* 無二の君 *












「エージ先輩」
「ん、にゃに?」

部活の休憩時間。
俺が桃と英二の会話を聞いたのは偶然だ。
といっても大声で話しているから、
放っておいても聞こえてしまうものなのだけれど。

「エージ先輩って…5人兄弟末っ子の三男っすよね?」
「そだよ」

俺は二人の会話に特に気を止めることもなく、
スクイズボトルから水分を補給していた。
首に掛けたタオルで顔を拭きながら、
それでもなんとなく話を聞き続けていたんだ。
そうしたら。

「それなのに…なんで“英二”なんスか?」
「―――」

横目でちらりと、英二の表情が曇るのが見えた。
なんとなく、嫌な感じがした。


実は今の質問、俺も英二に一度したことがある。
そうしたら英二は、「オレもなんでか分かんないんだよねー」と言った。
何度か親に問い詰めてみたらしいが、「響きで決めた」と言われたらしい。
英治とか英士とか色々あるのにね、と英二は笑った。

『でもさ、不二だって長男のくせに二が付くじゃん!』
『不二は苗字だろ』
『あ、そか』

そんな会話を繰り広げたことさえある。
その間、英二はずっと笑っていた。
だから大した問題じゃないのだろう、俺はずっとそう思っていた。

だけど。


さっきの、曇った表情は、何だ?
少し気になって様子を追った。
英二は笑っていたけど、少し無理をしているように見えた。

「どうせ生まれた順に関係ない名前なら、英一とかのほうが決まるのに。
 そう思いません、エージせんぱ……エージ先輩?」
「え?あ、そうだね!にゃはは…」

明らかな作り笑い。
それは桃も気付いたはずだ。
余所余所しい態度。
でも、何より気になったのは…青い顔。

「あの、エージ先輩…オレもしかして……」
「んっ!違う違う!昨日の夜ちょっちゲーム長くやりすぎただけ」

…嘘だ。
俺にしてみればそれは鮮明だった。
桃は気付いたか気付かないか、眉を潜めていた。

「それならいいんスけど…気に障ったんだっらスミマセン」
「だから関係ないって!」

英二は桃の背中をバシバシと遠慮なしに叩いていた。
笑いながら眉を吊り上げていたその表情は…
一瞬にして泣き顔に変わった。

「オレ…ちょっとトイレね」
「あ、エージせん…」

校舎の方向へ駆け出した英二。
桃がそれを追いかけようとした瞬間、
手塚が休憩終了を告げる声が響いた。

戸惑う桃。
俺は手塚のすぐ近くに居たから、
軽く声を張り上げると、走り出した。

「手塚!ごめん、急用!」

こっちを心配そうな表情で見てくる桃。
俺は肩の上に手を置いて、一言残した。


「任せろ」


そして、校舎に向けて全速力で走り始めた。
でもちょっと考えた末…校門を駆け抜けた。







英二のことだ。
言葉通り素直にトイレまで行ったとは思えない。
あれはただ単にあの場から抜け出す言葉に過ぎない。

英二の性格上…学校から出ていることはほぼ間違いないと考えていい。
微かな可能性で学校内を調べるのもありかもしれないけど、
外に出たんだったら一刻も早く探しに出ないと、遠くに行ってしまう。

「英二!どこだ!?」

投げ掛けみてたけど、勿論返事はない。
それほど遠くに行ったとも思えないけど…。
もしかすると、声は聞こえてるのに息を潜めているということもあるし…。


とにかく、俺は走った。
そして思ったこと。

英二の名前には、何か秘密がある。

確信めいた、強い感情が心の中を渦巻いた。
それが良いものか悪いものなのかは、
大体分かっていたけど考えたくはなかった。




走り続けて、15分は経った。
俺は足を止めて腕で汗を拭った。
軽く切れている息を整える。


どこにいったんだよ…英二。


思い当たるところは行った。
近所の小道もくまなく覗いたし、コンテナにも行った。
よく一緒に行った英二のお気に入りの公園にも行った。
道行く人に聞いてみたけど、目撃例は得られなかった。

俺の思いすぎか?
英二は…校内に居たのか?


