「ねぇ不二くん、お願いがあるんだけど」 クラスの女子の声に振り返る。そこにはよく見る二人組がいて、俺の目の前に立っているのは、クラスの中でもおとなしいタイプで柔らかい雰囲気の子だ。お願いってなんだ? と次の言葉を待っていると、何かを差し出してきた。手紙? 「これ……お兄さんに渡してほしくて」 手に取らないまま目を落とすと、確かに封筒には『不二周助先輩へ』と書かれている。 ……兄貴宛のラブレター。 そう認識した瞬間、無意識に大きなため息が漏れた。 「自分で渡せよ」 「でも……」 「無理だから頼んでるんじゃん!2年の教室行くの怖いしねーお願い!」 二人組のもう一人は、斜め後ろに立っているのに声と態度はデカくて前のめりに迫ってくる。そいつの言葉は止まらない。 「いいじゃん毎日家で顔合わすんでしょ? いいなーあんなにカッコ良くて優しくてテニスもうまいお兄さんがいるなんて!」 兄貴のテニスの実力は学校でも有名だった。兄貴と手塚さんは1年のうちから強豪テニス部で早々にレギュラーになり、試合でも活躍しているということは一学年下の俺たちの学年でも話題になっていた。 昔は誇らしかった。自分の兄貴が周りから一目置かれるような存在であることが。いつからだろう。このような感情を抱くようになったのは。 「…………」 「あ、渡してくれるの?」 その手紙を、手に取った俺は……ビリビリに引き裂いてやった。 「キャッ!」 「ちょっと何すんの不二!」 「うるせぇな。自分で渡せっつってんだろ」 細かい破片になった手紙を床にばらまいて、「サイテー!」と背中に罵声を浴びせられながら俺は教室を後にした。 嫌いだよ。兄貴も、アイツらも。 学校での俺の悲惨な扱いが始まったのは昨日今日じゃない。中学校生活に期待を抱きながら校門をくぐった入学初日、テニス部に仮入部したときに全てが始まった。 「あれが不二の弟?」 「そうそう。裕太!」 兄貴は投げかけられた質問に返事をして、俺に手を振ってきた。周囲の視線が一斉に集まるのを感じた。「あれが不二の……」「確かに似てるな」「そうか?」「あいつもテニスうまいのかな」……様々な声が聞こえてきた。 「あとで1年生と上級生で少しだけ打つんだって。一緒にやる?」 「やだよ、恥ずかしいだろ」 「ふふ」 兄貴が俺にかまってきて、俺は少し突っぱねる。家と変わらないやりとり。ただ、違うのは……。 「レギュラー集合!」 「あ、呼ばれちゃった。また後でね」 「おう」 兄貴の背中を見送ると、青白赤の三色ジャージに身を包んだ何人かが一箇所に集まっていた。 レギュラーか……。青学テニス部のレギュラーは校内ランキング戦の順位付けで決まると兄貴から聞いている。レギュラーメンバーは、他の部員とは扱いが違うみたいだった。 いつかは俺もあの中に入って兄貴と肩を並べて……いや、兄貴にも勝って青学のトップを目指してやる! そのためには、手塚さんにも勝たないといけないってことだ。俺は今まで兄貴に勝てたことは一度もないけれど、その兄貴が「試合をする前から明確に勝てないって思えた同級生は初めてだよ」と言っていた。相当な実力者に違いない。どれがその人なのか……。 (手塚さんに勝てれば……兄貴にも勝ってるってことになるかな) レギュラー集団を見回していると、全員集合! と声が掛かったので駆け寄った。そこで部長と副部長だけ自己紹介があって、手塚さんは2年生ながら副部長であることを知った。やはり只者ではないらしい。その後の練習内容の説明を受ける。俺たち仮入部の1年たちはまずはボール拾いから。兄貴の言ったとおり、後半に少し打たせてもらえるらしい。 「ボールかご取ってくれ! えーと、不二弟」 「は? 俺ですか」 「他に誰がいるんだよ」 命令されて、背後にあったボールかごをその先輩の下へ持っていく。 (裕太って名前があるんですけど……ま、俺もこの先輩の名前を知らないから文句は言えない) 不満はありながらも言葉は飲み込んだ。しかし弟として扱われることはこの時に留まらなかった。 名前を全く知られていない他の一年と違って存在だけは知られている俺は、先程のように度々雑用に駆り出された。「弟」「弟くん」「不二弟」。それが青学テニス部での俺の呼び名になりつつあった。 (本入部したら、裕太って呼んでくださいって言おう……) そう考えていると、「キャー、不二くんカッコイイ!」と黄色い声が。 声の方向を見ると、兄貴が打ち合っているコートの後ろのフェンス沿いには女子生徒が群れを成していた。 (すげー兄貴……女子にモテてる) 確かに兄貴はカッコイイ。自分も今までテニスをする兄貴の背中を追ってきて、カッコイイと思ってきた。そのカッコイイ兄貴をいつか越えてやると練習に励んできた。だから周りも兄貴をカッコイイと評価する気持ちはわかる。だけど何故、胸の中がモヤモヤするのか。 「では次は1年と上級生で打ち合いを行う! ラケットを持っていない者には貸してやるように」 自分のラケットを持参していた俺は、コートの端に置いておいたテニスバッグに駆け寄って、急いでコートに戻った。 「じゃあ弟、俺と組むか」 「よろしくお願いします!」 弟と呼ばれることはとりあえず今日は諦めた。できれば手塚さんと打ってみたかった……けどそれはまた次の機会だ。声を掛けてくれた先輩――レギュラージャージを着ているからきっとそれなりの実力者だ――と打つことになった。 まずは様子見ということか、サーブではなく球出しの要領で軽い打球が飛んできた。俺は力を込めて打ち返した。応えるように先輩が返してくる球質も変わっていった。 ほとんど動かなくても届く位置に打ち返されていたのが、いつの間にかスペースを狙われるようになっている気がする。打球が速く、重く、鋭くなっていく。気付けば本気のラリーに発展していた。 (さすが青学レギュラー……でも、これなら兄貴の方がずっと強い!) 兄貴にはいつもコテンパンにされている俺だけど、この先輩とはイーブンかそれ以上で打ち合えた。試合というわけでもないしカウントは取っていなかったけれど、心の中では数えていた。これでサーティーフォーティー。次、俺がポイントを取れば――。 「そこまで! 次のメンバーに交代!」 声が掛かり、勝負はお預けとなった。物足りない気持ちもありながらコートを後にする。 「お前、うまいな。さすが不二の弟」 そう言われたので、ありがとうございます、と返したけれど。 (別に、周助の弟だからうまいってわけじゃねーだろ) コートを見ると、兄貴が別の1年の相手をしていた。テニスは初心者みたいで、野球のような構えをしていた。駆け寄って何か一言二言交わして、フォームのお手本を見せ、定位置に戻ってボールを出す。打ち返された球はとんでもない方に飛んでいったけれど、コート内には入っていた。 (あの球なら、兄貴は取る) だけど兄貴は無理に追いかけることはせずにニコリと笑って「その調子。もう少しゆっくり振り抜いてみて」と緩い球を出した。そんなやり取りが数回。さっきまでバッターボックスに入っているが如くだったとは信じられないくらい、テニスらしいフォームになっていた。 さっきからやたらと「弟」扱いされるのもわかる気がした。きっと兄貴はこの部の中でも実力者で、認められていて、選手として信頼されている。後から入ってきた俺がその二番手扱いになってしまうのも、理解はできた。 水を飲もうとコートを抜けて水飲み場に向かうと、「さっき、不二弟のラリー見てたか?」と声が聞こえて急いで足を止めた。どうやら自分の噂話だ。 「ああ。相当うまかったな」 「どうなってんだよあの兄弟」 俺の実力も認められている。その手応えを感じて小さくガッツポーズをした。今はまだ兄貴の二番手かもしれない。だけどきっとそのうち、俺も、俺自身の手で――。 「ただ」 その一言で俺の思考は遮られた。そして、次の言葉で全身が凍りつくように冷たくなった。 「不二が入部してきたときの方がずっとうまかったな」 それな、と笑いながら二人はどこかへいなくなった。物陰に隠れたまま俺は、呆然と立ち尽くすしかできなかった。 体験入部ですっかり懲りた俺は、テニス部に入部することを選ばなかった。 ** 家から少し遠い、レベルの高いテニススクールに頻度を上げて通うことになった。本来ならば中学に入学したら部活が始まるからテニススクールはやめるつもりでいた。憧れで、楽しみにしていた青学テニス部に入らないという決断をしたことを両親は疑問を示していたけれど、スクールに通い続けることは許してくれた。兄貴は特に何も言ってこなかった。 (部活なんて…どうせ仲良しこよしの奴らが集まる場所だ) 自分が教える側になったり、弱い奴らに合わせた練習をしたり。きっと部活を続けてもろくなことはない。俺はここで本格的にテニスを極める。あんな場所で、ぬるま湯に浸かってる兄貴のことなんかすぐに越してやる! 「はっ!」 地面で弾んだ瞬間のボールを捕え、相手コートに打ち返し、コーチの横をぶち抜いた。コーチは「だいぶ力が付いてきたな」と笑った。 