泣いていたのはお姉さんだった気がする。
どこかにお兄さんや、他のご家族の方も居るのかもしれない。

顔にハンカチを当てている小母さんと
しかめっ面をしている小父さんに軽く会釈をして、俺は英二に歩み寄った。



…英二。

呼吸はちゃんとしている、のに。
声はもう出すことが出来ないなんて。

信じられなかった。
でも、それがどうも真実なのだ。


帰り道、俺はどうやって家まで辿り着いたのだか、憶えていない。





  **






翌日、英二のことは部員中の噂になっていた。
不二に聞いてみると、クラスでも大騒ぎだったと。

英二のことなんだから…数日足らずで学校中の噂になるだろう、と。
嫌に客観視している自分も居て。



 英二について 話している

 耳に入る 音の全てに



 涙が流れそうになった。





もう、聞けない……のか?











翌日も翌日も。

俺は教室に一人座っていて。

だけど安らぐ間なんて一瞬もやってこない。

休み時間のたびに、「菊丸くんはどうなの?」の声が。



訊くな。

それを知りたいのは俺の方だ。



聞きたいのは、そんな声じゃないのに――…。




「大石」


「っるさい!」







「っ…」


「あ……」






はっと気付いた時には教室全体が静まっていた。

先ほどまではあんなに騒がしかった教室が。


そこに居たのは、不二だった。


「……ごめん」


ううん、と。

不二は咄嗟に縮めた腕をまた伸ばした。


「ピリピリしてる?」
「…いや」
「まあ、当然だよね」
「………」


不二は俺の返事は無視していた。
だけど図星な手前、それ以上は俺も何も言えなかった。


「分かるよ。僕もずっと同じ状況」


作り笑顔は、元々の癖みたいなものなんだ、
と不二は言った。微笑みながら。

だけど、深い溜息を吐いていた。


「…どうしてるかな、英二」


ドクンと。
心臓が強く血液を送り出す音がする。


「なんて、知りたいのは僕たちの方だよね」


唯一、不二が理解者で居てくれてるのが救いだった。
下がり気味の眉の苦笑いは、見ていて痛々しかったけれど。
それでも随分救われた。

どんなときにでも、寄り添う先はあることを知った。


「…僕、ここに何しに来たんだろ。迷惑だったね」
「いや……」


救われたよ、と言う前に。


「もしかしたら、寄り添う先を捜してたのかも」



ごめん。

小さく残して、不二はその場を去ろうとした。
引き止めようと思ったけど、
腕を伸ばす力も声を出す力も。

俺にはないみたいだった。












―――気付いたら、月日はどんどん流れていた。


学校には何度行ったか分からない。

一度も行っていないような気もしたけど、
習癖のように毎日通っていた気もする。

だけどはっきりとは憶えていない。
どこかには記録が残っているだろうし、
誰かに聞けば簡単に知れること。

しかし聞こうとしなかったので、分からないのは同じだ。


とりあえず確かなのは、
あれ以来一度も病院には行っていないということ。





  **





何日経ったのだろう、事件の日から。


それは、ある部活のない土曜日の午後で。



『ピンポーン』

「―――」



鳴ったチャイムの音に反応して、
ベッドに倒れこむようにしていた身を起こした。


新聞の勧誘などだったら面倒くさいな、と思った。
だけど重要なことで尋ねてこられた可能性もある。

今は家には自分しかいないから、仕方なく玄関へ下りた。


ドアを開く。


「はい…」


ガチャッと開いた扉の先。

そこには。



「…っ英二!?」



扉のその先。
前と何ら変わった様子のない英二が立っていた。


目を合わせると、破顔して。
はにかんだ笑顔のまま、両手でピースサインを向けてきた。



ほぼ無意識だった。

俺は、英二のことを、
これほどにないくらいに強く強く抱き締めていた。


「心配…したんだぞ…っ」


涙が出そうだったのか、声が震えた。
ぎゅっと目を瞑る俺だったが、
胸の中の英二は今どんな表情をしているのだろう?


ところで。

「ごめんにゃ〜」とか。
「許してくりっ!」とか。


今日はどうして言ってくれないんだ?



