時は平安半ば。

世の中は、それなりに平和で。
それでも、問題はどこにでも付き物。



これは、とある問題を抱える一族の物語――。











  * 蹴鞠 -Syukiku- *












むかしむかしあるところに、

キクというなのおてんばなひめがおりましたとさ。




「何度も言うたが、いーやーじゃっ!」
「お菊さま、ですから…」
「誰か何と言おうと嫌じゃ!」

本日も、毎度と同じく格闘している。
これからはお茶のお稽古らしいが…。

「……っ♪」
「あ、お菊さま!!」

隙を見て、お菊さまと呼ばれたその娘は、
立ち上がりその部屋から駆け出した。

暫く走って後ろを向くと、追ってこられていることに気付いた。

「タカもしつこいのぅ…」

表を向き直すと、更に足を速めた。
屋敷の間取りは十数年の生活のうちで覚え尽くしている。
ひらりと身を翻すと、前日とはまた違う逃げ道を駆け抜けていくのだった。


お菊というその娘は、十代半ばほどの、
まだ少女と呼ばれるほうが相応しい幼げな面持ちの残る顔をしていた。

それを追う者がまた一人。
タカと呼ばれたその者は、体こそ大きいものの、少々気の弱そうな顔をしていた。
屋敷中を右往左往支離滅裂に走るお菊を、随分と焦った表情で追っている。
二人は、ドタバタと縁側を駆け抜けていた。

逃げる。逃げる。逃げ惑う。
追う。追う。追い掛ける。


最終的に、お菊は掴まっていた。
(体格の差からもいい、タカの方が少々走るのは速い。)
しかし観念することはなく、
軽く切れている息を逆に弾ませながら、
きらきらとした笑顔で言うのだった

「座ってお上品にお茶などできぬ!けまりにしようぞ。その方が楽しかろう」

その無邪気な笑顔に一瞬見蕩れかけるタカだったが、
すぐにはっとすると、強い剣幕で捲し立てた。

「お菊さま、そういう問題ではないのです!これはれっきとした…」
「ほら、タカも一緒にやろうぞ!」
「お菊さまぁ〜!!」


お菊は、お茶を点てるはずであった二時間分、たっぷりとけまりを堪能した。
無理矢理付き合わされたタカと二人で。
(何だかんだいって、タカはお菊に弱いのだ。
 後に茶の湯の師範にお小言を食らうのは、世話係の自分とは分かっていても。)


「楽しかったな!」
「…そうですね」

猫のように少し尖った八重歯を見せて笑うお菊に、
タカは少し苦いながらも笑みを返した。


その時はまさか、こんなことになるとは思っていなかったのだから。






「お菊、何だその汗は」
「父上!お菊は今日も外で元気に…」

父である国光に笑顔を向けるお菊だった。
しかし…。


「お菊!」

「――」


厳しい顔をする父に、お菊は眉の先を下げた。

いつも厳しい父だけれど、今日はいつもとは違う。
そう察した。

「何か…」
「……今日、夕食後」

言葉を区切ると、国光は後ろを振り向いて言った。

「話がある。食の間に残れ」
「はい……」

歩き去る父の背に、お菊は疑問を持ちつつ返事をした。
数秒後、また新しい遊びを考えタカの下へ向かったが。







夕食。
その時間は、いつも通り静かだ。

間には屋敷のものが全員―地位の低いものから高いものまで全員―居るものの、
交わされる言葉は一つもない。
全員がぴっと縦に二列に並び、お互い向かい合うようにして座る。
といってもその間は広く、顔は大して見合わせられることはない。
正面を向いて食べるのは、自分と両親の3人だけだ。

そのぎすぎすした雰囲気が、お菊はあまり好きではなかったのだが。
しかしこれは仕来りで昔から変わらぬ習わしだそうなので、仕方なく従っている。


無言の食事を終え、台所に住み込みで働く片付け係が、
食膳を手早く運んでいった。

いつもなら一番で間から飛び出すお菊も、
今日は言い付け通り大人しくその場に座って待っていた。


「…今日は逃げないのだな」
「わらわもそこまで無礼ではないわ」

父の皮肉に、お菊は足を前に投げ出しながら言った。
その態度こそ無礼だ、とは分かっていたが。
(いや、だからこそやった、と言う方が正しいかもしれない)

「今日、話があると御前に言ったな」
「だからここにおる」
「…まず、姿勢を正せ」

言われて、お菊は眉を顰めたが、
仕方無しに座布団の上に足を折り畳んだ。
国光の隣、母である周が座った。

片付け係のものも全てのお膳の回収を終え、
広い空間に、親子二代、3人きりとなっている。

このような話し合いにはいつも同席するタカも、今日は居ない。


「まず…御前は、自身が由緒正しい不二原一族の一人娘ということは分かっているな」
「……はい」

静かに頷き、お菊は答えた。
良くも悪くも、それが真実だ。

当時、不二原というと國を治める、
それはそれは大きな一族の名前であった。
君主となっている国光の力もあり、大きく栄えている。
(といえど、国光は不二原の血は引いていない、要するに婿養子なのだが)