今後の練習についてコーチと話していると、コート外から同じく中学生と思われる3人組が歩み寄ってきた。流れで一緒に打ち合うことになった。その3名は、聖ルドルフ学院のテニス部員とのことだった。全国から集められたという彼らは、青学にあまり興味がなさそうだった。 (このテニススクールで会う人みんな、俺が青学に通っていると知ると、何故テニス部に入らないのかと言ってくるばかりだったのに) この人たちはどんな人たちなのだろうと興味が沸いた。聖ルドルフ……あまり聞き覚えのない学校名だから強豪校ではなさそうだ。だけど全国から集められたとも言っていた。どういうことなのか。 疑問に思いながら、俺は3人のうちの一人の観月はじめさんと試合をすることになった。一学年上の中学2年生とのことだった。1つ上といっても、俺も自分の実力にはある程度の自信があった。これまで半年間、スクールに通って熱心に練習をしてきたし、大人達相手に打ち合っても負けることは少ない。同世代で負けるような相手はそうそういない。そう思っていた。しかし。 「6−0! ゲームセットだーね!」 (……嘘だろ) 自分が井の中の蛙であったことを思い知らされた。一学年上ということは兄貴と同学年だ。兄貴の他にも、こんなに強い人がいただなんて……。 「ここまで完敗したのは兄貴以来……あ、いえ」 思わず漏らした言葉を自分で訂正する。他人に口に出されると嫌がるくせに、自ら兄貴のことを口にしてしまった。しかし観月さんはそんなことにも一切構わずに笑った。 「キミのそのライジングショットが完璧なら危なかった。キミはもっと伸びるよ」 「え?」 褒められたのだ。俺のテニスが。兄貴と比べてどうではない。俺に素質があるとも言ってくれた。 純粋に俺自身が認められたのだ。それは、初めて感じるような高揚感だった。 「……観月さん!」 ここなら、俺は“不二裕太”で居られる――そう感じた俺は、観月さんに聖ルドルフについて聞かせてもらった。 その日がきっかけで俺の生活は一変することになる。 どうしても聖ルドルフ学院に転入したいんだと親に話した。そこで真剣にテニスに取り組みたいのだと説明した。俺が青学テニス部に入らなかったこともあって、なんとなく事情は理解してもらえたように思う。書類を集めて、最低限の荷物を持って、俺は中1の秋にして家を出た。 電車で通えない距離ではないけれど、親を説得して寮に入らせてもらうことになった。ベッドと机だけ置かれた小さな部屋。風呂は共用。だけど自然と窮屈ではなかった。 家を出ればきっとせいせいする。そう思っていたし、実際に解放されたような気持ちはあった。しかし、それ以上に感じたのは寂しさだった。 初めの数日、俺はいわゆるホームシックの状態になっていた。 ぽかりと空いた胸に、母さんの作ったかぼちゃカレー、姉貴のラズベリーパイが浮かんでは消える。 (……食いモンばっかじゃねーか) 自分の思考に思わず失笑。でも、そんなもんだ。海外旅行に行ったときだって帰りたいと思うのは結局味噌汁が食いたくなったときだ。 もちろん、家族に会えないことも寂しさの要因ではあるが。 ふっと、兄貴の顔を思い浮かべて、どこかほっとした。これからしばらく顔を合わせなくてもいい。比べらなくていい。比べられなくていいということに。 (思ってた以上に寂しくて、せいせいするというより、ほっとしている) 自分の気持ちを気持ちを整理しながら磨いていたラケット鞄にしまった。 (明日からついに、テニス部だ) 正式な部員としての初めての部活動に俺は胸を躍らせていた。 電気を消して、ベッドに入って、目を閉じた。その夜は何の食べ物も頭に浮かばないまま眠りについた。 ** 聖ルドルフに入って、俺の時間は動き始めた。日々が目まぐるしく過ぎていく。 その中、俺をスカウトしてきた張本人である「観月はじめ」という人間はあっという間にオレの中に入り込んできて、最も関わりの深い人間へと変わり始めた。 「裕太、ロブ処理時のテイクバックが遅い」 ラリーが止んだ瞬間に飛んできた檄の方向に首を傾ける。観月さんが顎に手を当て首を傾げていた。 「はい!」 「この前同じことを注意したばかりのはずだ」 「すみません」 それだけ残して観月さんは去っていった。ネットの向こう側から赤澤部長が歩み寄ってきて「気にしすぎるなよ裕太。アイツが強くいうのはそれだけお前に期待してんだよ」と言ってくれた。 「続けんぞ。多めにロブ出すからな」 「はい!」 定位置につき、再びラリーを開始する。 うまくなりたい。強くなりたい。誰にも負けない力を手に入れたい。その思いでこのルドルフ学院にやってきた。それができなければすべてを捨ててここに来た意味がない。 「はあっ!!」 気合を込めて打ち込んだボールは赤澤部長の足元を弾んで通り過ぎていった。部長はニヤリと笑って「惜しいな」と言った。 「アウトっスか……」 「でも見違えるくらいパワーが付いてきたんじゃねーか? 来た頃より背も伸びてきたな」 ルドルフに編入してきたときはまだ残暑の残る秋口いう頃だった。動きを止めると長袖が欲しいような季節になっていることを考えるとだいぶ季節は進んでいる。技術面でも、身体面でも、成長している手応えは俺自身にもあった。 赤澤部長との練習を終え、俺はベンチでノートを捲っている観月さんの前まで歩いて行った。 「どうした裕太」 「観月さん、俺と試合してください」 意を決して申し込んだ。知りたかった。自分のテニスの実力がどれほど向上しているのか。初めて観月さんと会ったあの日から。 「ロブ対処の癖は直ったのか?」 「だ、大丈夫です!」 観月さんはニヤリと口の端を持ち上げて「いいでしょう」と言うとノートを置いて立ち上がった。 ** 「ゲームセットです。ご苦労様でした」 涼しげな顔で観月さんはコートから捌けていった。俺は手を膝についたまま呼吸が整うのを待つしかない。 (全っ然勝てる気がしない……) スクールで初めて対戦した時と変わらない……いや、それ以上の力の差を見せつけられて敗北してしまった。6−0であることは変わらず、試合内容としては、力負けしたというより自滅させられたような……。 (こんなに真剣に練習を積んで……パワーも付いてきたってさっき部長にも言われた……なのに差が縮まるどころか広がっている……?) 観月さんは部活中、部員たちの様子を見て回ることが多い。部員たちのレベルアップのためにアドバイスをしたり、恐らくデータを集めたり。テニスの練習自体は俺の方が積んでいるはずなのに、何故……。 ドリンクを置いていたベンチに向かうと観月さんが座っていた。ふっと視線を外したけれど、観月さんの方から声を掛けてきた。 「落ち込んでるのか」 「……はい」 「素直だな裕太は」 観月さんはクックックと声を出して笑った。俺としては面白くない。無意識に口を尖らせていると、笑いを止めた観月さんは「僕が君に勝てるのは当然のことだよ」と言った。 「どういうことですか」 「君がルドルフに来て1ヵ月以上。その間に君のデータはどんどん蓄積されてるんですよ、ここにね」 トントン、と人差し指で頭をつついて見せた。 「力任せにやることだけがテニスじゃない。がむしゃらに練習することも時には大事だが必要な技術や筋力を強化するために適切な練習を行うことが大切なんだ」 その言葉を聞いて、俺は当分この人に勝てない、と思ってしまった。がむしゃらに頑張り続ければ、自分の全力で常に挑み続ければ上へ上っていけると信じていたのに、そうではないと。 (環境も変えて、毎日一生懸命やっているけれど……もしかして、このままだと兄貴にも一生勝てない?) 「さ、満足しましたか。これに懲りたらもう少しミーティングにも集中して取り組むことだな。最近あくびが多いですよ」 そう残して観月さんは歩き去っていこうとした。焦ってその背中に声を掛けた。 「観月さん、待ってください!」 「まだ何か」 「俺はどうしたらもっと強くなれますか!?」 俺の言葉に、観月さんは驚いているようにも見えた。しかし表情は大きくは変わらない。なんとか思いを伝えようと、観月さんの心を動かそうと、俺は言葉を続ける。 「俺は頭も悪いし、きっと観月さんみたいにはなれない。俺は、俺のやり方で……俺のテニスで強くなりたいんです!」 俺の言葉を聞き届けると、観月さんは俺の真正面に立って、じっとこちらを見てきた。心の中まで見透かされそうな気がしてさり気なく目元から口のあたりへ視線を逸らした。観月さんは一歩歩み寄ってきて、ぽんと手を俺の頭に乗せてきた。髪を押し付けるように、ぽんぽんと幾度か手が頭の上を動く。 「み、観月さん……?」 これはあやされているのか。距離の近さにどぎまぎしていると、観月さんはその手を俺の肩に移した。両肩から腕に掛けてぎゅっぎゅっと握り込まれ、表面を擦られる。 ふと、花の香りが漂ってきた。確か、これは薔薇の香りだ。至近距離で見ると伏せられたまつ毛はやたらと長く見える。 (観月さんって、なんか……) 「裕太」 「は、はい」 「今体重は何キロですか」 「え? えっとー……しばらく計ってないですけどたぶん53キロくらい……かな」 「これから毎日計りなさい。