…ああ。


もう聞けない、んだった。




体を離した。
俺は目の前が霞んでいて、
目の端には滴が溜まっているのさえ感じられた。

だけど目を合わせた英二は、
けろっとして、何の表情も見せていなくて。


と、思いきや。


直後、向こうから胸に再び飛び込んできて、
泣き叫んでいた。


声にならない、声。


これこそがその言葉の真の意味だと思った。




金切り声が裏返ってしまったような。

まるで、風が通り過ぎていくような。


そんな声。





数分経って、自ら体を離した英二は、
涙の跡があったもののけろっとしていて。

口を大きく動かして、何かを言った。


「…『もう、ヘーキ』?」


コクコク、と首を縦に振った。
なんとか意思の疎通が適って、俺は胸を撫で下ろした。

だけど、これでは会話をするのに随分苦戦するな…。
きっと英二はそのうち手話でも習うのだろう。
ということは、俺も分からなくては理解できないな。

だけど不思議と、厄介だとは感じなかった。


「上がって」


そう言って中へ入るように促すと、
英二は嬉しそうにぴょこぴょこと入ってきた。






俺の部屋にやってきた。
二人で肩を並べてベッドに座る。


と、座った途端に英二は立ち上がると、俺の机に向かった。
勝手に引出しを開けると紙を一枚取り出し、
机の上からペン一本にノート一冊を掴み、椅子を持って戻ってきた。
座り直すと、椅子を机に、ノートを下敷き代わりにして何やら書き始める。

“しゃべりたい時は紙に書くね”

しゃべる、は一度漢字で書き始めたようだった。
言(ごんべん)がぐしゃぐしゃっと塗りつぶして消してある。
分からない漢字を書こうとするものだから、と俺は苦笑。

俺も喋るより書いてあげたほうがいいかな、
と思ってペンを受け取るべく手を伸ばすと、
英二はそれをばっと話すと、
俺の方を指差して、口の前でパクパクと手を動かす動作をした。

つまり、俺は普通に喋れってことか…。
まあ確かに、耳は普通に聞こえるわけだしな。
しかし英二のことだから、
自分が手で一生懸命書いてる横でペラペラと喋ろうものなら
怒り出しそうな気がするんだけど。

というか、傷付くと思ったんだけど…。

本人がいいと言ってるんだから、いいのかな。
そう思うことにする。

「分かった。で、何か言いたいことがあるのか?」

俺がそう言うと、英二は満足そうな顔をして
楽しそうに紙に何かを書き始めた。

横から覗き込んでみる。
おいおい英二、「知」ぐらい漢字で書けるだろ…。


“しってる?耳がきこえない人って心が読めたりするんだよ”


英二の方を向く。
目が合うと、英二は微苦笑を浮かべた。
またペンを握りなおすと、続きを書く。

“オレの場合はきこえないんじゃないから”

そこまで書くと、天井を仰いで。
ペンをぺしぺしと顎に当てて考えていた。
あっ、と何かが閃いた表情をし、続きに書き足した。


“読めるんじゃなくて、伝えられるようになるかな”


英二はこっちを向くと、笑った。
声が出ていたとしたら、にゃはは、とでも言っていたに違いない。

指をばらばらに動かすと、前後に動かした。
口の動きを見るに…『テレパシー』と言っているらしい。

俺も笑った。


「以心伝心ってやつか?得意分野じゃないか、俺たちの」


英二、嬉しそうだった。
だけど、何かを閃いたようで、また紙にペンを走らす。

“でも、大石だけじゃだめなんだよな。他のみんなにも伝わらないと”

書き終えると、つんと口を尖らせた。
不機嫌極まりない。

やっぱり…大変だな、声が出ないって。
こんなに大変なことだとは思わなかった。
しかし、第三者の俺でさえそれが分かるほどなのだから、
本人の受けている傷はそれの比にならないだろう。

紙の端っこの方に、何かをやる気なさげに書き込む英二。


“つかれた”


歪んだ字でそう書き殴ると、
英二はペンを捨てて後ろにボスンと倒れこんだ。

何もすることは出来なくって、
俺はそのままその場に座っていた。

セミの鳴き声がする。

普段だったら、絶対にセミの声になんか気付けなかった。
俺たちが二人でいて、こんなに静かだったことはあっただろうか。
今までは、俺がそこまで喋らなくとも、英二がいたから。
おしゃべりな英二は、俺が何と言わなくとも、
一人で沢山喋り、その場を盛り立ててくれた。

