キミ、名前は?


ボク?大石秀一郎だけど…。



シュウイチロウくんね。











  * 妖精物語 -fairy tale- *












、それじゃあ俺出掛けて来るから…」

「うん。行ってらっしゃい」


はひらひらと手を振った。
俺はそれを背に、部屋を抜け出す。


は…俺の、彼女だ。多分。


彼女との出会いは、とても特殊なものだった。

あれは、去年の暮れのこと。
いや、本当の出会いは、もう三年も前に当たるのか。


俺が小学6年の時だ…。





  ***






「あんまり遠くへ行くなよ」
「遅くなりすぎないようにね」

「「はーい!」」


元気な声で返事をしたのは、
当時12歳の俺と、3つ年下の妹の美登里だ。

夏休みということで、親の実家へ帰ってきていた。
東京と比べると随分と田舎で、
近くには畑があるし野原もあるし。
とにかく自然に包まれていた。


「昆虫採集に行ってくる」と、
麦藁帽子を被って虫かごと網を持って、家を飛び出した。
最後に引き止められて虫除けスプレーを全身に掛けられた。
その時の嫌な臭いが、目と鼻に染みたのを憶えている。


慣れない道。
ワンピースにサンダルを履いた美登里と、
半ズボンに運動靴を履いた俺は、走った。

近くに花が沢山咲いた野原を見つけると、そこに足を踏み入れた。


チョウやらハチやら、色々な虫が飛び回っている。
たまにバッタが跳ねるのが見える。
俺たち兄妹は、張り切ってそれを捕まえ始めたものだ。

しかし数分もすると…。
「つかまんない。つまんなーい!」と、
美登里が早々と虫取り網をほっぽり出した。
そして、可愛らしい草花を摘み集め始めた。

俺はというと、やはり花などよりは虫の方に興味があって。
粘り強く網を振り回すと、そこら中を駆け回っていた。
網を振り回して、ひたすら無我夢中に。

暫くするとコツもつかめてきて、
漸くゆっくりと舞う蝶を一匹捕まえた。
都会に居るとこんなことも出来ないんだな、
と幼心に感じたのを憶えている。


その蝶がなんという種類なのかも分からなかった。
大きさはシジミチョウ程度なのだが、
色合いはモンシロチョウに近いといえる。

というよりかは…透明?
完全な白ではなく、半透明な乳白色の羽をしていた。

東京にはこんなチョウはいないな、と感動を少し覚えた。



網の中に虫を一匹捕らえて、
さあ虫かごの中に入れよう、と思ったとき。
そのかごを持っているのは美登里の方だということに気付いた。

仕方がないので、俺は元来た道を戻ろうとした…が。


……ない。

元来た道がないのだ。



俺は瞬きを繰り返した。
しかし状況は変わらなかった。

俺は低い草花たちが乱れている野原を走ってきたはずなのに、
振り返ったところに見えるのは自分より背の高いヒマワリ畑。


「……え?」


数歩歩み寄った。
ヒマワリを少し掻き分けてみた。
しかし、向こう側は見えなかった。
随分と沢山ヒマワリが咲き乱れているようで。

いくら自分が虫を追うことに夢中だったとはいえ、
まさかこのヒマワリを突っ切ってきたとは考え難い。
俺は虫網を放り出して、道を探した。
しかし、自分がやってきたのはどう考えてもそっちの方向からだったし、
横を見たってヒマワリは一面、どこまでも広がっている。


マズイ。
迷子になってしまったようだ。

まだ幼かった俺は、相当に焦った。


思いっきり叫べば、
妹に自分の声が届くかもしれない。
少なくとも、誰か近くに人がいれば気付いてもらえる。


そう思って息を思い切り吸い込んだとき。



「ねぇ」

「わぁっ!!」



心臓が出るほどに驚くというのは、
その時の状況のことをさすと思った。

元々大きな声を出すつもりでいた俺だけれど、
それは助けを求める声ではなく、ただ単に驚愕の声に終わった。


「び、ビックリした…」

「それはこっちのセリフよ」


耳に人差し指を差し込んだその子はそう言った。
俺と同い年ぐらいの、女の子だった。


「…迷っちゃったの?」


そう訊いてきた。
はいそうです、と答えるのは格好がつかなかったが、
そこで意地を張っても事態は好転しないと思い、
正直にはいそうですと答えた。

その子は、にこりと笑った。


「キミ、名前は?」

「ボク?」


こくんと頷かれた。
まあ、他に周りには誰も居ないのだけれど。

少しは警戒したけれど、
名前を教えたところで危険が及ぶとも思えなかったし。

「大石秀一郎だけど…」

正直に教えた。
シュウイチロウくんね、と頷いたその子は、
にこりと笑顔を向けてきた。


「私は


その自己紹介に何の意味があったのか、
俺には全く分からなかった。
だけど社交辞令っぽく「よろしく」と言った。


「帰り道、教えてあげるよ」

「ホント!?」

「うん。ただし、二つ約束がある」


ヤクソク?

俺は首を傾げた。
だけど約束を守るのは得意なつもりだったし、
それを聞かないがために帰れないというのも困るし。

素直に頷いた。


にこりと笑った少女は、言った。


「一つ目。目を閉じて」

「え…それだけ?」

「いいから」


言われた通り、俺は目を閉じた。
わけが分からなかったけれど、そうするしかないのだ。


「それから…二つ目。また、遊びに来てね」

「?」


思わず目を開けそうになったけど、
「ダメだよ」と目の上に手を翳されたようだった。
それは陽光が一瞬遮られた感じがしたので分かった。


「約束破ったら、私から会いに行っちゃうから」


クスクスと笑い声が聞こえた。

そうは言っても…俺はこの辺に住んでいるわけではないんだけれど。

と言いそうになったが、
住所を教えろだの面倒なことになると困るので、
首をコクコクと上下に揺らした。



「約束だからね。あ、風が止んだら目を開けていいよ」



その言葉が終わるや否や。
急激な突風が辺りを吹き抜けた。
言われなくても、俺は目を強く瞑ったと思う。

その風が、穏やかになって、完全に止んで。


目を開けたとき、俺は元の野原に立っていた。





「……今のは…」

「お兄ちゃん、見てみて〜!」


パタパタと横に美登里が駆け寄ってくるのを見て。
俺は現実と夢が混合したような気分になった。


「ほらほら、タンポポのかんむり〜」

「…美登里!」

「なに?お兄ちゃん」


きょとん、とした顔で美登里は見上げてきた。
俺は一旦言葉に詰まってから…訊ねた。


「この辺に、ヒマワリ見なかったか?」

「ヒマワリぃ?そんなのどこにもないじゃん」

「だよな…じゃあ、女の子は?」

「…お兄ちゃんヘン」


ヘン……。

まあつまり、見ていないという返事と取っていいようだった。



何だったんだ、一体?





足元に転がっていた虫取り網を持ち上げた。

逃げてしまったのか、もう網の中には蝶は居なかった。



もう一度辺りを見回した。

溜息が出た。


「…美登里、兄ちゃん疲れてるみたいだ。帰ろう」

「えー!もう!?」


ブーイングを出されてしまった。
草花摘みはさぞかし楽しかったようだったが。


「な?」

「…はぁい」


仕方なさそうに、斜め下を見ながらそう答えた。
俺の横に回り込んで来ると、俺の手を掴んだ。
その手を引いて、俺は歩き出した。


さっきの子…、っていったかな。

何だったんだろう…本当に。


疑問を持ちつつ、俺は歩いた。
太陽は、まだ高い位置にあった。



二年半と少し前、真夏の暑い日のことだった。





  ***





それが、俺ととの第一の出会いだった。

といっても、それは今が俺の部屋で暮らしていることの説明にはならない。
それにはまた、もう一つの物語があるわけで。


そう。
実はは、俺の部屋で暮らしている。
別に彼女が遊びに来ているというだけではないのだ。

寧ろ、付き合い始めたことの切っ掛けが
一緒に暮らし始めたから…といった方が近い。


付き合い始める理由となったのは、去年の暮れの話だ。





  ***





それは大晦日。
テレビは紅白歌合戦から行く年来る年に変わっていて。
両親はコタツに入ってみかんでも食べていたと思う。
美登里は、もう早々と布団に入ってしまっていた。

一番腰の軽い俺が、チャイムに出ることになった。
こんな時間に、一体誰だろうと疑問を持ちながら。
誰か初詣に行く約束をしていたか…いや、その憶えはない。

そんなヤクソクに、身に覚えはない。


玄関を開けた。


「こんばんは!」

「……こんばんは」


意味が分からなかった。



そこに居たのは、誰かも分からない少女。
美登里の友達か?とも思ったが、
どうも俺と同い年ぐらいに見える。


「…どなたでしょうか」

「やだー、忘れちゃったの?」


泣きそうな顔をした、その少女は。



だよ」



と名乗った。





…。


!?