と、その時。



「……あっ!」



横断歩道を渡って先。
信号機の下…そこに、居た。

少し癖の有る赤茶の髪。
猫を思わせるようなくりっとしているがすっと長い目。

だけど…どこか違う。
何というのだろう。
表情?うん、そんな感じだ。
顔のつくりは同じなのに、雰囲気が何か違う。

見ているうちに、信号は赤になってしまった。
車が間を遮っていく。
大型トラックが何台か連続で通り…。
また信号が青に戻ったとき、もうそこには誰も居なかった。



俺は学校に帰ることにした。





「……」
「大石!どこに居た」
「手塚、俺は…」

俯きながら帰ったテニスコート。
始めに耳に入ったのは、手塚の罵声。
理由を説明しようと口を開くと聞こえたのは…

「何やってんだよ、大石っ」

英二の声。


「……え?」

思わず俺は英二のことを指差してしまった。
その指は急いで下ろしたけど口は塞がらなかった。

「どう…して?」
「にゃにがだよぅ」
「だって英二、さっき走って…」

混乱している俺に、手塚は言ってきた。

「菊丸はずっとここに居た」

何も言い返せなかった。
俺が無言で居ると、手塚は英二の方を向き直って言った。

「もっとも、コートに入ったのは休憩終了の3分後だがな」
「ゴメンゴメン。でもそれはいいっこなしでしょ、手塚」

急に便意を催しちゃってさー、と英二は笑った。
こっちを見て英二がにかっと笑ったので、
俺はとりあえず笑い返した。けど。

本当にそうなのか?
全部俺の思い過ごし…なのか?


「さー大石、早く練習しよっ。折角のダブルスの練習、20分も無駄にしたぞー」
「あ、悪いな」

英二に言われて、俺は急いで自分のラケットをベンチから拾い上げた。
鼓動は妙なほどに強く俺に信号を送ってきたけど、
それが良くわからないまま、コートに立った。

気のせい…きっと気のせいだ。
さっき英二が見せた、曇った表情も。
今笑って見せた笑顔も、何かを隠しているように見えたのも全て気のせ……。

「……?」

英二と視線を合わせるなり、
俺は既視感に似た何かを感じた。

なんだ?
英二の瞳を見た瞬間、何か思い出したような……。

「どしたの、大石」
「い、いや…なんでもない」
「…ヘーンなの」

頭の後ろに手を組みながら英二はそう言ってきた。

ヘン。
確かに今日の俺は変だ。

英二と目を合わせることなんて、日常茶飯時じゃないか。
なんで今更…何かを感じたりする。


でも、脳が確かに語りかけている。
こんなこと、前にもあったと。

ずっと昔?いや、違う。
つい最近。そう、まさに、

数分前に起こった出来事のように――。


「…あっ!」
「ほげ、どったの大石?」

思い出した…思い出した!
そうだ、俺はついさっき英二にあったんだ。
でも手塚が英二はここにいたと言う。
本人もさほど変わった様子はないし。

じゃあ、さっき見たのは一体…?
まさか…ドッペルゲンガー!?

「英二!」
「ほ、ほいっ?」

俺は英二の肩を強く掴んだ。
英二は頭の周りに疑問符を大量に浮かべながらも、
俺としっかり視線を合わせていた。

…何と警告してやればいいのか分からない。
うーん、とりあえず……。

「俺から…離れるな」

それだ。
とにかく近くに誰かが居れば…英二が危険な目に合ってもなんらかの対処はできる。
俺も英二を傍に置いていないと、安心できそうにないし。
そうだ、それがいい。

「えー、それってどういう意…」
「今日一緒に帰ろう!部室の中で待ってていいから。明日の朝迎えに行くよ!それから…」
「う〜…わ、分かったからとりあえず練習しよ!」

英二に喋り終わらせる間もなく捲し立てた俺だったが、
やっと冷静さを取り戻して、練習を開始した。
(手塚に睨まれていたことは、この際気付かなかったことにしよう。後の祭だ)


何もないのが、勿論一番なんだけどな。




  **




「大石ぃ、まだぁ?」
「んー、もうちょっとな」
「ほぉ〜い…」

英二はつまんなそうに足を揺らした。

俺は今部誌を書いている最中なわけだが…。
悪いけど英二には待ってもらっている。
さっきまで英二は俺に色々と話し掛けてきていたのだが、
喋ってると遅くなるから、というと突然しゅんとなってしまった。(言い過ぎたかな…)
それ以来は随分静かにしている。


「…よし!書けたぞ」
「んじゃ、帰ろ帰ろ!」
「分かったから引っ張るな…」

こうして俺たちは帰路についた。


歩いていると、太陽がまだ随分高い位置に見えた。
日が延びたなー、と思いながら歩いていると、英二が訊いてきた。

「ねぇ、大石」
「なんだ?」
「何で今日…突然一緒に帰ろうとか言い出したの?」
「―――」

もっともな質問だ。
確かに理由を説明していないからな…。
でも、英二自身で分かることじゃないのか?