「今日する話は、御前にとって重要な話だ。一字一句洩らさず耳に収めろ」
「重要だから…だからタカがいないのですか?」
「いや…それはまた話が違う」

お菊は頭に疑問符を浮かべた。
タカがこの場に居ないには、何か理由があるのだ。
タカにすら教えられない秘密事項でも話すのかと思ったら、
それとも少し違う様子…。

お菊の理解の範囲外だった。
元々難しいことは嫌い。考えるのをやめた。


「御前…齢はいくつになる」
「今年で十と五つを数えまする」
「…であろう」

父の言動に、お菊は疑問符を浮かべっぱなしだ。
一体何を言おうとしているのか、この段階では全く想像がついていなかった。

しかし、次の言葉で、固まる。


「御前も、そろそろ結婚を考える年になってきたな」
「……はぁ!?」

お菊は顔を歪めて前に突き出していた。

それまでは比較的(そう、いつもに比べれば)お行儀良くしていたお菊だったが、
咄嗟のことだ。そこまで考えては居られない。
そのときの表情といったら、それは間抜けで。
またそこから出た声も、間抜けだった。

お間抜けお菊。そんな代名詞でも付けられても可笑しくない…とそれはさておき。


「け、ケッコンとは即ち…」
「血の繋がらない異性と赤縄を結ぶことだ。分かったか」
「わ…分かりませぬっ!」

ついにお菊は立ち上がった。

別に、お菊は本当に結婚という言葉の意味が分からなかったわけではないのだが。
(寧ろ国光の説明で余計分からなくなった。セキジョウをムスブ?なんだそれは。)
分からないというのは…自分が今そういう状況に居る、ということだった。

自分はまだまだ若いし、幼い子供だと思っていた。
勉強もほったらかしにして毎日のように遊び回って。
些細な悪戯を閃いてはタカを困らせてみたり。
なんだかんだ言って今の生活が好きだし満足していたから。
素敵な男性と結婚するというようなことを夢見たこともあったけど、
自分はまだ子供だしそんなのずっと先のことだと思っていた。

しかしこの時代、十五で結婚というのは決して早くなく、
それどころかそれを越えると行き遅れになってしまうほどだった。

「嫌じゃ!お菊は今の状態が好きじゃ!嫁ぐなどとは考えもつかんわ!」
「嫁ぐなどしない。婿入りを取る」
「そういう問題ではない!」

お菊は声を張り上げた。
自分がこの家から出るか出ないか、そんな問題ではなかった。
(それも一応問題には含まれては居るが。)
今まで自由気侭天真爛漫にやってきたのが、
一人の男性のものになるなど…考えられもしなかった。

「認めん!わらわは認めんぞ…」
「―――」

お菊は今まで中で一番大きな声を上げた。その時。


『パンっ!』


――――……。



小気味のいい音が、部屋に響いた。
国光の手が、お菊の頬を捕らえていたのだ

「……」
「いい加減にしないか」

お菊は床に崩れ去り頬を抑え、
逆に国光が立ち上がりお菊を見下ろす形となった。

上から聞こえる低く響く声に、
お菊は顔を伏せたまま上げることはできなかった。

「御前は不二原家の一人娘ということは分かっているな」
「………」
「代を継いでいくためには、跡取りが必要なんだ。分かるか」

国光が低く言い放つ。
周が心配そうに様子を見守る。

その中で…お菊は俯いたまま涙した。

女子一人しか作れぬなど、そちの頑張りが足らんのだ。
というそこはかとなく面白い冗談も思いついたが、言う気分にはなれなかった。
(もっとも、言ったとしても叱られて終わるのがオチだが。)


初めてだった。
叩かれたことなど。
いくらお転婆おきゃんで少々我儘といえど、不二原家の一人娘。
蝶よ花よと大事に育てられてきたこの十五年間、
力を加えられたことなど、一度もなかった。

正月に羽根突きをやったとき、豪速のあまり避け切れず
羽子をタカに思い切り当てられたときは痛かったが。
(後に謝られたし外傷はなかったので良。)
そして瞬間に叫ばれた異国のものと思われる言葉は何だったのだろう。
(というかあの時タカの人柄があの瞬間だけ変わって見えたのは気のせいか?)

と、まあそんな思い出が頭の中をぐるりと巡ったのだが。


結婚。
両親が、自分を見知らぬ異性と結婚させようと言うのだ。

何故だ。
結婚というのは、愛し合った男女がするものではないのか?
跡取りが必要だから…そんな理由で合法性のみを求めてするものなのか?


不二原家の一人娘というだけで、こんなにも苦しまなくてはならないのか――?



「近いうちに町に張り紙を渡す。家柄などはある程度良いものを取るつもりだ」

もう、お菊には言い返す力もなかった。
俯いて、静かに唇を噛み。
自分の無力さと大人の世界の恐ろしさを垣間見た気がした。

しかも衝撃は、そこでは終わらなかった。


「それに当たってだが…御前の世話係の河村だが」
「……?」

河村。それはタカの苗字だ。
(本名は河村隆という。お菊も今の今まで忘れていた。)

そういえば、今日の話し合いには参加していない理由を聞いていなかった。
何なのだろう、と漸く顔をもたげると…。


「今日限りで…首を切る」
「!」

首を切る。
即ち首が飛ぶわけだ。
といっても本当に首を刀で斬るわけではなかろう。
そうではないにしろ、結局は…。

「タカを…この屋敷から、払うのか…?」
「そういうことだ」
「っ――!」

お菊は自分の眉が八の字に曲がるのを感じられた。
悲しい思いなんてここ最近した覚えはほとんどなかったのだけれど、
そのような場面に遭遇したとき、表情というのはこんなにも簡単に変わる。

そのときの気持ちは、ある日の朝食前に散歩をしていて、
池に腹を上にして浮かんでいる金魚を見たときのあの気持ちに似ていた。
その時自分はそれを両手で救い上げて泣いたけれど。