「も、もしかして…」

「もしかする」



そう。

にこりと笑ったその少女は。



他でもない、ヒマワリ畑の前で出会ったあのであった。



「ね、外寒いの。中入れて」

「ちょ、ちょっと待て!親になんて説明すればいいんだ」


まさか、「数年前の夏に田舎で出会った謎の少女」だなんて。
紹介できるわけがないし、理解してもらえるわけもない。

更に、知っているのは名前だけときた。
怪しさ極まりない。


しかし、は笑った。



「大丈夫。黙ってれば、何も言ってこないと思うよ」

「……?」



よく分からなかった。

しかし、は冬ではありえないほどの薄着で。
はっきりと憶えては居ないけれど、
もしかしたら初めて出会ったその時と同じ服装だったかもしれない。

このままでは本当に風邪をひいてしまう、
ということで仕方なく家の中に入れた。
は玄関で靴を脱ぐと、
丁寧に揃え…るのかと思いきや、手に掴んだ。
そのうち窓から逃げる気か何かなのだろうか…。

俺はの正面に回りこんだ。


「頼むから…今は俺の部屋で静かにしててくれ、な?」

「そんなことしなくたって大丈夫だって」

「ちょっと待て!!」


俺の横をするりと擦り抜けると、
は居間に向かった。
俺が肩を掴もうとすると、パシッと払ってきた。

その手を驚いた風に見つめていた。
咄嗟の行動に自分で戸惑っているのか、と思ったけれど。
特に謝りもせずに不敵な笑みを浮かべた。


「分かった。大人しくしてるよ」


部屋、どこ?

訊かれたので、一度そこまで案内した。

階段の軋む音で親に気付かれないよう歩調を合わせてみたり、
余分なことに気を使って神経が磨り減った。


「頼むから、じっとしててくれよ」

「はーい」


床にちょこんと座ったはそう言った。

電気を消していこうか、と思ったけれど、
それはあまりにかわいそうなので点けたままにした。


もう一度様子を横目で確認して、俺はドアを閉じた。




居間に戻ると、さっきと変わらぬ様子で
みかんを食べている父さんと母さんが居た。

俺はとりあえず胸を撫で下ろした。


何触れぬ顔でコタツに潜り込んだ。
親も特に何も言ってこなかった。

少し経ってから

「で、結局チャイムはなんだったんだい?」

と訊かれたが、

「え?あー、えっと…ただ間違いだったみたいだ」

と返しておいた。

説得力のある言い訳が思いつかなかっけど、
「年末年始は気が浮かれてる人が多いからね」
と母さんはあっさり納得していた。

とりあえず、一難は去ったわけだ。


なんともいえない気持ちでみかんに手を伸ばした時に、
鐘が撞かれる音が聞こえてきた。



それが、俺の去年の締めで、今年の幕明けである。




  **




「どういうことだ!」

「えー、説明したら驚くでしょ?」


もう充分過ぎるほどに驚いた!!
そう言ってやりたかった。


ゆっくりとテレビを見終えて、
俺は部屋に戻ってきたわけだが。



「っていうか、シュウイチロが悪いんだよ!約束破るから」

「約束……?」


ああ…思い出した。

あの、「会いに来てね」というやつか!


実はあれ以来、俺は一度も田舎の実家には帰っていない。
中学に上がって部活に入ると忙しくなってしまったのだ。

しかし、いつ会いに来いとは言われてもいなかったし。
そのうちいつかまた行けばいいだろう、という軽い気持ちでいた。
というか、再び会うことになるなんて、さらさら思っていなかった。

正直、約束なんてすっかり忘れていた。


「悪い夢でも見てるのだろうか…」

「夢じゃないよ!」


どうやら、考えていたことが口に出ていたらしい。
凄い勢いで否定された。


「とりあえず…今日は疲れた。もう寝るよ」

「うんオヤスミ」

「………」


吹っ掛けたつもりだったんだけどな。

反応なし、か。


「あの、そこに居られると非常に困るんだけど…」

「じゃあ廊下に出ろっていうの?」

「そうじゃなくて…」


とりあえず、家から出て行くつもりはないらしい。

しかし、他の場所に放り出して家族に見られるのも困る。

俺の部屋にかくまっておくのが一番安全といえばそれもそれなんだが。


しかし…色々な意味で、危険…だろ?

参ったな…。


「じゃあ、こうしよう。お前は俺のベッドで寝ろ」

「えー、じゃシュウイチロは?」

「俺は…床で寝るから」

「えー!」


ご不満な様子。

一体どうしろっていうんだ…。



「…一緒に寝たいか?」



こんなこと言うなんて、俺らしくないかもしれないけど。

相当根が詰まっていたらしい。


ここで「うん」とか笑顔で返されたらどうしようかと思ったけど、
は凄い勢いで「それは困る!!」と言った。

一応常識というものは多少通用するようだ。安心した。


「とにかく、俺は床で構わないから。その代わり、部屋からは出るなよ?」

「はーい」


意外と大人しく納得すると、は俺の布団に潜った。
「お邪魔します」とかなんとか言いながら。


……ヘンな奴だ。それも特別級に。


泊り客用の布団を引っ張り出してくると、
俺は床にそれを敷いた。

ベッドを背にして布団に潜った。

水槽の音が、ポコポコとやけに響く気がした。



早く朝になれ。

そう思ってぎゅっと目を瞑ったが、なかなか眠れなかった。




それでも時は過ぎ。

気付けば眠っていた俺は鳥の声で目を覚ました。


「……ん?あっ!!」

「あー、おはよ!シュウイチロっ♪」


随分と陽気な様子の

昨日と変わらぬ姿でちょこなんとベッドに座っていた。

いつの間に自分のなれた方に寝返りを打っていたのか、
俺の顔はベッドを向いていて、目を開けるとすぐにそれが視界に入った。


「いつから起きてたんだ?」

「ついさっき」

「そうか…」


慣れない布団と枕で寝たら、体がだるい。

首をぐるりと回すと、軽くぽきりと音がした。


時計を見上げると、9時を回ったところだった。



「ね、シュウイチロ!」

「なんだ…」


疲れ気味に返事をする俺をお構い無しに、
は毎度の明るい声で言った。


「初詣行こう!初詣!!」

「……はぁ?」

「ほら早く準備してっ」


有無も言わせてもらえずに。

結局、俺たちは神社へ向かうこととなった。

居間には、友達と初詣に行ってくる…と書置きを残した。
当たらずとも遠からず、といったところであろう。


特に正装をするわけでもなんでもなく、
普段着にコートを羽織って家を出た。

あまりに寒そうな格好をしていたので、
にもコートを貸してやった。
嬉しそうに「ありがとう」と微笑んだ。


素直でいい子…なのは分かるんだけどな。





  **





歩いていると、まずクラスメイトに出会った。


「お、そこに居るの大石じゃねぇ?」

「うわっ、いつの間にか彼女なんて作ってるしコイツ!」


皆に一斉に突付かれた。
(いや、指でという意味ではなく、言葉で)

は俺の後ろ側に回りこんで、微笑んでいた。


「楽しんでこいよ〜」

「あ、ああ。ありがとう」


必死の作り笑いでその場は切り抜けた。




暫く歩いていると、今度は英二を見掛けた。

英二には、少し前から付き合っている彼女が居た。
今日はその子と一緒に歩いていた。


「英二、初詣か?」

「あ、大石ぃ!」


声を掛けると、英二は即行で走り寄ってきた。

横に立っている振袖を来たその子は、
会釈をして「こんにちは」と言った。


「英二にしては、随分朝早いじゃないか」

「むー、なんだそれー!」


英二は怒った口振りだった。

しかし「ごめんごめん」と謝った時、既に英二は笑顔だった。

随分とご機嫌らしい。


「なんか良いことでもあったのか?」

「ん、んふふ?そう見える?実は昨晩…」

「ちょっと、英二!」


横からストップが掛かった。

英二は、「あ、ごめんにゃ」と片目を閉じて謝罪していた。


実は昨晩。

それに続く言葉といったら……。

いや、余計な詮索はやめよう。


「それじゃあな」

「うんにゃ。ところで大石、一人で初詣なんて寂しいことはやめろよ!」


ケタケタと笑うと英二は去った。

元はといえば、英二が「今年は彼女と二人っきりで行くにゃ」
なんて言い出したから俺が一人になったんだろ!