「今日…英二の様子がなんか可笑しかったから…」
「…それで?」

訊き返されたので、俺は頷いた。
すると英二は…

「何それ!大石最高!!」

…大笑いしてきた。

「ちょっ、笑うことないだろう!俺は真剣なんだから…」
「あー、ごみんごみんっ!でも、可笑しいのはどっちかってぇと大石の方だろ?」

…確かに。
今日の俺の行動は不審だったかもしれないけど、
それは全部英二を心配するが故で…。

爆笑し続けて涙まで滲んできている英二に、言ってやった。


「桃と話してたとき…明らかに変だっただろ」


途端、英二の笑い声はぴたりと止んだ。
少し鋭くなった目付きで、こっちを見てくる。

「聞いて…たんだ?」
「聞きたくて聞いたわけじゃないけど」

いや、最後のほうは結構耳を傾けてたかな…?
と、それはややこしくなるから黙っておこう。

「名前の話になった途端、表情変えたから…」
「だーからっ、丁度あの時便意を催したんだって!ハライター」

英二は大袈裟に腹を抱える動作をした。
そしてこっちを向き直って笑った。

普通の人が見れば、それで納得してしまうかもしれない。
だけど、俺は違う。

英二は喜ぶところ、悲しむところ、苦しむところ。
全部見てきた。
その違いぐらい、見分けるのは困難ではない。

「やめろ」
「…おおいし?」
「頼むから…俺の前で作り笑いするのだけは、やめてくれ…」

ほぼ無意識に、俺は英二の肩を両側から押さえ込むように引き寄せていた。
胸の中、英二の肩が一瞬震えた。
数秒後…啜り泣く声が聞こえてきた。

「なっ…んで、大石…分かっ…ちゃうの」
「伊達に長年ゴールデンペアやってないよ」
「恋人暦は」
「もうすぐ半年」
「…けっこ、短いね」

言いながら、英二は俺から体を離した。
しゃくり上げながらも、意識ははっきりとしているようだ。

潤んだ目を見て、俺は言った。

「話して…くれないか?」

英二は何も言わず、
ただ一回首を縦に振った。






近くの公園に俺たちは来た。
人気の少ない公園で、こんな隅のベンチの周りは草が茫々と生えている。
誰も通りかかったりなどしない場所だ。

俺は左、英二は右。
二人肩を並べて座った。
英二はなかなか話し出さず、
たまに鼻を啜ったりする程度で沈黙が続いた。


そうしてどれくらいが経っただろう。
太陽が赤みを増して、大きく見えるようになった頃だ。

「あのね」
「ん?」

英二が漸く話を始めたので、
俺は背凭れに寄り掛かっていた体を起こした。
もう一度躊躇った後、英二は言った。

「これ大石に言うか言わないか、ずっと悩んでたんだけど…」
「うん…」

下を向いて話していた英二は、こっちを向いた。
心配そうな表情。
眉を潜めて、濡れた瞳で。

「絶対…他の人に言わないね?」
「当たり前だろ」
「不二にも…手塚にもだよ!?桃にもおチビちゃんにも海堂にも…」
「分かってるから、落ち着け」

凄い勢いで捲し立てる英二だったが、
どうどう、と手を前に出すと漸く静かになった。

ごくん、と唾を飲み込むと、英二は言った。

「オレ…本当はさ―――…」
「えっ!?」


その言葉を聞いた俺は、思わず立ち上がっていた。





『オレ…本当はさ、』


さっきの英二の言葉が、頭の中を木霊する。



『菊丸家の人間じゃ、ないんだよね…』




 キクマルケノニンゲンジャ、ナイ。




「うそ…だろ?」
「嘘だったら…こんなに苦しくないよ!」

呆然とする俺に、英二は吐き捨てるように叫んだ。
そしてまた、涙を流し始めた。

泣き続ける英二を見ても、俺は優しい言葉なんて掛けてやれなかった。

頭が混乱して、どうしようもなかった。
自分の気持ちを整理するので精一杯だ。


英二は、菊丸家の人じゃ、ない。
ということは即ち、養子か何らかで。
どちらにしろ、血の繋がった実の家族ではないことになる。

もし自分がそうだったら、どうだろうか?
両親とも、妹とも、血縁関係にないと言われたら。
俺は果たして、笑って日々過ごすことができていただろうか。


「英二…」
「オオイシ…っ!」

胸に飛び込んでくる英二を、受け止めることができなかった。
壊れそうなその存在に触れるなんて、とても恐ろしくて。
一方的にしがみ付いてくる英二だった。けど、
放しておくのもまた恐ろしくなって、結局強く抱き締めた。

