私にはこの人しか居ない。

だからこれが最初で最後の恋にしたい。

そう思ったのも、
そんなに簡単ではないと思い知らされたのも、
それでも一緒に居たいと感じたのも、
ある夏の日の海の夕暮れだった。










  * セイハロー・トゥー・サンシャイン *












「お…大石くん!」

大学生活初日、予想外なことが起きた。

私の高校から同じ大学に進んだ人はいない。
誰も知らないこの場所で心機一転頑張ろう!と意気込んで登校したというのに
同じ学部に中学からの知り合いがいた。それも深く交流のあった。

ガイダンスの最中にクラス名簿を端から流し見していたら
見覚えのある名前に思わず大声を上げそうになった。
教室中を見回したら…いた。絶対にあの人だとすぐわかった。
当時とは髪型も違うし顔つきもほんのちょびっと変わってるし、
だけど見紛うはずはなかった。

しらんぷりすることも考えたけれど、これから6年間を共にするのだ。
先手必勝だと思って解散になり次第すぐにこちらから声を掛けた、というわけ。

「久しぶり、だね」

さあ向こうはどう出る!?と身構えたけれど…キョトンとした顔が見えるばかり。
突然の再会に戸惑ってる感じではないな…
これは、たぶん私だと認識されていない。

確かに私だって髪型も髪色も変わったしメイクもしてるし…
しかしそれにしたって、わからないもの?

……ですけど」
「あっ、すみません。さすがにまだクラス全員の顔と名前は一致していなくて」

そう言って、情けない顔で笑った。
そういう方針?と一瞬思ったけど、
演技でしらばっくれてるようには見えない。

「もしかして…憶えてない?」
「もしかして僕の知り合いですか?」

は?
いやいやいや!

元カノに対してその言い草はないでしょう!!!

これはどうやら何かが起きている。
そう悟った私は、次のガイダンスまで空き時間があることを確認して誘いを掛けた。

「ちょっと、時間ありますか」



  **



「記憶喪失!?」

中庭のベンチに腰掛けて話を聞いてみると、
一言目から想像だにしていなかった内容が降り掛かってきた。

「うん。先月事故で…」
「そうなんだ…」

その事故以前の記憶はほとんど何も憶えていないとのことだった。
つまり、私たちが中学の部活のチームメイトで、
1年ほど付き合って、夏の海で別れたことも、何も。

さんは、俺とは何繋がりの知り合いなんだ?」

純真無垢な表情で聞いてくる。
真実を全て話そうか、迷って…。

「中学の部活が一緒で、私はマネージャーやってたんだよ…」
「そうか」

…本当のことだ。何一つ嘘をついちゃいない。
大きな真実を隠しているそれだけで。
しかしそうか、記憶喪失か…。
本当にそんなことがあるのだと驚くと同時にどこか感心した。

横から大石くんは「俺はどんなやつだったんだ?」と聞いてくる。
私は思い返すがままの“大石秀一郎像”を語る。

「ものすごい優等生だったよ!
 学級委員とか保健委員長とか色んな委員やってたし、
 勉強は学年トップだし、先生からの信頼も厚いし」

いいところはいくらでも浮かんだ。というか、
思いついた部分をそのまま伝えていたら意図せず褒め倒しみたくなってしまったというか。

「本当に?それだけ聞くと、俺がずいぶん立派な存在に聞こえてしまうけど」
「立派だったよ」

同級生ながらそんな姿に憧れた。

私のストレート過ぎる言葉に大石くんは照れくさそうに鼻を擦った。
その仕草があまりに懐かしくて、記憶がないということはにわかに信じがたいほどだった。
些細な表情の端々が私の記憶の中の大石くんと完全に一致しているのに、
大石くんには私の姿は新鮮なものとして映っているのか…。

「学業もだけどさ、テニスがすごくて。全国クラスだったんだから!」
「テニス?」
「そうそう」

そこから、ダブルスのこととか活躍を色々話してあげようと思ったのに、
大石くんは眉を潜めるばかりで。

「どうしたの?」
「あ、いや…やっぱりテニスなんだなって」
「というと?」
「家にたくさんテニスグッズがあるんだ。大事に使われてた形跡もあって、
 俺にとってテニスは大切なものだったんだろうなって想像はつくんだけど、
 ……その分、何一つ憶えていないことが悲しくて」
「そっかぁ…」

切なげな表情のまま大石くんは語ってくれた。
高校の頃はどうだったかわからないけれど、
少なくとも中学の頃、大石くんにとってテニスは
自分の興味の大半を占めるくらい重要なものだったはず。
それですら思い出せないんだ…。

テニス…つまりテニス部で過ごした時間、
それは私と大石くんの共通の思い出の大半を占めるものでもあって。
……。
なんとか思い出せないものかなぁ。

「一回一緒に打ってみない?何か思い出すかも!」
「でもできるかな…少し不安だよ」
「だーいじょうぶだって!絶対に体は憶えてるよ」
「どうしてそう言いきれるんだ?」
「根っこには絶対私の知ってる大石くんがいるもん」

心配性なところもそうだけど。

「穏やかな雰囲気、当時と変わらないよ」

笑顔で伝えた。
返ってきた笑顔はやっぱり穏やかで、
記憶がなくても大石くんは大石くんだって再確認した。
大石くんがいなくなってしまったわけではない。

「ところで、さんはテニスできるのかい?」
「実は私も小学校の頃テニス習ってたんだ」
「へー、そうなのか」
「それでテニス部に入ったんだ。全国区に憧れて
 女テニじゃなくて男テニのマネを選んだんだけど」

どうして女テニに入らなかったんだって聞かれて、
理由を話しているうちに言い合いに発展して
果てにはジェンダー論まで出てきて大喧嘩になったことも今となっては懐かしい。

思い出してモヤっとした気持ちが再燃している私の傍ら、
大石くんは何も感じていない様子で「そうだったんだな」と微笑んでいて。
同じ時間を共有したはずなのに、同じ思い出を共有できないのはこんなに悲しいことなのか。

「なんか信じられない気もしたけど、本当に憶えてないんだね」
「そう言ってるだろ、どうして嘘をつく必要があるんだ」
「それは……」

まさか、私たちが中学の頃に付き合っていて別れたので
気まずさをごまかすためにしらばっくれてたのかと思ったとは言えず。

「……それもそうだね」
「だろう?」

理由を説明するわけにはいかず納得した私に対し、大石くんは得意げに笑った。
少しやんちゃなその表情は、私の最新の大石くんの記憶…つまり中3の頃のものではなくて
言ってしまえば中1の頃によく見ていたものに似ている気がした。
そういえば喋り口調も若干だけど違和感がある気がする。
記憶を失って、経験に基づかない素の部分が多く出ているのか、
それとも高校3年間の間にも変化があったのか…。

中3当時のまんまなわけはない。
それだけは心に留めておくことにした。


その日はテニスする日程だけ決めて、連絡先を交換して別れた。

大学生活初日。
どんな人たちと6年間を共にするのかドキドキしながら登校した私の思いは
“記憶喪失の元カレと再会”という大事件によってすべて吹き飛ばされたのだった。

「(大石くん、か)」

帰宅してボスンとベッドに仰向けになって考える。

会うこと自体が久しぶりだから当然なのだけど、
その呼び方がすごく懐かしかった。
付き合ってからは「秀」って呼んでたし、
テニス部メンバーは自然とあだ名で呼ぶようになってたからなぁ…。

英二のことはゴールデンウィークくらいには名前で呼んでた憶えがある。
不二と乾はいつから呼び捨てになったっけなぁ。夏くらい?
タカさんがタカさんになったのは英二の呼び捨てと同じくらいの頃だった気がする。
みーんなタカさんって呼んでたもんね。
部長のことは手塚くんって呼んでて途中から手塚さんになってて
部長になってからはずっと部長だな…もう部長じゃないんだけど
今会っても部長って呼んじゃうんだろうな。

で、大石くんはというと…

『なんで大石だけくん付けなの?』
『大石くんは大石くんでしょ!』

あ……。

英二とのそんな会話を思い出した。
他のみんなのことは名前とかあだ名とか呼び捨てとかになっていくのに
私はずっと大石くんのことだけは大石くんって呼び続けてた。

なんでだろう。
さっき本人にも伝えたけど、大石くんは私にとって
すごく立派に見えてたしどこか憧れの存在だった。
仲は割と良かったけど、あだ名とか呼び捨てとかに変わることはなかった。

そっか、付き合うまでずっと大石くんだったんだ…。

「(てことは中2の夏ぶり、か)」

指折り数えて、5年!?とわかって乾いた笑いが出た。


記憶が残ってるなら、話したいこと色々あるのにな。

3年の途中という時期になって転校することに不安はあったけど、すぐに友達ができたこと。
合唱コンクールで優勝してクラスの絆が深まったこと。
せっかく仲良くなれたのにって思って卒業式に誰よりも大泣きしたこと。
高校でも最高の仲間ができたこと。
一緒に勉強するばかりで遊ぶことも少ない友達だったけど、その時間が何より楽しかったこと。
初めて成績が学年トップになったこと。
先生たちの勧めのままに難関国立を受験することにしたこと。
具体的な夢がなくて、ならば一番高いハードルを目指してみようと医学部を選択したこと。
その選択をするときに、頭をチラリとよぎった存在がいたとかいないとか。

「(まさか、また巡り合うだなんて)」

そこまでは想定も期待もしていなかった。
更には、まさか相手には過去の記憶がないだものだとは。

「現実は小説より奇なり、ですねぇ」

ひとり言を漏らして、自分でぷっと笑ってしまった。



  **



数日後の日曜日、私はタンスをひっくり返して絶望していた。

「(可愛いスコートなんてないよ……)」

小学生の頃にお母さんに買ってもらって何回か着たのがあったけど
しばらく着ないから捨ててしまったみたいだ。
まあ、見つかったところでサイズは合わなかったと思うけど…。

仕方ない、ジャージでいいか、と思って着替えて、
鏡を見て、うーん…やっぱり可愛くない、と思ったけど、
テニスをするのが目的であって!別にデートってわけじゃないし!