と、待てよ。


そうだ、ちょっと待て!?


ばっと後ろを振り返った。

は、にこりと微笑んだ。



居た。ちゃんと居た。

しかし、英二はそのことに全く触れなかったな。

気付かなかったのか…?

まあ、細くて小さい体付きだし、
俺の陰に隠れてしまえば見えない…か。


「…行こうか」

「うんっ」


肩を並べて、俺たちは歩いた。

なんだか変な感じがしての顔を見てみたけど、
凛とした横顔を見せ付けてくるだけで、反応は示さなかった。




やってきたのは、家から一番近くの神社。

それほど大きいわけじゃないから、
新年になってのこの時間でも、人が溢れ返るほど混んでいるわけではない。
一応並びはしたけれど、ほんの少しだ。


それでも並んでいる間は暇だったため、
を退屈させまいと俺は色々な話を持ちかけた。

おみくじ引くか?とか、
お守り欲しいか?とか。

色々と訊ねてみたけれど、は首を横に振り続けた。

それどころか、
「あんまり私に話し掛けないほうがいいよ」
と言った。


そういえば、人込みに入ってから様子がおかしいような…?

人負けしてしまったのかもしれない。
人込みに入ると気分が悪くなる人、居るからな。

耳元で問い掛けてみた。


…もう、帰るか?」


何も言わずに。

泣きそうな顔になって、は頷いた。


俺はその体を支えるようにして、列から出た。

周りの視線が必要以上に痛かった。

ただ、そこを走り回っていた少年が
「兄ちゃん、カノジョ泣かせたのかよ」と言ってきただけだった。

俺は苦笑いを返したけど、その方が随分マシだった。


何故だろう。

周りの視線が、やけに冷たい。


は「大丈夫」と言って俺に手を離させた。

そして下がり気味の眉の笑顔を見せた。


「ごめんね。私が無理言って連れて来てもらったのに…」

「いや、体調が悪いんだったら無理をすることはないよ」


ありがと。優しいね。

はそう言った。


その時のが、俺には、非常に綺麗に見えた。



「…帰るか?」

「うん」


元来た道を戻る帰路、俺たちの間に会話はなく、
無言の時ばかりが過ぎ去っていった。


周りの視線が刺さってくることはなかった。



「…



何故、俺がそのときにそんなことを言えたのか、分からない。

だけど疼く衝動のような何かで。


「俺と、付き合わないか」


勢いに乗って、告白していた。




返事は、暫く返ってこなかった。



聞こえていないか?まさかな…。


ぐるぐると考えながら俺は歩いた。

すると突然、は立ち止まった。


「…?」

「シュウイチロ、手!」


突然は、右手を差し出してきた。

よく意味が分からなかったけれど、俺も同じくして右手を伸ばした。

すると、「ちーがーう!」と言って頬を膨らました。


ああ…そういうことか、と。


俺は左手を伸ばした。

は嬉しそうに、それに触れた。

そしてぎゅっと握り返すと「付き合おっ」と言った。


軽く取られすぎて居ないか…と不安になったが、
元々自分の発言が軽すぎたのでは、と微妙に後悔した。

だけど、俺とは恋人同士になった。

自分でもわけの分からないまま。


だけど少しドラマチックな感じがして、満足している自分もいた。


特別な会話もないまま、ただ手だけを繋いで。

そんな帰路だった。




  **




家に着くと、家族は朝ご飯の準備をしているところだった。

台所から慌しい音が聞こえる。


しかし…。


、どうする?」

「どうするって」


俺は一瞬固まった。


「だって、まさか“これは今日から俺の彼女になったです”
 なんて紹介できるわけがないだろう!?」

「あー…そっか。困ったね」


うーん、とは腕を組んで。


「いっそのこと、私は居ないものとして扱ってよ」


そう言って、は家に上がった。


また俺の部屋で小さくなっているつもりだろうか。

しかしそれではお腹が減ってしまうよな…。

後で何か運んでいってやるか、うん、それがいい。


というか今更だけど、なんで俺の家に来たんだろう…。


などと、疑問に思っていたら。


「……、どこ行くんだ?」

「居間」

「ちょっと待て!!」


俺はの肩を押さえた。

はビクッとそれを奮わせた。

それに対して俺もまた驚いて手を退かした。


なんとも言いがたい沈黙。


は顔を俯かせたまま言った。


「…そんなに騒いでると、余計疑われるよ」

「でも…」


大丈夫だって!

顔を明るくして上に向けるとそう加えて、
は本当に居間に足を踏み入れた。


そこでは、母さんがおせち料理を並べていた。

ああ…終わった。

俺は本当にそう思った。
胃が非常に重くなった。


「秀一郎、今誰かと喋ってなかった」

「いや、それが……え?」


ちょっと待て。

普通だったら、俺のすぐ横に立っている
この少女のことを訊いてくるんじゃないのか?


…でも例えば。

もしも、俺にしか見えていないとしたら―――?



「気のせいじゃないかな」

「そう。ならいいけど」


あっさりとはコタツに潜り込んだ。
その横には父さんが居たけど何も言わなかった。

というか、本当に見えていない気がした。


「(まさか、そんな夢のようなことが…)」


ちら、と横を見た。

目が合うと、はにこっと笑った。


「後で詳しく説明しろ」


耳元で小さくそう囁いた。
父さんにに「何か言ったか?」と訊かれたので、
ただの独り言だといって誤魔化した。


しかし、そんなも。


「……あ!」

「?」


突然走っていなくなった。

なんなんだ…?


ほぼ入れ違いで美登里が居間に入ってきた。


「おはよ。ね、今そこに誰か居なかった?」

「え、気のせいじゃないかな」


誤魔化すのも必死だ。

本当に、胃が痛む……。



しかし…なんだ?

俺以外には、見えない!?

いや、しかし今美登里はその存在に気付いていた様子だった…。

つまり、姿は見えないけど気配は察することができる、とか?


いや、ちょっと待てよ。

今朝歩いていた時、クラスメイトに会ったじゃないか。

彼らには見えていた。の存在が。

しかし…あれ?

じゃあやはり、英二には見えていなかった…?



  見える人 と 見えない人 の 違い は ?




「秀一郎、ちょっとこれ運ぶの手伝って」

「あ、はい!」


やめよう、余分なことを考えるのは。

後で本人に聞けばいい。


しかし、どこへ行ったんだ…?

また、俺の部屋に隠れているのだろうか…。



クラスメイトには、見える。

英二には、見えない。

その彼女にも、見えない。

両親にも、見えない。

美登里には、見える。

そして最後に、俺にも、見える。


なんなんだ。

共通点は、果たしてあるのか?


年齢…ではないと思う。

英二は俺より誕生日は後だ。

男女…もどうやら関係ない様子。



なんなのだろう。


ここに存在するはずの境目は、一体……。





  **





「どういうことだ!」

「えー、説明したら驚くでしょ?」


昨晩と全く同じセリフを繰り返していることに気付いた。

はぁ、と俺は深く溜息を吐いた。


「これ以上驚きようがない。説明してくれ」

「えー…」


はあからさまに嫌そうな顔をした。

全く…文句を言いたいのはこっちの方だ。


「じゃあ、俺が質問することに答えるだけでいいから」

「答えられる範囲でね」


……抜け目がない。


「まず…俺はお前のことを家出少女だと思ってたんだが、違うんだな?」

「違う」


「じゃあなんなんだ」

「教えない」


…やはり一筋縄ではいかなかった。


「それじゃあ…」

「ぶぶー。質問多過ぎ!あと一つだけ」


…釘を刺されてしまった。

確かに、一方的に質問ばかりしているのも悪いとは思うけど…。


俺は、質問を一つだけに決め込んだ。



「お前のことを見える人と見えない人の境目はあるのか?」



は一瞬眉を顰めたけど、「あるよ」と答えた。


つまりこの返事からすると、
やはり見える人と見えない人が居るということも分かった。
そして、俺が見える側の人だということも確実だ。

なんなのだろう、一体…。


その境目を訊くべきだったか。

いや、どちらにしろ答えてくれないに違いない。


「(状況が大して変わってないぞ…)」


俺が頭に手を当てたとき、が言った。


「シュウイチロ、今日から私が床で寝るから」

「え、でも……」

「だって、これからずっと私が占領してるわけにはいかないでしょ?」


少し考えたのち、了承した。

自分がベッドに寝てお客さんが床というのは
どうもすっきりとしなかったけれど。


でも…お客さん、というよりかは…居候だからなぁ。

事情がはっきりとは分からないけれど、これからずっと、ずっと……。



ん?ちょっと待て。

いくら事情が特殊だからとはいえ…。

もしかしたら普通の人間ではないのかも知れないとはいえ…。


同年代の女の子と一つの部屋で共に暮らすわけか?