そうして抱き合ったまま、俺たちは暫く泣いていた。


こんなに声を上げて泣いたのなどいつ以来だろう。
中学に入ってから、一度あったかも分からない。
テニス部の大会で悔し涙を飲んだことは何度もあったけれど。

ここまで泣き声を張り上げたのは、きっと初めてだ。




俺たちがお互い落ち着いた頃には、
夕日が地平線の彼方に消えていくところだった。

思いっきり涙を流したら頭がすっきりしたような、
でも泣き疲れてボーっとしたような。

そのまま不安定な気持ちで朦朧としていると、
横に居た英二が突然はっとした表情になった。
体は半分後ろに逃げているような体勢で
右手を俺の右肩に乗せた。

「あっ…おっ、大、石……」
「英二、どうした。エイ……!」

英二が余りに怯えた様子が気になって、
指差された方法を恐る恐る振り向いた。
そこに人が一人立っていて。

でもただの通行人じゃなかった。
目が合った瞬間、俺は息を飲んだ。


「君は…もしかしてさっきの…!」


そう、そこにいたのは、
俺がさっき横断歩道の向こうで見た人間だった。



そっくり。
あまりにもそっくりだ。
英二と瓜二つ。

敢えて違いを述べるとしたら…バンソウコウ?
それくらいしかない。
顔の部品は同じなのに作り出す雰囲気が違うのも一つだが、
咄嗟に見たのでは判断がつかない。


やっぱりこれが…ドッペルゲンガーってやつか!?
確かそれに遇ってしまった人間は、
数日以内に、死ぬ…だったか?
それとも、存在を一人に保つために
もう一人の自分に殺されるんだったか?

いや、理由なんてどうだっていい!


「何者だ、お前は!英二に…何の用がある」

張り上げた声に、向こうはにやりと笑った。

「へぇ、やっぱりソイツ英二なんだ」
「………」

どういう…ことだ?
そこに居る人間が確かに本物だとも分からずに接近した?
意味がわからない。
こいつは、何者だ…?

「――っ」
「エイイチ」

訊こうと思って口を開いた瞬間。
すぐ横から声が聞こえてそっちを振り返った。
目の前にその者とそっくりな声で話すが、
今声を上げたのは、間違いなく英二だった。

ところで…エイイチ?
もしかして、それがこいつの…!


「だろ」


英二がもう一度確認するように訊いた。

俺たちの前に立つその者は、
声を出さず、口の端だけをにっと上げて返事とした。



「大変だったんだぜ、見つけるの」
「……」
「菊丸って表札見つけたから近くで待ってたんだけどよ、
 ご親族さま、にでも見つかったら面倒になると思って」

周辺をふら付いて自分と同じ顔のやつ探したんだ、
とその者は笑った。

意味が分からなかった。

どうもエイイチというらしいその者は、
話をつらつらと並べていくが、俺には全く訳が分からない。
英二は…分かっているのだろうか?

横を見てみると、口をぎゅっとつぐんで話を聞いていた。
だから俺も何も言わないことにした。


「ところで」
「?」
「そこのアンタ、なんなの?」

顎でしゃくられた。
少々無礼とも取れる態度。(英二の我儘さとはまた違う)
だからといってそれについてとやかくいうつもりもなかったので、
視線を話さないまま確認の意味で訊き返した。

「…俺か?」

向こうは見下げるような睨みをさせながら頷いた。
(座っているこっちのほうが位置的に低いので自動的に見下げられる)
英二と作りはほとんど同じはずなのに、鋭い目付き。
背筋をひやりとさせながらも、言った。

「俺は…大石秀一郎。英二の親友だ。…そういうお前は?」
「オレ?オレは…」
「待って」

会話の真ん中、英二が割り込んできた。
下を向いていたが、すっと顔を上げるとエイイチ君に目を合わせ、
少し震えているながらも強い声で、言った。

「ここからは…オレに説明させて?」
「…好きにしろよ」

少々不機嫌そうに、それと同時に面倒が省けて幸い、
というように花壇を囲む石の一つに腰掛けた。


「あのね、実は…」

躊躇いながらも、英二は始めた。

「英一は…オレの兄貴なんだ」
「っ!」

その一言で、全ての話が一本に繋がった。

英二は三男なはずなのに二という感じが名前に入る理由。
(きっとこのものが兄で英二は実際次男なんだろう)
この二人があまりにも似ている理由。

でも、何か引っ掛かる。

兄弟で英一に英二なんて、そんな単純な名前付けをするか?
兄弟だからといって、こんなにも似ていていいのか?