「(デートってわけじゃ……ないもんね?)」

意識してるのは私だけ?
大石くんの方は、女子と休日に二人で会うこと、
特別なこととは思ってないのかな…?

「(事情が事情だとはいえ…休日に二人で会うとか)」

正直私はすごくドキドキしている。
だって、学校で会うのとは違うじゃん。
相手は元々大好きで別れたくなかったのに別れることを強いられて
4年ぶりに再会した元カレ、だよ!?

「(明日…緊張するなぁ)」

別れてすぐは悲しくて落ち込んだし、離れたことは淋しかった。
だけどその後の中学校生活も高校生活も充実してたから思い出すようなことはほとんどなかった。
思い出したとしても、それは綺麗な思い出としてで、
未練とかそういうものはなかったと思う。
それがまさかその後4年を経て再会して、
こんなに近しい関係になるだなんてな…。

まだ、大丈夫。
だけどきっとこれは時間の問題。

「(これ以上一緒に居たら……絶対また好きになる)」

好きな気持ちなんて、もう消えたと思ってたのに。
記憶ないならないなりに、全然違う人みたいになってくれてたら良かったのに。

「(大石くんは……記憶を失ってても大石くんなんだもん)」

残念ながら、優しくて気配りで柔らかいけど芯のある、私が大好きだった存在そのものだ。
別れた後に私の知らない数年間を過ごしてて、
全ての記憶を失っているというだけで。
……だけといっても、かなり大きなことだけれど。



  **



同じ人だけど記憶がない。
記憶がないけど同じ人。

複雑だよなぁと思いながら目的地に向かう私は、
待ち合わせ時刻まで30分以上の余裕を残している。

確かめたくて。
一つでも違うところを見つけられないかって。
それとも、こんなところも変わらないのかって。

「(…………変わってないんだなぁ)」

待ち合わせ場所に当たり前のようにいるその人物を見つけて軽いため息が出た。

「おはよっ」
「えっ、さん?おはよう!」

焦ったように大石くんは時計と私の顔を見比べた。

「どうしたの、まだ待ち合わせまで30分はあるよな?」
「うん。でも、大石くんはそれより早く来てそうだなと思ったから」
「…もしかして俺は中学の頃からそんなだったのかい」
「ウン」

そうなのか、と大石くんは苦笑いを見せた。
「なんでもお見通しだな」って言われたから
「記憶なくても変わらないのかは半信半疑だったけどね」って返した。

「丁度読みたい本があったから、早めに来て読もうと思ってて」

そう言って大石くんは本の表紙を掲げて見せてくれた。
最近芥川賞だか直木賞だかを受賞したことで有名な話題作だ。
読書好きも変わってないなぁ、って思ったけどくどいと思ってそこは触れないことにした。

「いいよ、続き読んでて。まだ予約まで時間あるしあのベンチにでも座ってよっか」
「ありがとう、そうしようか。でも本はいいよ。いつでも読めるから」

そう言って本にしおりを挟んで鞄にしまった。

「改めて、今日はありがとうな」
「ううん。私も久しぶりにテニスするの楽しみ!」

それは本心だった。
大石くんとだからなおさら…ってのはあるけどそこは伏せて。
満面の笑みな私に対して、大石くんの表情はどこか曇ってて。

「あの……俺、さんに伝えておきたいことがあって」
「う、うん」

大石くんは上半身を捻ってこちらに正面を向くようにした。
改まった態度に、心臓がドキンと鳴った。
私も合わせて向かい合う形になる。

「大学では、記憶喪失だってこと黙ってようと思ってて。
 他のみんなには内緒にしていてもらいたいんだ」

どんな話かと思ったらそういうことだった。
なーんだ、ドキドキして損しちゃった。
……めちゃくちゃ余計な期待してるな、私。

「わかった。全然問題ないよ!
 っていうかそっちからしたらまさか昔の知り合いに再会するほうが計算外だったよね?」
「そうなんだよ……あっ、別にさんが悪いってわけじゃないんだけど!」

きちんとフォローするあたりはさすがだなと思った。
記憶を失っただなんて、絶対に本人が一番辛いのに。
それでも心機一転新しい環境でやっていこうと思ったら知り合いである私に会ってしまった、と。
大石くんの言う通り別に自分が悪いとは思っていない。けど、
この状況には同情せざるを得ない。

でも私は声を掛けて良かったと思ってる。
そうでもなかったら、向こうが記憶ないとは知らずに
元カレが完全無視を決めてきているような状況になったら
さすがにイラついてしまったんじゃないだろうか…。
これは大石くんには言えないけど。

「どうしても隠したいわけじゃないんだけど、無駄に広める必要もないかなって。
 タイミングがあったら自分から話そうとは思ってる」
「そっか。わかった」

それを伝えてくれたことで、私は特別なんだ…ってちょっとだけ嬉しくなった。
けど、うぬぼれちゃいけない!
私は偶然にも中学の知り合いだったからだけであって!
別に私が、大石くんにとっての特別な存在というわけではない。

「(私にとって大石くんは、とても特別な存在だけど…)」

そう思ったけど、少なくとも今は言えないなと考えて胸の内に留めた。



予約していた時間になって、私たちはコートに足を踏み入れた。
懐かしいな、テニス。
高校の間は全く触れてなかったから…。
中学3年の夏まではほぼ毎日テニス漬けだったのに。

そんな感慨に浸る私の横で、大石くんは新鮮そうな表情であたりを見渡していた。
……。

「じゃ、準備運動して軽く打ってみよっか」
「ああ…お手柔らかに頼むよ」

さあて、そうおっしゃる大石くんはどんな感じか。
全然打てない…という事態も予想はしていたけれど、
戸惑っていたのは初めの数ラリーだけで
大石くんはみるみる感覚を取り戻していくようだった。

「大石くん、やるじゃん」
「思ったより打てるものだな」

大石くんはそう言って嬉しそうに笑った。
寧ろ心配なのは私の方…。
考えてみれば、私こそまともにテニスをやるのはめちゃくちゃ久しぶりだ。
(高校の授業でもやったけど、あれはほぼやってないようなものだ。)
受験勉強ばかりで運動することも減ってた祟りが来た。
軽い打ち合いだけだったのに30分もする頃にはバテバテになってしまった。

「ごめん、ちょっと休憩」
「あっごめん気づかなくて。キツかったかな?」
「ううん、今日は、大石くんが、メインだから…」

かっこよく言ってやりたいのに息も絶え絶え。
情けない…。
一旦休憩させてもらうことにした私はベンチに寄る。

大石くんは軽く汗ばんだ額を腕で拭うと「ちょっと、サーブを練習してみるよ」と言った。

私はベンチに座ってドリンクを飲みながら大石くんの様子を見守った。
隣のコートをしばらく観察していた大石くんは、トントンとボールを突いて、
高くトスを上げて、サーブを放った。

「(……うっわ、なつかし)」

そのボールはサービスコート内には入らなかったものの、
とても綺麗な軌道で反対コートへ飛んでいった。
当時の感覚が呼び起こされたようで「ジャストー」と自然と声が出た。

ストロークは運動神経良い人ならそれなりのフォームになるけど、
サーブは流石にそうはいかない。
だけど大石くんのフォームはお手本にしたいくらい美しくて。

「(当時から綺麗だったもんな、大石くんのフォーム…)」

トスを上げる瞬間の真剣な表情を見ていたら心臓がドキッとして、
これ以上は危険だと思って目を逸らした。
というか、既に手遅れかも…。
胸に手を当てて、このドキドキは運動したからだけじゃないなって。

かごを空にするまで打ち終わった大石くんに歩みよる。
一緒に球拾いを始めると丁寧に「ありがとう」とお礼を伝えてくれた。

「さすがだね」
「いや、そんなことないよ」
「後半普通に入ってたじゃん。フォーム綺麗だったし。
 やっぱり体が憶えてるんだなー」

大石くんは照れながらまた「ありがとう」と言った。
八の字眉の笑顔が懐かしすぎて、またきゅんとしてしまった。
危険すぎる…。
急いで話題を探す。

「大石くんの真骨頂はダブルスだったけどね」
「ダブルス?俺はダブルスの選手だったのか?」
「そうだよ」

そうだ。
今日テニスをしにきたのは単にお楽しみじゃなかった。
何か思い出すきっかけになるものはないかと頭を巡らす。

「菊丸英二とか覚えてない?二人めっちゃ仲良しだったよ」

大石くんにとって、中学時代一番仲良かった人と言われたら
一番か二番に名前が上がるはずの存在だ。
私自身も付き合ってる間にどれだけ英二にやきもちやかされたか…。

別れてから私と大石くんは連絡を取らなくなって、
「大石は別の高校に行ったよ」って教えてくれたのは英二だった。
その後も英二とは連絡は取ってて、大石くんともたまに会ってるらしい様子は感じ取れたけど。

「菊丸くん…」
「英二って呼んでた」
「……」

大石くんは首を横に振った。
あんなに仲良しで、大切な思い出をたくさん共有した仲間なのに。
英二でもダメかー…。
大石くんにとって、英二より思い入れの深かった人物なんて他に何人いるって言うの?

「家族とかは憶えてたの?」
「妹が生まれたときのことをぼんやり憶えてる気がするんだ…本当にぼんやりなんだけど」
「まー記憶失うとか関係なく小さい頃の記憶って曖昧なものだしねぇ」
「ああ。それで、会ったときは妹のことはわからなかったんだ。…親のことも」
「そっか…」

家族のことですら忘れちゃうんだ…怖いな。
妹さん生まれたときのことはなんとなく憶えてるみたいだけど、
物心つく前の断片的な記憶って脳みその変なところに保存されてる感あるよね…。
(わかる…私も2歳くらいのときに顔面からコケて流血したときの記憶とかある…)

「他に身近な人は?当時の親友とか」

誰かしら憶えてる人はいないのか、と思って聞いたけど
大石くんは眉をしかめたまま首を横に振るだけだった。

本当に誰も憶えてないんだ。
それじゃあ私のことなんて憶えてるわけない、よね。
…………。

「じゃあ、彼女とかは?」
「えっ!?」

軽いノリで聞いてやった。
大石くんは思いっきり赤面してすると焦ったように首を左右に振った。

「そんな人はいないよ!」
「えー、本当にー?」
「本当だよ!というか、憶えてないけど、
 少なくともケータイの履歴にもそれらしい人物の気配はなかったよ!」

ふーん…?
でも、高校3年間の間に居た可能性は否定できないよね?