一つ屋根の下で済まされればいいものの!

一つ部屋の中かっ!!


珍しくも自分でボケて突っ込んでみた。

しかし、やはり状況は変わらないわけで。



「シュウイチロー、一つだけ約束!」


また約束か……。

頭が痛くなる思いで「何だ」と聞いた。


は「襲うのだけは禁止ね」と言った。


頭痛がした。



「絶対そんなことしないから…お休み」

「オヤスミー!」


はポスンと頭の先まで布団を被った。

部屋のど真ん中で。


…近いうちに模様替えをしよう。

そうしないといつ家族に見つかるか分からない…。


頭に加えて、胃が痛んできた。



前途多難。





  ***





しかし、そんな生活も続いてしまえば慣れるわけで。

そんなこんなで、現在に至っている。




部屋は模様替えをした。

ベッドとテレビの位置を逆転させて、
壁とベッドの隙間にのための布団を敷いた。

俺が学校へ出かけている間、
は布団に座ってテレビを見るのが日課らしい。
俺が帰ってくると、大抵はテレビを見ている。


休日には二人で出掛けたりすることも多いけれど、
平日はいつもこんな様子だ。

飽きたりしないのだろうか…。


食事は毎日2回、俺が運んでいる。
食器を持ち込むと後の片付けが面倒なため、
トレイなどにご飯のお裾分けを盛ってして運んでやっている。
しかしそんな量で足りているのだろうか…。

というか、本当に健康面は大丈夫なのだろうか。
まず明らかに運動不足だと思うのだが。
でも体の作りが一般人とは違うのかもしれないし…。

洗面とかはどうしているんだ?
家に誰も居ない隙を見つけて…とかか。


もう5ヶ月近く経つというのに、分からないことが多すぎる。

それもこれも、が何も教えてくれないからだ。




とりあえず俺は、一言声を掛けて家を出るだけだ。

悪いことが起こらないことを案じてはらはらしつつ。



「あ、待ってシュウイチロ!」

「?」


ドアを閉めようとした瞬間に声を掛けられて、
俺はバランスを崩しつつ再びドアを開ける。

ベッドの上に腕を組むような体勢では行った。


「今週末、公園に行きたいな」

「…公園な、分かった」


微笑交じりに了承の意を示して、
今度こそ、パタンと扉を閉じた。


週末に公園。

一応これは、デートというやつだ。


と一緒に出かけられる場所は、限られている。

例えば映画館とか、動物園とか、沢山の人が集まる場所はダメだ。
一部には見えて一部には見えないなどの問題が生じる。
(思えば、前に初詣の時に気分が悪そうに見えたのも、
 そのような視線を悟って居辛かったからなのかもしれない)

行くとしたら、そこら辺をぶらりと散歩するとか。
そんなもんだ。



『遊園地に行ってみたい』

の口癖だった。


前なんかは金曜日になるたびにそう言っていた。

最近はそれも無くなってきたけれど。


「ま、遊園地も良いけど散歩も大好き!」と。

そう言って笑ってくれるのが、俺の救いだった。



初めは悩みの種でしかなっただったが、

今では俺の救いであって、支えであって、大切なモノ、だ。




早足で俺は学校へ向かう。

中学3年になって、前より更に忙しくなった気がする。

学級委員になったんだ。


先輩が引退した時からテニス部の副部長も務めていて、
その仕事で一杯だったため、正直これ以上は…という気持ちもあったのだが。

気が付けば引き受けていた。損な性分だ。

でもやりがいの仕事ではあるから、別に構わない。


クラスメイトの顔と名前も漸く一致してきた。

団結力のあって、いいクラスだと思う。



学級。

勉強。

部活。

恋愛。


俺の頭の中は、色々なものに支配されている。


だけど、一番の大部分を占めているのは…

だということに、最近気付き始めている。



家に帰るのが憂鬱な時もあった。

勢いで付き合い始めることになってしまったけど。

流れで同じ部屋に暮らすことになってしまったけど。

できれば学校で授業を受けていたり部活で汗を流していたりが
ずっとずっと、長く続いていればいいと思っていたこともあった。


だけど今は違うんだ。





早足で出かけた俺は、駆け足で帰ってくる。


「ただいま」

「あ、お帰りー!」


日が沈む頃に帰ってくると、は窓の外を見ていた。


「何してたんだ」

「ん、夕日が綺麗だなと思って」


鞄を片付けながら話す俺に目を向けずに、
はそのまま窓を見続けて話した。


これは、いつものことなんだ。

いちいち他の部屋に出て行くわけにも行かず、
着替えることとなれば…やはり部屋の中だし。

だから、なるべくは背を向けたままで居てもらうことになっている。



「赤とんぼはさ、夕日が似合うよね」


は、そんな時期はずれなことを呟いた。

俺は思わず苦笑を零してしまう。


「トンボなんてこの時期に飛んでないだろ?」

「うん。チョウなら飛んでたけど」


こっちに顔を向けながらはそう言った。

俺はその時思い切り上半身裸だったけれど、
は「あー、ごめん」とまた窓の外を見るだけで、
それ以上に反応は特に示さなかった。

俺は焦って服を着替えてからに歩み寄る。


「綺麗だな、夕日」

「うん。だけど、私は昼間の太陽の方が好きだな」

「そうか」


らしいな、と思った。

初めて会ったときの、高い位置でカンカンに照った太陽を思い出した。


「俺は、夜の月とか結構好きだけど」

「えー、アクシュミ〜」

「悪趣味…」


思わず苦笑。

悪趣味…だろうか。

綺麗だと思うんだけどな、銀色の光とか。


考えていると、は窓を閉じた。



「綺麗だけど…キレイだから、嫌い」


「……?」



イマイチ意味が分からなかった。

綺麗だから、嫌い。

うーん…。

まあ、綺麗=好き、綺麗じゃない=嫌いと結び付けるのもどうかと思うけど。


「あーあ、早く週末にならないかな。そうしたら昼間の公園で走り回れるのに!」


ボスンとは俺のベッドに倒れ込んだ。

そっと目を伏せていた。


長い睫毛。

整った穏やかな顔付きが目に入る。



……マズイ。

そう悟った。



最近、込み上げてくる衝動があるんだ。

だけど、それをあらわにすることは許されない。

それは裏切りに当たるから。

約束を破ることになってしまうから。


キミを傷つけることなんてしたくない。



、寝るなら自分の布団にしてくれ」

「あ、ごめぇん」


ころりと寝返りを打って、そのまま転がり落ちた。


ふぅ、と俺は溜息を吐いた。



早く週末になってほしいと思った。

昼間だったらば、思い切り触れることができるから。

月明かりの下ではなく、陽光の下だったら。

無邪気に笑うキミの手を取って走り回ることができるから。


だから早く週末になってほしいと思った。




  **




「わーいい天気になったねー!」


土曜日。

は思い切り明るい声でそう言った。


しかし。



「…なんて言うわけないでしょがー!!」



ちゃぶ台を返す勢いでそう叫んだ。

美登里に聞こえるだろ、と俺は焦って口を塞いだ。
(隣は美登里の部屋だ。そして美登里にはが見えるし聞こえると思われる)


窓の外。

土砂降りの雨。


「サイアク〜ずっと楽しみにしてたのに」

「困ったな…」

「あー雨のバカバカバカー!!」


は地団太を踏んでいた。

それが落ち着くと、ぷぅと頬を膨らました。


「仕方がない…明日に回すしかないか」

「いや、明日は部活が…」

「えぇー!?」


だから聞こえるだろ、と言ったが、
は泣きそうな顔になるばかりで聞いていない様子だった。


「約束だったのにぃ〜」などとぐずることは、よくある。

だけど、今見せているこの表情は。


何か違うような。



「…?」

「約束、だったのに……」


ぽろり、と。

一粒雫が頬を伝った。


「ど、どうしたんだ!?」

「だって…今回は……次で…」




なんだ…。


今回は…何?

次で…どうなってしまうんだ?


「お願い!どうしても…明日は特別なの…っ」

「うーん……」


しかし、参った事に。

明日はランキング戦なんだ。


実は今日の午前もそのはずだった。
しかしこの雨で部活は中止。

つまり…明日は二日分の試合をやる可能性もある。

明日を逃したら、レギュラー落ちはほぼ確定。

年度の始まりという特別な時期なだけに、それは避けたかった。


「ごめん、。明日は俺にとっても大事な日なんだ」


そう伝えると、は寂しそうに視線を下に向けて、
消え入りそうな声で「そっか…」と呟いた。

その声があまりに小さくて、不安になった。

「どうしてどうして〜!?」などと騒がないのが、逆に不自然だった。


明日…。

何かあったかな?