「11月28日生まれ、血液型はA」
「―――」

声のした方を見やると、英一クンはにっと笑った。

「これがどういう意味か、分かるか?」


11月28日生まれのA型…。
それって、英二と全く同じじゃないか。
英二の説明をしたのか?いやいや、まさかそんな今更。
勿論自分のことを説明したことになる。

血液型が同じことなら、兄弟でならよくありうること。(親が同じなんだから)
しかし…誕生日?
一年丁度違ったとか…まさかそんな偶然。
しかも、英二と英一くんはどう見ても同い年……。

「ま、まさか…」
「そのまさかなんじゃないスか?」


双子―――…。


横を見ると、英二が涙を堪えていた。
潤んだ瞳は、今にも崩れ去りそうだった。



「英二…」
「ん、大丈夫」

肩に乗せた手をそっと剥がすと、
英二はすっと目を開いて言った。

「15年前…オレと英一は、同じ日…同じ親から、生まれたんだ…」
「……」
「でも、オレは必要とされない子だったんだ」

泣きそうな声。
壊れてしまいそうな表情。
崩れ去ってしまいそうな存在。

強く抱き締めてしまいたくなる衝動を抑えるので、必死だった。


「オレの…オレを生んでくれたお母さん。
 オレのこと…嫌いだったんだよ」
「!?」
「二人も要らなかったって…そう言ってた」

ううん、言葉なんて分かんなかったけど。と英二は首を振った。


「覚えてるんだ、オレ。生まれる瞬間のこと。
 すっごく苦しくて…外に出たいって思うんだけど、出られなくて」

「一生懸命助けを呼んだんだ。そうしたら、首ががくんって揺れて。
 頭引っ張られたってちゃんと分かってた」

「それで…やっと外に出られた。オレはすっごく嬉しかった。
 ずっと泣いてたけどさ。…それで、やっと顔を見れたんだ。だけどさ…」


英二は言葉を区切った。
そして、冷たい声でぽつりと呟いた。


「お母さん、笑ってなかった」


英二の目から、一粒涙が零れた。
そのとき俺は、自分の目にも涙が滲んでいることに気付いた。

「やっと頑張って出てきたのにさ…。向こうは悲しそうな顔をしてるんだ。
 『アンタの所為でこっちは苦しい思いしたのよ』って言うみたいに。
 オレだって苦しくて…頑張ったのに」
「英、二…」
「さっきまで同じ場所にいて同じ立場だった…英一のほうにばっか笑顔向けて。
 オレには全然笑いかけてくれなかった」