……いや別に、私と別れた後のことなんだから
大石くんに彼女ができてようがなんだろうが
私の知る由もないんだろうけど。
……。

「本当になんも憶えてないんだねー…」
「あ、でも…」
「ん?」

大石くんは顎に手を当てて少し考え込んだ。

「一つだけ思い出せるシーンがあるんだ。おぼろげに。
 何歳くらいのことか定かではないし、本当に断片的なんだけど」

大石くんは神妙な面持ちで語り始める。
もしかしたら、その記憶に私が関わっている可能性も…!?

「俺の前に一人の女の子が立っているんだ」

ゴクリ。
期待と緊張で自分の喉が音を立てた。

しかし話を聞いてみると。


「確かショートカットで」

私、小学校6年からずっとロング!


「あと、タートルネックを着ていたかな」

そんな服持ってたことすらない!


「メガネが似合ってたような」

視力左右1.5ですけど!


「顔はよく覚えていないんだけれど、すごく、儚げな表情をしていた気がするんだ」

儚げ……
そんな、私から一番かけ離れたような形容詞。

違う。私じゃない。
きっと高校の間に、付き合ってた人がいるんだ。
それも、私とは真逆のようなタイプの。

「(その人のことは、覚えてるんだな…)」

大石くんの心の中で大きなウェイトを占めてた存在が居るんだ。
唯一憶えているくらい。
そう考えるとなんだか悔しくなった。
これはいよいよを以て名乗れないな、なんてね…。

ということは私は元々カノなのか。
いやもしかしたら元々々カノか…もっとかも……。

でもその後大石くんの前に現れていないということは、
大石くんの言う通り記憶喪失になったときにはもうとっくに別れてたんだろうな。
どんな人だったのだろう。
大石くんの話を聞く限りは、私とは違ったタイプの清楚系の子が想像されるけど…。

「そういうさんは」
「え?」

考え込んでいると、今度は私の方に同じ質問が飛んできた。

「付き合ってる人とか、いないのかい」

え。

「い、いないいない!」
「そうか…でも、居たことくらいはあるんだろう?」
「……まあ、ね」

大石くんと別れて以降、私は誰とも付き合ってない。
中学校は転校してから猶予半年しかなかったからみんなと仲良くなれたくらいで卒業しちゃったし、
高校は女子校の進学校だったから出会いの機会はなかったし、自らも求めてなかったし。
私にとっては大石くんが最初の彼氏にして唯一の元カレだ。

「それはどんな人だったんだい?」
「んー…」

まさか貴方ですよ、と言うわけにはいかず。
記憶の中の大石くんを引っ張り出す。付き合っていた頃の。

「しっかりもので、みんなのお手本になれるような人で」

色々頭に浮かんだ。
みんなの前に立つ姿。
後ろから支える姿。
真剣な表情とか。
笑顔とか。
そして。

「太陽みたいな人」

どうしても浮かんでしまうのは、
最後に見たジリジリとした夕日を背景とした姿。

「…当ててもいいかい」
「えっ?」

まさか、自分だってこと気づかれた!?
と思って焦る私に対し、大石くんは
「今でも、そいつのこと気になってるだろ」と言った。
あまり見覚えのないいたずらな笑顔にひどく狼狽してしまった。
ベースは私の知ってる真面目で気配りな大石くんなのに
ふとした拍子に見慣れない表情を見せるからドキッとする。

「えっ、あ、まあ……そうじゃないとは言い切れないかな」
「なんとなく伝わってきたよ」

そう言ったときの柔らかい笑顔は、私のよく知っている表情だった。

懐かしい大石くん。
見慣れない大石くん。
ドキドキした。

4年前の記憶が刺激されると同時に
新鮮な感情も湧き上がってくる。

これは、新たに恋をし直している。
そう思った。

自覚すると尚更弾みだした胸の内を悟られないように話題を振る。

「その大石くんの記憶の中の人だけど、卒アルとか見た?
 もし同級生だったら載ってるでしょ」
「全ページ見てみたよ、中学のも高校のも。だけどピンと来る人はいなかった」
「そっか。何繋がりの人なんだろね」
「そもそも顔をよく憶えているわけでもなくて…」

大石くんはそう言って額に人差し指をぐりぐりと押し当てた。
「ショートカットで…タートルネックで…眼鏡で…
 儚げな表情だったとは思うんけど、顔自体が思い出せなくて……」と言って唸った。

「そこまで憶えてるのに顔憶えてないって逆にすごいね」
「……ごめん」
「いや、謝ることじゃないよ」

その記憶の断片が、全ての記憶を取り戻すきっかけになるといいけど。
ただ、もし思い出したら今のこの関係は崩れてしまうかな。
唯一記憶に残っているようなずっと特別だった存在がいるみたいだし。
私との記憶も思い出されたら、気まずくなって話せなくなっちゃうかもしれない。
だったら今のこの状態が続いた方が。
……。

「(何考えてるんだ!)」

あまりにその考え方は自分本位だ。
私は自分の頭を軽く小突いた。

大石くんにとっては、思い出せた方が良いに決まってる。
私の都合で、思い出せなくてもいいかも、なんて願うのはズルイ。



  **



「これが青学か」

一緒にテニスをした翌週、私たちは母校青春学園へやってきた。
6年前から3年前まで、毎日通っていたはずの校舎を
新鮮なものを見るような気持ちで大石くんは見上げていた。
私は私で、4年ぶりに見る学校は懐かしくて胸が躍った。

「なつかしー4年ぶりだぁ」
「4年?3年ではないのか」
「あ、私中3の夏休みで転校したんだよね」
「そうだったんだな」

喋りながら校門をくぐり、中へ進んでいく。
慣れた道をずんずんと進む私に続いて、
大石くんはキョロキョロと見渡しながら後ろをついてきた。

「しかし、本当に良いのか?勝手に入ったりして」
「それが結構取材とか偵察とか多くてさ、
 部外者が入り込んでるの普通なんだよね」
「取材は凄いけど、偵察…?」

校内の様子はほとんど変わっていなかった。
でも卒業して3年以上ってことはここに居る生徒さんたちは
確実に私たちが知らない人なんだよなー…。

「おー、やってるなぁー!」

テニスコートまでやってきた。
テニスの強豪である青学はコートの数が多くて部員もたくさんいる。
「青学ー!」「ファイオー!」の掛け声が聞こえてきて
思わず一緒にファイオー!してしまいそうになった。

「凄く活気があるんだな」
「ね。相変わらずだなー…」

感傷に浸りながらコートを見渡す。
今は赤が2年生で緑が1年生っぽいな。
レギュラージャージに身を包んでいるのはほんの一握り。
変わってないんだな。

私たちもここに居て
汗を流して
時には涙して
全国制覇を果たしたんだな……。

「何か、思い出すこととかないかな」
「うーん……」

本題を忘れぬようにと声を掛けたけど、
大石くんは苦笑いをしながら首を傾げた。
青学テニス部が、大石くんの中でとても大きな存在であったことは間違いないのだけれど。
これでもやっぱり駄目か…厳しいなあ。

「部室も覗いてみちゃう?さすがに誰かにお願いしようか」

そう思ってキョロキョロと見渡して、
丁度通り掛かった子がいたから声を掛けようと思った、ら。

視線がこちらを向くなり、声を掛けるまでもなく相手が声を張り上げた。

「おい、あれ4年前に全国優勝したときの人じゃね?」
「ホントだ!写真で見たことあるわ!」

「えっ」

あれよあれよと言う間に部員が集まってきて、大石くんは囲まれた。
こ、こりゃ大変…!

「4年前に全国優勝したときの人ですよね!」
「手塚国光選手の知り合いですか?」
「どんな練習してたんですか!」
「今日は何しに来たんですか?」
「横の人は彼女ですか!?」

「こ、こら!」

ただでさえ大石くんはこういうのが得意じゃなさそうなのに
おまけに当時の記憶は何もないときた。
どうやってこの場を落ち着けよう…。

「こらお前たち何を騒いで……って、おや。大石にじゃないか」
「あっ、スミレ先生!」

スミレ先生がこっちに近付いてくると、
他の部員の子たちはささっと捌けて練習に戻っていった。
(何人かは陰からチラチラとこちらを気にしていたけれど…)

懐かしさでスミレ先生に駆け寄る私。
大石くんは一歩遅れて、お久しぶりです、と小声で言って会釈をした。
そういうスタンスで行くのね…と理解した。
余計な口は出さないことにする。

「今日はどうしたんだい」

スミレ先生はそう聞いてきたけど、
記憶を取り戻す手がかりを探しにきました!
……と言うわけにはいかなさそう。

「近くを通りかかったので、懐かしくなって」と私が言葉を挟むと
そうかい、と嬉しそうにスミレ先生は目を細めた。
そして「随分立派になったな」と大石くんの肩を叩いた。
大石くんの笑顔は、事情を知ってしまっているからか苦笑いに見えてしまうけど…
知らなければ普通の笑顔にしか見えないのか、気に留めない様子でスミレ先生は話を続ける。

「お前たちが卒業してもう3年にもなるのか。は4年ぶりだね」
「そうなんですよー!先生お変わりないですね」
「いやぁ、どうしても体力の衰えは感じるよ」

そう言って肩に手を当てて首をコキコキと左右に鳴らす、
その様子は当時から変わってないように見えるけどなー。

「お前たちは大学生になったのか?」
「そうなんです!で、私たち同じ大学なんですよ!」

ここまでほぼ黙りっぱなしだった大石くんは
話題に引っ張り出されて、実はそうなんです、と笑った。
スミレ先生は「これは驚いたねぇ」と目を丸くしてから、
ふっと柔らかく細めて微笑んだ。

「お前たち、今でも一緒なんだね。あたしゃ嬉しいよ」

げっ!!