失ったものがあまりにも大きくて、
何とも居た堪れない気持ちになる。


その後、俺たちの間で初めて発せられた音は、
後ろから――英二の、何かを啜る音、だった。

「英……」
「…っく……ズズ……っ」

涙に濡れた顔。
その時俺は、英二の大きな傷に漸く気付いた。

いくら笑顔でいようと、傷付いていないわけがない。
一見元気に笑っていたって、心の中ではどうかは分からない。
英二のこんな性格のことだから、そんなときでも盛り上げようとする。
それが本人にとって、どれだけ辛いことだったか。

自分自身の涙を堪えられなくなって、
俺は英二を抱え上げるようにした。
強く強く抱き締めて、何度も何度も「ゴメン」と言った。
対して英二は、首を横に振った。
大石は悪くないよ、とでも言いたいように。

「英二…エイジ……!」

オオイシ、と口だけが動いた。
勿論何も聞こえてきやしない。

目の前に水が浮かんできて、視界が霞んだ。
思い切り英二の口に自分の口を押し当てると、
俺は一瞬、ぎゅっと目を瞑った。

深く深く繋がる。
いつも以上に、熱い、甘いキスだった。
それは、何かを皮肉っているようで。


もう、聞くことは出来ない。

善がる時の甘い声も。
甘えたい時の猫撫で声も。
苦しそうに浮かべる切なそうな声も。
いつもの無邪気な笑い声も、みんな、みんな。


やり場のない感情。
どこにぶつければいいのか、全く分からず。

気付けば英二の全身を、愛撫していた。


この身体は、いつもとなんら変わりはない。
なのに、なのに。
聞くことは、出来ない。

時折耳に入ってくるのは、詰まったような呼吸の声。

気が狂いそうだった。
しかし、そう思っていられるうちはいい。
もしもそれすら聞こえなくなったときは…
俺は確実に気が狂うだろうな、と思った。


「英二…大丈夫、か」


自分を落ち着かせる意味もあったその言葉。
英二は首を縦に振った。
手をこっちに伸ばしてくる。
顔を近づけると、首の後ろに腕を回された。
そのまま引き寄せられ、再び深いキスをする。

その間にも俺の手は、英二の下半身をまさぐろうとする。
ビクンと軽く英二の身体が震えた。
そこはどんどん熱気を帯びて膨大化する。

俺はいつものような手順で、英二のことを攻めた。
合わさる身体も、いつもと同じ熱さを秘めている。
だけどいつもと同じ反応は、返ってこなくて。

どこか、不安になる。


「……っ!……ァ……ッ」


熱い吐息が、感じられる。
でも声は、聞こえない。

苦しそうな息遣いだけが耳に響いて。
そればかりが轟いて。

気付けば俺は英二の名ばかりを呼んでいた。
だけど向こうが俺の名を呼んでくれることは、二度となく。


英二の声を、忘れてしまいそうな気がした。



「英二…エージ……!」
「ォ、……シ…っ」


かすかに、名前を呼んでくれた気がした。
でもそれは“声”ではなく、
擦れ合わされた空気によって作り上げられた“音”だった。


もう、限界だった。




「英二の、声が聞きたい……っ!」




満たされぬまま、
俺は内に秘めた欲望を吐き出した。

結局満たされぬまま。


満たされぬまま、だ。





  **





それからどれくらいが経っただろう。
事故があったのは、遥か昔のおとぎ話のように感じられる。
そもそも、本当は事故なんてなかったかのように。
英二は元々喋ることがなかったんじゃないだろうか、と。

だけど、確実に存在したんだ。
元気に喋る英二は。
無邪気にはしゃぎ回って笑いを振り撒く、英二が。


俺の部屋に、二人きりで居る、その時。

英二をベッドに押し倒す。
声が消える前も、後も、変わらぬその行為。

変わったのは、
二人の間に静寂が生まれることが増えたことと、
目を見ることが多くなったことだ。


「……英二」

「―――」


英二は、本当に目で話すようになった。
このたったの短期間で。
俺たちは元々意思疎通が適っていたことも大きいだろうが。

英二の、大きくて澄んだ眼。
覗き込むと、吸い込まれそうになる。


視線を離さないまま、顔を近付ける。
唇と唇が合わさる直前。
向こうが目を閉じた、まさにその瞬間。



『大石、聞こえる?オレの気持ち』

「―――……」


今、英二の…声?



『ダイスキ。オレ大石のこと大好き。ちゃんと伝わってる?』


違う。

耳には何も入ってきていない。






  ココロ?