体の状態を知る重要な目安になる」 「はい……」 今度は観月さんは俺の頭のてっぺんあたりをじっと見てきた。 「背は僕より高くなったな。もう少し伸びそうだが……」 「あ、あの観月さん、さっきから何を……」 観月さんは俺の体から手を放し、一歩下がり、またじっと覗き込んできた。 「裕太くん」 「はい」 「何か大きなものを得るとき、その代償を差出さなければいけないこともある。この意味がわかりますか」 「わかります! 俺、なんだってやります!」 答えたあと、沈黙が生まれた。 観月さんは真っ直ぐとこっちを見てくる。俺は真っ直ぐ見返す。無言の時がしばらく流れ、観月さんはフゥとため息をついた。 「着いてきてください」 言われた通り観月さんの後を付いていくと、一旦部室前で待たされた。1分と掛からず出てきた観月さんは「視聴覚室に行きます」と言った。手にはビデオカセットが掴まれている。確かに、部室にはビデオが見られるテレビはない。 テニスウェアのまま上履きを履くのはなんだか変な気持ちがしながら靴を履き替えて、放課後の静かな廊下を二人歩く。転入してきてから視聴覚室に訪れたことは一度もない。理科室や家庭科室がある並びの廊下のずっと奥にその部屋はあった。 外はまだまだ明るいのに、暗幕のせいで室内は真っ暗だった。部屋の隅には横幅よりも奥行きの方があるのではないかというような旧式のテレビがあった。観月さんがリモコンで電源を入れるとピリッとブラウン管テレビ特有の音がした。砂嵐の光を頼りに観月さんはビデオをテレビ本体に差し込み、挿入口のすぐ下のボタンで再生を開始した。 映し出されたのはテニスの試合だった。映像はカラーではあるもののどこか色褪せている。選手たちの服装からも、少し年代が古いものだと予想できる。画面上の小さなボールと選手の動きを目で追う。恐らくプロ同士であろうそのラリーは白熱していた。 二人とも無言のままラリーを見つめた。5分ほど経っただろうか。 「次です。奥側の選手を見ていなさい」 校舎に入ってから観月さんが初めて発した言葉だった。言われた通り奥側の選手に着目し、手前側の選手のサービスで始まったラリーを見守る。ここまでは普通のラリーだ……と思っていたとき、奥側の選手がこちらに背中が全て見えるほど大きくラケットを後ろに振り上げた。次の瞬間。 「……えっ!?」 思わず声が出た。振り上げた腕に掴まれたラケットを勢いよく振り下ろすと同時に全身も使って強烈なスピンを掛けたように見えた。その結果、相手コートに弾んだボールは妙な向きに跳ね上がり、手前側の選手はボールに触れることすら叶わなかった。 「す、すごい…」 「これがツイストスピンショットだ」 「ツイストスピンショット……」 聞き慣れないその言葉を思わず復唱した。 「打球が斜めに跳ね上がったのを見たか」 「はい」 「あれは左打ちと右打ちで跳ねる向きが違うんだ」 観月さんを見た。観月さんも俺を見返してきていた。観月さんの顔の横半分だけが、テレビ画面に照らされて青白く光っている。テレビの音声は出力されていなくて、相変わらずピリピリとした音ともいえないような波長だけを感じ続けた。 観月さんは立ち上がり、俺の背後に回って肩に手を置いた。 「裕太、君には君のお兄さんにない絶対的な武器がある」 左手が、オレの肩を撫でる。 「それは左利きだということだ」 その手はするりとオレの二の腕の表面を滑って、離れていった。観月さんは説明を続ける。 「君のライジングショットは確かに素晴らしい。だけど練習すれば誰でも出来るようになる。ところが」 観月さんはそこで一拍置いた。次にどんな言葉が出てくるか、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。 「左のツイストスピンショット……これは右のツイストスピンショットとは大きく違う。左打ちということに意味のある特別なショットになる」 そこまで言って、観月さんは俺の正面に回ってきた。そしてニッと口の端を持ち上げた。 「つまり、君だけの特別な武器になる」 「俺だけの…」 無意識に左手にぐっと力が籠もる。どれだけ一生懸命練習をして、兄貴の背中を追い続けても、追い越すことは出来ないと痛感していた。でももし、俺だけの武器が、本当に手に入るとしたら――。 「しかしリスクもあります」 俺の思考を観月さんはピシャリと遮断した。 「君はまだ成長期が終わっていない。骨格が出来上がっていない時期に無理をすると肩を壊しかねない」 「やります!」 間髪入れずに返した。せっかく掴みかけた希望の光を逃したくなかった。そのためなら、痛い思いをすることは怖くない。 観月さんに認められたい。 兄貴に勝ちたい。 「自分だけ」がほしい。 無鉄砲と言われればそうなのかもしれない。だけど俺は多少の犠牲は払ってでもこのショットを会得したいと、そう思った。 まっすぐ観月さんの目を見続ける。 観月さんは、ふぅ、と短く息をついた。 「いいでしょう。君の覚悟は伝わりました」 「じゃあ……」 「ただし条件があります」 どんな厳しい条件を出されるかと身構えた。しかし次の言葉を発する観月さんの目線は優しかった。 「絶対に指定された以上の練習はしないこと。いいな」 「はい!」 「いつも返事だけは立派だな……絶対にですよ」 「はい! 約束します!」 どこか呆れ気味に言ってくる観月さんに、力いっぱいの返事を返した。 絶対にできるようになってやる。そう誓った。 (俺だけの武器……) 簡単に会得できる技ではないことはわかった。だけど、だからこそ、それを使えるようになったときのことを考えて胸が躍った。 ** (……一向にできるようにならない) もうツイストスピンショットの練習を始めて1ヵ月ほどが経過していた。練習量は制限されていて週に2回程度しかそれ用の練習はしていないが、それでも1ヵ月だ。にも関わらず、ボールに回転を掛けるどころかまともに相手コートに返らない。 「焦るなよ裕太。来年の夏までに間に合わせればいいんだ。この冬はまず基盤づくり、本格的な練習は春からのつもりでいればいい」 「はい……」 観月さんはそう言うけれど、俺は不安だった。他の練習を削ってこのショットに特化した練習を積んでいる。にも関わらずショットが完成しない。このままではただ他の練習に費やす練習時間が減っているだけだ。どれだけ努力していたって、できるようにならなければただのマイナスでしかない。 (明日は観月さんにマンツーマンで指導を受ける日だ。少しでも成長した状態で見てほしい) 焦るなと観月さんは言ってくれたけど、観月さんのシナリオだと俺は今どれほどできていれば及第点なのだろう。無理をさせないためにああ言ってくれただけで、本当はもっとできていると予想していたのではないか。 (がっかりされたくない、やっと自分のことを認めてくれたのに) 走っても走っても前が離れていくような……そんな焦燥感に駆られながらその晩は眠りについた。 内容はよく覚えていないけれどラズベリーパイが出た気がする。 ** 翌日、観月さんと俺は二人だけで一つのコートに入っていた。約束通り今日はマンツーマンの指導を受ける。観月さんの指導はいつも的確で、スクールのコーチよりも鋭い……と思ってしまうことも度々ある。 「アップは済んでいるな。2ゲームだけ試合をしよう。細かい指導はそのあとだ」 「よろしくお願いします!」 ボールを2つ渡され、サーブの位置に着く。「そうだ」と聞こえて顔を上げる。 「ツイストスピンショットは打たないように……といってもまだ試合で使えるレベルではないだろうが」 「わかってます」 観月さんの厳重な警告に苦笑いを返す。 (本当は、試合で使えるレベルになっていれば、一球だけでも披露したかったけど) 小さくため息が漏れた。いい。今はこの練習に集中しよう。 タンタンとボールを突く。それを宙に放って……サーブを打ち下ろす! 「……え?」 サーブはラケットを構えたままの観月さんの横を通り過ぎていった。確かに渾身の力は込めたけれど……そんな観月さんが反応すらできないほどのサーブだったか? 「観月さん?」 「何でもない。フィフティーンラブだ」 「あ、はい」 何事もなかったかのようにボールを拾い上げて打ち返してくる観月さんを見ながらサイドを移す。ボールを受け取って、観月さんも構えたことを確認して、サーブを放つ。 ――また観月さんは微動だにしなかった。これはいよいよ何かがおかしい……そう考えていると観月さんはラケットを下ろした。 「裕太」 「はい!」 名前を呼ばれてドキンと背筋が伸びる。観月さんはズンズンと大きな歩幅で歩き出すとネットを回り込んでオレのところまでやってきた。ラケットを脇に挟み両手でオレの左肩、背中、胸のあたりをまさぐる。 「あの、観月さん…?」 さわさわと体を這う手指の物理的なくすぐったさか、距離の近さによる精神的なものか。体が熱くなってくるのを感じた。そのまさぐりが止まると観月さんは正面に回り込んできて、「裕太くん」と冷ややかに名を呼んできた。 