大石くんの表情を盗み見ると、キョトンとしているのが伺えた。
マズイ!
この話題が深堀されると面倒くさい!

「じゃあ先生、私たちそろそろ…」
「そうかい。またいつでも顔を見せに来なよ。他の奴らも連れて」
「はい!ありがとうございました!」
「ありがとうございました」

私はペコンと勢いよくお辞儀をして、大石くんは丁寧に頭を下げた。
そのまま呼び止められないようにと早歩きで校門に向かう。
大石くんも黙ってついてきた。

「さっき…スミレ先生?」
「あ、うん。竜崎スミレ先生ね」
「竜崎先生か。えっと……今でも一緒?みたいなこと言ってたけど、あれはどういう…」
「ああー!」

やはりそこ気になっちゃったか…!
と思って私はぐるぐる思考を巡らせて
なんとかそれらしい理由を取り繕った。

「私たちの代、めちゃくちゃ仲良くてさ!
 部活外でも一緒に過ごしてること多かったから!
 別に私と大石くんに限ったこととかじゃなくて!みんな!
 そのことを言いたかったんじゃないかな!!」

めちゃくちゃ早口で大量の情報量をたたき込んでしまった。
これでは典型的な嘘吐いてる人じゃん…!
と思ったけど大石くんは「そういうことか」と納得したようだった。
助かった…。

「(危うく私たちが付き合ってたこと、バレるとこだった…)」

ふぅとため息をついて、
「次は校舎を見に行ってみようか」と提案した。


歩きながら、思い出す。
私と大石くんが付き合っていることがみんなに知れ渡った頃のこと。
確か選手たちはアップを開始していて、
私はせっせとボトルに飲み物を汲んでいた。



スミレ先生に呼ばれて手を止めて、
「なんですか」と笑顔で立ち上がったら予想外の質問が飛んできた。

「お前、大石と付き合っとるのか」

ピョッ!
と、背筋が伸びて一気に汗が吹き出してきた。

マズイマズイマズイ。
別に青学テニス部は恋愛禁止とか部内恋愛禁止とかを掲げているわけではない。
とはいえマネージャーという皆に平等に接するべき立場である私が
部内で特定の人物とクラブメイト以上の関係になっている。
そもそも学生の本文は勉学ともいうくらいなのに
恋愛に現を抜かしている場合ではない。

「じ、実はそうなんです…。でも、変わらず仕事はきっちりやりますし、
 贔屓したりとかも絶対しません!私情は挟みませんから!」

そういえば誤魔化すとか嘘をつくなんて選択肢はこのときの私はなかったな。
悪いことをしているわけじゃない。
バカ正直なくらいに真摯に思いを伝えて理解してもらおうとした。

「いやいや、私こそ口を挟むつもりはないんだよ。
 部内でも人一倍真面目なお前たちのことだし信用しておるよ」

スミレ先生はそう言ってくれた。
良かった…ひとまず怒られるわけでも反対されてるわけでもなさそう、と胸を撫で下ろした。

「恋に溺れるやつも中にはおるが、うまくすれば力に変わるからな。
 悪影響出さなきゃ寧ろ歓迎だよ」
「あ…ありがとうございます」

ふむ、と頷いたスミレ先生はコートの方を見て、
再び私の方を見てニヤリと笑った。

「ここ暫く、大石が好調な理由がわかったよ」

スミレ先生の目にもそう映ってたんだ…。
嬉しい以上に恥ずかしくって、意味なく何回も前髪も直した。

「ただし、周りの部員にひがまれんようにな」
「もう、先生ったら!」

男子テニス部で他に彼女持ちの人の話は聞かない。
スミレ先生はそんな茶化すような一言を残して去って行った。
きっと私が深く考え込まないように言ってくれたんだと思う。

そんな、4年前の思い出。

「(本当は別れちゃってること知ったら、スミレ先生がっかりするかな…
 あの場じゃ説明することすら適わなかったけど…)」

3名いて、全てを知っているのは私だけ。
妙な状況だったな…変に気を遣っちゃった。


事務室で事情を説明したら事務員さんが付き添ってくれて、
大石くんの3年2組と私の3年5組を見学して私たちは帰ることになった。
自分の席はあのへんだったなとか、3年2組にもちょこちょこ遊びに行ったなとか、
私は懐かしいことを色々と思い出したけれど、
大石くんが記憶を取り戻すヒントは何も得られなかった。
青学はかなり可能性あると思ったんだけどなー…。



見学を終了して私たちは青学の校舎に背を向けた。
校門を出たタイミングで「何も思い出せなかったね」と言うと、
大石くんからはすごく申し訳なさそうな「ごめんな」が返ってきた。

「謝ることなんかないよ!寧ろ私が不甲斐ないっていうか…」
「何を言っているんだ、さんはすごくよくしてくれているよ」

本当にありがとう、と大石くんは笑顔を向けてくれた。
その笑顔だけで私は報われているよ、なんてね。
言ってしまえば、大石くんの記憶はもちろん取り戻したいけれど、
こうして一緒に居られることで半分目的は達成できてしまってるというか。

「(こんな邪な考えでごめんね、大石くん)」

そんなことを私が考えてるなんて大石くんは思ってないだろうな、
と思いながら歩いていると、さん、名前を呼ばれた。
横を見ると、大石くんは先ほど以上に申し訳なさそうな顔をしてそこにいた。

「こうやって俺のために時間を取ってくれてることはすごくありがたいんだけど、
 本当にいいのかい。さんだって色々予定があるだろう」

大石くんの眉間には深い皺が寄っていて、これでもかと眉尻が下がっている。
目も合わなくて、本当に申し訳ないと思っている気持ちが伝わってくる。

「(『そんなことない。一緒に居られて嬉しいよ』なんて伝えたら
 大石くんはどんな反応をするかな…)」

そんな考えも頭を過ったけど、結局勇気のない私は
「大丈夫だよ、楽しんでるから」とだけ返した。

「本当にありがとう」
「いーっていーって!もし記憶が戻ったら、色々共有したい思い出話もあるしさ」
「ああ、俺も楽しみだよ」

話しているうちに大石くんも穏やかな笑顔に変わった。
共有したい思い出話について考えて、
どちらかというと内心冷や汗なのは私の方。

「(記憶戻ったら、付き合ってたことも、別れたときのことも、思い出すよね)」

楽しい思い出はたくさんあるけれど、
楽しいだけじゃない。辛い思い出だってある。

「(再会したらまた君のことを好きになっちゃった、って、
 伝えたらびっくりするだろうな…)」

受け入れてくれるかな…。
考えてるうちに、不安になってきた。
全てを黙っている今こそ大石くんを騙しているような。
別に、騙しているわけではないけど。
黙ってた方が大石くんのためだと思うし…
っていうのは伝える勇気がないだけの言い訳なのかな……。


ふぅ、と息を吐いて、視線を上げた。
前に広がっているのは数年前は通い慣れていた道だった。
大石くんとも何度も歩いた道だった。

当時私たちは学業に部活にと忙しくって、
デートするといっても一緒に学校から帰ったり
そのまま図書館やファミレスに行ってお勉強したり…というカップルだった。

逆にいうと、デートというと学校帰りのイメージが強い。
こうして歩いていると、風景の一つ一つから様々なことが思い起こされる。


アクアリウムショップは数え切れないくらい通った。
本屋さんもしょっちゅう足を運んだ。
他のテニス部メンバーも一緒のときはハンバーガーショップに入ることが多かった。
道の脇の花壇、足を止めてお話しした信号…
些細なものですら記憶を呼び起こす鍵になった。

チラ、と大石くんの表情を盗み見るけど、
何も気にする様子もなく歩き続けている。
それは、そうだよね。
それはそうだ。
記憶があったって気にするかどうかもわからない
ただの商店街の景色なのに過敏なのは私の方だ。

「どうかしたか」
「んーん、なんも」

私の視線に気づいて大石くんは声を掛けてきたけど、私は首を横に振った。

ダメに決まってる。
変な期待しない方がいいね…。

「何もないと言いながら、そんな顔で黙り込んでるのはらしくないぞ」
「え」

横を見たら大石くんは強気な目線を送ってきていて、
どうやら私が一人考えに耽っていたことは丸わかりだった様子。
大石くんがこの表情をするのはよほど自信があるとき。

「何を考えてたんだ」
「…………昔、付き合ってた人のこと」

観念して、本当のことを言ってやった。
まさかそれが君ですよとは言わないけど。

「もしかして、その人とは中学校の頃に付き合ってたのか?」
「うん」
「なるほどな」

そう言って大石くんは辺りをぐるりと見渡した。
ええ、なんともない景色ですよ。
それなのに過剰反応している私の方が妙なんですよ。

さん、一つ聞いても言いかい」
「うん」
「別れるって、どんな気持ちだい」

まさかの一言に、私はフリーズする。
それを君が私に聞くんだね、って。
もちろん記憶があったら絶対に聞けない質問だろうけど。

硬直した私に痺れを切らしたのか、大石くんが再び口を開く。

「付き合うという合意に至ったということは、
 お互いが相手のことを少なくとも付き合い始めの段階では
 好きだった…もしくは好きになる見込みがあった、という状態だと思うんだけど。
 一旦そう思い合った相手と一緒に居たくなくなるって、
 どういう心境なのか…今の俺には想像ができないよ」

そう言って大石くんは自分の手のひらを見つめた。
私はそんな大石くんを見つめる。

大石くんがそう考えているんだったら、私こそ聞きたいよ。
「どうして私たちは別れてしまったの?」って。
確かに物理的な距離はあった。
だけど何回も考えた。きっとそれだけじゃないって。
本当は遠距離とか関係なく大石くんは私と別れたくて、
都合の良い理由として私の引っ越しが使われたんじゃないか、って。

