* たとえ 太陽が 沈んでも *












我が青春学園テニス部のマネージャー、は働き者だ。
そして、誰よりも明るい笑顔の持ち主だ。

「大石くん、おはよ!」

早速向けられた満面の笑みに釣られるように、俺も笑顔を返した。

「おはようさん」
「今日も暑そうだけど頑張ろうね」
「ああ」

ボトルが一杯に入った籠を両手に抱え、
ガチャガチャと音をさせながら水飲み場へ向かっていった。
今日も見ていて気分がいいな、と歩き去る後ろ姿を目で追う。

…いや、これは決して、見惚れていたとかではなく!
その働きぶりが見事だと気になっただけで……!

胸に湧き上がりかけた感情を頭を振ってかき消す。

可愛い、とか。
好き、だとか。
自覚してはいけない。

彼女と俺は同じ部活の部員、選手とマネージャという立場で
それ以下もそれ以上もない。

仕事に一生懸命で、健気で、明るくて。
本人に励ましているという自覚がなくとも、
何度その笑顔に元気付けられたことか。
恋愛感情を抜きにしても、さんのことは全部員が好きだったと思う。
そう、恋愛感情を抜きにしても。
ただ、俺は――。

(あ、目が合っ……)

俺が見続けていたゆえに、遥か遠くのさんと視線がぶつかった。
それだけなら何の不思議もない。
ただ、目が合ったまま俺は視線を逸らせず、
見返してきたさんは、目元を柔らかく細めて微笑んだ。

(……ずるいぞ、その顔は)

さんは俺に度々その目線を向けてくる。

正直、もしかして俺のことを…と感じる瞬間もある。
だけど思い上がりかもしれない。
もし万が一…百億が一くらいに本当にそうだったとしても、
俺からさんに想いを伝えることはないだろう。

今はテニス部に忙しい。
引退したら勉強にも集中したい。

そう思っていたのに。


「大石くんって、好きな人いるの?」


ある日の部活終わり、マネージャーと副部長の二人で残った日のことだった。
突然の質問に、すぐに返答することができなかった。

「…………いないよ」
「あっそ」

君だよ、と返すわけにもいかずそう答えた俺にさんはつまらなそうに口を突き出した。

(というか、別に俺は、さんのことが好きなんかじゃ……)

好きなんかじゃない。
本当に?
………。

「私はね、大石くんのことが好きなんだ」
「え」

たっぷり数秒は硬直してしまったと思う。

さんが、俺を。
まさか。
本当に?

そうなんだ、と漏らすように呟いた。

「大石くん、他に好きな人居ないんだったらさ、私と付き合ってよ」

さんはそんなことを言う。
胸の奥から湧き上がってきそうな感情を押し止める。
やめろ。やめてくれ。

「テニスの障害になるものは排除したいから、厳しいよ」

無意識に歯を食いしばっていた。

「本当は俺も…」そう言って君のことを抱き寄せられたら、どんなにいいだろう。
だけど俺にはそれはできなかった。
胸を張って君の隣に居られる自信がなかったんだ。

「私、絶対に大石くんのテニスの邪魔はしないよ!
 二人だけの時間があんまり取れなくたって文句言わない。贔屓だってしない」

さんは食い下がった。
そこまで俺のことを好きでいてくれるのか…。

だけどそうであるほど尚の事、怖かった。
俺はきっと、君が思うような立派な男じゃない。

だから、断るしかない。
ごめんさん。
意気地のない俺を許してくれ……。

ただ、もしも、このことがきっかけで明日からさんの笑顔が見られなくなったら――。
そのことだけは耐えがたかった。

「任せて、こう見えて自制は利く方だから!」

ドンと胸を叩くさんのその自信はどこから来るのか。
俺はどうしたら同じくらい胸を張れるだろう。

「だったら、付き合わなくたって…」
「誰よりも頑張ってる君を一番近くで応援したいんだ」

そこまで言ったさんは一旦言葉を区切った。
そして目元を細めて微笑んだ。
それは、俺が度々目にしていたあの笑顔だった。

「そんで、たまにでいいからさ。ちょびっとだけ、特別扱いしてほしいな」

可愛い。
好きだ。
君のことが好きだ。

「それだけ」と言ったさんは強気な笑顔を見せた。

強気。
本当に?

なら目の前の大きな二つの瞳が揺れているのは何故か?
ジャージの裾を掴んだ手が小刻みに震えているように見えるのは気のせいか?

「付き合おう」

気付いたらさんの体を抱き締めていた。

「俺も前からさんのことが好きだったよ」

もう止まらなかった。
認めると次から次へと湧き出してきた。
これまで抑え込んできた君への想いが。

俺はさんのことが好きだ。
そしてさんは俺のことを好きで居てくれた。
こんなに幸せなことがあろうだろうか。

頑張ろう。
テニスも。
勉強も。
君への想いも。
どれも諦めたくないから。

……随分長いこと抱き締めていてしまったことに気付いた。

その細い体をそっと放した。

至近距離で、見上げてくる顔と目が合った。

………。

「こうなるのがわかってたからイヤだったんだ…」
「え、イヤなの!?」
「そうじゃなくて」

その無邪気さが俺の罪悪感を駆り立てた。
しかし、もう止まらなかった。

「抑えが利かなくなるのは、俺の方だよ」

そう言いながら、先ほど抱き締めたときのように肩を引き寄せた。
ただ、今度は顔を背けることをしなかった。
突然のことに反応できていないさんの顔の正面に
そのまま自分の顔を近づけ、唇同士を触れさせた。

幸せ過ぎるファーストキス。
ほんの一瞬のことだったが、
俺はきっとこの出来事を一生忘れない。

そう思った。



部内で付き合っているということが発覚したら周りの部員たちも気を遣うだろう。
全国を目指しているという身なのに浮ついていると思われることがあっても心外だ。
さん……改め、とそう相談して、学校では付き合っていることを隠すことで同意した。