「僕のいないところでツイストスピンショットの練習をしましたね」 「し、してません」 「…………」 静寂の中にどこか冷徹さも含んだ目線を当てられて、俺は観念して口を割ることになる。 「さっきちょっと、ボールなしで、素振りだけ……」 ハァ。 観月さんはあからさまにため息をついた。 「どれくらい」 「5……いや、15分くらい……ですかね」 誤魔化したいと思う小賢しい自分に嘘をつかない方がいいと思う自分が打ち勝った。その結果、ハァーーー……と、ため息というよりは深呼吸に近いような長い息をついて観月さんは背中を丸めて額に手を当てた。 「あれだけ注意をしたのに……」 「すみません、素振りなら大丈夫かと思って」 俺の言葉を最後まで聞き届けず観月さんは踵を返した。 「今日の練習はおしまいです」 「えっ」 観月さんはスタスタとコートを出て行った。怒らせてしまった。言いつけを守らなかったから。 「観月さん、ごめんなさい」 声を掛けても、横に回り込んでも観月さんは足を止めない。それどころか加速する。小走りでないと追えないほどの早歩きで、観月さんは無言で部室に入っていった。俺も後を追って中に入る。 「観月さん」 返事すらもらえず、どれだけ怒らせてしまったかと強く反省をする。 焦るなと言われたのに、どうしても焦ってしまった。それは事実。ボールを使わなければ大丈夫かと、本来は確認すべきなのに黙って練習をしてしまったことも事実。だけどまさかここまでとは。 どう謝ればいいものかと考えている間に観月さんは戸棚から何かを出して、冷蔵庫に向かって、冷凍庫から氷を出して、水道へ……? 「冷やしなさい」 観月さんが差し出してきたのは氷のうだった。 「あ……ありがとうございます」 「練習のやりすぎで潰れた有望選手はいくらでもいる。体を壊さないことが最優先だ。それを忘れるな」 怒っているというより、呆れているような声に感じた。「すみません」と小さく謝った。 「謝るのは、僕にではないですよ」 「え?」 観月さんはソファに座ると見慣れた様子で足を組んだ。 「自分自身をもっと大切にしなさい」 観月さんは、俺の体のことをずっと気遣ってくれていた。 なのに、このショットの練習を始めるときにした約束を俺は破ってしまったのだと気付いた。そのときの俺はイタズラがバレて怒られた子どものようにシュンとしていたと思う。「ごめんなさい」は随分小声になった。 俺も横の長椅子に座って、しばらく無言の時が流れた。観月さんは何も喋らないけれど、立ち去らないということは話し掛けてもいいのだろうか。 「観月さん、ちょっと聞いてもいいですか」 「なんでしょう」 「どうしてわかったんですか」 俺はどこも痛くしていないし、サーブのフォームが変わった自覚もなかった。観月さんは人差し指でくるくると髪を弄りながら答えた。 「サーブのときの肩が上がりきってなかったんだよ。んー、普段よりも2センチほど」 それだけでわかったのか。俺は観月さんの観察眼に驚かされた。 指に巻きつけた髪をくるりと解放すると、観月さんは「念のため、外科に見てもらいましょうか」と言った。 「え、観月さん大袈裟ですよ……どこも痛くないし」 「怪我に至ってから治療するのでは遅い。予防が大切なんだ。一度は診てもらうべきだと思っていたので良い機会です。行きますよ」 「でも」 隠しているわけではなく本当にどこも痛くもおかしくもない。わざわざ医者の世話になるようなことではない……俺はそう思っていた。 しかし観月さんは「ハァ」と大きなため息を落とした。 「こう見えて、君の体に負荷を掛けていることに責任は感じているんだ。一度診察を受けてください」 「……わかりました」 威圧感と申し訳なさの入り混じったような表情で訴えかけられ、俺は首を縦に振ることになった。俺が俺の体を気にする以上に、観月さんの方が気にかけていてくれているかもしれないと気付かされた。 こうして俺たちは部活を早引きして、病院へ向かうことになった。 「優秀な外科医がいると聞いて調べておいたんだ」と言って、学校からはやや離れた総合病院に案内された。少しの待ち時間の後に通されると、父さんと同じくらいの年齢の優しそうな先生がいた。 「テニスで体に大きく負担の掛かるフォームの練習をしている……ね」 「はい」 「練習を始めて1ヵ月ほどになります。まだ骨格が出来上がっていないので練習量にはだいぶ制限を掛けているのですが、現段階で問題がないかを一度見て頂きたくて」 「どれどれ」 腕を曲げたまま肩を回してごらん、今度は逆、と指示された通りに左肩を回す。肩から背中に掛けて、そして胸のあたりを触られ、腕を何方向かに引っ張られた。「痛くないかい」と聞かれて、実際に痛くなかったので「大丈夫です」と返した。 「今のところ何も問題はないよ」 「そうですか。それは安心致しました」 俺が答えるより先、観月さんが返事をした。こう見えて責任を感じている、と言った観月さんの表情を俺は思い返していた。 「でも、確かにだいぶ酷使はされているね。肩甲骨周りをもう少し解せるといい」 「適切なストレッチやマッサージがあれば教えて頂きたいのですが」 「わかった。肩から背中に掛けてを緩めるストレッチを教えよう。マッサージは私の専門ではないから、良かったら良い整体師を紹介するよ」 「ありがとうございます。ちなみに、練習終わりは都度冷却した方が良いでしょうか。湯船に長時間浸かることは適切であるかもご教示頂けますか」 「それは……」 俺の前と後ろで会話が繰り広げられていく。俺は振り子のように首だけを左右に動かして会話の行く末を見守った。やるべきトレーニングの種類や量、ケアの方法を話しているのがわかったが、特定の筋肉の名前などの専門用語が多く使われていて俺は半分も理解ができなかった。人体模型のようにあちこちと体の部位を指差され、操り人形のようになすがままにストレッチの方法を指南された。観月さんは時折メモを取りながら先生の言葉全てに淀みなく応対していた。 (観月さんは……すごい) 大げさでなく、俺の人生は観月さんに出会えて大きく変わった。あの日、スクールに通っていたお陰で、観月さんと知り合うことができて本当に良かった。 実演付きでストレッチの方法を教わり診察ももう終わりかと思っていたところ、先生から思わぬ質問が飛んできた。 「君たちは聖ルドルフ学院中のテニス部かな」 ようやく俺にも発言権が回ってきた気持ちで「はい」と答えた。すると。 「青春学園は知っているかい」 「えっ」 「もちろん存じ上げておりますが、それが何か?」 思わぬ学校名が挙がって、俺はドキッとした。観月さんは平然と返事をしていた。 「私の甥が青春学園でテニスをやっているんだ。もしかしたら、大会で当たることもあるかもしれないね」 「……ちなみにお名前は」 「大石秀一郎っていってね、ダブルス専門でやっているよ」 「そうですか。それは楽しみです」 さり気なく観月さんがメモを取るのが見えた。何か後でデータを確認するつもりかもしれない。うちはダブルスが課題だと観月さんも度々言っていた。 「また何かあったらいつでも来なさい。来る必要がないのが一番だけどね」 「はい、ありがとうございました」 「ありがとうございました」 二人で頭を下げて、診察室を後にした。 「なんともなくて良かったですね」 「はい。ありがとうございました」 「だからといって油断して、また勝手に練習するようなことはないように」 「もう懲りましたよ」 思わず苦笑いを返す。 観月さんに心配を掛けるのも嫌だし、何より。 (もっと自分を大切に……か) つい無茶をしてしまいがちな自分を、観月さんが気遣ってくれたことが嬉しかった。俺も俺自身を大切にしよう、そう思った。そしてこの嬉しさは、他人に気遣ってもらえたから、だけではないと感じていた。観月さんが俺を気にしていることが嬉しい。そのことに気付いたのだ。 ** 合同練習の開始前、準備運動として先日習ったストレッチを行った。今日はツイストスピンショットの練習をする予定はないけれど、練習をする日に限らず日頃から解しておくことが大切とのことだ。 ラケットを掴んでコートに向かおうとすると、観月さんが歩み寄ってきたので足を止める。 「教わったストレッチはやったのか?」 「はい」 「ちょっと失礼」 観月さんは左手を俺の胸側に添え、右手で背中側の肩甲骨のあたりを探ってきた。相変わらず観月さんはなんだかいい香りがして、この胸のドキドキが観月さんの手に直接伝わってしまっているのではないかと思うとなおさら緊張して心拍が速まった気がした。「うん、いい感じですね」と言って手は離された。 「観月はやたらと裕太に触るだーね」 「トレーニングやストレッチの効果を確認しているだけでしょう」 「だったら赤澤のことも触ってあげてよ最近筋トレ頑張ってるから」 「あ、呼んだか木更津」 クスクスと笑った淳さんに通りがかった赤澤部長が反応して、観月さんは「赤澤は間に合ってるので結構です」と冷ややかに答えた。 