今は、泣くことすらできなかった。


「どう…して」
「今まで御前は気侭勝手にやってきた。それでいいと思ってきた。
 だけどこれからはそうはいかないだろう」
「…タカでは…力量不足だとでもいうのか」
「簡単に言えばそうなる」

全身が堅く強張るのを、お菊は感じた。
乾いた瞳は揺らぎ、地球の自転を感じるかのように世界が回った。
それでも必死に意識を保って、言った。

「もう…これから我儘は言いませぬ!何でも言う通りにします!
 だから…タカは、タカは……っ!」

渾身の力と気持ちを込めて頼んだが、
国光は首を縦には振らなかった。

「もう、決まったことだ」
「………」
「実は新しい世話係は、既に屋敷に呼んである」

吐き気がしそうだった。
突然の別れに、願いもしない出会い。
結婚の話の直後にそんなことを持ち寄られれば、誰でもそうなるであろう。

「…会いとうない」
「それが、我儘だというんだ」

国光はすっと立ち上がると、部屋から出た。
新しい世話係なる者を、呼びに言ったのであろうか…。

俯くお菊に、周はそっと囁いた。

「お菊」
「…母上」
「そんなに悲しそうな顔をしないの」
「……でも、タカが…」

口を窄めて話すお菊に、周は笑った。

「大丈夫。世話係としては解雇されるけど…
 タカさんはこの屋敷には出入り自由ってことになってるわ」
「ホントか!?」
「えぇ」

私が頼んだんですけどね、と周は笑った。

元々、周とタカは仲が良かった。
(この屋敷内でタカを愛称で呼ぶのはお菊と周だけだ)
まだお菊が幼いころ(タカが世話係として抜擢された、あれは丁度十年ほど昔になる)、
お転婆なお菊に振り回されたタカが、やっと眠りにつかせることに成功し
疲れた体で座り込んでいると、決まって後ろから周がやってくるものだった。

そうしては、子育ての話や苦労話、はたまたお菊の武勇伝
(トンボを素手で捕まえただとか、石蹴りで石を飛ばしすぎ障子に穴を
開けてしまったことだとか。と、これは秘密だと約束していたのだが。)
などについて話すのだった。
会話は大抵お菊についてだったが、
二人肩を並べて寄り添っているだけで幸せだった。

実のところ、周とタカはそこはかとなく怪しい関係にあった。
恋情は、二人の間に間違いなく存在していた。
(といっても身体での交わりは皆無だ。その辺のけじめは付けていた。)
夜にこっそりと落ち合っては、縁側で月や星を眺めるのが好きだった。

一度だけ、たった一度だけ交わした口付けは、どこまでも優しかった。
それは最後に別れを告げた日、その日のものだった。
そしてその日というのは…自分が国光と話し合ってタカの処分を決めた日でもあった。
あまりに星が綺麗で、降り落ちてきそうだ、と思ったその夜を忘れるはずもなく。
それからまだ日数は十も数えていないのか、と考えると切なさを感じられずには居られない。

周は一つ溜息をつき、お菊に向かって微笑んだ。

「大丈夫。新しい世話係の方も、いい方だから」

結構好みだったわ。颯爽としてるし、綺麗な目をしたいい人よ。
そう周が言うと、お菊は笑った。

勿論、母の言葉が冗談だと分かったので、お菊は笑ったのだ。
お菊は、周とタカとの関係など知らぬのだから。
(真面目で固い国光も気付いているとはとても思えない。)
だからこんなことが言えるのだ、と周は自分に苦笑した。

しかし、本当に思っていた。
新しく世話係に任命された、あの人。
気になるくらい、綺麗な眼をしていたな…と。


「待たせたな」

障子を音も立てずに開けると、国光は部屋に入ってきた。
そして、元の位置に落ち着くと、お菊の目を見据えて、言った。

「今から入っていただく。文句はないな」
「はい」

躊躇いもなしに、お菊は答えた。
周の笑顔が自分の視線と搗ち合った気がしたので、笑みを返した。

国光は頷くと、たった一言声を上げた。

「宜しい」


開いたままの襖より、一人の男が現れた。
その者こそ、新しい世話係なのだ。


元々標準の値より高めの身長を際立たせるすっと伸びた背筋。
慎ましくも堂々とした態度。
飾り気はないがその分誠実そうに見える表情。

そして何より、真っ直ぐな澄んだ瞳。


「この度は不二原菊様の新しい世話係としてこのお屋敷に置いて頂くことになりました」

膝を床に下ろすと、手を地面添え深く頭を下げた。

「何卒、宜しくお願い申し上げます」

その者が頭を持ち上げるのも待ちきれず、
お菊は思わず質問を口にしていた。

「其方…名は?」
「あっ、申し送れました」

ガバっと顔を上げると、その者は幾分焦った表情で言った。
(真面目でしっかりしていそうだが、意外と抜けているということが既に判明した。)

「秀一と申します。以後、お見知り置きを」
「ひで…かず?」

再び頭を下げるその秀一という者。
お菊は、その名前を自分自身で一度復唱した。


不思議な気分がした。
襖から間へ足を踏み入れたその直後、目と目が合ったその瞬間。
自分は、その瞳に捕らえられたかのように動けなくなっていたのだ。
澄んだ瞳は、どこまでも深く。
真っ直ぐな視線は、果てしなく遠く。
見透かされるような気持ちさえして、少し物恐ろしかった。

恐怖。
恐怖ゆえなのか?