……一瞬にして知れ渡ってしまったが。

だけど周りの反応は温かかった。
暫くは茶化されることもあったが、
俺とが付き合っていることはごく自然に皆に受け入れてもらえたようだった。

君に認め続けてもらえるような立派な男になりたい。
もっと頑張ろう。
テニスも。
勉強も。

君の隣で胸を張っていられるように。
その思いが俺を前に押し進めた。

テニス部は順調に勝ち上がり、学業も上々。
何もかもが順調に思えた。

少し風向きが変わったのは、中学3年の初夏のことだった。
予期せぬ怪我によって思うように練習ができずもどかしい思いをしていた俺に、
追い打ちをかけるような報告が飛んできた。

「転校?四国へ!?」

伝えてきたの表情は浮かなかった。
こんなに落ち込んだ素振りを見せるを初めて見たかもしれない。

は明確に言葉には出さなかったが、頭には過ぎっていたはずだ。
「私たちこれからどうしよう」と。

のことが大好きだ。
別れたくなんかない。
しかし東京と四国は遠い。
付き合いを続けたとしても、たまにしか会えなくなるだろう。
それでも俺はのことを好きで居続けられる自信はあった。
ただ、がどう思っているかは、わからなかった。

結局、その後時間が経っても、
部全体に転校のことを公表しても、
俺たちの今後の付き合いについて言及されることはなかった。
恐らく各々、心の中でだけ考えていたと思う。

「引っ越し、8月30日に決まった」
「そうか…全国大会が終わってそんなに日数もないな」
「そうだね。だからさ、その間で二人でどっか遊びにいきたいなぁ」

は甘えたような顔でそう提案してきた。
胸が痛みながらも、笑顔でその提案に乗った。

8月25日。
それが引っ越し前に二人で会える最後の日。
その日に、
俺から別れを告げよう。

行き先は俺が決めさせてもらった。
俺が知っている中で、一番美しい夕日が見られる海だ。

転校、か。
と一緒に中学を卒業して同じ高校に通うことはできない。

元々高校を外部受験することは頭を過ぎっていた。
外部受験しよう、と決心した。
いつか君に再会したときに、胸を張って隣を歩ける男になれるように。

のことは割り切って部活に集中する日々が続いた。
俺は繰り返す故障に苦しめられることもあった。
しかしはいつも笑顔で支えてくれた。
悲願の全国優勝を達成した。
その要因として、が与えてくれた影響は計り知れない。

君は本当に素敵な人だ。
負担になりたくない。
君ならきっと、行った先でも良い出会いがあるだろう。

全国大会決勝のその日、との約束の日を二日後に控え、
打ち上げ中にまさかの提案が出る。
みんなで海に行こう、と。

「25日ならみんな行けるって。大丈夫?」

え?

「(その日は……)」

その日は海に行こうと約束している日だ。
がこちらを見てくる視線を感じる。
…俺を気遣っているのだろう。
だって行きたくないはずはない。

「ごめん、その日は俺とデートだから」って肩を抱けるような男だったら
俺はと別れる必要はなくて、
だったらその日に二人で会うことにこだわる必要はない。
俺はそんなことができる男ではないけれど。

「(その日に二人だけで会う流れには、どちらにしろできないってことか)」

周りに悟られないように小さくため息を付き、
横で戸惑っているに「一日くらい空けられるんじゃないか?」と言った。
そう言うしかできなかった。

結局はみんなで海に行くことを承諾した。


代わりに二人で合う日程を提案すべきか。
だけども引っ越し準備で忙しいはずだ。
の方から声を掛けてきてくれるだろうか。

「(あの景色だけは、一緒に見たかったな)」

真っ赤な夕日が切り立った崖と水平線と境目に沈んでいく、
その景色を思い浮かべながらいつも通り振る舞うの横顔を見つめた。

そのとき英二が、
「ねー大石、海どこがいいかな。どっかいいとこ知らない?」
と相談してきた。

……そうか。
行けばいいんだ、みんなと一緒に。


英二は俺の提案をあっさり呑んでくれて、
元々と二人で行こうと思っていた海にレギュラーみんなで行くことが決まった。


結局の方から声を掛けてくることはなく、
俺からも連絡はできないまま25日を迎えた。

が時間をつけられるかはさておき、
相談だけでもするべきだったかもしれない…。
と考えているうちに一瞬で二日は過ぎた。

「(二人で話す時間がほしいな)」

といっても、俺の方から声を掛けるのも、なんだか。
喧嘩をしている、というわけでもないのに、
まるでしているかのような気まずさがあるまま当日を迎えた。

不二の計らいだったのか、偶然か、海についてそうそう二人きりになった。
心の準備ができていなかったが、話し始めてみれば会話は自然だった。

日焼け止めを背中に塗ってほしいとお願いされ、ボトルを受け取った。
背を向けるの肩は、細かった。

いつも対等な立場で、
俺が落ち込む素振りを見せると力強く励ましてくれて、
悩んでいることに気付くと親身に話を聞いてくれる。
は強い。
そんなに甘えている部分は多かった。
自分の不甲斐なさを今更ながらに反省する。

結局まだ話せていない。
俺たちがこれからどうするか。
は、どう思っているのか。

あのとき、「その日は俺とデートだから」と言えたら良かったのにな…。
そう思いながら、感触を覚えるように、
その細い肩に丁寧に日焼け止めを塗っていった。
そして背中越しにその表情を盗み見る。

明確に悪いことをしたという自覚もなかったのが正直なところだが、
顔を見ていればが不満を抱えていることは明らかだった。
「ごめん」と謝ると「悪気はあったんだ」と返された。
俺は苦笑いをするしかできなかった。

「結果良かったよ。みんなとも最後だし。レギュラー全員予定合って良かったね」

はそう言って海の方を見ていた。
転校してしまうんだ。
俺だけじゃない。他のメンバーとの別れも惜しんでいるはずだ。

俺が「そうだな」と同意の言葉を返すと、
「二人だけなら予定合わせるの難しくないしね」と言って笑った。

それはつまり、また改めて二人で会う日を作ろうと?
引っ越しの日まではもう忙しくて空ける日は作れないと前に言っていた。
つまり……。

「(は、引っ越しても、俺と別れる気はないのか)」

胸が苦しくなった。
別れようと心には決めたけれど、
本当は俺だって別れたいと願っているわけではない。
も願っていないのであれば、
このまま続けても、いいのか?