「間に合ってるってどういう意味だーね」 「他意はありませんよ」 「おいさっきから何の話だ」 話しながら去っていく先輩たちの背中を見送ってから、俺は先ほど観月さんが触れていた胸の真ん中に自分の手を添えた。そこは今もドクン、ドクンと大きく波打っていて、きっと……いや間違いなく、この振動は観月さんの手に伝わったのだと確信した。 気温は低いのに、反するように俺の体は熱かった。この日の練習はやたらと汗を掻いた。 * * 「だいぶサマになってきましたね」 ツイストスピンショットを相手コートに打ち込んだ直後、観月さんからの褒め言葉に思わず笑みが零れる。 「観月さん!」 「フォームが安定している。体作りがうまくいっているみたいだな」 はい、と返事をすると、観月さんは俺の眼前まで歩み寄ってきた。そしていつものように、全身を弄ってくる。 ただ、いつもみたいに手全体で触れてくるのではなく、人差し指一本が俺の体を細く伝っていく。鎖骨辺りから真っ直ぐ下ろされていったその指は、乳首のすぐ横を通過して、あばら骨を越えて、そのまま俺の下半身の中心へと移動した。そこで初めて、手全体で撫で上げられた。 「ちょ、観月さん何やってんスか」 「ここの成長具合も確認しないといけませんから」 「やめてください!」 くすぐったさに身じろぎする。観月さんは目元と口元を歪めて妖艶に笑った。背筋がぞくりとした。俺の股間をまさぐるその手を止めようと観月さんの手首を掴んだ。だけど何一つ動じずに観月さんの手は中心部を這い回る。 なんか、変な感じがする。気持ち悪い……けど、気持ちいい気もする。変だ。 「観月さん、ちょっと待って……」 「待てるものか。大会までもう日にちもないんだ」 「そ、そんなことを言われても……!」 観月さんの言葉は支離滅裂だった。大会までまだ日数はあるはずなのに。焦るなとあれだけ言ってきたのは観月さんの方なのに。そもそもこれがテニスに関係してくるとは思えない。 うわずった声が出そうになるのを必死にかみ殺した。観月さんの顔を見やると、長いまつげ越しに見える瞳は冷たく光っていて、口の端が片側にニッと上がる。 「観月さん……?」 俺が息も絶え絶えに問い掛けると、観月さんは俺の耳元に顔を寄せ、吐息混じりに囁いた。 「早く大人になれ、裕太」 その言葉と同時、薔薇の香りが漂ってきた。 下半身が爆発したみたいに熱くなって、俺の意識は遠退いていった。 * * 「…………え?」 カーテンの隙間から差し込む朝日と、鳥の鳴き声。状況を理解するのに時間は掛かったが、そこは見慣れた寮の自室の布団の中だった。 (変な夢を、見た) 変な夢の詳細を思い返そうとした俺は、変な感触に気付いて飛び起きた。そして、下着の汚れに気付いて青ざめた。 12歳、中学1年生の冬。 この夢で俺は精通を迎えた。 ** 自分の体に変化を感じたその日の放課後、俺はスクールでいつもの練習をこなしていた。休憩に入ってドリンクを飲んでいると「裕太」と声が掛かった。声の方を見ると、観月さんが手招きをしていた。 観月さんの下に駆け寄ると「今日から君は特別メニューです」と予期せぬことを言われた。 観月さんに連れられて二つ離れたコートに移動すると、年齢層にバラツキのある数名が立っていた。共通点として――皆、左手にラケットを掴んでいた。 「お前には対左の特訓を積んでもらう」 「対左……?」 「手塚国光。短期間とはいえ青学に通っていたなら名前は聞いたことがあるだろう」 手塚さんの名前を聞いた途端、心臓がドキリと鳴った。もちろん聞き覚えがある俺は頷いた。 「現在の中学テニス界で1位2位を争う選手だと言われている。彼は左利きだ」 「左利き……」 「君には、奴に勝てるまでに成長してほしい」 観月さんはそう言ってまっすぐに俺を見てきた。兄貴でも明確に勝てないと言っていた手塚さん。その手塚さんに、もしも俺が、勝つことができれば――。 「左対策は打倒兄貴に役立たないから不服か?」 「そんな! っていうか別に俺は……」 別に俺は兄貴を倒すためにテニスをやっているわけではない。……といいつつ、手塚さんの名前を聞いたときに「手塚さんに勝てれば兄貴に勝ったことにもなる」という考えが頭を過ったのも事実。 「君はいつかお兄さんを倒したいんでしょうが」 「俺は別に……」 「目標であっても目的になってはいけませんよ」 観月さんのその言葉の意味は、わかったような、わからないような。 「目標」と「目的」の違いについて考えながら練習を開始した。が、すぐにそんなことは頭から消えてなくなった。飛んでくる球を追って、思うように打ち返すだけで、俺はとんでもなく疲弊することになる。 (左って……こんな妙に感じるものなのか) 打球が飛んでくる角度、回転。それが違うだけでこれだけ感覚が狂わされると初めて知った。相手のバックに打ったつもりがフォアで返される。ボールコントロール、ポジショニング、リターンすべきボールの位置……いつも右利きの相手と自然とやっているものと、全てがほんの少しずつ、だが確実に違った。 (俺と打つ相手は、こう感じていたっていうことか) 「どうだ」 「驚きました。こんなに感覚狂うものなんですね」 「んふっ。特に回転の癖が強い人間を集めたからね」 左利きの人間を集めるだけでも大変なのに、今日はその中でも特に癖のある人間が選抜されて呼ばれたという。観月さんの人脈には驚かざるを得ない。 「これを今まで君もやってきたんだ、無意識のうちにね。だけど今日、意識できたはずだ」 確かに、今までも妙だと感じることは度々あった。軽い打ち合いのはずなのに相手がコントロールを乱し、ちゃんとやれと言うと「左利き相手だと感覚狂う」と返される。よくあることではあったが、初めてきちんと意識した。 「これまでも左利きとやったことはあるだろうけど、ここまで大勢揃えられたのは初めてだろう」 「はい」 ぽんと、観月さんは俺の肩に手を乗せた。耳に近い位置で言葉が聞こえてくる。 「学ぶんだ。どんな左が来ても動じないようになれ。そして、左利きのやつがどんなショットを打つと相手が一番嫌がるかを理解して、自分がそれをできるようになるんだ」 「相手が一番嫌がる……」 言葉が引っかかり思わず復唱してしまうと、観月さんは目を細めて笑った。「テニスは相手の弱点を突くスポーツだよ」と。観月さんはいつになく楽しそうに見えた。 初めは戸惑ったけれど、しばらく練習を続けると感覚を掴んできて問題なく打ち合えるようになっていった。この「対左」の特訓は、時にメンバーも入れ替わりながら継続されることを告げられた。 「手塚国光はこの中のどの選手よりも強い」 観月さんはそう言った。しかし不思議と恐怖はなく、俺の胸の大きな割合を占めていたのは期待だったと思う。 ** 『コンコン』 「裕太くん、居ますか」 夜、寮の自室でくつろいでいると思わぬ訪問者がやってきた。ドア越しに少しくぐもって聞こえたその声の主は観月さんであるとすぐにわかった。急いで入り口へ向かってドアを開けると目の前には私服姿の観月さんが居た。 「はい」 「今時間があれば肩のマッサージをして差し上げますが」 「あ、ぜひお願いします!」 この前整体師さんに習うと言っていたやつだ、と理解して観月さんを部屋に通す。観月さんが俺より前に居る状態になったが、あるものに気付いて俺はダッシュで観月さんの前に飛び出してそれを隠した。 (パンツ干したままだった!) 一着だけ洗濯ばさみで吊して干されていた下着を丸めて洗濯物の山に放り入れた。振り返るとキョトンとした顔の観月さんが立っていた。 「どうした。そんなに焦ることではないでしょう」 「そうは言いますけど……!」 「裕太はまだ寮生活を始めて日が浅いからな。そのうち気にならなくなるよ」 観月さんはそう言ってクスッと笑った。 別に、俺だって普段だったらそこまで気にしない。現にこの前柳沢さんと淳さんが押しかけてきたときはなんでもかんでも出しっぱだった。だけど……。 (そのパンツは……今朝急遽洗わないといけなくなったやつで……) その原因となった夢を思い出しかけたところで「ベッドにうつ伏せになってください」と声を掛けられ、ハッとして指示に従った。 (これはホンモノの観月さん……って当たり前だろ。何考えてるんだ俺は) 俺は枕を抱えるようにベッドにうつ伏せになって、観月さんもすぐ横に体重を掛けてきてベッドはギシッと鳴った。 「素人がマッサージをするのは良くないと言いますが、きちんと指導を受けてきたから安心してください」 「はい」 観月さんのすることだから、俺は何も心配していなかった。観月さんはいつも様々な角度から計算をして、最善の答えを提供してくれる。 まず、手のひら全体で背中を擦られた。観月さんの手の温度が服越しに伝わってくる。心地よさと、少しのくすぐったさに全身に鳥肌が立つ。 「軽く押しますよ。痛かったらすぐに言ってください」 「はい」 くっ、と背中の左右対称となる二点に体重が加わる。痛みとは言わない程度の甘い刺激。 「力加減はどうだ?」 「あ、ちょうどいい感じです。キモチイイです」 「んふっ。それは良かった」 様子を確認してきた観月さんはそのまま施術を継続してきた。