この、心臓の脈動は――…。


「お菊。挨拶しないか」
「あ、宜しくお願い申し上げまする…」

姿勢を正して頭を下げながら、お菊は一生懸命考えた。
「町の牛鍋屋で下働きをしていたのだが、そこに置くには惜しい逸材だと思ったので…」
とかなんとか説明している国光のことなんか、
ほぼ無視していた。(というか聞こえていなかった。)


どうして?
如何にして…この臓器はここまでも強く血を送りたがる。
特に激しく動いた覚えも心不全になった覚えもない。
心当たりといえば…顔が少し熱いこと。
否、これはきっと血が勢いよく巡ったが故の、後に起こった現象。

なぜ?
何故に…ここまでも苦しい。
いくら走り回っても、ここまで苦しくなったことはない。
タカから逃げ惑い掴まった瞬間はいつも息は切れているが、こんな苦しさはない。
胸が締め付けられるような苦しさ。
酸素は足りている。じゃあ足りていないのは何か。
それとも、この感情というのは――……。


「それでは、本日はこれにて開きと致す」

国光の言葉に周と秀一は頭を下げた。
お菊も慌てて頭を下げる。


何だ?この感情は。
今までに感じたことのない、何か。
甘く切なく、苦しいのに心地好い。
一人のものを慕わしく思う。

これは。これは――…。


「さて、明朝は河村をここより見送ることになっている。
 分かっているであろうが、寝過ごしてしまえばそれまでだ。いいな」
「明日は必ず早起きにござります!」

そう宣言して、お菊は立ち上がった。
タカとの最後ぐらい、しっかりと過ごしたい。
いつもは寝坊ばかりして困らせていた自分だが、
最後ぐらいは、ちゃんと見送りたい。
(最後のその日だけちゃんと目覚めるというのも、皮肉といえば皮肉だが。)

部屋を出る際にちらりと秀一に視線をやると、
そのまま目線が合ってしまったので急いで逸らした。





「ふぅ。それでは今夜はさっさと寝ようかのう」

寝室についたお菊は、溜息を吐く。
いつもだったらタカに詰め将棋や坊主捲りをせがんでいるころだが。
そう思うと苦笑いを止められない。

とにかく明日に備えようと寝支度をすることに。
寝間着に着替えようと、着物の帯を解いた。
そして前の重ねを開いた。その時――。

「………」
「…何をしておる」

お菊の視線の先。そこには、秀一が居た。
体そのものは廊下で正座しており、襖のみを引いたのだ。
そのまま、そこに静止している。
お菊は思わず町の見世物を疑わしい目で見るような顔つきになった。

何にしろ、自分は今着替えているのだ。
嫁入り前のうら若き乙女が、着物の前を肌蹴させているのだ。
その前に平然と、表情一つ変えず正座しているのだ。

「何をといいましても…私は今日よりお菊さまの世話係とさせて頂いております」
「うむ。それは良く分かっているつもりじゃ」
「…では何がご不満なのでしょう」


あっけらかーん。


思わず頭の中を効果音に近い何かが巡った。
こんな人間が居るものか、とお菊はこの世に疑問を持った。

少々抜けているとは思うたが…予想以上に呆けてるときた。
お菊は溜息を吐くと、言い放った。

「よいか。わらわは今着替えておる。席を外せ」
「え、着替えの方の世話は…」
「……っ…っ……!」

その瞬間、
今世紀最大の叫び声が不二原家に木霊した。




  「出て行けぇーーー!!!!」




秀一の上体をドンと押すと、
その引っ繰り返る様も見納めずにお菊は襖をぴしゃりと閉じた。

思い切り叫んだ所為か、少し息切れがした。


「…全く。なんという無礼か」

頬を膨らましながら、お菊は今度こそ着物を脱いだ。
まだ肌衣は纏っていて良かった、お菊はそう心より感じた。

「素肌を見でもしたらそれこそ処刑ものじゃ。一日目にして…。
 もしくは責任を取って頂かねばならぬか?」

そんなことをぶつぶつと呟きながら着替えていると…。


「ではお菊さま、明日の朝は何時にお目覚め…」
「開けるな(怒)」

再び鉄拳が飛び、頬にクリーンヒットした。
秀一は、起き上がることは暫くなかったそうな。(恐ろしや恐ろしや)
「朝日と同時に起きる予定じゃ」というお菊の言葉は、
果たして届いていたんだか……。


部屋の中、お菊はひたすらに怒りを散らしていた。

「許せん…あの男。一度とならず二度までも…。
 もしや、策略か?呆けているふりをして、実はただの助兵衛なのか?
 …有り得る。父上をも巧妙に騙しておるが、世話係とは影の姿で本職は…」

考えながら、床に就いた。
目を閉じるが、眠れそうにない。
色々と考えてしまう。


結婚のこと。

タカのこと。

秀一のこと。
あの瞬間見せた、真っ直ぐな澄んだ瞳――…。


「あー、ダメじゃダメじゃ!今宵は早く寝んといかんのじゃ」


自分に言い聞かせて、目を瞑った。
布団を深くかぶれば、きっとすぐ眠気がやってくると。



しかし結局、お菊が眠りについたのは丑三つ時を越した頃だった。




  **




「……お?」

小鳥のさえずりに、お菊は目を覚ました。

…朝一番を告げる雄鶏ではない。
小鳥の鳴き声。

「今…何時じゃっ!?」

ばっと窓を開けた。
太陽、は……。


「わっ、あんなに高く参っておる!!」


寝間着も着替えぬまま、
お菊は渡り廊を駆け抜けた。
タカから逃げているときより、凄まじい勢いで。

何しろ今日は、逃げるのではなく捕まえなくてはならないのだ。


「タ、カ、は、ど、こ、じゃ〜〜〜!!!」


自分の走る勢いの風圧に言葉を遮られながらも、
お菊は屋敷中を駆け回った。

秀一め…朝日と同時に起こせと願い申し上げたのに!