でもそうすると、
俺はまたに甘えてしまうことになるんだろうな。

結局その後と踏み入った話をすることはなかった。
昼食時の席は隣になったが、
当たり障りのない会話しかなく。
みんなと一緒に水遊びはしたが
同じ空間で同じことをしているというただそれだけだった。

海での時間の流れは遅いようで早く、
気づけば少し傾き始めて黄色みを帯びてきていた。
そろそろ海から上がろうかとシャワーを浴びてパラソルの下に戻ると
は体育座りをして顔を膝にうずめていた。

「(……寝てる?)」

疲れたのだろうか。
隣にそっと腰掛けて様子を観察した。

本当は、君の肩を抱いてこのまま連れ去りたい。

「ぅ……」

ん、なんか言ったか?

「しゅ、う……」

ぎゅっと目をしかめて苦しそうだった。
俺の夢…?

「(、俺のことで、苦しまないでくれ)」

俺から別れを告げたら、はきっと悲しむ。
悲しんでくれるだろう。
だけど…それは一時のことだ。

君はきっと、新しい学校でもすぐにたくさんの友達ができるし、
もしかしたら好きな人もできるし、
そうでなくとものことを好きになる人はいくらでもいるだろう。
そのときに、俺は隣に居られない。
離れている俺が、こんな不甲斐ない俺が、
そんなを束縛し続ける権利はない。

「(ごめん、)」

こんな俺を許してほしい。
きっと、時が流れれば
あのときに別れておいて良かったと思うときがくると思うんだ。
だから。



肩を揺すると、はぎゅっと瞑っていた目をゆっくりと開いた。

「大丈夫か、うなされてたぞ」
「……いつの間にか寝てた」
「疲れたんだろ。だいぶはしゃいでたし」
「なんか…夢見た」
「…どんな夢だ?」

きっと、俺が登場する夢で、
あまり良い夢ではなさそうだった。
しかしは「忘れちゃった」と言った。

忘れてしまったのか。
それならそれでいい。

「夢ってそういうものだよな」

思い返してみれば、この一年間、
と付き合えたことは俺にとって夢のような時間だった。

それも、もう終わりだ。

「ちょっと散歩しないか」
「うん、いいよ」
「いい場所を知ってるんだ」

何の疑いもなくは付いてきた。
後ろから付いてくるばかりで横に並ぼうとはしなかった。
たまに後ろを振り返って存在を確認しながら目的地へ向かう。

前に一人で海に泳ぎにきたときに偶然見つけたその場所で、
初めて人と一緒に歩いている。

足元の悪い岩場に入って後ろを振り返ると
がふらつきながらゆっくりと歩いていたので、手を取った。
やはりは横に並んでくることはなかったが
手の確かな感触を信じて前へまっすぐ歩き続けた。

目的地に着いたときには
太陽は黄色く傾いていてオレンジ色が濃くなってきていた。

ずっと一緒に見たかった景色なんだ。
いつか連れてきたいと思っていた。
最後に夢が叶って良かった。

やっと、本当に二人きりになれた。

「…着いたよ」
「わぁ!キレー!」

遠く映える太陽の方を見てが目元を細めたのがサングラス越しに見える。
座りやすそうな岩を見つけて腰を下ろす。
も俺の隣に座った。

あのことを
話さないと。

そう頭では思っているのに話題には出せずに、
楽しそうに話すの顔ばかりを見ていた。

この時間が永遠に続いてくれればいいのに。
だけどそれは叶わない。

「…元々ここに来ようと思ってたんだ」

ようやく発せた声は自分で想定していたより小さかった。
「そうだったの?」とは驚いた表情を見せた。

「まさかこんな形になるだなんてな。
 どこかいい海を知らないかって聞かれたからここを提案したのは俺なんだ」
「そうなんだー」

言おう。
言わないと。
そう思うのに言葉は全然発せなくて。

「今度は改めて二人だけで来たいな」

横からそう聞こえての方を見た。
はサングラスを外していた。
その目をようやく直視した。

今度改めて二人だけでここに来る。
それができたらどれだけ幸せだろう。
そんな未来にあるとしたら、
俺と君はどんな関係で、どんな状態にあるのだろう。

一旦、になるか
ずっと、になるか
今の段階ではわからない。
だけど俺たちは今日、終わる。

「別れよう」。
「別れないか」。
「別れてください」。

頭の中の言葉を色々と形を変えて
一つだけでも口から押し出したかったのにそれができない。

勇気は出ないし、
本当は言いたくもない。
言葉が喉の奥から出てこない。

「秀、もうすぐ時間じゃない」
「…そうだな」

時計を確認すると集合時刻まであと10分を切っていた。

本当は今すぐにでも向かわなければいけない。
だけど、これだけは伝えないと。



立ち上がって歩き出しかけたを呼び止める。
橙色の光に照らされたは、眉を軽く顰めていた。

「なに?」
「……俺、ずっと考えててたんだけど」

の、
風に揺れる長い髪が大好きだった。
顔も首も腕もこんがりと焼けた肌が大好きだった。
太陽のように明るい笑顔が大好きだった。
その目元に、何度恋をし直したことだろう。

もう、見られないんだな。

さようなら。


「俺たち…今日別れた方が良いと思うんだ」


本心だった。
本心、のはずだった。

だけど俺はきっとどこかで、 が引き留めてくれることを祈っていた。
その隠れた本心に気付いてしまったのは、

「知ってる」

というの返事に酷く狼狽してしまったから。

「知ってる、って」
「イヤだけど……わかってる。別れよ」

胸が
苦しい。

本当は嫌なんだ。
別れたくなんかない。
君のことが大好きだ。
ずっと肩を並べて笑っていられたらどれだけ良かっただろう。

のことが嫌いになったわけじゃないんだ、ただ…」
「いいよ言い訳は」

の語調は強かった。
怒っている。でも当然だ。
そう思ったのに。

「この景色を一緒に見られて良かったよ」

そう言って目元を細めたの表情は
今日一番柔らかくて
儚くて
崩れそうだった。

サングラスを掛けようとするのその手を止めた。
そして肩に手を乗せる。
不思議そうに見上げてくるその顔に
自分の顔を近付けていって、
唇同士を触れさせた。

最後のキスだ、

ゆっくりと離した。
声を張ることもできず
顔を見て言うこともできず
耳に口を寄せるように
「ごめんな。今までありがとう」
と伝えた。

横では声を張り上げて嗚咽しだした。
しばらく泣き止むことはなかった。

顔を伏せていたは気付かなかっただろう。
その横で俺も止めどなく涙を流していたことに。
が泣き止むよりは先に泣き止まないと、と
隣で肩を震わせているに声を掛けることもできずに
俺も声を押し殺しながら呼吸を整えた。