ふっと苦笑い。

今の大石くんは、あの頃の大石くんとは違う。
体験してきたものの記憶がない。
4年間の時を経ている。
だからこの意見は、「どうして別れたのか?」のヒントにはなっていない。

「わかんない。私はフラれた」
「そうだったんだな…ごめん、嫌なことを聞いてしまって」
「ううん」

首を横に振った。

「別れた理由も……もしかしたら一生わかんないかもしんない」

大石くんの目をじっと見た。穴が空くくらいに。
無言でまっすぐ見つめる私にたじろぐように視線を逸らした。

「まあ、関係が途切れてしまったら会う機会もそうそうある相手ではないよな」

わかってないなー…。
まあ、わかっているはずもないのだけれど。

「本当は時効だと思うから聞きたかったりするんだけどね。
 あのときどうして別れようと思ったの?って」
「そうか……ちなみにいつ頃のことなんだい」

きっとそんなに深い意味のある質問ではない。
だけど、転校したのが4年前だと先ほど話したばかりだ。
これを言ったら、もしかして何かに勘付いたりしないか…と
大石くんの表情を伺いつつ事実を伝える。

「…4年前くらい」
「結構前なんだな」

気付く様子もなく大石くんはあっさり返してきた。
まあ、そうだよね。
仮に転校がきっかけで別れたと気付いたとしても
その相手が大石くんだというヒントは何もなかったし。

確かに結構前のことだよ。
私だって再会するまでは忘れてたよ。
だけど再会したから思い出してしまったし、
君が忘れているとは思わなかったよ。

「今度は全国大会の会場でも行ってみる?」、
なんて話しながら青春台の街を後にした。



  **



医学部はテストが多いらしい、
ということは他の学部に進んだ友達と話していてわかった。
そして一つ一つが超ヘビーだ。憶えることも多い。
学科の何人かで集まって度々お勉強会を開いている。
大石くんを誘ったら「俺は一人で勉強する方が…」と断られかけたけど、
「違うの!私たちが詰まったときに大石くんに助けてほしいの!」と言って連れ出した。
一旦流れを作ってしまえばこっちのもので、
大石くんはだいたい毎回参加してくれるようになった。

困ったときは頭の良いお友達だよね。
大石くん、中学校の頃から成績良かったもんな。学年トップだったっけ?
私も勉強は昔から得意だけど、青学にいる間
大石くんにだけは一度も勝てなかったな…。

「大石くん、この問題の範囲テキストのどのへん見れば載ってたっけ」
「えーっとその単元は…」

隣の席から問題集を差し出すと即座にテキストをパラパラと捲る大石くんを
さすがだなーと思って見上げていると、机の正面から声が聞こえてきた。

「お前らって付き合ってんの」

その視線は、私と大石くんに向いていた。

「え」
「あーそれ私も気になってた!」
「実際どうなの?」

ちょっと待ってそんなナイーブな質問をあっさりと…!と焦る私、
そしてはしゃぐクラスメイトたち、
をよそに大石くんはあっさりと
「別にそういうわけじゃないよ」
と答えた。

すんなり否定されてちょっと悲しいような…。
でも付き合ってないのは本当だしな…。

「でもいつも一緒に居るよね?」
「実はちょっとした事情があって、さんには助けてもらってるんだ」
「事情って?」

6つの目に見つめられたじろぐ大石くん。
合計8つの目として私も参戦。

大石くんは記憶喪失であることを私以外のクラスメイトに話してないままみたいだ。
どうしても隠したいわけじゃないからタイミングがあったら話す、とは言っていたけど。

どうするのかなー…と大石くんの表情を観察していると
一瞬だけ私の方をチラ見してから
「実は俺、高校卒業以前の記憶がないんだ」
と説明を開始した。

「ええっ!?」
「それで、偶然にも中学校のときに部活のチームメイトだったさんに
 色々教えてもらってるんだ」
「そうなんだー」
「大変だね」
「俺、漫画とかドラマ以外で記憶喪失の人初めて会ったわ」
「確かに!」

勉強のために集まったんじゃなかったっけー?という感じだけれど、
さすがにあっさり締められるような話題ではない。
大石くんと目が合って、大石くんは苦笑いをしていて、私は肩を竦めた。

「てか記憶喪失が衝撃すぎてスルーしちゃったけど、二人って同じ中学なの?」
「うん。高校は違うけど」
「それじゃあ、ちゃんは大石くんのこと覚えてるってこと?」
「もちろん」
「へー。大学で再会なんてすごい偶然だね」

そう、すごい偶然。
まさかこんなことになるだなんて入学式翌日のガイダンスの日まで思ってなかった。
まあ…受験のときに、東京の大学の医学部を受けるとなったらもしかして…?
と頭を全く過らなかったかと言ったら嘘になるけど。
それでも入学する段階ではそんな考えすっかり頭から抜けていたのに。

「中学んときの大石はどんなやつだった?」

聞かれて、思い起こす。
一緒にテニス部で過ごした日々のこと。
離れたクラスでも聞こえてくる良い噂。

「今とそんなに変わらないよ。すごく真面目で優秀だった」
「はー。まあ、だろうな。はっちゃけてる大石ってあんま想像つかねぇ」

確かに、今の会話の流れに「ハハハ…」なんて
困り眉で苦笑いしている様子からは想像つかないよね。
だけど中学に入ってすぐの頃の大石くんはそうじゃなかった。

「あ、でも1年生のときは結構やんちゃだったよ」

すかさず私だけが知ってる知識を滑り込ませる。
そう、私だけが知っている。
これは本人ですら知らないはずの事実。

「そうだったのか?それは俺も初耳だぞ」
「意外とやんちゃでひょうきんだったよ」
「そうなのか」
「じゃあいつから今の大石みたいになったわけ?」
「んー…2年生の夏くらいかなぁ」

身長は私と同じくらいだったはずがぐんと伸びて
いつの間にか見上げるようになった。
顔立ちも少し変わって、大人っぽくなったなって感じたときがあった。
先輩とダブルス組んで出た大会で負けた頃だったかなー。

「(あの頃から急に大人びてきたよね)」

一人で落ち込む姿を見かけて声を掛けようか、迷って、
結局掛けられなかったときのことを思い出した。

あのときも景色は夕日だったな。
一人で居残ってサーブ練習をしていた。
橙色の太陽が照りつける横顔は、真剣そのもので、
額の汗を肩周りの袖で拭って、
前方を鋭い目線で見据えて、
タンタンとボールを付いて、
放ったサーブは相手コートに刺さって、
顎から滴りそうな汗をシャツの首元で拭った、ときに、
不意に目が合って
瞬間恋に落ちた。

そのシーンを思い返したら
ボッ!
と一気に顔が燃え上がった。
そのときの感情ごと蘇ったみたいに。

「え、なんか顔赤くね?」
「なんでもないっ!なんでもないない!!」
「えー絶対なんかあるんでしょー!」
「あれか、もしかして大人の階段のぼっちゃった系?」
「そんなんじゃない!てか勉強しないと!」

否定しつつさあさあと促して勉強に戻った。
渋々と教科書ノートに向き直るクラスメイトたちを見てふぅとため息。

私もまた勉強に戻りながら、こっそりと懐かしい記憶を遡った。


  **


英二に聞いてみたのは、中学2年のある日のことだった。

「大石くんの好きな人って誰か知ってる?」

英二は嘘をつくのがヘタだ。
何かを知っていればきっとボロが出る。
そんな期待もあっての質問だったけど、
英二は目をキラキラさせて食いついてくるばかりだった。

「なに、大石好きな人いんの!?」
「いや私が聞いてるんだけど」
「あ、そゆこと。えーいないんじゃない」

私の返事でがっかりした表情を見せた英二は興味を失くしたように投げやりに答えた。
しらばっくれてるとかじゃなくて本当に知らなそうに見えた。

「(絶対間違いないんだけど、本人だから感じるのかな…それとも女の勘ってやつ?)」

そう。
その頃私は、大石くんから度々向けられる熱視線を感じていた。
観察してみても、大石くんが他の人をそのように見ている様子は見受けられなかった。
かたや、焦点から外れた視界の端に意識を集中させると
大石くんはいつも私のことを愛おしそうに見てきているのであった。

英二に聞いて確信を得たかったけど、
どうやら英二は知らない様子…と。

「(大石くんのことは人間として尊敬してるけど、
 好きとかそういうのとは違うような)」

違うような…とは思いつつも、
大石くんのことをこっそり目で追ったりなどしていると、
人と話しているときの優しい目線で
心がドキッとなったりして。

そのドキドキの意味を確かめたいなと思っている頃に、
大石くんは先輩とダブルスのペアを組んで試合に出て大敗北して、
夕日の下でのサーブ練習を見かけて私は胸を打たれて、
私も大石くんのことが好きになってしまった……と。


これって両想いじゃん、て思ったけど
大石くんが私に告白してくるようなことはなかった。
ただただ、遠くもしくは私の正面から外れた位置から
私のことをじっと見つめてくるくらいで。

「(両想いだったら、告白したらOKしてくれる…よね?)」

そう思って、私は一大決心をした。
副部長とマネージャーは事務的なことで一緒に仕事をすることが多い。
ある日都合良く二人になった。
思い切って、聞いた。

「大石くんって、好きな人いるの?」
「えっ!?」
「……」
「……いないよ」
「あっそ」

大石くんは否定した。好きな人がいるということを。
どう考えても自分で間違いないという確信が私にはあるのに、だ。

向こうの意見を聞き出すのは難しいと悟った。
諦めて自分から行くことにした。

「私はね、大石くんのことが好きなんだ」
「え………あ、そうなんだ」
「………」

喜ぶどころか、少し困った風な表情を見せた点は気になった。
もしかして私の思い上がりで、私のただの片想い…?
という考えも頭を過ったけどそのまま押した。

「大石くん、他に好きな人居ないんだったらさ、私と付き合ってよ」

ここまで言えば、さすがに「本当は俺も…」ってくると思った。そう期待した。
だけど大石くんは眉間に皺を寄せるばかりで、
「テニスの障害になるものは排除したいから、厳しいよ」と言った。
私はフラれたのだ。