自分が殴った所為で意識を失っていたなどとは知らず、
お菊はドタバタと走った。

タカの部屋、もぬけの殻。
布団がきっちりと畳んである。
上に手紙が置いてある…こっそり読んでみようか、やめた。
というか文字を読むのは苦手だ。時間もない。

庭、食の間、客間、玄関、雪隠も覗いたぞ…。



「えぇい、茶の間!……おぉ!?」


開けた瞬間、お菊はすっ転んだ。

「た、タカぁ!?」
「今日もお早いお目覚めで、お菊さま」

皮肉なんかを真に受けている場合ではなかった。
そこには、タカ、国光、周の3人が居た。
しかも優雅に茶を啜っていると来た。(勿論茶菓子つき。お菊は栗羊羹が好き。)

もしかして、とお菊の脳が高速に回転した。

「秀一は助兵衛だから解雇になったのか?」
「? 何を言う」

国光の表情で、あ、違うのか。とお菊は悟った。
後ろで周は、へー、秀一さんってそうだったの。となんだか楽しそう。

「ではタカは、どうして…」
「…お前があまりに気持ち良さそうに寝てるから、
 どうしても起きるまで、と」
「願いを聞き届け頂き有り難う御座います」
「…最後ぐらいそうでなくてどうする」

会釈するタカを見て、お菊はぱちくりと瞬きをした。
大きな瞳に乗る睫毛が上下に揺れる。

つまり、まぁ、間に合ったのだ。
待っててくれたわけだ。
父上にも人情はあったということになる。

「良かった…」
「いいから、着替えてきなさい、お菊」
「はい」

危うく座り込みそうになるお菊だったが、
周の言葉に背筋をしゃんとさせると自室へ足を向けかけた。
が、後ろ向きに数歩歩いて部屋に再び顔を覗かせた。

「父上!」
「ん?」
「…着替えの手伝いはいらんと秀一によぅく教えておけ」
「? 分かった」

今一理解していない様子の国光だったが、
後ろでタカは冷汗を流し、周は破顔していた。


大股で闊歩し、お菊は部屋に戻った。



着物係に着物をしっかり着付けてもらい、お菊は再び茶の間へ向かった。
(脱ぐのではなく着る際は、手伝い係は居る。勿論女性二人となっているが。)

タカと目が合ったとき自分の表情が強張っていることに気付いたが、
向こうが笑ったので自分も笑い返した。
(とりあえずは笑顔だったはずだ。少なくとも自分としては。)





「それじゃあ」

都から少し離れたところ。
そこまで来て、タカは牛車から下ろされた。
大きな荷物を持って、お辞儀をした。

牛車の上から、国光が挨拶をする。

「ああ。達者にやれよ」
「タカ!そのうち遊びに来てな!また…けまりやろうな!」

お菊の言葉に、タカは何も言わず、笑顔だけを返した。
そして、背を向けると歩き出した。


「…行くぞ」

不二原一家もまた、屋敷の方向へ向かいだした。


牛車に揺られる中、お菊は不満そうだった。

「…タカが居なくなると淋しい」
「秀一が居るだろ」
「アイツは…ダメじゃ。もう疲れた」

そう。もうあの人間には疲れたのじゃ。
お菊は心底そう思った。

真っ直ぐの瞳には、それは、少しはときめかされたりもしたが。
しかし冷静に考えるほど、あれはときめきなんぞではなく、
嫌な予感がして心臓が訴えていたのだ…と思うお菊であった。

「まだ二日目であろう」
「一日目にして幻滅じゃ」
「お前は我儘が過ぎる」
「……すみませぬ」

自由放漫に生きてきたお菊にとっては、
我儘一つ言わずに生活するというのは、
それはそれは難しい話だった。
(だからこそ甘い性格のタカは解雇されたのだが)


これからの生活に不安を感じた瞬間であった。






「お帰りなさいませ!」


屋敷についてすぐ、玄関の戸口を開けるとそこには秀一が待ち伏せていた。

「お早いお帰りでしたね。どうでした?」
「どうもこうもせぬわ。タカは都から下っていったわ」

下駄を脱ぎながら、お菊は不機嫌気味に答えた。
そしてずんずんと廊下を歩いていく。
その下駄を揃え、後ろから秀一は追った。

「お菊さま…妙に反抗的ですね」
「自前じゃ!」
「…タカさんの前では笑顔でしたが」
「―――」


そこでお菊は、気付いた。
確かに自分の反抗的な態度は自前だ。
お稽古と言われれば逃げるし、わざと困らせるような態度ばかりを取る。

でも、それでもいつもタカの前では笑顔だった。

そんな自分に気付いたのだ。
秀一は、早くもそんなことを見抜いていた。


「…別れの直後で機嫌が悪いのじゃ。寄るでない」
「はっ」


頭を下げると、言うとおりその場から消えた。
後ろからついてこない。
暫く歩いて振り返ってみたお菊だったが、本当に居ない。

「…馬鹿正直なやつだのう」

タカは余分なところで心配性だったから、
お菊の様子がおかしければ意地でも理由を解明しようとするタイプだったが。
(といっても、無理に聞き出したりはしない。適度の距離を保つのだ。)