とにかく、相当特別であることは確かなようだ。




「…?」


少し赤くなった目で、はこっちを見上げてくる。

居た堪れなくて、視線を少しずらして俺は言う。


「夜…じゃダメかな」

「夜?」

「ああ。夜の公園っていうのも、結構いいものだぞ」


正直、少し無理矢理くさい感じも、したけど。


は力なさそうに、でも嬉しそうに「うん」と答えた。



明日…何かあったかな。

約束を忘れているんじゃなければ、いいけれど。





  **





前日が大雨だった反動というか。

翌日は、皮肉なほどの快晴だった。

雲一つない青い空。


ランキング戦では無事勝利を収めレギュラーを保った俺は、
清々しい気分で帰宅した。


駆け足での帰路。

夕日が沈みそうになる空。

太陽より少し先に沈もうとする見るのも困難なほど細い
今にも消え入りそうな月が見えた。

明日辺りが新月かな、と思った。



夕食を食べ終えた俺は、「ちょっと出かけてくる」と言って家を出た。

勿論横にはが立っているが、親は気付かない。

「どこまで行くの?」と訊かれたので「コンビニまで」と言った。

嘘を吐くのはあまり良い気はしなかったけれど、仕方がない。


外は、寒くはないけれど、ほんの少しだけ、涼しかった。





「わー、夜にシュウイチロと外歩くなんて初めてだ!」

「そういえばそうかもな」


は嬉しそうに、俺の数歩先をちょこまかと走った。

しかし、数歩で立ち止まると焦った様子で空を見上げた。


「月は!?」

「今日は三日月だからもう沈んじゃったよ」

「あ…そっか」


は胸を撫で下ろしていた。

しかし、本当に嫌いなんだな…月。

そこまで嫌がる必要ないのに。


ん?待てよ。

もしかしたら、満月の夜だけは本性が現れる…とか。

いや、まさかな…。



「…気になる?」

「ん?」

「私と月の繋がり」



正直、気になった。

だから首をこくんと頷かせた。


少し怖かった、けど。

本当のことを知りたかった。



はにっと口の端を上げると言った。



「実はね、満月の夜だけは本性を現さなきゃいけないの」



・・・・・・。

やっぱり!!


なんとコメントしていいやら…。

考えていると、は笑った。


「っていうのは冗談なんだけどね」


……やられた。

どっと疲れが押し寄せてきた。



「本当のことを言います」

「そうしてくれ…」

「あのね」


立ち止まったは、空を見上げて。



「月明かりは、理性を取り払って混乱を招くから」



何故だろう。

妙なほどに説得力があった。


「だから、月夜は危険なの」


はそう言った。

ぞくっとした。

これに月光が重なったらどうなるだろうと思った。



「ま、とりあえず今日は月がないし!星は綺麗だし!」

「…そうだな」


俺はの手を取った。

二人肩を並べると、公園へ向かった。





公園についてからは、ベンチに座ってぼーっと空を見上げているだけだ。

「あ、流れ星!…じゃなくて飛行機だった」などと言っては、
は俺を楽しませてくれた。

だけど、どこか落ち着かなかった。

一緒に居られて幸せ…なはずなのに。

至福のひと時、というニュアンスは合わない気がした。


「静かだね」

「…そうだな」


辺りからは、何も聞こえてこない。

夏だったらセミの声、
秋だったらスズムシの声でも聞こえたのだろうけど。

春。特に何も、聞こえてこない。


「チョウとかは鳴かないもんね」

「確かにな」


その発想が面白くて、俺は思わず笑いを零してしまう。

だけど横に座るは、真面目な顔だった。


「夜の間、チョウはどこに居るんだろ」


その真剣な表情に釣られて、俺も空を見上げる。


そんなこと考えたこともなかったけれど。

静かにしている虫たちは、今どこにいるのだろう。

草花の中に身を潜めて、眠っているとでもいうのだろうか。


昼間は可憐に舞っている蝶だって、夜には休んでいるはずなのだから。


「…そろそろ帰ろ」

「そうだな、そうするか」


ベンチから腰を持ち上げた。

ちらりと空を見上げた瞬間、星が流れた感じがした。

だけど、こんな都会の空でそんなものが見えるはずもないな
と割り切って、にもそのことは伝えようとしなかった。


手を繋いでの帰路は、やはり静かだった。




家に着いて寝る支度を終えた俺が部屋に戻ると、
は窓から空を見上げていた。

夜にそんなことをするなんて珍しい。

今日は月が見えないからだろうか?


、電気消すぞ」

「あ、はいはい」


俺の椅子から飛び降りると、は布団に潜った。

ぱちんとスイッチを切り替えた。
部屋は闇に包まれる。


そのまま静寂が続いて。

どちらかの寝息が先に響きだすものなのだが。


今日は、その静寂は破られた。


「…ね、シュウイチロ」

「ん?」

「……手、出して」


やっぱり、今日のはおかしいと思った。

でも、言われた通りにすることにした。


その時、前は反対向きに寝るのが癖だったのに、
今ではが居る側の壁に背を向けるのが癖になっていることに気づいた。

俺は体勢を変えて、真っ直ぐと仰向けになった。

水槽の音が、ポコポコとやけに響く気がした。


右腕をベッドの下に垂らすと、それはの左手に掴まれたようだった。


「あったかい」

「……」


そんなことを言い出すものだから、
「もしかして寒いのか?」と訊いたけれど、
は「そういうわけじゃないよ」と答えた。

やっぱりおかしいと思ったけど、黙っておいた。


明日が、月のない夜だからだろうか。

嵐の前の静けさというのは、これのことだろうか。

だけど、そうだとするとおかしい。
嵐というのは、満月の夜に当たるはずだから。

ただ単に月がないから、寂しく感じられるだけだろうか。



「シュウイチロ、お願いがあるの」

「ん、なんだ?」

「…来週、どうしても行きたい場所がある」


どうしても。

どうしても行きたいの。


はそう言った。


そういえば、今週末も特別だとか言っていたけれど。

あれはなんだったのだろうか…。

の様子がおかしいのも、ちゃんとした理由があるのだろうか。


『だって…今回は……次で…』


そう言いながら涙を零していたを思い出した。


一体、何だというのだろうか。



「…分かった。で、どこに行きたいんだ?」



訊ねると、の体が一瞬強張った気がした。

手を握りなおすと、こんなことを言った。




 『私たちが初めて出会った野原』







――――――………。







そうして翌週。

俺たちは例の野原に居る。


ここまで来るのは大変だった。

朝早くに起きて、電車を何本も乗り継いできた。

新幹線でも取れればもっと早かったんだろうけど、
急なことだったし、生憎なことに全て満席だった。

それでも、とにかく昼過ぎには着いた。


しかも実は、今日は特別に部活を休んできていたりする。

何か、重要なことがありそうな気がしたから。



「あー、やっぱここに来ると気持ちがスカッとするな!」

「ふるさとってやつだからな」


そーそー!と嬉しそうには笑った。


満面の笑みを微笑に変えると、は語り始める。



「憶えてる…私たちが初めて出会ったときのこと?」

「ああ。もう3年くらい前になるな」

「うん」


しゃがむと草花を摘みながら、話を続ける。


「シュウイチロ、迷子になってたんだよね」

「それを言うなよ…」


そうそう。

忘れかけていた。

俺はここで迷ったんだ。

確か、蝶を無我夢中で追いかけていたら、ヒマワリ畑に…。


「そうだ、ヒマワリ!」

「はぇ!?」


突然声を張り上げた俺。

は驚いた様子だった。(正直、俺も自分で驚いた)


だけど、勿論ヒマワリ畑なんてどこにもない。


…この辺りに、ヒマワリ畑があったよな」

「さあ?」

「そこから俺を元の場所に戻してくれたのが、お前だったろ」


とぼけようとするに向けて、強くそう言った。

は顔を上げて視線を合わすと、笑った。


「行ってみたい?」

「え、あ…うん」


肯定の意を示すと、
「じゃあ目を閉じててね」と言った。

言われた通りにすると突風が吹き抜けた。


そうだ。
前もこうやって風が吹いて。

止んだ頃に、目を開けると……。



「っ!?」



嫌な予感がした。

そうだ。
前もこうして目を開けたら。

そこには人も花もなくなってて……。


しかし今回は。

目を開けると、一面のヒマワリ畑。

後ろを振り返ると、が……居ない。


やはり居なくなっていた。



!!」



思い切り声を張り上げた。

すると…ヒマワリを掻き分けて、「ばあ!」とが顔を覗かせた。


「あっ、そんなところに居たのか」

「えっへっへ。驚いた?」

「相当な」


溜息混じりに言うと、は楽しそうに笑った。

脱力してしゃがみ込む俺の横に同じくしてしゃがんできた。


楽しそうに話し出す。



「それにしても…良かった。またシュウイチロとここに来られて」

「…そうか」

「うん。もし私が会いに行ってもシュウイチロはもう
 私のことを見れなくなってたらどうしようかと思った」


その言葉に、そういえばまだのことを見える人と見えない人の
境目を聞いていないことに気付いた。

ずっと気にはなっていたけれど、
とりあえず自分は見える側に居るからいいや、と。


しかし…そういうことなのか?