力一杯押されるようなことはなく、ゆっくりと背中全体がほぐされていく。押されている部分に限らず全身の筋肉が緩んでいくのを感じて、まぶたもとろりと下りてきた。 しかし直後、背中に伝わる熱の面積が縮まり、一点に集中した。 「肩甲骨の尖った部分から真下に10cm……」 何やら呟きながら、観月さんは俺の背中の左側にツツと指を伝わせた。無意識に体がピクリと震えた。 俺の脳内には今朝の夢がフラッシュバックしていた。夢の中、観月さんは俺の体に人差し指を這わせた。そして中心部をまさぐり妖艶な目線を向けてきた。最後に囁かれた言葉は、なんだったか。 (あ……ヤバイ、か、も) 夢の内容を思い返していると、体の状態までもが蘇ってきた。下半身に熱が集まってくる。 今、めちゃめちゃ下半身に刺激を与えたい。気を抜いたら腰を捩らせて勝手に動き出しそうなのを理性で制する。観月さんは背中にマッサージを続けてくれているけどそれどころではない。 たぶん今、めちゃくちゃ勃起してる。 「じゃあ次は左肩を上に横向きに……裕太くん?」 「スピー……」 ……つい、タヌキ寝入りをしてしまった。 とても動けない。今、うつ伏せの状態から体制を変えるわけにはいかない。このまま寝たふりをして、観月さんが帰ってくれるようやり過ごすしかない。 (頼む、帰ってくれ…!) 俺の心臓はバクバクに波打っていた。この心拍は俺の背中に乗っている観月さんの手にも伝わっているかもしれない。だけど今更身動きも取れない。 「……ふーん」 意味深な呟きが聞こえたが、観月さんの手は俺の背中から離れた。ギシッとまたベッドが鳴って、観月さんがベッドから立ち上がったのがわかった。心臓の音がドキンドキンと頭全体に響いている。俺は寝息を立てているフリだけを続けて観月さんが立ち去るのを待った。すると。 「おやすみ、裕太」 観月さんは俺のすぐ耳元でそう呟いて、すぐに部屋から出て行く音がした。訪れた沈黙の中で、薔薇の香りがした。 『早く大人になれ、裕太』 夢の中で聞いた観月さんの言葉が蘇った。ああそうだ、観月さんは夢でそう言っていた。 言葉に操られるように、体を起こし、下着をずらした。案の定勃起していた。これまでもそういうことは度々あった。だけど今日は、何かが違う。今朝から俺は何かが違う。 なんというか、これは、中身が伴っている。 硬くなった棒を握り込み、前後させた。無意識に手の動きが速くなり、息が荒くなっていく。ほんの数分間、果てるまでのその間、俺はずっと観月さんの手の感触を思い浮かべていた。 白く汚れた手のひらを見て、形容しがたい罪悪感に包まれる。 (……すみません、観月さん) サイテーだ、と思った。明日観月さんに会ったときどんな顔をすればいいのかわからない。その日は頭を抱えながら寝ることになった。 ** 「おはよう裕太」 「おはようございます」 いつもより少しだけ早く目が覚めて食堂に向かうと観月さんに会った。俺は寝間着のままだったけど、観月さんはもういつでも出掛けられそうにぴっちりと身だしなみが整っていた。そんな見た目はアンバランスな俺たちだけれど、自然と同じテーブルで朝食を取ることになった。 「休日なのにこの時間は珍しいですね」 「ちょっと早く目が覚めました」 「原因に心当たりはあるのか? イレギュラーには気を払った方がいい」 心当たり……。 以前から変化が生まれたことは認めるが、早起きに対して明確な心当たりはない。俺はそれっぽく理由付けをする。 「昨日、疲れてて早く寝ちゃったので……そういえばマッサージの途中だったのにすみませんでした」 「そういえばそうでしたね。どうだ体の調子は」 「なんか軽い気がします」 左肩をぐるりと回して見せると「それは良かった」と観月さんは目元を少し細めて笑った。その目線はどこか挑戦的に見えた。それは俺の心持ちがそうさせるのか。 何気ない日常会話をしながら食事をして、俺たちは解散した。 (……普通だったな) 昨晩は、どうやって顔を合わせようと思っていたものだったが、会ってみれば普通だった。 (俺は昨日あんな夢を見て、昨晩はあんなこともして……だけど何食わぬ顔で観月さんと会話をした) そう考えるだけで、何故だか。それだけで自分が満たされるのような気がした。自分の中に一つ秘密が出来た。それだけで、なんだかオトナになれた気がしたのだ。 この日を境に、俺は度々観月さんで抜くようになった。 ツイストスピンショットが初めて成功したのは、その数日後のことだった。 ** 「もう安定して打てるようになったな」 数ヵ月前には都合の良い夢を見たこともあったが、これは夢ではない。俺は本当に安定してツイストスピンショットを打てるようになっていた。指定されただけの本数を打ち込み、全てが相手コートで弾んで逆回転で跳ね上がっていった。後ろで観月さんは満足げに微笑んでいた。 「これで君は僕を超えました」 「まさか。技術も戦術もまだまだ観月さんには敵いませんよ」 「んふっ、でも少なくともそのショットは僕には打てません」 観月さんを超えたとは思っていないし、否定したのは謙遜ではなく本心だった。しかし観月さんは俺のことを褒めてくれた。ついに“ここまで”来た。どこにも辿り着いていないのに、そんなことを考えた。そのとき。 「強くなったな、裕太」 こちらの目をまっすぐと見てきて、観月さんは微笑んだ。こんなに柔らかに笑う観月さんは初めて見たかもしれない。 「ありがとうございます!」 「明日の試合でぜひ使っておやりなさい。連発はするんじゃありませんよ」 「はい!」 夏の大会の予選が始まる。俺は万全の状態で初戦を向かえることになった。 ** 観月さんに言われた通り、翌日の大会で初めて対外的にツイストスピンショットを披露した。ギャラリーのざわめきは気のせいではなかったと思う。試合中に三度使用して全てがポイントになったし、打って以降の相手は明確に動きが鈍くなった。 (一発必中のショットってだけじゃなくて、流れを変えることもできるのか) これが、俺だけの武器――。 ツイストスピンショットが印象深い試合となったかもしれないが、それ一辺倒に頼ったというわけでもなかった。実際、お見舞いしてやったのは三発だけだ。その他の技術も向上している。必殺ショットがあることによって、それがより際立つようになった。その手応えがあった。 「ルドルフの奴のショットすごかったな」 ルドルフ。 自校の名前が聞こえてこっそり会話に聞き耳を立てる。もしかしたら、という期待があったのは事実。そしてその期待を裏切らず、「ツイストスピンとか言ってたっけ?」と聞こえ、いよいよその噂が自分のことであると確信に変わった。 兄貴の噂じゃない。兄貴の弟としてじゃない。俺は今、自分の活躍で自分の存在を知らしめている――その事実に高揚感を覚えた。 しかし次に聞こえたのは「指導者やべぇな」の声だった。 ……え? 「絶対肩壊すだろあんなの」 「な。あの選手潰されるんじゃね?」 「そこまでして勝ちたくねー」 そう笑いながら、どこの学校かもわからない二人は去って行った。 限られた時間、球数でここまで打てるようになったのは観月さんのお陰だ。そもそも観月さんがいなければ俺はこの技を知ることもなかった。もし知ったとしても、がむしゃらに何時間も何百球も練習して、それこそ肩を壊していたかもしれない。 (アイツら、何も知らない癖して……!) 言い返してやりたかったが、拳に力を込めてぐっと飲み込んだ。 しかし、客観的に見てそのように感じる人がいるのだということに気付かされてしまった。 確かに体制に無理のあるショットだとは思う。俺もビデオで初めて見たときはなんというフォームだろうと驚いた。体への負担が大きく、下手したら体を壊すと、誰が見てもそう感じるものなのだろうか。 観月さんはこれが危険なショットだと確かに言っていた。必要なトレーニングやケアを充分に積んで、練習できる時間も回数も制限されてきた。だから俺自身、これまで身の危険を感じたことはない。感じなかったからこそ、言いつけを破って練習を増やそうともした。だけどそれも止められて、充分過ぎるほどのサポートをしてくれて、このツイストスピンショットは完成した。 これは全部観月さんのお陰なのに。 (俺がこのショットを使えば使うほど、観月さんが悪者になってしまうのか?) 胸の内が嫌な気持ちで一杯になって、居ても立っても居られなくなった。他校の試合を見学している観月さんを見つけて、話がしたいと呼び寄せた。 「どうした」 「観月さん俺、次の試合は……というか暫く、ツイストスピンショットを使うのをやめようと思います」 おや、という顔で観月さんは顔を傾げた。俺の言葉が意外だという気持ちも頷ける。俺はこの前まで、このショットを会得することに誰よりも執着して、ようやく打てるようになって意気揚々と披露したところであったのだから。 「確かに手の内をやたらと明かすのは得策ではないが……急にどうしたんだ? 動きはずっと見ていたけどどこか痛むわけでもないだろう」 「体は問題ないです。ただ……」 俺は簡単に話した。