二粒目、三粒目が零れた。
そして英二は、叫んだ。

「この名前だってそうだよ!双子って似た名前付けられること多いけどさ…
 一と二なんて…双子なのに差を付けるなんて…っ!」

英二のしゃくり上げる声が聞こえた。
堪えているようだが、もう一度引き付けるような声が聞こえた。

「だから…オレは捨てられたんだよ。
 それでオレは菊丸家に貰われることになったんだよ」
「そん、な…」

信用できなくて、俺は英一くんのほうを向いた。
相変わらずの冷たい眼で、鋭い目付きをしていた。


「この話は、オレも後から聞いたんだけどね。
 オレの、この頬のバンソコ…」

英二は絆創膏に手を当てた。
そして、ゆっくりと下に引く。

「……あ!」
「痕が残ってるんだ。出産のときの」

思わず声を上げた俺。
英二は冷静にそう言った。

鉗子分娩って知ってる?と訊かれたので、
素直に首を横に振った。

「ハサミ見たいな道具使ってね、赤ちゃんの頭を無理矢理引っ張りだすんだ」

自分はそれだったんだ、と英二は言った。
双子だから出産が困難だったんだろな〜、とか言っていたが、
あんまり頭には届いていなかった。

「その時…なんの不都合があったのか、傷がここに残っちゃったんだよね。
 普通は残るとしても頭部とかもっと上のほうらしいけど」

こめかみの辺りを指差しながら英二はそう言った。
突然に色々なことを吹き込まれて、俺の脳はパニック寸前だ。

つまりは、英二は双子で、頬の下の傷は出産の際のもので。
母親に…嫌われているかもしれなくて。

それだけで充分だ。
余分な情報は捨てよう。


「オレは…必要とされない子供だったんだよ」


さっきも聞いた言葉だな、と思ったら。
英二は更にこんなことを言う。

「神様にすら、見放されちゃったかな…」
「そんなことな……っ!?」

俺が否定しようとした、その時。


『パン!』


頬を叩く、小気味のいい音。



英一くんが、英二を平手で叩いていた。




「な、何をするんだ!」

俺の声をも無視して、
英一くんは俯いている英二だけを見続けていた。

「自分が世界で一番不幸ぶるなよ英二」
「――」
「被害妄想なんだよ、全部」

英二は顔を上げた。
少し赤い頬に、腫れた目で。

「一。母さんはお前のこと嫌っちゃいない」
「え…?」
「二。オレが見たのも母さんの悲しそうな顔だけ」
「え、ちょっと待っ…」
「三。お前は別に捨てられて菊丸家に貰われたんじゃない」

そこで、話は一旦途切れた。
俺は二人の顔を見比べるしかできなかった。

「―――」
「分かったか」
「分かん…ないよ!」

英二の言葉に、英一くんはふぅ、と溜息を吐いた。
少々面倒くさそうにしながらも、一気に喋り始めた。

「いいか。まず…お前を産むとき誰より苦しんだのは母さんだよ。
 何時間にも及ぶ出産で…初産なのに双子で」
「……」
「オレは先に出たわけだし、一人分にすれば双子だから体は小さかったし。
 結構すんなり産まれた。だから出産時の記憶なんてないけど」

そう。難産だった子のほうが、
出産前後や胎内のことをよく覚えているらしい。
(これはテレビで偶然得た情報だ)

「だけど…これだけは言える。母さんはお前が嫌いで悲しそうな顔をしたんじゃない。
 顔にそんな傷を作っちまったこと、不甲斐なく思ってたんだよ」

これは本人に聞いた話だから間違いねぇぞ、と言った。

「産まれて直ぐの記憶…オレも少しだけある。よっぽど印象的だったんだろうな。
 …母さん、オレのほう向くとずっと泣いてた。全然笑ってくれない」
「えっ?オレてっきり、お前にばっか笑いかけてたんだと…」
「違う。泣きっ放しだった。…本人には、泣き顔なんて見せたくなかったんだろ」

英一くんは地面を蹴った。
少し砂が飛んだ。

「名前だって、差をつけようとしたわけじゃねぇって。
 二人目に産んだ子だって忘れないために、母さんが考えてつけたんだ。
 英っていう字は、オレたちに繋がりを持たせたんだと。…生き別れたりしても平気なように」
「う…そ……」
「もっとも、そんな名前じゃなくたってそれだけ苦しんで産んだ子を忘れるとは思えねぇけど」

英一くんは久しぶりに笑った。
といっても、苦笑いに近いそれだったけれど。

「最後に一つ。オレだって、今まで母さんと暮らしてきたわけじゃない」
「えぇっ!?」

英二は、ベンチから立ち上がった。

「じゃあ、お前なんでそんなに知って…」
「母さん…養子先のな、に全部聞いた。オレの出生のこと。
 ちょっとの情報から、母さんの居場所を探り当てた。一週間前」

俺は呆然とベンチに座り尽くしていた。
前で交わされている会話には、とてもじゃないが入り込めそうに無い。
そのままそこにそうしていることにした。

瞬きをぱちぱちと繰り返す英二に深く溜息を吐くと、
英一くんは問いを仕掛けた。

「お前、母さんはオレたちを産んだとき何歳だったか、知ってるか?」

英二は首を横に振った。
英一くんはもう一度溜息を吐いた。


「15歳だよ」
「……えっ!?」


気の遠くなるような話だった。
できれば耳を背けたいが、そうもいかないような気がした。

「彼氏とヤったら、一発目で出来ちまったんだってよ」

苦い笑いを、した。

「家族にも話せなくて…大変だったってよ。
 結局下ろすことも出来なくて、出産することになったって」
「15歳なんて…オレと変わんない…」
「学校も退学だぜ?お陰に彼氏とはその後続かなかったって。
 全く…不幸な話だよな」