今は見えている人でも、いずれは見えなくなってしまうのか?



「…今回で、最後かもね」



ばっと顔を上げた。

その言葉を放ったの方はというと、
「でーきた」などといってタンポポの冠を頭に乗せた。

俺は戸惑いを隠せなかった。


今回で、最後?

それはつまり、何を意味する?



、それって…」

「ね、そろそろ帰らないと家に着くの遅くなっちゃうよ」


!」

「………」



話を逸らそうとする

俺は怒り気味な口調になってしまった。

こんなの、滅多にあることじゃない。


は立ち上がると、太陽に背を向けて、俺を見下ろして。

俺の方から見れば、と太陽が重なって、それはそれは眩しかった。



「つまりね…もうすぐ、シュウイチロウは、私のこと…」

「見えなく、なるのか?」

「………」


は、「うん」とは言わなかったけれど、
「ううん」とも言ってくれなかった。


一体、境目は、どこにある?

きっと目には見えない境界線は、どこに引かれてる?


「とりあえず、帰ろ」

「………」



いつでも。

今まで何度もあったけど。


どんな状況でも、帰路は静かだと思った。



無言のまま、何時間電車に揺られただろう。

その日の夜は、疲れていたのか
水槽の音なんかにも気付かぬまま眠りについていた。




  **




あまりと話をしないまま、数日が過ぎた。

「おはよう」とか、「行ってくる」とか、
挨拶や短く用件を伝えるだけで、はっきりとした会話はなかった。


もしかして、には未来が見えるのか?

それで、俺たちがそのうちに別れることを知ってあんなことを言ったのか?



まさか…。

そんなことは、信じたくない。

だけど悔しいほどに辻褄が合うと思った。




4月29日、みどりの日。

学校も休みだ。部活もない。

家でゆっくり出来そうだった。

久しぶりに、と向き合って会話もできる。


しかし、は落ち込んだ様子を見せるだけだった。

一体、何があるというのだろう…。

最近のは、おかしすぎる。


前のように。

太陽のように、その下に咲くヒマワリのように。

無邪気な笑顔ではしゃぎ回っていたは、帰ってこないのだろうか。


問い詰めるよりも、今はそっとしておいてやった方がいいと思った。

俺は自室から出て、居間でテレビを見たりしていた。


途中でちらりと部屋を覗いてみたけれど。



中には誰も居なかった。


ただ、窓が開いていた。



「……?」



返事は勿論、返ってこなかった。







まさか、まさかまさか。



俺はそこら中を走り回った。


一緒に歩いた散歩道とか。

楽しく喋った公園とか。

プレゼントを買ってやったお店とか。


ひたすらに走り回った。



だけど、はどこにも居なかった。

嫌な予感がした。



元々、嵐のように舞い込んできたんだ。

去るときもまた、嵐のようだったとしても不思議ではない。




明日は学校があるから仕方がない。

もし明日までに帰ってこなかったら…
明後日、土曜日にはあの野原へ行ってみよう。


そう決め込んで、自分の部屋へ帰ってきたとき。


「あ、シュウイチロ。おっ帰り〜♪」

「………」


これほど気抜けしたのも、久しぶりだった。



「…心配したんだぞ」

「え?あ…、あははっ!」


俺はへなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。

は笑って誤魔化していた。


全く…。

それに加えて、どこへ行っていたか訊いても曖昧にされるに決まっている。


困ったやつだ。

それでも…好きなんだ。

これほどまでに執着してしまっている自分が居る。


歩み寄ると、俺はの体に腕を回した。



…頼むから、心配掛けるようなことはやめてくれ」

「ムリ」

「……嘘でもうんって言ってくれ」

「うん」

「…困ったほどに素直だな」



顔を見合わせて、俺たちは笑った。

そういえば、まともに会話をしたのは久しぶりだと思った。



でもこの様子なら、さっきの俺の予想は外れると思った。

今の俺では、と別れるなんて考えられない。

それは、向こうも同じだと思うのだが…俺の思い上がりだろうか。







翌朝。

いつもは目覚ましによって俺と一緒に飛び起きるだったが、
今日は布団に潜ったままだった。

こっちに背を向けるようにして眠っていたため、表情を窺うことも出来ない。


それでも一応「行ってくるな」と言うと、は喋った。

背を向けた、その体勢のままだったけれど。



「お誕生日オメデト」



……そうか。

今日は俺の誕生日だった。


「知っててくれたんだな、ありがとう」

「…早く出かけたら。遅刻するよ」

「そうだな」


パタンと扉を閉じた。

俺はまた早足で登校する。


そうか。今日で俺は15歳だ。

なんだか少し大人になった気分がした。



ん…ちょっと待てよ。

もしかしたら、15歳の誕生日を迎えるとのことが見えなくなるとか…。


いやいや、それはない。

英二は当時14歳になりたてでのことが見えていない様子だった。


深いことを考えるのはやめた。




いつも通りに学校生活を終えて、
いつもより軽い足取りで家へ帰る。

皆にお祝いの言葉も掛けてもらったし。

何だかんだいって、自分の誕生日が嬉しいようだ。


そんなコドモな自分に苦笑しつつ、俺は自室の部屋を開ける。


「ただいま」

「オカエリ」


は、今日も空を見ていた。

夕日が沈みかけている。


相変わらず視線を向けないまま、は訊ねてきた。


「どう?15歳になった気分は」

「うーん…。特別変わった感じもしないけど、なんかいい気分だよ」

「そっか」


やっぱり空を見たまま「早く夕ご飯食べてきたら?今日はきっと豪華だよ」と言った。

俺は軽く返事をすると、部屋を出た。




の言うとおり、今晩の夕食は豪華だった。

いつもより2品ほど多い上に、俺の好物ばかり。

加えて…誕生日ケーキもあるときた。


この年にもなってケーキ…というのも一つ。

それでも、やっぱり嬉しいというのが本心。


何だかんだいって、まだまだコドモだと。

そう実感させられた15歳の誕生日だった。



部屋で食べると言い訳をつけて、ケーキを部屋に持ち帰った。

に食べさせてやるんだ。


そんな浮かれた気持ちで扉を開けた。

しかし。


の顔を見た瞬間、全ての思想は吹き飛んだ。



!?どうしたんだ」

「シュウ、イチロ……っ」


目を赤く腫らして。

涙を流すとしゃくり上げていた。


どうして。

幸せなはずの誕生日、だったのに。

それは向こうも同じ気持ちでいてくれていると思ったのに。


現に、俺より先に誕生日に気付いて祝ってくれたのもだ。

どうでもいいことだったら憶えているわけがない。



でも…もし。

どうでもいいわけでもないけれど、良いこととして認識していなかったら?

もし今日が、悪いことが起こる日、という認識のされ方だったら?


強く印象付く。だけど、明るい表情もしない。



…俺の誕生日、来てほしくなかったのか?」



は首を横に振った。

だけど直後に縦向きに変えた。

最終的には斜め…というか、ぐるぐると回していた。


「と、とにかく落ち着け…な?」

「う……ゴメ」


ずずっと鼻を啜って、は肩を撫で下ろした。



「ね、今日はもう寝よ」

「うん。疲れたんだな、お休み」

「違う。シュウイチロも寝るの!」

「……?」



言われるがままに。

誕生日の晩だというのに、余韻に浸る間もなく俺は寝る支度。

10時になる前に、ベッドの中に入ることとなった。


暗い部屋の中。

いつも通りにポコポコと水槽の音がする。


「(な、何故だ…)」

「シュウイチロ…あのね」

「ん?」


疑問に思って根を詰めていると、が話し掛けてきたので耳を向けた。


「実は…ね?私、ずっと前から決めてたことがあってね…」

「なんだ、言ってみろ」


必要以上に言葉を区切ってしどろもどろ話す

俺は話しやすいように促した。


すると、が体を起こす音がした。

まだ目は闇になれていなくて、その様子を捕らえることはできなかったが。


しかし…差し込んできた光で、の様子は見えた。


は、カーテンを引いた…開いたのだ。



「…?」

「全部教えたげる」



全部。

というのは、俺が今まで疑問に思っていたこと全て、だろうか。


「誕生日が来たら話そうって、決めてたんだ」

「そうか…でも、無理に話す必要はないからな?」

「ううん、大丈夫」


強かな声で、はそう言った。

また布団に潜ったようで、横から声が聞こえてくる。



「まずね…私の正体」



それが初めに来るのか!