先ほど通りがかりに聞いた会話のことを。 「観月さんが、そんな風に思われるのイヤです」 ずっと切望していたショットのはずだった。自分にしか出来ない、特別な技。やめろと言われても見せつけたい気持ちでいたはずなのに。 でも、だからこそ、このショットを大切にしたいと思ってしまった。 「裕太。君は周りからの評価を気にしすぎだ」 観月さんはそう言って呆れたように息を吐いた。 「大事なのは結果だ。評価じゃない」 「……」 観月さんの言いたいこともわかった。俺たち聖ルドルフは、勝つために集められた精鋭集団。負けは許されない。勝つためだったら手段を選ばない。そう、リスクがあるとわかりつつ多少無茶のある技を習得するくらい。だけど……。 「……少しイジワルを言いました」 無意識に足下に落としていた目線を持ち上げる。観月さんは、少し困ったように笑っていた。 「誰でも気にしますよね」 それは、周りの評価を、という意味だと理解した。確かに俺は、周りの評価は気になる。誰でも、ということは、観月さんもということだろうか。俺から見た観月さんは、周りの評価よりも自分の中の真実を貫くタイプに見えているけれど。 「でも」 一旦の間を開けてから言葉を発した観月さんは、含みのある笑いを見せていた。 「勝てばいいんです。万全の状態でね」 観月さんの口の端がニヤリと持ち上がった。 ショットは完成した。体作りだってした。休息も充分。これが自分のテニスだという自信を持てるようになった。 これ以上の万全があるだろうか。 (観月さん……) 感謝が溢れて、自然と頭が下がった。謝罪ではなくて感謝の気持ちでこうなったのは、初めてかもしれない。 「本当にありがとうございます。今の俺があるのは観月さんのお陰です」 「んふっ。その言葉は明日勝利を収めた状態でもう一度聞きたいですね」 下げた頭を上げて観月さんを見ると、得意げに髪の毛を人差し指で弄ぶ姿が目に入った。 必ず勝つ、兄貴のいる青学に――俺はその決心を新たにした。 ** 俺たち聖ルドルフ学院は順調に勝ち上がっていた。 そしていよいよ青春学園との試合を迎えることになった。観月さんのシミュレーションのお陰で、対戦相手は事前に予測ができる。 (俺は誰に宛がわれるのか。これでもかというほど左対策を積んできた……だけどつい先日「お前はまだ手塚には勝てない」とも言われた) 考えていると、試合前日になって「お兄さんと対戦したいかい、裕太」と聞かれた。 左対策は手塚さんと戦うためだと思っていたが、兄貴を直接打ち負かせるならそれが一番良い。俺は「はい」と答えた。「わかった。相手のオーダーはしっかりシミュレーションするよ」と言って観月さんは目を細めた。 ――しかし翌日、俺は青学1年レギュラーの越前リョーマに6−3と惜敗することになる。 言い訳はない。惨敗だった。 「スミマセン観月さん。出せる力を全て掛けましたが及ばず……」 試合を終えて、いの一番に観月さんのところへ行って頭を下げた。しかし目を開けたとき、観月さんはもう目の前には居なかった。観月さんはノムタク先輩に声を掛けながら自分の試合の準備へと向かっていった。 ……当然だ。観月さんは、俺ならあの1年に勝てると思って送り出したんだ。とはいえ、超ライジングの調子は悪くなかった。ツイストスピンショットだって惜しみなく使った。……認めたくないが、アイツの方が実力は上だった。 (ツイストスピンショット……今日何発打った?) もはや数えていないが今までの練習で打ったことのないほどの本数を打った。 冷やしておこう。そう思い立って鞄の置き場へ向かった。丁度試合が始まるコールが聞こえた。様子は気になる……だけどきっと観月さんは大丈夫だ。 (観月さんと……兄貴の試合) 準備してあったコールドスプレーを肩に振りかけ、湿布を貼る。ぐるりと肩を回したが、特にどこも痛んではいない。試合に勝つという最大の期待には応えられなかった。だけどせめて言いつけだけは守ろうと思った。自分を大事にしなさい、と。 処置をしながら、首を伸ばしてコートの中の様子を伺う。 2−0と観月さんがリードを広げてコートチェンジをするところだった。 (さすが観月さん) 正確無比で無駄がない。ゲームを落としていないだけでなく、試合のテンポも異様に速い。ラリーの一つ一つが短いんだ。コートに近付いて改めて試合を見学し始めて、あっという間に5−0になった。 だけど妙な感じもしていた。 (いくら弱点を徹底的に調べ上げられたとはいえ、兄貴がこんなに簡単に負けるか?) ――妙な感じは的中した。 俺は見る見る捲られていく得点板を唖然として見るしかできなかった。 「ゲームセット、7−5! 青学不二!」 試合は兄貴の勝利となった。スコア上は7−5。しかし試合を最後まで見た者は言うだろう。「青学の不二周助が圧倒していた」、と。 でも、本当にそうだろうか。 前半の兄貴は明らかに手を抜いていた。後半の観月さんは動揺していた。もし、お互いが始めから全力を出していたら、この試合はどうなっていたのだろう。案外7−5というスコアは真実を示しているような気もする。……それでもやはり、勝ったのは兄貴だったような気もする。 (観月さん……) 観月さんが今どんな気持ちでいるのか、それだけが気になった。 こんなことは思ってはいけないのだろうけれど、観月さんの敗北に安心している自分がいた。それは自分が負けてしまった罪悪感が緩和された気がしたからか、兄貴の強さが健在だと目の当たりにできたからか……。 観月さんが、弱点だと思って狙い、見事に打ち返され、「本当は一番得意なんだ」と兄貴が言ったあのコース。たぶんだけど。 (兄貴、本当はあそこ、本当に苦手なコースじゃねーか?) 俺にはそれがわかってしまった。もっとも、俺もわかったつもりになっているだけかもしれないけれど。ただ、苦手コースだからといって簡単に横を抜かれるような選手ではない、不二周助は。それだけは確かだ。 悔しいのに、誇らしい。 兄貴は俺の目標であり、憧れだった。そのことを思い出した。 (いつか必ず俺がぶち負かす。それまではある程度強くいてもらわなきゃ困るもんな) 1−3で都大会準々決勝で敗退。俺たち聖ルドルフは望みをコンソレーションに掛けることになった。 ** 閉会式までの待ち時間、観月さんの姿がどこにも見当たらなかった。 「閉会式には戻ってくるよ。アイツそういうとこは細けぇから」と部長は言ったけど、俺は気がかりだった。会場中を駆け回って、試合をしているコートのギャラリー全員に目を通して、更衣室、トイレ……思いつく場所全てを探して、最終的に人気の少ない木陰で座っている姿を見つけた。 「観月さん……」 うつむき加減の観月さんは、前髪が長めなこともあって表情がよく読めない。もしかしたら、泣いている……? とも思ったが、直後に聞こえてきた声はそのような声ではなかった。 「笑うがいいさ。シナリオ通りに勝てなかった仲間を卑下しておいて僕本人がこのザマだ」 「そんな……笑ったりしませんよ」 観月さんの横に俺も膝を突いた。観月さんは「裕太」と声を掛けてきながら、俺の方は見ないまま話し始めた。 「僕は君の兄を妬んでいた」 「観月さん……」 「僕の地元まであの天才の名前は届いていたよ。才能があって、裕福で、恵まれた環境でテニスをすることが適って……それが当たり前のように過ごしていることが恨めしかった。だから弱点を調べ上げた」 そこまで言って、観月さんはフッと嘲笑を浮かべ「逆手に取られてこの有り様だけどな」と言った。 「才能にあぐらを掻いて努力を怠るような奴でもない。それくらいわかってる。凡人はどんなに努力をしたって努力をする天才には勝てないんだ。ならば自分は凡人じゃないと、どんな手段を使ってでもいい、天才に勝つことでそれを証明しようとしたんだ……敵わなかったけどな」 その気持ちは俺も痛いほどわかった。観月さんも、俺と同じような気持ちを抱えていたのだとそのとき初めて思った。 「裕太」 再び俺の名前を呼んだ観月さんは、今度は俺の方を見てきた。 「僕は本当は君のことも妬んでいた」 「え……」 思わぬ言葉に思わず固まる。観月さんは言葉を続けた。 「環境としては君も充分に恵まれていた。……知らないふりをしたが、もちろん青学のことは君に声を掛ける前から知っていた。それでいてスクールに通うなんていう贅沢も許されている君に負の感情が全くなかったと言ったら嘘になる」 そんな風に、思われていただなんて。 兄貴に対して俺と同じような感情を抱いていたと思っていた直後、観月さんにとって、俺も兄貴と似たように見えていたということを知る。 ならばあの日、初めて試合をしたとき、俺のことを褒めてくれた観月さんの言葉は、全て嘘だったのか? どうして俺をルドルフに誘ってくれたんだ? 「じゃあどうして俺を」 「利用できると思ったんだ」 俺の言葉を遮って観月さんは先ほどよりも大きな声量でそう言った。 「君の兄に対する嫉妬心、執着心……勝ちへの原動力として利用できると思った」 そうだったんですか。 口に出したかったのに、出せなかった。 そうだったのか。