ショック、だったけど、何か理由があるように感じた。
だって大石くんの眉間の皺は深まる一方で、
申し訳なさではなくて何かを堪えているような表情だった。

「私、絶対に大石くんのテニスの邪魔はしないよ!
 二人だけの時間があんまり取れなくたって文句言わない。贔屓だってしない」
「………」
「任せて、こう見えて自制は利く方だから!」

そう言って胸をドンと叩いて見せた。
本当は怖くて足が軽く震えていたのに、精一杯の強がり。

大石くんは眉間の力を少し弱めたけど、目は合わない。

「だったら、付き合わなくたって…」

その声は弱かった。
もう少し押せばいけそうな気がした。
それと同時に私の声も震えそうだったけど、頑張って耐えた。

「誰よりも頑張ってる君を一番近くで応援したいんだ」

伝えた。
思っているがままの素直な気持ちを。
「そんで」と言葉を続けた。

「たまにでいいからさ。ちょびっとだけ、特別扱いしてほしいな。それだけ」

泣きそうなのを我慢しながら笑ったせいでふにゃっとした顔になった。

さあどうだ。確率は五分だと見た。
OKしてくれるか、断られるか。保留が一番厄介だなー…。
と、次に聞こえる言葉に身構えていたら。

ぎゅっ と。
体に力が加わった。

「付き合おう」

抱きしめたまま耳元で言われて胸がきゅんとした。

「俺も前からさんのことが好きだったよ」

大石くんは私のことを一旦離して、もっかいぎゅっとして、離して、
両肩に手を置いて「はーーー…」と深いため息ついてうな垂れた。

「こうなるのがわかってたからイヤだったんだ…」
「え、イヤなの!?」
「そうじゃなくて」

焦って聞き返す私に対して大石くんは顔を持ち上げて、
少し屈んで私の目線の高さに合わせた。

「抑えが利かなくなるのは、俺の方だよ」

言いながら、高さだけじゃなくて距離も近づいてきてそのまま、
目を閉じるどころか瞬きもする余裕もないまま唇が触れた。
驚きのあまりに瞳孔全開みたいになって、
口同士が離されたあともはくはくと空気を食むような動作をしてしまった。

ようやく発せた言葉は「ファーストキス…」で、
その言葉に応えたのか聞いていないのかよくわからないけど
大石くんは「もう一回してもいいかな」と言って、
私はウンと言ったのかそれすら憶えてないけど
いつの間にか後頭部を手で支えられているからには逃げ場もなくて
そのままセカンドキスも奪われた。

その日は二人で初めて手を繋ぎながら下校した。
気恥ずかしくって、誰か知り合いに会わないかってずっとキョロキョロしてるのに
手は離したくなくて、きっとそれは大石くんも同じで、
まともに会話してたかすら憶えてないけど、繋がれた手の温かさはよく憶えてる。


付き合ってることは隠してた方がいいよねって相談して
呼び方も学校では「大石くん」「さん」を続けていたけど、
英二に「なんか二人、最近距離近くない?」って気付かれるし
「あ、オレも気になってたんスよね」って桃は言うし
不二に至っては「え、隠してるつもりだったの?」って言うし。
追い打ちで乾が「確かに大石とが隣に立つときの距離が
以前と比較して平均11.2センチ縮んでいるのは気になっていた。
境は何月の第何週あたり…か」とか言ってくるし…。
しかもその日付もドンピシャで参っちゃった。さすが乾のデータ。

タカさんは何も言わなかったけど驚いてる様子もなかったから、たぶん気付いてたんだろうな。
部長は……気付いていた様子もなかったけど驚く素振りを見せなかったな。

まあ、結局私たちが付き合っていることはあっさりバレて知れ渡ってしまったのです。
開き直ってみんなからの質問攻めに応えることになった。

「普段はお互いのことなんて呼んでるの?」
「……普通に、って」
「おー…」
「下の名前で呼んでるんだぁ」

英二と桃がいちいち合いの手を入れてきて、
周りも黙ってるけどしっかり聞いていた様子だった。
乾はメモまで取ってたような…。

「で、は?」
「………秀、だけど」
「しゅうー!?!?」

大石くんのことを下の名前で呼ぶ人は(私の知る限り)学校にいなかったし、
しかも略した愛称で呼んでいるとは思わなかったみたいで
その日一番の驚きの声が上がったもんだ。


  **


「(……懐かしいな)」

私にとっては大切な思い出だけど、大石くんは憶えてないんだな。
一生思い出してもらえないのは悲しいし悔しい。
たとえ大石くんは他の女の子と付き合って、結婚することになったとしても
初カノジョの私の思い出は胸の端にでいいから携えていてほしい。
なんて、考え方重すぎかな。

でも、私だって、いずれ他の男の人と付き合って結婚することになっても、
一生秘めたままだとしても、中学の頃のキラキラした記憶は宝物だから…。

そんな思い出に浸っていたら手が止まっていた。
勉強会の途中だったことを思い出してハッとして、
パラパラと教科書を捲って頑張って考えてます風を装った。
ちらりと大石くんの横顔を盗み見たら、真剣な表情で何かを書いていて、ため息が出た。



  **



「おまたせ〜!」
「いや、全然待ってないよ」

週末、大石くんと私はいつも通り集合して電車に乗り込んだ。
いつも通り、と呼べるくらい頻繁に二人でお出かけしている、

「(これはまあ、付き合ってるんじゃないかって疑うよなぁ…)」

この前の勉強会で聞かれた質問はごもっともだと納得してしまう。
今日はテニス部の全国大会の会場に向かっている。

口約束はしていない。
肉体的な接触はない。
お互い好意を寄せているかと確認はできていない。
だけど…状態としてはほぼ付き合っているような状態…だと思うんだけど。

でもそう思っているのは私だけなのかもしれない。
きっと大石くんにとっては私は記憶を取り戻すための貴重な手がかりで、
元々知り合いじゃなかったらこんなに関わることはなかったし、
記憶があったら…やっぱりここまでは深く関われなかったかもしれない。

ネガティブな考えは頭からかき消して、「問題出していい?」と教科書を開いて笑って見せる。
大石くんから、ああ、と返事が来たのを確認して
来週のテスト範囲のページから問題になりそうな記述を見繕った。

「内皮細胞と基底膜の構造によって3つに分類される毛細血管の種類は、
 『連続性』『非連続性』とあともう1つは?」
「えーっと、有窓性?」
「せいかーい!じゃあ次はね…」

そんなやり取りが楽しくって、なんだかんだ勤勉家だよね、お互い、って思った。
中学の頃も成績ツートップだった私たち。
竜崎先生を尋ねて二人で職員室を訪れたら他の先生に
「テニス部は学業も優秀だな」なんて声を掛けられたこともあったっけ。

さんは将来何科に進みたいか決まってるのかい?」
「いや、まだ…」
「そうか。じゃあ、どういったきっかけで医者を目指そうと思ったんだい」

聞かれて、ギクリとする。
医学部には色んな人がいる。
明確に医者になりたいと思っている人もいれば、
学力、先生の勧め、親の希望で進んだ人もいる。私は後者だ。
前者の中でも家族代々そうだから、とか、
お金持ちになれるから、っていう動機の人もかなり多い。

大石くんみたいに、自分の性格や体験に基づいて
医者になりたいと思ってそれを目指して努力してその道を進んでいる人、
実はそんなに多くないんだよね…。

「大石くんみたいに立派な理由じゃないよ」

私は苦笑いをするしかできなかった。
対して大石くんは不思議そうに首を傾げた。

「すごく俺を立派扱いしてくれるけど、俺も与えられた課題をなんとなくこなしているだけだよ」

そう言って情けなく笑った。

「(なんとなく?)」

そんなはずがない、と考えてからハッとした。

そうか、憶えていないんだ。
部長が選手生命絶たれるレベルの大怪我をしたこと。
肘の怪我、肩の故障…私たちは気付きもしなかったことを
唯一知って傍で心配して見守っていたこと。

そして人一番の責任感で大会当日に妊婦さんとお腹の赤ちゃんを救ったこと。
結果的に自分自身が怪我を負ってしまって
しばらくまともに部活動もできなくて苦しい思いをしたこと。

ずっと「人の役に立てるような仕事に就きたい」と言っていた大石くんが
「医者になりたい」と夢を明確にするのは必然だったような気がした。

過去の思い出だけじゃない。
自分自身の未来に対しても「なんとなく」だなんて言って笑う大石くん。
そんな大石くん、見ちゃいられないよ。

なんとか思い出させないと。
それを出来るのは私しかいないっていう使命感さえ芽生えてきた。
これが、私と大石くんと再会した理由なんじゃないか…って。


  **


電車を降りてからはテニス部の大会で訪れた場所巡りをした。
3年の地区大会決勝の日は雨が降ってた。
都大会は物凄く暑い日だった。
関東大会の当日に大石くんは怪我でメンバー交代になった。
会場に着く度に、私はその場所に付随するエピソードを説明した。

全国大会の会場には、夕方になって辿り着いた。
今日もまた何かの大会をしていたみたいで、
人の流れに逆行するように私たちは歩いた。

「立派な会場だな」
「でしょ。ここで全国優勝決めて胴上げしたんだよ」
「すごいな…全国大会で優勝か」

感心した様子で大石くんは辺りを見渡して、大きく息を吸った。
私も思い出した。
トラブルもあったし、本当にギリギリの勝負だった。
だけどみんなの力を出し尽くして勝った。
輝かしい過去だ。