きっと目線を真っ直ぐ見据えると、英一くんは言った。

「だけどやっぱりまだ育てるなんてことも出来なくて、
 オレたちをそれぞれ違う家へ預けたんだって」
「…知らな、かった」

ふぅ、とまた溜息を吐いた。
さっきから何回目になるだろう。


「母さんがそこまで苦労してオレ達のこと産んでくれたんだよ。
 それを…忘れるなよ」


それだけだ、というと英一くんは背を向けた。

もう…行ってしまうのか?
それだけ言って?
悲しそうな表情だけを残して?


「待…」
「待って!!」

英二の声のほうが大きかった。

「それだけ…それだけを言うために来たの?
 違うだろ?もっと…なにか理由が…」

振り返ると、英一くんは一言述べた。

「オレはこれから本当の母さんと暮らす。
 その方が苦労は多いかもしれないけど…オレはそれで満足だ」
「え、それじゃあ、オレは…」
「…本当はお前も誘いに来たんだよ」
「え……?」

再びこっちに歩みよってきて英一くんは言う。

「お前、今幸せ?」
「へ?」
「幸せかってきいてんだよ!」

英一くんは牙を剥き出した。
尖った八重歯。英二と同じだ。

「幸せ……?」

英二が訴えるようにこっちを振り向いた。
俺は、笑顔を返した。

きっと、答えは英二もわかっているはずだ。


「幸せ…うん!オレ今幸せ!」


その言葉に、「その平和ボケした顔りゃ分かるよ」と
英一くんは吐き捨てるように言った。

「だったら、無理にくる必要ねぇ」
「……」
「どうしても来たいって言うなら、それはそれでいいけどよ」

どうする?と訊く英一くん。
英二は…首を横に振った。


「オレ…お母さんのこと勘違いしてた。今日はその誤解が解けてよかった。
 いつか本当のお母さんに会いに行きたい。でも……」

ぎゅっ、と英二の拳に力が篭るのが見えた。
心の中で俺は、頑張れ、と声援を送った。

強い言葉で、英二は言い切った。


「オレ、菊丸家が好き。今の生活が好き。だから…」

「なら、来る必要はねぇって」
「――」


にこ、と、英一くんは初めて微笑んだ。
悪意の全く篭っていない、優しい笑顔。
少し哀愁は漂っていたが、ともかく。

英二の笑った顔にそっくりだ、と思った。


「大切にしろよ、今の生活」
「う、うん…」

英一くんは、これ、と一枚の紙切れを英二に渡した。
きっと、連絡先か何かだろう。

くるりと背中を向けると、歩き始めた。
そして、言う。


「…オレたち親子の中で、一番幸せに暮らせてたんじゃねぇの、お前」
「………」
「全く、それなのにこっちが悪者扱いされちゃ堪んねぇ…」


ぽりぽりと頭を掻きながら退場していく背中に、英二は叫んだ。


「…ありがと、英一ぃ〜〜!!」

「うっせ!叫ぶなこの幸せボケ野郎っ!」


振り返った英一くんの表情は、
怒っているように見せていたけど…穏やかだった。
同時に仲直りも済んだかな、なんて思ってしまった俺だった。



英一くんも居なくなって、その場はまた静かになった。


「…帰ろうか」
「うん」

歩き始める俺たちだったが、
なんとなくギクシャクした感じは否めない。
少し緊張した面持ちで、英二が始めた。

「ごめんね、大石、なんか凄い話聞かせちゃって…」
「いや、俺こそ悪いな。部外者なのに最後まで居合わせちゃって…」


また、沈黙。


「でも…」
「ん?」
「大石にも本当のこと知ってもらえて丁度良かった。
 何より…オレ自身誤解解けて良かった」

英二はにこっと笑った。
俺も笑い返した。

「産んだときから子供のことを嫌いな親なんて居ないよ」
「最近親が子を殺す事件とか増えてるけどね」
「ああ…怖いな」

確かに、そのようなニュースは最近よく流れる。
言うことを聞かなかった、とか、そんな理由で父が子を殴る。
子育てに疲れた、とか、そんな理由で母が子を殺す。

英二みたいに、一緒に暮らしたかったはずなのに暮らせなかった人もいるのに、
と心が痛んだ。

「…オレ、一生子供生まないかも」
「―――」

頭の後ろに手を組みながら英二がそう言った。

英二も…怖いのかもしれない。
自分自身がそんなことが会ったから。
子を生むといっても、女性と男性じゃ随分と重みが違うことは分かっているけど、
それでも、やっぱり恐怖は拭えないということか。

「えい…」
「だって、いくら青学の母でも子供は産めないでしょ?」


一瞬の間。


「……はぁ!?」
「にゃはは、大石って面白ぇー」

その反応最高、と英二は背中を叩いた。

「あの、英二…それって……」
「気に入ってくれた?プロポーズっ」


やられたっ!