さようなら、
今までありがとう。


君は君の人生を謳歌してくれますように。

俺も、胸を張って生きられるように努力するから。




  **




と連絡取ってるー?」

新学期を迎えて2週間くらいした日のことだっただろうか。
休み時間、遊びにやってきた英二が勉強している俺の背中に飛びつきながら聞いてきた。
俺は目線をノートに残してペンを走らせたまま返事をする。

「取ってないよ」
「なんで」
「別れた」
「はぁぁぁ!?!?」

英二の大声が2組の教室中に響き渡った。
こんな態度で報告する内容ではなかったかもしれない。
だけど、改まって報告する方が、今の俺にとっては辛かった。

「なんで別れたの!?」
「別にいいだろ」
「良くないよ!なんで!?!?」

正面に回り込んできた英二が俺の肩を掴んでガクガクと揺するから、
勉強もできなくなって、俺はノートを閉じた。

なんで別れたの。って。

「俺だって、別れたくなかったよ…」

精一杯振り絞った声は、震えてしまっていた。
目元が滲んできたのを瞬きでかき消す。
英二は焦った様子で「ま、まあ色々あるよねっ!?」とフォローを入れてきた。
かき消しきれなくて濡れた目尻を袖で拭った。

は新しい環境に馴染めているだろうか。
友達はできただろうか。
元気にやっているだろうか。
……のことだから、いらない杞憂かもしれないが。

「そうなんだー…なんか淋しいなー。でも遠いもんね、四国は」
「……そうだな」
「もしかして、急に外部受験するとか言い出したのもそのせい?」
「いや、これは前から考えてたことだよ」
「そっか」

少し落ち込んだような素振りを見せた英二だったが、
すぐに元気な表情に変えて俺の肩を掴んだ。

「俺は何があっても大石のこと応援してるし、別の学校いってもずっと友達でいような!」
「ありがとう英二。でもちょっと気が早いぞ」
「そだね。あと半年あるもんね」

英二の熱い一言を俺は茶化してしまったけど、心強い一言だった。

そして思いの外、その半年は一瞬で通り過ぎた。

無事受験に合格した俺は、青学よりも学力レベルの高い進学校に入学した。
はどんな高校に進んだのだろう、とついつい考えている自分が居た。
もうと別れてから半年以上の月日が流れているのに。
もう向こうは俺のことを憶えていないかもしれないのに。
いや、忘れてるって、何も記憶から消えているとかそういう意味ではないんだけど。
でも俺の存在を思い起こすようなことなんて、ないんじゃないかと思う。

「(……他に彼氏ができているかもしれないしな)」

それは、俺がある種望んだことでもあった。
はきっとどんな環境でも素敵な人間関係を築ける人だ。
にはの新しい世界で、幸せに暮らして欲しい。

ただ、もしもいつか再会できることがあれば。
もし以前より立派になった俺を見てもらえれば…
胸を張って「君のことが好きだ。付き合ってほしい」と言える男になれれば…。
そう思って、毎日を充実させて暮らせたように思う。
……いつ再会できる保証もないけれど。


別の高校に入っても俺と英二は連絡をコンスタントに取り続けていた。
ただ、のことが話題に上がることは次第に減っていった。
英二はとたまに連絡を取っていたみたいだったが。

高校1年、2年、3年目の日々が過ぎて……
年も明けて大学受験の季節がやってきた。
あけましておめでとうと掛かってきた電話の中で、英二は予期せぬことを伝えてきた。

、関東の大学中心に受けてるって言ってたよ。受かったらいいなー」

が、関東に?
会いたいと思えばすぐにでも会える場所にが来るかもしれない?

あれから3年も経った。
は新しい環境での生活を謳歌して
彼氏がいるかもしれないし
もう俺のことなんか気にしていないだろう。けれど。

「……そうなんだ」
「会いたくないの?」
「ごめん英二、今は自分の受験に集中したいから」

考え始めるとドツボにハマる気がした。
その話題は一旦終わりにさせてもらって、電話を切って勉強の最後の追い込みに入った。

そこから2ヶ月の間に、大学受験の全日程を終了した。
手応えはあった。
あとは結果を待つだけ…というある日のことだった。
穏やかな春の季節の中、少し車通りの多い通り沿いを歩いていたら。

「危ない!!」

ボールを追いかけて道路に飛び出す男の子。
猛スピードで迫る車。

急ブレーキの音が聞こえるがダメだ間に合わない

その子を抱えて駆け抜けたかったけど

突き飛ばすだけで精一杯で

鈍い音と同時に全身に衝撃が走り宙に浮いたまま景色が回転する様子が映画のワンシーンみたいにスローモーションに流れた。


死んだ、と思った。

頭や体を打ち付けられながら
最後に君にもう一度会いたかっただとか、
君と最後に見た景色もこんな赤色だったとか、
記憶を見送って
真っ暗闇に飲み込まれた。




  **




足元が浮いているみたいに力が入らない。

本当に死んだみたいだ。

目の前に誰かいる。

女の子?

眩しくて直視できない。


髪は短く見える。
首元までしっかり覆われた服を着て…
メガネを掛けてるのか、目元がよく見えない…。
にこりと笑ってるのに、
なんだかとても寂しそうに感じたのはそのせいか。

背景、夕日?