その言葉が頭に浮かんだ時。
突然固まったオレに疑問を持ったのか、
どうしたの、とでも言いたげに英二が見上げてきた。


「……?」

「あ、悪いな英二。なんでもない」



もう一度仕切りなおして、キスをする。

果たして今のは“気のせい”だったのだろうか。
そのような気が、どうしてもしない。


「英二…」

『なぁに?』


聞こえた。
また聞こえた。

俺は更に目を深く覗き込む。


「英二の目、綺麗だぞ。俺…大好きだ」


瞼に口付けを落とす。
くすぐったげに目を閉じた英二は、微笑を零して。


『ありがと。俺も大石の目、好き。真っ直ぐだから』
「英二のも真っ直ぐだよ」
「―――」


英二は、喉に手を当てた。
あ、あ、と発声しようとしている。
しかし出てくるのは、空気の擦れる音だけ。

英二は眉を顰めて、俺を睨んだ。


「ごめん英二、声は聞こえてない。でも……」


俺は苦笑が交じった微笑を零す。





「英二は素直だから。真っ直ぐだから。…それで、きっと分かるんだ」





涙が。

こんな一瞬にして溢れられるものだとは、知らなかった。


堪える間もなく。
堪えようなどと考える間もなく。

何の抵抗もなくして、頬を伝った。
あまりにあっさりと流れるものだから、
口元はずっと微笑を浮かべたままだった。
現に、俺は自分が泣いていたことに始め気付いていなかった。
頬を伝って落ちて英二の顔に水が跳ねて、それで気付いた。