とても意外だった。

普通は大詰めに取っておくものだと思ったから。


まあ、に常識は通用しない。



は、自分の正体をこう明かした。




「私ね、実は…妖精、ってやつなんだ」


「……えぇっ!?」




これには、俺も思わず声を張り上げずにはいられなかった。


勿論…話を全て鵜呑みにしているわけでもないけれど。

今までの不思議なことからいったら、寧ろそれのほうが納得いくくらいなのだけれど。


それでもやっぱり驚いた。



「今は羽を隠してる。体ももっと小さいんだよ」

「そ、そうだったのか…」


知らなかった…。

まあ、訊かなかったし教えてくれなかったし。

仕方ないと言えばそうなのだけれど。

丸々5ヶ月も一緒に居て…こんな重要なことを今更教えられるなんて。



「それでね…普段は、蝶の姿をして飛び回ってるんだ」

「チョウ……」



俺にはまず、3年前の夏に追い掛け回したチョウのことを思い出した。


そういえば、一匹捕まえたよな…チョウチョ。

あれ、どうしたっけ?


逃げられた…そうだ。

ヒマワリ畑に気を取られて、気付いたら居なかった。


けど。

ちょっと待て。


もしかしたら……?


「しかし、捕まっちゃった時は焦ったな」

「やっぱり、あの時の!?」


そうだ。

色々と鮮明に思い出してきた。

乳白色に近い、半透明の羽。


そうだ。

ヒトガタすらしていなかったものの、
あの不思議な羽は…妖精であるからこそのものだったんだ。


「でもね、普通なら私は捕まらないはずなの」

「え、どうして…」

「人は、私のことを見れても触れられないから」


へー、そうだったのか。

……と、ちょっと待て。


「じゃあ、俺は?」

「そう。それが不思議なんだよね〜」


そんな……。

俺は今までに何度も、に触れてきたし。

手を繋いだことも、抱き締めたこともある。


これはまやかしだったのか?

それとも、俺だけに与えられた何か特別なものなのか?


「多分…えっと、これは私の予想なんだけどね」

「うん」

「……心がキレイなんだ、シュウイチロは」


はそう言った。


心が、キレイ…。

そういうものか?

自分としては、そうはとても思えない。



「私のことを見えるには…っと、これは後で話すけど」

「……?」

「まあ、それに対して…っていうか、加えて?私に触れるためには、
 心がとーってもキレイじゃないといけないんだと思う」


言葉に何度か引っ掛かりながら、はそう説明してくれた。


「今まで何度も虫取り網に追っ掛けられたけど、通り抜けられなかったのはあの時だけ」

「そ、そうだったのか……」

「うん。それで…さ」


運命感じちゃったヨ。


はそう言った。



運命…なんて。

そんな言葉、普段は信じるような俺じゃないけれど。

少し、信じてみたくなった。




「私…シュウイチロウのことが、好き」

……」


「好きすぎて、もうダメ」



本当は。


ホントウは、こんなにスキになったらいけなかったのカモ。



はそう言った。




鼻を啜る声が聞こえてきた。

泣いてる……?


俺は顔を持ち上げた。

月の光で、の姿は確認できた。

手の甲を目に当てているは話す。



「最後…に教え、るね。私のこと、見える人…と、見え、ない人の…境目」



しゃくり上げて何度も言葉を詰まらせながら。

俺は、の姿を見ずに、目を閉じて聞いていた。


はこう言った。




 『コドモだけ、なんだ』




コドモ……?


それだったら、俺も何度も仮定した。

だけど、英二のことを例に取ると、そのことは比例される。


でももし、年齢のことじゃないとしたら?

例えば、精神的なことだったら。


それじゃあ…俺は英二より精神年齢が低いということか。

信じたくないけど…それが事実ならば認めるしかないな。


と、思っていたら。



「さっき、私に触れられるのは心がキレイな人って言ったでしょ」

「あ、ああ…」

「それに対して、私のことを見れる人はね」



その言葉を聞いたとき、俺は思わず身体を起こしてしまった。

月光に照らされた、の姿を目にしてしまった。


の言った、その言葉というのは。




 『カラダがキレイじゃないと、いけないんだ』




これだった。


勿論、体が綺麗っていっても、お風呂に入ったとかそういう話じゃないんだよ?

はそうフォローした。


俺だってそれぐらい分かっていた。




「シュウイチロウ…」




呼ばれたとき、ビクっと体が震えた。


それでも、月光に照らされる、の眼を。



覗いてしまったんだ。






 『―――……それでも私のこと、アイシテくれる?』






俺はの体を抱えるようにして、抱き締めていた。



言うとおりだった。


闇の中に差し込む光は理性を失わせる。



月明かりと、蝶。

混乱の素というのも、頷けた。



無我夢中で、に口付けた。

涙に濡れた頬が、俺の頬に当たった。



俺は…のことが、好きだ。

本当は、こんなに好きになったらいけなかったのかもしれない。


何もかも言うとおりだった。



一度離した後、もう一度口付けようとする。

は左手を翳してストップのサインを出してきた。


「シュウイチロ…分かってる?」

「………」

「これが、どういうことを意味するか」


勿論、だ。

充分すぎるほどに。


「分かって…る」


分かりたくは、なかったけれど。




それ以上は拒まれることもなくて、
再び付けられた口は、どこまでも深く交わった。

離した時には、少し息が切れていた。



…ゴメン。本当に…抑えられそうにない」

「うん…分かってる」


そのまま、の体をベッドに押し倒した。




…皮肉なものだと思った。


今までずっと、目を逸らしてきた。

込み上げてくるものがあっても、押し込めてきた。


こんなに長く。

一つ屋根の下、一つ部屋の中で暮らしてきて。

それがどのような結末に続いているか分かった時になって、
漸く初めて、そのような行為が行われることとなる。


それも相当意地の悪い皮肉だと思った。



…好きだ。愛してる」

「私…も、シュウイチロウのこと…だいすき」



一緒に居られて、幸せなはずなのに。

至福のひと時というニュアンスは、やはり合わなかった。



の姿が、霞んだ。

もう、居なくなってしまうのか?