世界が、赤い……


『キキー!! ドンッ!』


赤い。

苦しい。

意識、が――……。



「ハッ!?」


引き攣るように息を呑むと当時に目が覚めた。
辺りは真っ白。

さっきのは、夢だったのか。
俺は、もっと、真っ赤な世界に居たような…。

「秀一郎!」

先ほどまで見ていた景色に思い起こそうとしたが、
横から手を握られたことで思考が遮断された。

俺はどうやら、ベッドに寝ている。
ひっきりなしに機械音が聞こえる。
腕には管が繋がっている。
ここはもしかして…病院?

そして先ほど、秀一郎と聞こえたが。
それは、俺の名前か?

俺は誰だ?

「えっと…」
「あ、無理しないで!」

体を起こそうとしたが、肩を押さえられるようにそれを制された。
中年の女性、男性、女の子…家族だろうか。
しかし、誰だ。
俺の家族なのか?

わからない。
思い出せない。

「俺は……」
「小さな男の子を助けて代わりに車に撥ねられたのよ。あなたって子は本当に…!」

そう言って、俺の母親とおぼしき女性は俺の手を握る力を強めた。

「3日も意識が戻らなかったのよ。怪我自体は大したことないって。大丈夫?どこか痛くない?」
「どこも、痛くはない……のですが」

ですが。
つい出てしまった敬語、やはり不自然だったのか、
目の前に居た3名はわかりやすく硬直した。

「すみません、自分自身のことが……何も思い出せなくて」

「え…もしかして記憶喪失?」と女の子が呟いた。
涙を流し始めた女性の肩を男性が支えた。

「3日も意識を失っていたんだ。少し意識が混沌としてるんだろう」
「そう…ね。そういうことね」

そういうこと、か。

俺もそう信じたかった。
時間を置けば記憶は戻る、と。

何か思い出せることはないかと真上の天井の模様を見つめながら思考を巡らす。
しかし思い出せるのは、目が覚める直前に見たあの夢だけだった。

世界は真っ赤だった。
夕日の色だっただろうか。
女の子がいて。
……アレ?

「(顔が、思い出せない)」

過去を何も思い出せないし、
先ほど見ていた、唯一の記憶も曖昧だ。

「入学式までに思い出せるといいけど……」
「入学式?」
「5日後には大学の入学式よ。第一志望受かったのよ!」
「大学…」

話を聞くと、受験は終えていて結果待ちの間に事故にあったらしい。
第一志望の国立大に受かっていたとのことだった。
ちなみに高校の卒業式は事故の翌日で、出席することはできなかったらしい。

大学、か。

「(新しい環境だったら…もしも何も思い出せなくても大丈夫だろう)」

俺は既に、何も思い出せなかったときの心構えを始めていた。

そしてそれは正解だった。
2日後には退院し、更に3日の時が流れたが、
大学の門を潜ろうとしている俺には何の過去の記憶もなかった。
合格通知と振込用紙と共に送られてきた入学案内を手に、
俺は自分がこれから6年間通うことになる大学へやってきた。

「(医学部……どうやら俺は随分頭が良い、または勉強熱心だったようだ)」

そういった知識とか、一般常識というものはあるのに、
自分が体験してきた記憶だけがない。不思議な感覚だった。

入学式では特に誰と関わることもなく、
その翌日である今日は一日ガイダンス。

友達…できるのだろうか。
今の俺は言ってしまえばこの世に一人も友達がいないような心境だ。
勉学に励むことは大前提ではあるが、
そのときを共にする仲間がいれば心強い。

本格的な授業は明日からだ。
実習などもあるし、そのうち喋れるような人もできるだろう。
なんとかなる、と自分を納得させたとき。

「大石くん!」

大石、それは俺の苗字だ。

声の方向に顔を向けると、元気があって明るそうで
好印象な女の子が俺の方をまっすぐに見てきていた。

ドキッ、と心臓が飛び上がるように弾んだ。
率直にとても可愛い子だと思った。
まさか一目惚れというやつだろうか。

「久しぶり、だね」

その子はそういって微笑んだ。

ん?
え、俺に言っているのか?

……ですけど」
「あっ、すみません。さすがにまだクラス全員の顔と名前は一致していなくて」

硬直している俺を見兼ねて名乗ってくれた。
さん。
何故俺に声を掛けてくれ……ん?
さっき、「久しぶり」って言ったか?

「もしかして…憶えてない?」
「もしかして僕の知り合いですか?」

そんなちぐはぐなやりとりで俺とさんは出会った。
いや、正しくは「再会した」…なのか?

話を聞いてみると、さんは俺と同じ中学でテニス部仲間だったらしい。
俺は選手でさんはマネージャー。
俺はなんと全国クラスの選手だったらしい。

他にもさんは色々なことを教えてくれた。
そのことが嬉しかったし、
さんと話すのは楽しかった。

流れで、記憶を取り戻すために協力してくれることになった。
まずは一緒にテニスをすることになり、
俺は部屋の中にある運動着やテニス道具をかき集めていた。

明日…学校外で二人、か。
……。

「(…ちょっと緊張するな)」

向こうはなんとも思ってないんだろうか。
…ないんだろうな。
部活仲間とのことだし気の知れた関係だったのだろう。

だけど俺からしたら、知り合ったばかりのようなもので、
何よりさんは……か、可愛いし…。

「(何ヨコシマなことを考えているんだ!)」

一緒に出かけるのもさんにとってはきっと正義感のようなもの。
思い上がって勘違いしてはいけない。

さんは俺の記憶を取り戻すために協力してくれているだけ。
そのことだけは肝に銘じておかないと。

別にこれは、デートでもなんでもないんだから…。

「(俺がそんな目線で見ていると言ったら、さんは迷惑だろうか)」

さんの笑顔はいつもキラキラと光っていて、
そのことが尚更俺を不安にさせた。

一緒にテニスをしたその日、おどけながら聞いてみた。
さんは今は付き合っている人はいないと言った。
ただ、気になる人はいるみたいだった。
そしてそいつは、俺の想像によると、以前付き合っていた人物だ。