英二の得意分野が出て、貰い泣きの体勢に入った。
俺の涙は止まっても、英二は一人流し続けてきた。

たまにしゃくり上げる。
そこに声は混じっていなくて、
ただ苦しそうにもがいているようにも聞こえた。

そう聞こえたけど、本当にそうとは感じられなかった。
不思議だけど、そう思ったんだ。


「……、…――」

「…どうした?」


英二が何かを言いたそうなのは、分かった。
だけど今回は、その言葉は分からなかった。

英二は、口をゆっくり大きく動かした。


その口は、「よかった、オレでよかった」と言っているように見えた。



「…何が?」



訊くと、英二は更に多くの涙を流して。
俺の首に巻き付くように抱き着いてきた。

耳のすぐ後ろで啜り泣くようにされて、
俺も色々と動揺していたのだけれども。


伝わってきた。





 「…ありがとう」




礼を述べた。

これが適切な言葉だったのかは、分からない。






その後また俺たちは、行為へ溺れた。
英二の苦しそうな息遣いにも、慣れた。
たまに、名前を呼ぶ声が、聞こえる。



英二。


ありがとう。

俺はお前と一緒に居ることが出来て、本当に幸せだ。

俺はお前のことが、大好きだ。


でも、だからこそ、先ほどの言葉は受け付けられない。



こんな曖昧なテレパシーだから、
俺が本当に英二が言いたかったことを受け取ったのか分からない。

だけど心に届いてきた声が、本物だったとしたら。






 『俺、大石の声が好き。ダイスキ。

  声が消えたのが、大石じゃなくて俺でよかった』






俺はその言葉を、そのまま立場を変えてお前に返したいよ。





 「英二…お前の声が、好きだ。

  …声が消えたのが、英二じゃなくて俺であればよかった」





俺は、そうぽつりと呟いた。
英二は目を開けると、俺の目を覗き込んできて。

また、泣いていた。


だんだんと胸を叩かれた。
俺は共に涙を流した。



痛かったんだ。




「英二…俺は、どうすればいいのか分からない」

「ゥ……ンッ!」

「英二…ワカラナイんだ」




苦しそうな、音が、聞こえる。

声にはならない、喉から生まれる音が。



俺が体を動かすたびに。

身体が熱くなっていくと共に。


英二の。


英二の。




英二の声が聞きたい。







「…ごめん英二、無理だ」








俺は英二の中から自身を抜き出した。
英二ははっと目を開いて、悲しそうに眉を潜めている。

だけどごめん。無理なんだ。



「英二、本当にごめん。だけど……つ!」



俺が言葉を終える前に。
英二は俺の中心部にしゃぶりついてきた。


「やめてくれ…英二、エイジ!!!」


思い切り叫んで、離れるように頭を押したけれど、
英二は意地でも離れようとしなくて。



情けないことに。


完全に勃ち上がっていたソコは、耐え切る術をなくして全てを放った。




自己嫌悪。





口元を拭った英二は、どこか満足げで。
それなのに、相変わらず目は悲しそうで。



「…っく……フ……っ」
「……エージ…」



英二は涙を流していた。
俺はそんな英二を抱き締めながら。



心の中は、雨。

だけど、無風。





  **






無言で歩く道。
俺は英二の左斜め前を歩いて、
手のひらで英二の指先を掴んで。

その指がないと、そのまま居なくなってしまいそうで。
だからといって、今は、自分が前を歩かないといけない気がして。



なんだか、似ていると思った。
前に喧嘩した時の状況に。

俺が斜め前を歩いて、英二は斜め後ろで。
手と手が繋がることはなかったけど、
あの時も今みたいに夕暮れ時だった気がする。


二人で無言で歩く。
だけど今の沈黙は、
あの沈黙とは違って。

あの時よりもずっと意味が深くて
あの時よりもやりようのない沈黙。



いっそのこと、雨が降ってくれればいいのにと思った。
それこそ、強風でも吹いてくれれば、
心の中の曇りも、二人の間の静けさも、
何もかも取りさらってくれると思ったから。


「英二…着いたよ」


何度も通った菊丸家の玄関。
そこへ来て、英二は始めて顔を上げたみたいだった。
それまでは、俺の手に引かれるがままに歩いていたのだろう。


英二は動こうとしない。
なんでだろうと考えたら、
俺の手は英二の左手を握りっぱなしなことに気付いた。
動きたかったら向こうから振りほどくだろう、
とか他人任せで自分勝手な行動に苦笑した。

そっと、手を離す。
だけど英二は、即座に握り返してきた。


「……英二?」
「………」


また、沈黙。


風は無い。

雲も少ない。

夕闇だけ。



「英二…」
「……」



下を向いていた英二だけど、
最後には手を、離した。
その指先と指先が触れていた最後の瞬間、
『離れたくない』という言葉が伝わってきたのは、
感情移入だったのかそれとも意思通信だったのか。

それでも英二は、笑った。


またねっ、大石!


そんな笑顔で。



だけど…あれ?
声が浮かばない。


いつも、英二は、どんな声で。
こんな表情をしながら、あんな仕種で。
だけど、一体、どんな声で?

……英二?



「……あれ?」
「?」
「いや…なんでもない。ごめん…」



なんでもない、なんてことはないこと、
英二も分かっていたはずだ。
もう一度俺の手を掴み直すと、英二は走り出した。
引っ張られて、俺も走る。





足音が響いた。
4つの足が大地を蹴る音が。

耳に空気が当たって音がする。
自ら風を巻き起こして。

遠くから6時の鐘の音がした。







辿り着いたのは馴染みの深いコンテナだった。


先に上に乗り上げた英二は、手招きをする。
促されるがままに、俺も後に続く。

立ったまま、二人で肩を並べて夕陽を見た。随分大きかった。



「――――!」



口元に両手を持ってくると、
メガホンのような要領で英二は叫んだ。
といっても、体制だけで実際は声は出ていないが。

それを終えると、こっちを見た。
にっと笑った。


……ああ。
そういうことか。

思い出した。英二の声。



「英二、帰ろう」



笑顔でついてきた。

一度振り返って太陽を見た時、
風が一筋通り抜けた。


あの風に吹き飛ばされて、橙は、
また闇となって藍となって爽やかな青へと変わるんだ。

青は進め。


風に背中を押されている気がした。



さあ、もう一歩進め。





風はどこから生まれて、どこへ消え行くのだろう。

微かにしか感じられなくてもいつもそこにあるだろうか。




疑問を抱えながら両手を繋いで二人の並んだ影を見て岐路に着いた。






  ――――風の声が聞こえた。






















冷めることいいますけど、声だけが出なくなるなんて
現実的にありえるんだかワカリマセン。(爆)
医学がなんじゃい。メディシンほにゃらら。
(『翼になって(裏)』も同じ感じ…)(あはは)

書き始めてから偉い時間掛かった…。
1年ぐらい書いてないか?汗。

疑問も残りますが雰囲気は好きです。
結構想いをたくさんこめて書きました。
風に秘められたテーマも大好きです。
大菊万歳!


2005/04/10