それに対して、秀一はどうだろうか。
来るなと言ったら、本当に来ない。
…自分のことが心配じゃないのか?とさえお菊は疑った。

そして、気付いた。
もしかすると…上手くやれば、タカなんかよりよっぽど遊ばせてもらえる!と。


「(そうじゃ!それじゃ!!)」


さっき突き放したくせに、お菊は秀一を探すために元来た道を戻った。




「ひでかず!」
「お菊さま?貴女先ほど…」
「気が変わった。もう元気になったのじゃ」

お菊は満面の笑みを浮かべた。
その笑みは、これからの幸せな日々を想像してのものだったが。

お菊の作戦は、こんな感じだ。
早めに、秀一に色々と吹き込むのだ。

「よいか、まず朝起きて食事を終えたら初めにすることは蹴鞠じゃ。
 それにも程よく疲れた頃、石蹴りを…」


しかし。


「嘘ですね」

「………」


爽やかに切り返されて、お菊は固まった。
自身有りげに説明していて立てた人差し指も、行き場がない。


「…何故そう思う」
「ご主人様にお菊さまの一日の献立は頂いております。
 朝起きたら食事の前に軽く体操をし、食べ終えた後は曜日によって
 お茶や舞踊などのお稽古を…」
「…よく分かっておるな」

これは結構なつわものだ。
お菊はそう思った。

「さあ、もう元気になられたのでしたらお琴のお稽古、出来ますよね?」
「………」

結局、秀一の成すがままになってしまうお菊であった。




次の日も。
そのまた次の日も。

上手い具合に、お菊は秀一の言葉通りに動かざるを得なかった。

タカのように我儘を通すことが出来ない。
力尽くでやるのも無理。
演技もすぐにバレる。


どんな手を使おうと、全て惨敗に終わっているお菊だった。





「 な ぜ だ ! 」




今まで自由放漫に生きてきたのに、
秀一が来て以来全てが変わってしまった。

思うように行かなくなって、根が詰まっているお菊であった。



「お菊さま、次はお茶のお稽古…お菊さま?」


昼食後の休息に入っていたお菊を秀一は呼びにいった。
そこに居たのは…頬をぷくーと膨らましているお菊だった。

「どうしました?」
「…タカはもっと自由にしてくれた」
「それじゃあお菊さまのためになりませんから」
「………」

最もな答え。
お菊は何も言い返せなかった。

元はといえばそれが理由でタカは解雇されたのだ。
小さい頃は自由で伸び伸びと育てられればそれでよかった。
しかし…今は自分は嫁ぐような年まで来ている。

「やるぞ、お茶」
「はい」

そろそろ自分も、この子どもっぽさから抜け出さなければならないのか。
そう思い始めるお菊であった。

前を歩く秀一の背中を見て。
もっと大人にならなければならないと。
そう思うのだった。

締め付けてくるような胸の苦しさは、深い溜息で誤魔化した。






翌日。
大人しく活花でもしようとするお菊だったが…。

「……ん?」
「どうしました」
「あれは…なんじゃ」

指差したのは正門の先。
何やら人の大群が見える。

屋敷にこれほど人が集まったことがあったか。
…記憶の限りではない。

秀一はふぅ、と息を吐くと答えた。

「お菊さまへの求婚者たちです」
「ほうそうか……はぁ!?」

一瞬何も考えずに返事をしてしまったが。
言葉が脳内を巡って漸く理解するお菊。

「先日旦那様が町まで下っていきまして募集の看板を」
「父上、いつの間に…!」

自分の知らぬ間にも、時は過ぎていく。
物事はどんどん進んでいっているのだ。

「とりあえず今日は旦那様と周様とお話をされるそうです。
 好か否かはお二人の判断で決まります」
「わらわは…決められないのか?」
「…そういうものです」
「………」

しゅん、とお菊は首をうな垂れた。
何しろ、生涯を共にするやも知れぬ者すら
自分で選ぶ権利がないのだから。

全く、損な性分じゃ。
そう思った。

「勿論、最後にはその者のご家族も合わせてお見合いをしてから
 正式に婚を結ぶ方向に持っていかれるのですがね」
「…ということは、そこで気に入らなければ結婚せずに済むのか?」
「恐らくは」

ふむ。とお菊は腕を組んだ。
「また変なこと考えてないでしょうね」と訊く秀一に対しては
「何でもないぞよ」と答えたが。(無論、バレバレであった。)


秀一は微笑を浮かべると、言った。

「余分なことは、考えないでいいんですよ」

ぽんと背中を叩かれた。
その意味がいまいち分からなかったが、
とりあえず言われたとおりにすることにした。

でもやはり、心は動く。
生涯を共にするものぐらい、自分で選びたいと。


「…ところでじゃが、秀一、年はいくつだ」
「18で御座います」
「………はぁ?」

くるりと振り返ると、お菊は小声で一言。

「30近いと思うておった…」

「どうかしました?」
「いや、なんでもないぞよ!」

慌てて誤魔化すお菊だったが。

そうか…3つしか変わらないのか。
とても意外だった。

そして、秀一は大人だな、と。
たった数年で…自分はそこまで大人になれるだろうか?と。
そんなことを考えているのだった。

「秀一は結婚などは考えておらんのか?」
「…今は、とにかくお菊さまに仕えることのみ考えております」

ぺこりとお辞儀をして。
顔をはっきりと上げぬまま。

「もしかしたら、生涯独身かもしれませんね」

背の低いお菊には、その時の秀一の苦笑はばっちりと見えたが。


「何を言うとる!まだ先があるぞよ」
「いや、しかし…本当に想う者が、この先できるかどうか」

ふっと笑った。

「結構一人のこと、引き摺る性格なもんで」


その時お菊は、不思議な気持ちになった。

秀一には昔、好きな人が居たのかと。
そしてその人のことを未だに忘れることが出来ないと。
きっとそういう意味だろうと。

なんだろう…。
同情しているのか?
分からないが…胸が苦しい。
切ないような、愛しいような。

…愛しい?