「(太陽みたいな人…)」

さんの言葉を心の中で反復し、
こんなうだうだ考えている自分とはあまりに掛け離れているなと苦笑いした。


その後、ほんの数ヵ月の間に俺とさんはたくさんの場所に二人で出掛けた。

一緒にテニスをしたり
青春学園のテニス部を訪問したり
テニスの大会を行ったという場所へ行ったり。

…テニスばかりだな。
俺とさんの関係は元部活仲間だというから当たり前か。

「大切な手がかりだから」
「一緒にいたら何か思い出せそうな気がするから」
みたいな理由付けで一緒に出かける日々が続いていたけれど、
それは、都合の良い口実だったかもしれない。
本音をいえば、ただ、一緒に居られるだけで幸せだ…なんて。


さんと過ごす時間はいつも楽しくて、
昔の自分が羨ましくなるばかりだった。
どうして、何も憶えていないのだろう…。

あんなことがあったこんなことがあったと
さんはいつも楽しそうに話してくれた。
そして、懐かしそうに目元を細めた。

「(もしかして俺のこと…?)」

そう思ってしまうことが何度もあった。
その度に頭を横に振った。

思い上がってはいけない。
さんは他に気になっている人がいると言っていた。

それに、万が一、心変わりをしたとか、何らかの理由で
俺に好意を抱いてくれるようになったとしても、
俺には君を支えられる自信がない。
自分のことですら自分でわからないのに。
こんなに立派な君の横に立てる自信がない。

「(もし、記憶を取り戻せたら……告白できるかな)」

そう思い立ったが、しかし現実として何も思い出せなかった。
色々試しているけれど。
さんも協力してくれているけれど。
時間を使ってくれているさんに対しても申し訳ない。


昔のことは思い出せないまま、
今の現状だけで幸せな思い出がどんどん増えていく。
そうすると、ふとしたことが気になってくる。

以前の記憶を取り戻したら、記憶を失って以降の記憶は消えてしまうのだろうか。

だったら俺はこのままの方がいいんじゃないか?
記憶は消えないものだとしても、
今抱いているこの感情は変わってしまうんじゃないか?

「(記憶を取り戻しても、俺は、
 変わらず君を愛しいと思い続けるのだろうか)」

引っかかっていることがある。

それは俺の唯一の記憶の女の子。
事故後、意識を取り戻す直前に見ていた夢。
きっと記憶を失う前の俺にとって一番大事だった人。

今の俺がさんを想っているくらいに強く、以前の俺はその人を想っていたのだろうか。


さんと出掛けているある日、メールが届いた。
それは青学テニス部の同窓会の誘いだった。
相手は俺のことをよく知っている、だけど俺は憶えていない。
行くことに少し抵抗はあったが、さんの勧めもあり出席することにした。
確かに、記憶を取り戻すきっかけにもなりそうな期待はある。
相談した上で、少し遅れて参加することに決めた。


いざ迎えた当日。
到着してそうそう、事情を説明した。
「ウソだろ、大石」と詰め寄ってきた人物は、
俺のダブルスパートナーだったという菊丸英二くんだと会話の中でわかった。
さんの説明でも、凄く仲が良かったと聞いている。
しかし……どうしても、俺には初対面の人間にしか見えなかった。

俺のせいで場の雰囲気が悪くなってしまって申し訳なかった。
しかしすぐに仕切り直して会が再開した。
すぐにみんな俺を取り囲み始め、改めて事情の説明をすることになった。

その様子から、大石秀一郎という人物は…
みんなから信頼が厚く慕われていた存在だということがわかった。
そして、青学テニス部のメンバーが皆仲間思いであるということも。

この中にいたんだな、俺も。
そのことが誇らしく、どこか羨ましい。
きっと大切な思い出がたくさんあったに違いない。
どうして憶えていないのだろう。
楽しければ楽しいほど、どこか、悲しい気持ちも生まれた。

溜め息をついたことを悟られただろうか。
さんは隣の席から心配そうな表情で俺の顔を覗き込んできた。

「大石くん、大丈夫?疲れない?」
「ありがとう、大丈夫だよ。話に聞いていた通り、気の良い奴らだな」

さんが話してくれた通りだった。
テニス部の思い出を話してくれるとき、さんはいつも楽しそうだった。
その理由がよくわかった。

「俺のことは気にしなくていいから、さんは今日の会を楽しんでくれ」

そう伝えた。
俺がいなければ、さんは今日の会を純粋に楽しむことができただろう。
俺のことを気遣うばかりにその楽しみを奪ってしまうことは申し訳ない。

俺の言葉に対してさんは心配そうな表情も一瞬見せたが、
しばらくすると他のメンバーと楽しんでいる様子を見ることができた。

さん…気の知れた仲間と思い出話ができて楽しそうだ。
俺といるときは、いつも悲しそうな思いをさせている。
提案してくれた場所に行って、話を聞いて、
だけど思い出せなかったときに落ち込んだ素振りを見せるさんをもう見たくない。

…違うな。

「(正しくは、落ち込んだ素振りを見せないように気丈に振る舞うさん、か)」

思い出せなくてもいい。
そう割り切れば、いっそ胸を張って生きられるのだろうか。
実はそう思い始めているとこの前伝えたとき、
君は少し寂しそうにしていたけれど……。

離れた席で楽しそうに笑うさんをぼーっと見つめていると、
「隣、いい?」
と声が掛かった。
不二、だったな。

「この話は君には初めてするんだけど」

不二は俺の隣に腰を下ろしながらそう切り出してきた。
つまり、部活仲間だったときも話していないこと?
4年も経って、記憶がない俺に対して、何故。

「俺、中学の頃のこと好きだったんだよね」
「…えっ!?」

突然に告白に驚いて不二の顔を見る。
こんな顔だっただろうか、
というほど鋭い目線でこちらを見てきていた。

には当時付き合ってる人がいたから諦めたんだけどさ」
「そ、そうなのか…」

確かにさんは中学の頃に付き合っていた人がいたと言っていた。
しかし不二は、なんでそんな話を、今、俺に…!?