「大石くんは優勝決まって泣いてたよ」
「えっ、俺が?」

からかってるんじゃなくてかい、とか言うけど
これは本当に本当だから「ホントだよ」って笑いながら返したら
バツが悪そうに頬を掻いていた。

私もすごく嬉しかったけど泣くとかじゃなかったのに、
大石くんが泣いてる姿を見てもらい泣きしちゃったりしたな。
懐かしいな。
私ばっかりが色々思い出しちゃってるや。

雑談をしながらぐるりと一周して会場を後にした。

「結構歩いたねー」
「そうだな。そういえば全然休憩とかしなかったけど大丈夫だったか」
「大丈夫だよーバスでも座れたし。体力には自信あるし」
「そうか」

ふんっ、と力こぶを作ってみせると大石くんは笑った。
でも実際、結構歩いたな。色んなとこを巡った。けど…。

「今日も思い出せなかったね」
「ああ」

本来の目的はそこにあることを忘れてはいけない。
私が思いつく限りの大石くんにとって思い入れのある場所ってことで
テニス部関連で思いつくようなところに来ているわけだけど。

「いつも俺の都合に付き合わせちゃって悪いな」
「だから前も言ったでしょ!記憶戻ってほしいし、楽しんでるから大丈夫!」

私の言葉に対し、大石くんは柔らかく微笑みを返してきたけれど
その眉尻はわずかに下がっていた。
そして切り出しにくそうな素振りを見せながら口を開いた。

「実はもう思い出せなくてもいいとか思い始めている自分もいるんだ…。
 あ、ごめんな無神経なこと言って!手伝ってくれてるのに!」

それと似たことは私もこの前考えた。
今の状況が楽しくて、思い出せなくてもいいかも…って。
大石くんが私と同じく今の関係も悪くないと思ってくれているんだったら嬉しい。

この前までの私だったら手放しで喜んだかもしれない。
でも私には、使命感がある。
大石くんの記憶を取り戻させないと、って。

「そうだ。今度はさんが行きたい場所に連れていってくれよ」

そんな私の決心を知るはずもなく大石くんはそう言った。
記憶を取り戻すために手がかりとなる場所を一緒に巡っていたはずが、
思い出せなくてもいいから、行きたい場所に一緒に行こう、と。
……。

「それは…単純にデートということ?」
「デっ!?」

言葉を詰まらせた大石くんは一瞬で顔を真っ赤にした。

「べ、別にデートに誘いたかったわけではなくて!
 いつも俺の都合に合わせてもらってるのが申し訳ないと思って…。
 だからたまにはさんの行きたい場所に、って思って、それが、デ、
 デート…っていうことになるのか、これは…!?」

真っ赤な顔して一人押し問答やってる。
私はアハハと声を出して笑ってしまった。

「変な言い方してごめんね。ありがと。場所考えておくよ」
「あ、ああ。よろしくな」

そう言って頭に手をやって大石くんは情けなく笑った。
そもそも今までも迷惑なんて思ったことなかったけど。
一緒に居られるだけで楽しいし。
私の中では共通の思い出の聖地巡りみたいなもんだし。

「(逆に、今まで一緒に出かけてたのは大石くんの中では
  一つもデートにカウントされてないのかな)」

大石くんは私のことをどう思っているのだろう。
本当の本当に、記憶を取り戻したいがためだけに一緒に行動してるのかな。
私に好意を抱いてくれているような気がしないでもないんだけど、うぬぼれかな。
でも中学のときは実際それで付き合うことになったわけだし…。

「(私が行きたい場所、か)」

ぐるりと思考を巡らせたけど、頭には一ヵ所しか浮かばなかった。
そこは、私たちが別れる前に最後に二人で過ごした場所。

『今度は改めて二人だけで来たいな』

そう伝えたとき、返事はもらえなかった。
目の前には八の字眉の笑顔だけが見えていた。

最後の砦。
そこがダメならダメだ。
思い出せないという現実を直視したくない。
思い出してほしくないような気もする。
本当に行きたいのか。
……。

悩んでいるとスマホが揺れた。
あまり馴染みのない震え方をした気がした。
普段使っている通話アプリではなかった。

「(メール?今どき珍しい)」

迷惑メールでもメルマガでもなさそう。
だとしたら誰がどんな用事でメールなんて送ってくるのか。

「……!」

画面を開いて内容を理解した私は即座に横を向いた。

「大石くん、メール見て!!」
「え?ああ…」

急いでスマホを確認させた。
ドキンドキンと心臓の音が頭まで響いてる。
これはきっと、チャンスだ。

「これは……俺、行っていいのかな」
「絶対行きなよ!行こう!!」

そのメールは。
差出人、菊丸英二。
件名、みんな元気〜!?。
「久しぶりに青学テニス部で集まろ!!」という書き出しで始まった本文には、
日付と時刻、会場は毎度のかわむらすしと示されていた。



  **



「本当にいいのかい30分も遅れるだなんて…」
「いーのいーの!絶対リョーマあたりが20分とか遅れてくるんだから」

記憶は失えど時間はきっちり守る(どころか早すぎる)ところは変わっていない大石くん。
そんな大石くんを説得して、私たちはメールに示されていた集合時間から
だいぶ遅れて目的地に向かっていた。

「一人一人に説明するのくどいじゃん」
「それはそうだけど…」

大石くんは落ち着かなさそうに歩きながら何度も時計を確認した。
今更何度見たって時間は巻き戻ったりしないのに。

同窓会に行くことを決めたはいいものの、大石くんからしたら全員知らない相手だ。
「一緒に行ってくれないか」と頼まれたはいいものの、
これはややこしいことになるのでは…と思った。

青学から転校した後のことは詳しく聞いてないけど、
きっと別れたってことは大石くんからみんなに話していると思う。
恐らくみんなの中では大石くんと私は別れた者同士。
でも今は大学の同級生で仲良し。
なおかつ大石くんには記憶がない。
みんなはそれを知らない。
そして私たちが付き合ってたことは大石くんだけが知らない…。

考えた末、遅れて行くということを大石くんと私は各々英二に連絡を入れた。
全員揃っているところに踏み入って、いの一番に全てを説明してしまおう!と。
大石くんの記憶に関しては勿論そうなんだけど、
私たちの関係について触れられるのを牽制する意図があったりする。
大石くんは、勿論そのことには気付いていないだろうけど。

考えているうちに、かわむらすしの前。
懐かしいな。
最後に来たの、全国大会優勝した日か…。

「それじゃあ大石くん、入るよ」
「……ああ」

大石くんも緊張しているように見えた。
それもそうか。
大石くんにとっては初対面の相手、
だけど周りはみんながみんな大石くんのことを知る人たちだ。
何も事情を知らない大学の友人たちとは違う。

扉に手を掛け、引き戸を開ける。

席は埋まっていて、もう会は始まっている様子だったけど、
扉の開く音に反応して視線がこちらに集まってきた。

「おっ!?どっちが先に来………え」

座敷から首を伸ばして覗き込んできた英二が固まる。
扉を開けた瞬間は聞こえていた会話がゼロになった。

それは戸惑うよね、
遅れて行くことは大石くんも私も連絡を入れたけど、
二人で一緒に来るとはきっとみんな思ってなかったよね。

みんなからの集中視線が痛い。
何かを言われる前にと私は笑顔で声を張り上げる。

「みんな久しぶり!初めに聞いてほしいことがあるの!」

横に立つ人物を見上げる。

「大石くん」
「……ああ」

楽しそうに「まさか!?」とヤジを飛ばす桃。
私たちの復縁にでも期待したかな。
でもごめんそうじゃないの。

「俺、事故に遭って記憶を失ってしまって…みんなのことも憶えていないんだ」

シン、と。
扉を開けた瞬間に感じられた楽しい雰囲気はどこにもなくて、店内は重苦しい空気になった。
長く続いた静寂を紛らわすような「ごめん」が悲しかった。
大石くんが悪いわけじゃないのに。

「ウソ……だろ、大石」

英二が漏らすようにそう言葉を発して大石くんに詰め寄った。
他のみんなも硬直から溶けたみたいにざわつき始める。

「年明けに会ったときは普通だったじゃん!」
「3月に事故に遭ったんだ」
「じゃあ、俺たちが全国優勝したこと憶えてないの?」
「ああ」
「俺たちが、ゴールデンペアだったことも?」
「…ああ」
「そんな…」
「……ごめん」

首をうなだれる大石くんに「大石が謝ることじゃないよ」ってタカさんが声を掛けた。
ショックを隠せない様子で固まる英二の肩にポンと不二が手を乗せた。

今日はみんなで久しぶりに集まって楽しい時間になるはずだったのに
急にこんなことになったら重苦しい空気にもなるよね…。

さあどうやって場を和ますか…
そういえば中学の頃も選手達の煮詰まりすぎた雰囲気をほぐすのは
自分の役割だった気がするな、と思いながら思慮していると。

「本当に何も憶えてないの!?じゃあさ、大石とが付きあ…むぐっ!!」

英二のまさかすぎる発言に、和ますとかいう考えは吹き飛んだ。
私は反射で英二の口を物理的に塞いでいた。
横に首をフルフルすると、英二は首を縦にコクコクした。

「あ…相変わらず二人は仲良しっスねー!」
「だ、だろー!」
「イエーイ!」

私と英二は二人でピース。
ちらりと大石くんの視線を盗み見たところ、戸惑ってはいるようだったけれど
強制終了させた英二の発言は気に留めていないようだったので胸を撫で下ろした。

「まーとりあえず座って座って!全員揃ったし乾杯しよっ!」

英二はそう仕切って、空いていた席に大石くんと私は誘導された。
カウンターの中からタカさんがお茶を出してくれた。
懐かしいな…次集まる頃にはお酒飲める人も出てくるかな。