でも、そうだとしても、俺は――――。 「僕を恨むかい、裕太」 観月さんの質問に、即座に首を横に振った。 考えるまでもない。俺は、観月さんを恨んでなどいない。今の話を全て聞いても、そんな感情は沸いてこない。 「恨んでいるわけがないです。感謝しかないです。あのままだったら俺、青学でくすぶってコンプレックスこじらせ続けるところでした」 涙が込み上げそうになるのをぐっと飲み込み、話を続ける。 「テニスだって……本当はやればやるほど比べられて辛かった。強くなっている手応えよりも目標に追いつけない焦りばかり大きくて……だけどやめるのも逃げるみたいで嫌で」 思い出してしまった。一年ほど前、青学に居た頃の自分を。もうすっかり忘れていた。聖ルドルフに入って半年以上。今の俺は、あの頃の俺とは違う。 「テニスを好きになれたのは観月さんのお陰です」 「君はお人好しですね」 「本心です」 軽く受け流されそうだったけれど、しっかりと目を見て返して、もう一言付け加えた。 「青学から逃げた俺を受け入れて、ここまで成長させてくださり、ありがとうございます」 腰が垂直に曲がるまで頭を下げた。 重力で水分が集まってきたのか、目から溢れてきそうになったものを瞬きでもみ消した。頭上からは、地声よりも低く喋る観月さんの声が聞こえてきた 「聞き捨てならないな」 「え?」 腰は折ったまま顔を持ち上げる。観月さんは薄目で髪を弄りながらこちらを見下ろしてくる。 「お前は青学から逃げたくてここに来たのか」 俺は、青学から逃げたくてここに来たのか。質問を脳内で繰り返して自問自答をする。 青学から逃げたかった、のだ。実際にそうだったのだ。憧れていたはずなのに、現実は理想とかけ離れていて、テニス部に入ることができなかった。テニス部との関わりを断っても、兄貴絡みで嫌な思いをすることが度々あった。モヤモヤとした気持ちが晴れることはなかった。だからスクールで観月さんに声を掛けられて、聖ルドルフへ転入という選択肢が出来たときは、兄貴も通う青春学園という環境から抜け出せると思って――。 (……本当に?) 違う。そうではなかったはずだ。もしかしたらきっかけはそうだったかもしれない。だけど決定打は、あの日、自分の目の前に道が開けた気がしたからで。 「いえ。俺は、聖ルドルフを選んだんです!」 テニスがうまくなるためにスクールにも通う、勝つためだけに集められたメンバー。週に2回しか一緒に練習しない部活仲間。だけど、いつの間にか俺にとってかけがえのない仲間になっていた。聖ルドルフは、俺にとって大切な場所だ。 「これからも聖ルドルフの一員として、みんなで勝ち上がって行きたいです!」 「その言葉が聞けてよかったよ」 ため息混じりに観月さんはそう言った。 「来週のコンソレーション、頼りにしてますよ」 そう言って観月さんは肩に手をぽんと置いて、歩き去って行こうとした。 触れられた部分が、急に熱い。燃えるようだ。 観月さん。観月さん観月さん。 貴方は俺を変えてくれました。俺にとってかけがえのない人です。赤澤部長も、柳沢さんも淳さんもノムタク先輩も金田も、みんな俺にとって大切な存在だ。同じ目的を分かつだけで、仲間意識なんて初めはなかった。だけどいつの間にか特別になっていた。 そして観月さんはただそれだけじゃない。 「観月さん!」 振り返って背中を呼び止めると、観月さんも立ち止まって振り返った。周囲には誰もいないということを、一応確認した。だけど誰かが居たとしても俺は言ってしまったかもしれない。もう、この気持ちを体の中に留めておくことはできなかった。 「俺、観月さんのこと、好きです!」 出すつもりの声よりも大きな声が出た。観月さんは目を丸くして、軽く目線を泳がせた。いつもシナリオ通りの観月さんが、これほど動揺するのは珍しいかもしれないと思った。だけどそれ以上に俺の心臓は大きく揺れていた。 「急にどうしたんですか」 「真剣です!」 聞き返してくる観月さんに間髪入れず返した。だけど、俺の発言に喜んだ様子ではないということはさすがにわかった。それはそうだ。当たり前だ。 軽蔑されるか。何を言われるか。ぎゅっと目を瞑って肩をすくめる。 もしかしたらまた、目を開けたときにはもう観月さんは目の前に居ないかもしれない――そう思っていたのに、 「ありがとう」 の言葉と同時、頭に手がポンと乗った。 「としか言えませんが……君を聖ルドルフにスカウトして良かったと心から思っています」 手がどかされて、顔を持ち上げることができた。目の前で観月さんは、慈愛に満ちた目元で微笑んでいた。 「俺も、聖ルドルフを選んで良かったです!」 はっきりと言い切った。 観月さんは、満足げに頷いた。 「そうだ裕太」 「はい」 「コートチェンジのときに聞かれたよ。『負担がかかると知ってて裕太にツイストスピンショットを教えたのか』ってね」 「え……」 「君はお兄さんに愛されていますね」 「……」 そんな会話があったのか。 兄貴……。 ……別に、それだけでアイツへの見方が変わったりなんてしねーけど。 「それで観月さん、なんて返したんですか」 「…………」 「……観月さん?」 「………………」 「ま、まさかそうだって返したんですか!?」 「違う! そんなことは断じて言っていない!」 「じゃあなんて……」 「さあ、下らないことを話していないで行きますよ! そろそろ閉会式の時間です!」 (ええー……?) はぐらかされたまま、歩き始めてしまった観月さんに小走りで追いつき横に着く。 結局、俺の告白に対する返事もはぐらかされてしまった気がする。だけど、それが回答なのだということは俺も理解できた。 いつも通り接してくれたことが、ありがたいと思った。 閉会式、隣の列は青学だった。ベスト4が確定した青学は決勝へ進むことが告げる。俺たちは、来週のコンソレーションに望みを託す。 「裕太コンソレーションがんばって」 斜め後ろから兄上の声がした。 「……うるせぇ」 「聖ルドルフが関東大会に進んだら今度こそ試合やりたいね」 「ふんっ。オレは嫌だね。どうせなら手塚さんに挑みたいぜ」 つい、突っぱねた。 だけど、本当に実現したらどうなるだろう。考えると、胸は高鳴った。 「ところで裕太、今日家に寄って帰るよね」 「断る……」 「母さんが好物のかぼちゃ入りカレー作って待ってるよ」 「え?」 「姉さんだってラズベリーパイ焼いてたなぁ」 「うっ……」 ひそひそと話しているうちに、閉会式が終わった。人がぞろぞろ解散していって、場はまばらになっていく。兄貴は俺の前に回り込んできた。 泊まりの荷物を準備してきてないから。学校に戻ってコンソレーションに向けての準備をするから。明日からも練習で忙しいから。断る真っ当な理由はいくらでもあった。でも。 「かぼちゃ入りカレーとラズベリーパイを出されちゃ、敵わねぇな」 俺がそう言うと、兄貴はフフッと笑った。 どこか悔しい気もするけれど、それ以上に気持ちは晴れやかだった。 ** 帰りの電車、兄貴と特に会話はなかった。吊り革に掴まって窓の外を見る。夕日が傾いてきて、少しずつ窓の車内の様子が反射して見えるようになってきていた。俺の横には、兄貴が立っている。映る頭の位置が、俺のほうが高いみたいだった。 (なんか兄貴、縮んだ? 俺がデカくなったのか……) 気になって目線だけ横に移して実物を見やる。ずっと見上げてきていたはずの兄貴だけれど、意識すると確かに角度は見下ろしているかもしれない。 (俺が今、兄貴と真剣勝負をしたらどんな勝負になっただろう) いい試合はさせてもらえただろうか。少なくとも、しょっちゅう一緒に打ち合っていた小学生の頃よりは俺は相当強くなった。その間に兄貴はどれだけ前に進んでいるのか。今でも兄貴は手塚さんに勝てないのか。俺がまだ観月さんには全然敵わないように――。 (……あれ?) そのとき、ふっと、感じたことがあった。 俺は兄貴に勝ちたくて、上回りたくて、手塚さんに勝てれば兄貴に勝ったことになるだろうか、兄貴を越えるためにはまず観月さんを倒せなければいけないだろうかと、そう考えていた。 だけどそうではない。 (俺が俺ならば……兄貴は兄貴だ) 人ぞれ違うんだ。俺が、俺であるように。 「目標が目的になってはいけない」。そう言った観月さんの言葉を思い出した。 (コンソレーション、必ず勝とう。そしてきっと、あの1年に……青学にリベンジを果たす) 兄貴を倒すのは、そのあとでも遅くない。 (あとやっぱり……手塚さんともいつか対戦したいな) 最終目標は変わっていない。だけど世界は広がっているのを感じた。 これはきっと、観月さんが居たから。 『今の俺があるのは観月さんのお陰です』 そういえばこの言葉、今日勝利を収めた上で伝えるはずだった。それは敵わなかった。 「好きです」は、もう今後一生胸に秘めたままでいい。 ただ、「ありがとうございます」は、きっと笑顔で伝えられるように。 (来週のコンソレーションでこそは、必ず) 見慣れていたはずのどこか懐かしい街並みへと向かう電車に揺られながら強く心に誓った。 |