「さ、この辺でお話は止めに致しましょう。今日は活花でしたね」

妙に明るい秀一が気になったが、何も言わなかった。
門の前に群がる男どもをちらりと見、また戻した。










「海堂薫という男が居る」


夕食の後、また呼び出されたお菊が国光に伝えられたのはそれだった。

ああ、今日の面談の結果だな、
と即座に理解するお菊だった。

「実に誠実そうで、しっかりとしている。家柄も文句ない」
「…もう決定か?」
「今度見合いをする。それで最終決定だ。いいな」
「……ハイ」

真実は篭っていないそんな返事を、お菊はした。
国光は話を続ける。

「決して粗相の無いように。普段のような態度で居たならば…」
「分ーかっておる!」

あまりに険悪な表情を見せるものだから、お菊も承諾の言葉を上げた。
やはり、真実はあまり篭っていなかったけど。







見合い当日。
だだっ広い間に、ふた家族、六人。


「これより不二原家と海堂家のお見合いを始める」


国光の言葉で、皆が礼する。
お菊も同じくした。

話はどんどん進む。
向こうは喋るタイプには見えなかったが、親がよく喋るようだ。
お菊はその度粗相のないように対応するだけだった。


しかし…さて。
いつぶち壊してやろうかのう。

そんなことを考えていた。


この海堂薫という男だって、
そんなに悪い男には見えない。

だけど…やっぱり、結婚相手くらい自分で決めたい。
自分が心から愛して、一生を共に出来ると誓えるような。
そんな人と、一緒になりたい。

「(突然屁をひるとかどうかの…いや、それはわらわも嫌じゃ。
 奇怪な声を上げるとか暴言を吐いてみるとか…)」

考えていると、秀一が入ってきた。


「お茶で御座います」


いつものように爽やかな笑顔で。
だけど、お菊は今日は目を合わせることは出来なかった。

普段ならいつも一緒に居る秀一。
だけど自分は今この海堂薫という男と向かい合っていて。
秀一は今は世話係としてではなくただの屋敷の使いの者で。


ん?
何故秀一が茶を運ぶ。

そのような仕事は別の係りのものが居たはずだが…。


「あっ!」

「む?」


突然秀一が声を上げた。
何事かと思いお菊が見上げると…。


「……おぉ」


思わず感嘆の声しか上がらなかった。

そこに居たのは…頭から茶を被っている海堂薫。


「……どういうことっスか」
「申し訳御座いません!すぐに拭きますので」

そう言ってすぐに布を取り出して水分を拭い取っていく秀一。
周りのものは唖然としてみているだけ。

そんな秀一も数秒後、固まった。

「あ、申し訳御座いません!これは布巾ではなく雑巾でした!」
「……んだと!?」


ついにキレた。

短気な男であったらしい海堂薫が暴動に走り、
その日のお見合いは急遽打ち切りとなった。
それ以来海堂家からは音沙汰もない


そして…あの者もまた。





   **





「はーぁ。どうしておるのかのう」


お菊は溜息を吐いた。
空を見上げながら、ぼんやりと。

「どうかしましたか、お菊さま」
「いや、なんでもない」

腰掛ける縁側。
足をぶらぶらと揺らした。


「ただちょっと、昔話を思い出してな」


昔といっても、ほんの数ヶ月前のことなのだけれども。

空を見上げていると、涙が溢れてきた。
でも首を上向きに倒していると、なかなか零れそうにない。

タカ…あれからどうしてるのかのう。
秀一…あの日以来、一体どうしたのだか…。


「挨拶も無しに去るなど、常識外れじゃ」
「…よくは分かりませんが、それはまた会えるという希望があるからじゃないっスか?」
「・」

くるん、とそっちを向いた。

「桃、聞いておったのか…」
「それだけ大きい声なら聞きたくなくても聞こえるっス」

お菊は首を前に倒した。
涙はいつの間にか治まっている。
まだ視界が少し霞むといえばそれまた事実だが。


「まあ、とある者の話なのじゃ」

今更になって思う。

「前日まで笑顔を振り撒いておきながら」

やっぱりあの頃自分は。

「突然わらわの前から消えたのだ」


秀一のことが好きだった。


否…現在もそうかもしれん。
そう思うとまた涙が滲んできた。



お見合いをした日。
妙なほど静かな一日が終わって、
いつも通りに床に就いたお菊だが。
なんだか胸騒ぎをしたのを憶えている。

あんなことをして、秀一は平気なのか。
またタカのように…首にされたりしないのか。


案の定。
翌朝秀一はお菊の前には現れなかった。

お菊は国光に飛びついたのだが、何も知らない、と言われた。
あの行動の理由を国光も翌日訊こうと思っていたらしいが。


誰にも何にも伝えず、風のように、消えた。

そんな昔話。



「風みたいな人っスね」
「―――」

考えていたことをそのまま言われ、視線をそっちに向けた。
桃と呼ばれたその男は眉を吊り上げた笑いをして言う。

「予告も無しにそんな居なくなったりするなんて」
「もっともじゃ」
「それから」
「?」

豪快な笑いを微笑に変えると、桃は一言。

「お菊さまの心をそこまで揺るがすなんて」
「…そうかも知れぬな」

お菊も微笑を返した。

「それじゃ、いっちょ琴の稽古と行きますか!」
「桃、今日は舞踊じゃなかったか」
「あっ、そうでした」

全く。
お菊は笑い混じりの溜息を吐いた。

束縛に近かった秀一より、桃の方が気楽じゃ。
向こうが抜けている分、自分が気をつけなくてはならんし。
自分は少し、大人になれたのだろうか?