「心配しないで、昔の話だから」
「心配しないでって…」

どういうことなのか。
鋭く光っていた目を細めて、不二はにっこりと笑った。
どこか恐怖に似た気味の悪さを感じたが、
その笑顔に曇りはなかったように見えた。

「頑張ってね、大石」

頑張ってね、とは…。

「(これは、俺がさんのこと好きだって、勘付かれている?)」

つまり不二は中学の頃さんのことが好きだったけど、
当時は付き合っている人がいるから諦めて、
時を経て立場も変わって
今俺がさんを好きなことに気付いて
応援してくれている…と。

まさか今日、いわゆる恋バナを出来るようなことになるとは。
腫れ物扱いされても仕方がないくらいの覚悟で俺は来たのに。

「(本当にいい奴ら、だな)」

店内全体を見渡して、改めてそう思った。

「手塚とは喋った?」
「いや」
「全く、相変わらず口下手だな」

笑顔でため息をついた不二は、
「手塚、ちょっと来て」と言ってカウンターに座る人物を呼び寄せた。

相変わらず口下手、と表されたその人物は
なるほど口を一文字に結んで険しい表情をしていた。
どこかその顔に見覚えが…と頭を巡らせてハッとした。

「(家にあった雑誌で付箋が付いてたあの人だ!!)」

俺がファンだった選手と思っていたけど、
そうか……部活仲間だったのか。
わざわざ付箋も貼るわけだ。

「あの、雑誌でお見かけしました!」
「…光栄です」
「同じ部からプロ選手が出ていただなんて…あの、これからも応援しています」
「ありがとうございます」

手塚選手は会釈をしたから慌てて俺も頭を下げた。
しかし…これでは完全にプロ選手とファンの関係では?
俺たちは部活仲間……だったんだよ、な?

「あの……僕たちって敬語で喋るような関係だったんですか」
「……いや。お前がそうするからつい」

「アハハッ」「何それー!」と横の卓から笑い声が聞こえてきた。
不二と英二だった。

「こっそり話聞いてたけど面白すぎて耐えられないや」
「大石が敬語で喋りたい気持ちはわかるけど手塚はカタスギ」

ワハハとみんなが笑う。
さんも笑っていた。
俺も、困っていたながらに、笑ってしまった。

楽しい。
この空間が、好きだ。


この出来事をきっかけに、
「思い出せなくて申し訳ない」
より
「思い出したい」
という思いが強くなった。


帰り道、さんと二人になりその気持ちを伝えた。
「この前は、もう思い出せなくていいみたいなことを言ってしまったけど、
 やっぱり思い出したいな」と。

さんは「大石くん、今度海行こう」と提案してくれた。
それは、いつも俺の都合に合わせてもらっているお詫びとして
今度はさんの好きなところへ行こう、という提案に対する返事であったが、
さんの表情には覚悟のようなものが感じられて、
何か記憶の手がかりになるものがある場所なのかもしれない、と勝手に想像した。


しかし、二人で、海……。



白い砂浜。

青い空。

ビキニ姿のさん。


「(これは……さすがにデートじゃないか!?)」


想像よりも露出の多い水着で現れたさん。
スタイルが良くて、肌も綺麗で、目のやり場に困ってしまう。
だけどあまりに美しいのでさんの目線を盗んで見ては
刺激が強さに目を逸らす、ということを繰り返した。

日焼け止めを塗ってほしいと言われたが、
塗る代わりに自分が着ていたパーカーを羽織ってもらい、
ようやく俺の気持ちは少し落ち着いた。

沖まで泳いだり、
浜辺で遊んだり。
一緒に過ごす時間はあまりに幸せだった。

そんな中、さんは度々俺のことをじっと見つめてきては
目が合うとにっこりと笑う。
意識したくはなかったけれど…。

「(これはやっぱり……さんも俺のことを好きでいてくれてる、ような)」

思い上がりたくはないけれど、
そうでないと辻褄が合わないくらい、
さんの行動、態度、仕草の全てが訴えかけてきているように感じた。

「(告白してもいいものだろうか)」

俺はまだ、自分自身のこともわからないのに。
もっと大切にしていた人もいたはずなのに。
こんな不安定なまま、君に対して「好き」だなんて
伝えて良いのだろうか。

悩みながらも一日は楽しくて、
日が傾き始めてそろそろ帰り支度をしようというときに
「ちょっとお散歩しよ」と提案してくれた。

私服に着替えて、さんのあとを付いていくと
砂場が終わって岩場に差し掛かった。
足場はごつごつとしていて不安定だ。
時折ふらつきながら、どんどん前に進んでいくさん。
その腕を掴んで支えようか、と浮いた手を下ろす。

どうしたら俺は、自信を持って君を支えることができるだろう。
記憶さえ戻れば、それができるのだろうか。

答えが出ないまま、さんは「このへんに座ろっか」と言って座りやすい岩場を探した。
俺もその隣の岩に腰掛けた。

空は綺麗なオレンジ色だ。
なんでも、夕日がよく見える場所ということで連れてきてくれたみたいだ。
どうりで。
……。

「(…………絶好のシチュエーションだ)」

告白してくださいと言わんばかりにお膳立てされた場。
もしかして、これは促されている…?

ドキンドキンと、胸が高鳴り出す。

さん。
好きだ。
この想いを伝えて良いのだろうか。
自分のことすらよくわからないこの俺だけど。

このまま、事故以降に増えてきた記憶だけで、
君と一緒に生き続ける決心をしても良いだろうか。

……自信はない。けど、
告白したとして、それを受けるか決めるのはさんだ。
今日、伝えよう。
この気持ちを。
君のことが好きだって。

「―――」

さん、と名前を呼ぼうと横を見て、
声を発することができなかった。
雲の後ろに隠れた太陽を見透かすように遠くを見つめるさんの目線が
あまりに優しくて、寂しそうで、儚くて。

「(……思い上がりだったな)」

告白待ちだなんて、俺の都合の良い考えだった。
きっとさんは今、俺ではない誰かのことを考えている。
俺に何かを言ってほしいというより、
何かを話したいのは、さんの方なんじゃないだろうか。