…違う。

これは俺の、涙だ。


視界が歪む。




本能に任せて、の体をまさぐった。

腕も足も腰も…全て細くって。

こんなに弱々しい体をしていたことを、今知った。


服も少しずつ取り払って。

細身の体が、月明かりに露になっていった。



全身に滑らせていた指を、下腹部へ運んだ。

の身体がビクンと跳ねた。

それが水から上げられた魚のようで。
一瞬水槽のことを思い出したお陰で、ポコポコと音が聞こえた。

だけどそれもすぐに消えた。



の、中に。

そっと指を差し入れた。


「ん……」と苦しそうな、でも甘ったるい声が聞こえてきた。

出し入れしながら、指の本数を増やした。

その度に、から聞こえてくる声も上擦っていった。


俺自身も気分が高まり、中心部が存在を強く
主張しているのを充分過ぎるほどに感じていた。



だけど、傷付けたくないから。

ゆっくり、少しずつ、少しずつ。


それは、タイムリミットを少しだけでも引き伸ばしているようにも感じられた。



「シュウイチロ…っ、もう、いいから…早く…んぅっ!」



苦しそうに身悶えしつつ、はそう言った。

目は閉じっぱなしで、涙が溢れていた。


痛さからくる涙ではないと信じたい。

でも、きっととても痛いだろうと感じた。


俺も、本当のことをいうと、痛くて痛くて、張り裂けそうだった。

だけどそれを押し込めるためにも、身体を進めた。

その行為こそが、また痛みの対象になるとは分かっていたけれど。


それでも、そうせずには居られなかった。



…いれるよ」

「うん……早く…」



ドクンと。


血流が一瞬激しくなった。




そそり立った自身を取り出した。


それをそっと、の入り口に宛がう。




「…よかった」


涙混じりの声が聞こえてきた。




「よかった。シュウイチロウに会えて…良かった」



「俺も……に出会えて、良かった」




そう返事をしたけれど。




愛し合うことが


直接別れに繋がっていたなんて。



なんて皮肉だろう。

頭の中ではそんなことばかり考えていた。




…どんなコドモだって、いつかはオトナへの階段を上るんだ。

それがどんな形かは分からないし、
境目がどこかとも言わない。

それでも……。


いつまでもコドモのままでは、居られない。




漸く一緒になれるというのに。


心の中、俺は「サヨナラ」と言っていた。



身体を中に、進めた。




「……イヤァァっ!!」

…ちょっと力、抜けるか」

「む、無理…やっ、ぁ……はんっ」



強く締め付けられて。

今すぐにでも体内に溜まっている欲望を吐き出したい気分だった。


でも、それは“終わり”を示すことだから。


それはできなかった。




ゆっくりと。

の体を、前後にずらした。

少しずつ滑りが良くなってきて、最終的には奥まで入った。



…奥まで、入ったよ」

「うん…感じるよ。中に、シュウイチロウが…いる」


ドクン。


また、自身が膨大化していくのを感じだ。

は苦しそうに、切なそうに――でも甘く、うめいた。



身体を少しずらした。

今まで以上に甲高い声で「あっ!」と聞こえた。


…ここ、イイのか?」

「ヤ…待って、あっ、やん、やめ、て……っ!」



本当に。

真面目に、ここで止めたら、全て帳消しになるのだろうか。


そうしたら、俺の前からは消えずに済むのだろうか。


だけど…それは無理だった。



いくらが愛しくて。

でもこの行為によって手が届かない存在になってしまうとしても。


それでも、眼前にある快楽への道から、目を逸らすことは出来なかった。




…ゴメン。もう、俺…」

「私も、もう……ダメだ…ごめん、シュウイチロ」



謝るな。


そう添えて、頬に手を当てた。



時間を稼いでる、と。

自分でもその自覚はあった。


だけど、刻一刻とその時は迫っている。




「…あ、そうだ」


「ん、どうした…?」



こんな時になっても、は「ヤクソク」と言った。



「1つ目。満月の夜、窓を開けてね」

「え、どうして…」

「いいから」


…イマイチ分からなかった。

満月の夜だと、会えるとでも言うのだろうか。

でも、は月夜は嫌いなはずだ…。


まあ、今は深く考えるような時でもないだろう。



「2つ目。私のこと…忘れないでね」


「……勿論」



声が、少し震えた。


情けないような気がしたけど、

決してそんなことはないと自分で言い聞かせた。



「3つ目。いつまでも、キレイな心、大切にしてね」




言葉では何も言わなかった。

変わりに笑顔を見せた。


月明かり程度の明るさで、果たして見えただろうか。



「それから、最後にもう一つ!」

「?」


まだ何かあるのか…。

最後の一つというからには、さぞかし重要なことだろう。


と思ったら。



「明日は遊園地に行きたいなぁ」



そんな間の抜けた言葉。

俺は思わず吹き出してしまった。


叶うはずもないこと。

そのような考え方をすると、苦しくて死にそうだったが。


だけど、逆に心が軽くなった。



「分かった。約束、全部守るよ」

「本当だよ?」

「ああ…ヤクソクだ」



小指を絡めて、数回揺すった。


これが最後の会話になるとは、分かっていた。




サヨナラ……




口付けたまま、身体を少し、動かした。


快感と、切なさと、少しの痛みが走って。





それ以降の記憶が、俺にはない。



気付いたら朝になっていた。





「……おはよう、



試しに呟いてみた。

だけど、勿論返事はない。


いや、あるのかもしれないが…俺には聞こえない。




俺の15歳の誕生日。

それは、が俺の前から消えた日となった。








今日は土曜日。部活も休み。

…約束、守らなきゃな。


俺は遊園地に出かけることにした。

しかし、一人で行くのは寂しすぎる。

美登里を誘おうか…と思ったら。



「あれ?」

「ん…どうした」

「お兄ちゃん、いつの間に彼女できたんだ…」


俺は斜め後ろを振り返って、誰も居ないことを確認して、
ははっと声を上げて笑った。


「な、なんで笑うの…」

「いや、ごめん。なんでもない」


指で目の端に溜まった涙をすくって。



「…そうだな。水入らず、二人っきりで行ってくるよ」

「行ってらっしゃ〜い」




そうして出掛けてきたのだが。

遊園地に来ても、乗れるアトラクションはたかが知れていた。


ジェットコースターとかは、危ないだろう?

俺は一人だと思って、横に誰かを座らせようとする人と、
おいそこには女の子が座ってるじゃないかという人が重なると困る。

何より、俺にもよく見えていないもので、フォローのしようもない。



乗ったのは…コーヒーカップと観覧車だけ、だ。

変に思われずに一人(二人?)で乗れるのはこれくらいなもんで。


それから、途中でアイスを買った。

バニラとストロベリーで、一本ずつ買った。

俺がバニラを食べ始めると、ストロベリーアイスが宙に浮いた。


俺は焦ってそのアイスを掴み取った。

そして物陰に駆け込んだ。


そうか…傍から俺はこう見られていたというのか。

初詣の時とか、の体を支えていたのが、
パントマイムでもしていたに違いない。


宙に浮いたアイスクリームは、どんどん減っていく。

非常に……非常に奇妙な光景だった。


しかし、本当にそこに居るんだったら…。



「……?」



アイス周辺に、手をぱたぱたと仰いで見た。


パシッ。


……触った。




「居るんだな…そこに」



返事は、聞こえないけど。




『私に触れるためには、心がとーってもキレイじゃないといけないんだと思う』



『……心がキレイなんだ、シュウイチロは』



『いつまでも、キレイな心、大切にしてね』




ヤクソクだよ、と言ったの顔。


忘れないように、心に刻み込んだ。





  **





家に帰ってきて。


「ただいま」

「お帰り、お兄ちゃん」


美登里は何の反応も示さなかった。

俺の後ろには、誰も居ないことを知った。


それでも振り返って、微笑を浮かべてしまった。



肩の荷が下りたような。

だけど背負っていたのは、大切な宝物だった…ってところかな。




ありがとう…

約束守るからな。



……さようなら。










―――そしてひと月後、満月の夜。


窓を開けて月を見上げていた俺の部屋の中に、一匹の蝶が迷い込んできた。




・・・蝶?




その蝶は、10cmほどの羽の生えたヒトガタに変わった。


要するに…妖精。



「ハロー、シュウイチロ」

っ!?」

「えへへ、遊びに来ちゃった」



ど、どうして…!?


俺は口をパクパクとさせるだけだった。




は太陽のように明るく、
風に揺れるヒマワリにように無邪気に笑って言った。



「月明かりと蝶は、混乱の素。当たってる〜」


ケラケラと笑って。



「満月の夜っていうのはね、魔力が一段と強まるんだよ」



そう付け加えた。




「それから…」


「?」




―――……心がキレイだから。




はそう言った。




「ねぇ…シュウイチロ」

「なんだ」

「前に、私が月が好きってことに対して“アクシュミ”って言ったの憶えてる?」



手のひらサイズのはそう訊ねてきた。

俺は、ああ、と答えた。


するとは、笑顔になって。




「あれ、訂正する。…月の明かりって、ステキだね」




そう言って、無邪気な笑顔を照れ笑いに変えた。



「ねー、シュウイチロ〜」

「どうした、


甘えた風な声を出す


ああ、前と何も変わりやしない。




「朝には消えちゃうだろうけど、ここにいて、いい?」




俺は、言葉では何も言わなかった。

だけどその変わりに、笑顔を見せた。


満月の明るさだったら、きっとにも見えたと思うんだ。







オヤスミ。


そして、サヨナラ。



もしかしたら、

月明かりの晩に、また会いましょう。





カーテンを開けたまま、俺はベッドに潜ると目を閉じた。


水槽の音が、ポコポコと響いていた。






















疲れた!何これ、60kbって!画像並!アリエネー。
ふと閃いて書き始めたけど…まさかここまで長くなるとわ。。

大人と子供の境目に着いて考えてみた。
無邪気で純粋=精神年齢が低いとは限らないという母の言葉。
某怪盗ものの少女漫画の最終話に微妙に影響されつつ。
年と体と心は別物だと思うさねー。うん。

『everlasting flower』に似てるね〜。
こういう話好きなのかもしれん…。

っていうか大石が好きだ。(ぶっちゃけた!!)


2004/04/08