だけどやっぱり、あの頃に戻りたいと。
…そう思うのは間違っているのだろうか。


「……ん?」
「どうしました」
「あれは…もしや」

門の前に押し寄せる大群。
お菊はなんだか嫌な予感がした。

「見合い相手の募集か!?」
「よく分かりましたね」

もう二回目じゃ、とお菊はぶすっとして答えた。
桃は問う。

「ということは、前回は失敗に終わったって訳っスか?」
「遠慮なしに訊くやつだのう…ま、確かにその通りじゃ」

わらわとしてはそれで良かったのじゃが。
心の中でお菊はそう言った。


そして、なんじゃ?
今宵父上から話があって。
数日以内に見合いか?
…今度はどうやって逃げてくれよう。

逃げ?
わらわは逃げておるのか?
真実に向かい合おうとしていない?


そうだ。
本当は、何を求めているか分かっているのに。

でもそれに対してどうにも動くことが出来ない。


「………」
「お菊さま?」
「桃、すまん。今日は舞踊の稽古はお休みじゃ」
「またけまりですか?」
「いや、ゆっくりとすることにする」

とてもではないがそんな気分にはなれない。
お菊はふらふらと庭を散歩することにした。


そういえば、タカとも桃ともけまりは何度もやったけれど。
結局秀一は一度もやってくれなかったのう…。

またどこかで会ったら、一緒にやりたい。
なんで、夢物語なのであろうか。


そんな思い出に浸りながら歩く。
すると見えた、男どもの団体。


あの中から自分のお見合い相手がまた……?

一人と目が合った。
近付いてきた。
何故だ。
他の者は向こうへ歩いていくぞ。
何故だ。
どうしてこちへ来る!


「だ、誰じゃ!」


思わず声を張り上げる。
すると、その者はしーっ、と人差し指を立てて。

「お久しぶりです、お菊さま」
「……その、声はっ?」

聞き間違えるはずなどない。
この声は…紛れも無く…。

「秀一!」
「ですから、声をお潜め下さいませ」
「むぐ」

手で口を塞がれた。
周りをきょろきょろと見回すと、秀一と思われる男は手を離した。

「状況を利用して、上手く潜入することが出来ました」

その笑う姿を見て、お菊は思った。

顔が違う。
姿格好も見覚えのあるものとは違う。

でも…全体的な雰囲気とか。
笑みを作る時の癖とか。
そして何より。

澄んだ瞳は変わらない。


「どうして…?」
「お菊さま」

改まったような態度を取り直すと、秀一は話した。

「私は今はもう…お菊さまの世話係の秀一では有りません」
「え……?」
「元々、秀一というのは仮の姿」

会釈をすると、真っ直ぐ前を見据えて、言った。



「実名、秀一郎といいます。一人の男としてお菊さまに求婚するためにやって参りました」



信じられなかった。
まさか、秀一からそんな言葉が出ようとは。
いや、秀一ではないのかもしれないが。


「嫌ですか?」

「〜〜っ!」


首を横にぶんぶんと振ると、
お菊は秀一…否、秀一郎の胸に飛び込んだ。

しゃくり上げ始めるお菊をそのままに、秀一郎は話を始めた。


「しかし…私はこの屋敷に居るわけにはいきません。
 正体が割れれば追い出されるのが関の山です」
「………」
「お菊さまには辛い話になるかもしれませんが…」

体を離すと、はっきりと前を目を見て、秀一郎は言った。

「一緒に、来てくれませんか。といっても身寄りも無いゆえ、
 行き着く先がどこになるかも分かりませんが」
「…それでよい。わらわは秀一と一緒に行く」
「秀一じゃありません」

にっと笑う秀一郎。
涙が目に溜まったままではあったが、
お菊も笑顔を返した。


「…秀」


お互い手を取り合って。
そして、どこへとも無く走り出した










その後、二人はどうなったかというと、

実は、はっきりとしたことは誰にも知れていない。






要するに駆け落ちした二人。
その人生は果たして苦だったのか楽だったのか。

なんだか、探し人に宛てられている自分たちを何度も見て笑っていたとか。
(その度に秀一郎の変装の特技が役に立った。)
(お陰で自分の顔の張り紙の前を何触れぬ顔で通り抜けることが出来た。)



実しやかなのは、不二原一族のお話。
跡取りが出来なく、その代でその支配の時代を終えたとか。
しかし、残した多大なる功績は、後々にも受け継がれていくであろう。




そして、小耳に挟んだ噂を一つ。
真実か否かは定かではない、口頭で広がった噂ではあるが。


とある田舎の山の奥。
不二原を名乗る夫婦がのんびりと暮らしているとか。
細かく分かれている家系の一部であろう、
ということで誰も大して気には掛けていないのだが。




もし、その噂が本当であったとしたら。

その二人は、今日も呑気に蹴鞠でもして平和に暮らしているのであろう。










めでたしめでたし……?






















とにかく疲れた。長ー!
結構前から考えてて設定とか練りこんだものなので。
しかし、ここまで長くなるとは…吐血。

パラレルってことで時代錯誤に挑戦。
菊は女だし他のに比べると若いしってか皆が老けてるのか。(痛)
なんか既にキャラ違うよ、って感じだけど許して。

これで菊受出し尽くしかなーと思ったけど
やっぱり私ってば大菊が好きみたいです。笑。

長いけどご愛読頂き有り難う御座いました。


2003/10/18