自分の不甲斐なさに溜め息をついて、
気を取り直してさんに声を掛けた。

「二つ、聞きたいことがあって」
「……何?」
「ここに来たのは、何か特別な意味があるのかな」

さんは、すぐに返事をしなかった。
「別にないよ」という言葉がすぐに返ってこなかったことが、
答えであるように感じた。
やはり、何かあるみたいだ。

「今日はさんが行きたい場所っていうことでここに来たわけだけど、
 さんが本当にただ遊びたいだけで選ぶかなって」

改めて問い掛けたけれど、やはり返事は来なかった。

もしかしたらさっきの質問と同じ意味になるのかもしれないけど。
と前置きした上で、言葉を選んで問いかけた。

「大丈夫かい?」
「―――」
「なんだか、元気がなさそうだから」

元々眉を潜めていたさんは、今にも泣きそうになった。

そんな顔をしないでくれ。
君が今ここで泣き崩れたとして、
俺はきっとその肩を抱くことはできない。

さんは口を開いて何かを言いかけたけど、それを飲み込んだ。
その言葉を待っていると、
顔の側面が急に温かく、眩しくなった。


夕日。


「……綺麗だな」

あまりの美しさに言葉が自然と漏れた。
眩くて長くは見ていられないけど、
できればいつまでも見つめていたい程に。

綺麗だ。
綺麗な、赤だ。

「(赤……?)」

頭が、ズキンとした。
光を直視しすぎただろうか。

違う、それだけじゃない。
この景色に、見覚えが、ある、気がする。
ズキンズキンと頭痛が強くなっていく。
危険な気がして目線を地面に移した。

「どうしたの、大丈夫!?」とさんは焦ったように声を掛けてくれた。
大丈夫だ。
苦しい、けど、何かを思い出せそうだ。

「なんだかすごく、懐かしい気がして…胸が苦しいくらいに」

もう一度夕日を見る。
赤い。
何かが呼び戻されるようだ。

聞こえないはずのざわめきが聞こえる。
耳をつんざくようにサイレンが鳴り響く。
波の音しかないはずなのに。

頭が痛い。苦しい。

「無理しないで!」
「でも、思い出せそうなんだ」

遠く正面を見る。
まるで血液みたいに真っ赤な空を見ていたら、
そこに佇む一人の少女の姿が浮かんだ。

ああ、あの子だ。

これは俺の唯一の過去の記憶。

「…俺はきっと、誰かとここに来たことがある」

頭が割れそうに痛い。

「この景色を一緒に見たはずなんだ…
 さんにも前話したことあったよな、俺が唯一憶えてる、あの景色だ」

真っ赤な世界の中で、
髪は短く見えて、
首元までしっかり覆われた服を着ていて、
メガネを掛けてるのか目元がよく見えなくて、
にこりと笑ってるのに、
なんだかとても寂しそうで。

「こんな風に、世界は真っ赤だった」

記憶のかけらをぽつりぽつりと零す俺の顔と
遠くの夕日を交互に見比べるさん。が、
力なく笑ったように見えたのは気のせいだったはず。
なのに、何故か声も聞こえてきたみたいで。

「大石くん」って、俺の名前を呼んで、笑う。

違う。


大石くん、なんかではなくて―……。


「秀」


……シュウ?
なんだ?

もしかして、秀一郎の秀――


さんに視線を向けると同時

「私だ」

と聞こえた。

「え?」
「私だよ、その女の子」

…………。
えぇっ!?

「本当に……?」

さんは涙を喉を詰まらせながら頷いた。
そして教えてくれた。
俺たちは以前付き合っていたということを…。

「(“太陽みたいな人”……まさか、俺だっただなんて)」

半信半疑だった俺に、さんは目元を細めて笑って伝えてくれた。
「私には眩しく映ってたよ。当時も、今も」と。

良かった。
俺は、胸を張って君のことを好きでいていいんだ。
これからも、君のことを好きだと思って生き続けて良いんだな。

眩しく光っていた太陽が
岩場の影に沈んでいく。
世界中がセピア色になったみたいで
君の笑顔を一色に染めた。


さん、好きだ」


もう、迷いはなかった。


「これからも俺と一緒に居てくれませんか」


さんは「はい」と頷いて、
「私も大石くんのことが、好きです」と言ってくれた。

この感情は本物だった。
結局記憶は戻っていないけれど、
戻っても戻らなくても俺にとって一番大切なのが
君だということはこのまま変わらないんだ。

さんは俺を「秀一郎」と呼んだ。
さっき「秀」と呼ばれた気がしたけど…と思い聞いてみると
「元カレと同じ呼び方ってどうかなって」と笑って返された。
「今の俺」を「大石秀一郎」として認めてくれているんだ。

自然とそう呼びたい気持ちが湧いてきて
俺からも「」とその名を呼んだ。

驚いた顔が目の前に見えた直後、
懐かしさに揺れた気もした。
そんな些細なことで不安になったりもするけれど。

思い出せない過去なんかより、
今と、そしてこれからを大切にしたい。
そう思った。

引き合わされるように、唇同士を重ねた。
ゆっくりと顔を離して、目を見合わせて、
気恥ずかしさにどちらからともなく笑った。

このときのことを忘れてしまったとしても、
このときの気持ちは本物だった。
それだけはいつまでも憶えていられますように。

そう願いながら手を取って、夕日が沈んだ空に二人並んで視線を向けた。
























『グッバイ・サンセット』と『セイハロー・トゥー・サンシャイン』の
大石視点バージョンでした。
両方とも読んでる前提で書いてるのでだいぶダイジェスト版。
すみません読者の焦点はいつも未来の自分なのです(…)

『セイハロー〜』を完成させるにあたり、
大石がどういう状態でどんな気持ちでいたのかを整理するために
メモを書き留めてたんだけど、メモで留めるつもりだったんだけど、
結局書きたくなって書いてしまった笑
状況説明をしたかったのがメインで
小説としての質はイマイチだけど許してくださいてへへ。

これの更なる続きの妄想は8/19の日記にあります。

てわけで大石裏側BD記念でした!
原稿忙しくて劇場にも通い詰めてる中、
なんだかんだ大石ver本編、英二verに次いで長いの書き上げてるの笑えるなw


2021/07/24-10/30