そうだ…いくらあんな話だとはいえ、
英二は英二じゃないか!
おちゃらけてて冗談を言うのが好きで、
笑顔を振り撒いて飛び回っている…。

ふざけているとは分かっていても、
俺は顔が赤くなるのを抑えられなかった。


…でもやっぱり、英二は凄い。


「英二は…凄いよ」
「ほよ、なんで?」
「凄いよ…」

話から察するに、英二は自分が菊丸家の子ではないと、
暫く前に知ったことになる。(どれくらい前かまでは分からないが)
それでも最近、変わった態度を見ることはなかった。
いつも笑顔で、みんなにもそれを分けてやって。
ついに今日は関係のある話を桃としていてボロが出たけど、
それ以外では、英二はいつでも英二だった。


菊丸英二だった。



「おおいしぃ?どったのさ突然」
「…なんでもない」

背中越しに腕を回して、体に向けてぎゅっと引いた。
およ、とバランスを崩しかけたまま英二は俺に抱き寄せられた。

「…やっぱ大石ヘン」
「いつもだろ」
「いや、いつもよりもっとヘン」
「…否定してくれないんだ」

あ、ウソウソ!と慌てる英二に、
気にしてない、と返した。

ふぅ、と溜息を吐くと、
腕の中から英二が上目遣いに言ってきた。

「大石、オレさ、今度…産んでくれた方のお母さんに会いに行こうと思うんだ」
「うん」
「だから、その時…一緒に来てくれる?」

心配そうな表情。
潜めた眉のその上に、唇を落とした。

「うにゃっ」
「勿論、英二の頼みならなんなりとね」

英二は、笑った。
優しい笑顔というよりかは、元気な笑顔。

そうだ。これがいつもの英二なんだ。

「よーっし!じゃオレ、明日からも頑張ろ!
 大石と婚約もしちゃったし」
「え、それは…」
「にゃはははは!」

俺の腕の中から抜け出しながら笑う英二に、
俺は赤い顔を返すしか出来なかった。

天真爛漫。が故に、自由放漫。時により傲慢。

「英二…」
「あっ!そうだ大石」
「っ?」

叫ぶと、突然英二は真剣な表情になった。
眉間に深く皺を寄せて、釣り上がった目で。

なにかと思ったら…。


「オレって、そんなに幸せボケしてる!?」
「…え」
「そこまで平和人間?ボケボケしてる?そんなことないよにゃ、
 視線だって猫みたいにこんなにギラーンってしてるのに!」

英二は目の端を上に引っ張りながらそう言った。
俺は…笑った。

「わ、笑うにゃっ!」
「幸せボケか。…充分すぎるほど、ね」
「うわ、ひでー!それどういう意味だよ!!」


その後の笑い合いながらの帰り道は、あっという間に過ぎた。
家まで送ろうか、と訊いたけど、
もう暗いからいいよ、だと。
オレの大石が襲われたら困るもんねーとのことで。(どういうことだ…)

一人になってから、また少し考えた。
今日英二について知ったこと、忘れないように心に刻み込むことにした。
辛い事実もあるけど、それを正面から受け止めるために。


いつも君がそうしてくれたように、
俺もこれから笑顔を返すから。

だから――…。


これからも宜しくな、菊丸英二君。



 いや、英二……。






















こっぱず!(稲瀬もビックリ)
名前にてんてんてんで終わるなよ!あー嫌だ。さすが大石。

なんか凄い話でごめんなさい。
やっぱり日記でやるネタじゃなかったなと今更後悔。
でもまあいいや。書けてすっきりした。

最後にもう一度フォロー。
私は英二は菊丸家の三男坊だと信じています。
(まさか英一なんて本当に居たら…ネタもいいところ!)
よく分からないネタですがお付き合いくださり有り難う御座いました。


2003/08/12-19