「それでは改めましてっ!今日はみんなで盛り上がっていきましょう!カンパイっ!」
「「乾杯ー!!」」

一気に騒がしくなる店内。
私と大石くんも「乾杯」とコップを当てた。
するとコップにお皿を持った英二がこっちの机に移ってきた。

「座っていー?」
「もちろん!」

手を鼻の前に立てて謝罪のポーズをすると、
「さっきは詰め寄ってごめん」と英二は大石くんに気さくに話し掛けた。

「大石、オレ菊丸英二!英二でいいよ!オレたちダブルスのペアだったんだぜ」
「ああ宜しく……っていうのも変なのかもしれないけど、改めて宜しくな、英二」

大石くんの言葉を受けて、英二は歯を見せて笑った。
さっきは落ち込んでそうだったのに、さすが切り替え早いな。
いや、本当はすごくショックなんだろうけど…
それを見せないようにしてくれてるんだよね。

「えーっと…今日二人はなんで一緒に来たの?」

地雷を踏まないようにと気を揉んでいる素振りを見せながら英二はそう聞いてきた。
「実はさ、私たち大学の同級生なんだよね」と伝えると
「マジ!?運命じゃん!」と言っては自分の口を手で塞ぐなどしていた。
英二…それくらいは大丈夫だよ…寧ろ過敏反応が怪しいからやめてくれ……。

会話に興味を持って不二、乾、桃…と順に加わってきて
気付いたらほぼ全員が大石くんの話を聞いている状態になった。

「高校3年生の卒業間近に、大きな事故に遭ってしまったらしくて…
 目が覚めたら過去の記憶を全て失ってしまっていたんだ」
「ひゃー…」
「私さ、大学の入学式の日に、知ってる人いるじゃん!って思って声掛けたら
 誰ですかって言われるからふざけてんのかと思っちゃった」
「うわーそれはビビる」

早速ワイワイと盛り上がる。
この空気懐かしいな…。
私の記憶より遙かに背が高くなったリョーマを
髪が伸びた桃が肘で突いているのを見ながら、
姿は変わっても中身は何も変わらないな…なんて思った。

「越前も記憶失ったことあったよな。あんときのお前は可愛かったぜ」
「うるさいっス」
「あのときはどうやって記憶取り戻したんだっけ?」

じゃあそれを応用すれば…
でも大石の場合は…
と真面目に議論をしていたけれど、
だんだんと全国大会の思い出語りになった。
そして日々の部活でのあんなことやこんなこと…
ワイワイと盛り上がる様子は、あの頃の青学テニス部と何ら変わらないように見えた。

大石くんは…その様子を一歩引いて見守りながら微笑んでいた。
当時からそういった節はあったけど、
今日はわからない話だからなおさらだよね。
記憶を取り戻すきっかけになったらって思って連れてきたけど、
無理させちゃってるかなぁ…。

「大石くん、大丈夫?疲れない?」
「ありがとう、大丈夫だよ。話に聞いていた通り、気の良い奴らだな」

そう言ってにこりと微笑んだ。
そして「俺のことは気にしなくていいから、さんは今日の会を楽しんでくれ」と言った。
そうは言うけど……。

「みんな、こんなもの見つけたぞ」

そう言ってタカさんは上の階から降りてきた。
手に掴まれているのは…アルバム?

「うわー懐かしー!」
「みんな若ぇー!!」

早速受け取って開いた英二と桃が騒ぎ立てる。
どれどれ…と私も後ろから覗き込んでみる。

各大会で撮った写真、
打ち上げの日にこの場所で撮った写真、
全国優勝後に行った海での写真。
そういえばこんなの撮ったなぁー…。

「(当たり前のように大石くんと私は隣だな…距離近…)」

写真を撮るから寄った、と考えれば当たり前ではあるけれど
知ってる身からすると“恋人同士の距離感”にしか見えない。
なんかちょっと羨ましいや。なんてね…。

後ろから覗き込んでいた大石くんの様子を盗み見ると、
そんなことには気づく様子もなさそうに
現在のみんなの顔と見比べてどれが誰かと確認しているようだった。

「(このときの大石くんは、私にとって“秀”だった)」

心境を思い返して、心臓がズキンとなった。

「(楽しそう…だけど、ちょっと寂しそう。
 私、このときには既にフラれるの予想してたんだっけな…)」

このあと、私は大石くんと浜辺をお散歩して、岩場を歩いて、
一緒に夕日を見て……。

そこまで考えて、思考をかき消した。
ダメだ。これ以上考えたら、辛い気持ちになっちゃう。

一旦お手洗いに行って戻ったら、大石くんは部長と喋っていた。
しかし大石くんが「雑誌でお見かけしました」なんて敬語で話すもんだから
部長まで「光栄です」とか敬語で返してて笑っちゃったよ。
部長もリョーマも今やプロだもんな。みんなすごいや。

「(でもこの様子だと…思い出せてないね。
 英二でもダメ、部長でもダメ…これは厳しいな)」

青学メンバー…一番可能性あるかなと期待したけど。
結局、この日も大石くんの記憶が戻ることはなかった。

やっぱり鍵は、大石くんの記憶の中の元カノとおぼしき女の子なのか。
もしそうだとしたら、大石くんにとってはそれくらい大切なのに
向こうは大石くんの前に現れてくれないのは何故なの…?


「タカさんごちそうさまでしたー!」
「ああ、また集まろう」
「今度はテニスもやりたいし!あ、プロ組はハンデな!」

タカさんに手を振って、私たちはかわむらすしを後にする。
二次会行こうぜっ!って桃が海堂の肩に腕を回した。
振り払わずに歩き続けてるのを見て、アイツらも丸くなったなー…て感動しちゃった。



呼ばれて振り返ると、不二がにこりと笑ってた。

「今日はお疲れさま」
「うん、お疲れ」
「大石のこと驚いたよ」
「ねー私も初め聞いたとき何事かと思っちゃった」

そんなことを話しながらゆったりと歩き出す。
チラ、と不二は周囲を確認する素振りを見せてから
顔を近づけてくるようにして若干小声で聞いてきた。

「好きなの?」
「………何が」
「わかるでしょ」
「………」
「その顔は、アタリってことかな」

顔が熱くなったのを感じながら、
何も言えずに不二の顔を上目遣い気味に伺っていると
「頑張って」と頭に手をポンと置かれた。

がんばるけどさぁ、とひとり言のように返すしかできなかった。
相変わらず不二は王子様なんだから……。



二次会組と徒歩とバスと電車の各方面へと別れ、
最終的に私は大石くんと二人になった。
みんなと笑顔でバイバイとお別れしてからふぅとため息をつく大石くんを見て、
結構気を張ってたんだろうなって思った。

「大丈夫、楽しめた?」
「ああ、楽しかったよ。少し緊張したけど」

大石くんからしたら初対面の人たちばっかだもんねー…。
相手からしたら気心知れた仲間なのに。
無理に最後までいないで途中で抜けても良かったかなぁ、
と思って大石くんの表情を伺っていると、口から出てきたのは意外な言葉で。

「こんな素敵な人たちと仲間だって知って、
 誇らしいと同時になんだか羨ましくなってしまったよ、過去の自分が」

過去の自分が羨ましい。
その気持ちは、私にも心当たりがあった。
あの頃の私たちは、あまりに眩しかった。

「この前は、もう思い出せなくてもいい…みたいなことを言ってしまったけど、
 やっぱり思い出したいな」

大石くんはそう言って下がり眉の笑顔を見せた。
今のままでも充分幸せ。そうなのかもしれない。
寧ろ過去を思い出して辛い気持ちになる可能性も大いにある。
だけどそれも含めて全部、大石くんの一部。
今の私が、過去の経験で出来上がっているみたいに。

「大石くん。今度、海行こう」

思い切って誘った。
これは、天下分け目の大一番、だ。

「ああ、いいけど。どうした突然?」
「言ったよね、この前。今度は私の行きたい場所に着いてきてくれるって」

本当に私は行きたいのか。
わからない。
怖い気もする。

でも、覚悟を決めよう。

「さっきの写真に写ってた、あの海だよ」

私の表情で何かを察したか、
大石くんは眉に力を込めて「わかった」と頷いた。

「海…ということは、泳いだりするかい」
「海行って泳がないとかある?」
「じゃあ…水着もいるかな」
「え」
「え?」
「……」
「……」
「せっかくだし、持ってこっか」
「あ、ああ」

これはあくまで、記憶を取り戻すため。
そう自分に言い聞かせながらも、
行きたくて行けなかった二人きりの海デートが
4年ぶりに実現することには正直、胸が躍った。



  **



「海だー!」
「海だな」

二人の予定を合わせて、私たちは海に来た。
まさに 夏! という感じのピーカン照りで
青い空と白い雲、青い海と白い砂浜がどこまでも広がっていた。

「それじゃあ…早速着替えよっか」
「ああ。それじゃあ、後でな」
「はーい」

海の家をお借りして、それぞれ更衣室に別れた。

張り切ってビキニ新調しちゃった。
ムダ毛の処理も抜かりない。
お気に入りの麦わら帽子を併せた。
ちょっと露出多いかな…気合入りすぎ?

でもだって今日は大石くんの記憶を取り戻すためはそうなんだけど
“たまには私の行きたい場所”っていうご褒美要素もあるし。

「(理由はあるといえど、どう考えてもデートだし)」

向こうがどう思ってるかはわからないけど…。

大石くんの気持ちを想像ながら、
ちょっぴりドキドキして更衣室を後にした。
大石くんは紺色の水着で、水色の半袖パーカーを前開きで着ていた。
引き締まった上半身を見て、胸がドキッとした。
そんな様子を勘付かれないようにいつも通りの毅然とした態度で近づいた。

「おまたせ」
「あ、いや!全然待ってないよ!
 さん、水着似合ってるな!あとその帽子も!」
「ありがと」

目のやり場に困ったように大石くんは視線をきょろきょろとさせた。
これは…さすがに意識してる?単に女慣れしてないだけ?
大石くんの顔が赤いのを見たら私まで恥ずかしくなってしまった。
平静を装おうと思っていたのに無理になって麦わら帽子を深めに被り直した。

「(これはさすがに……デート、だよね)」

記憶を取り戻すためという裏目的はあるけれど、うら若き男女が二人で海…。
何かロマンスが起きても全然おかしくないのでは!?寧ろあるべき!
大石くんは…何を考えているのか…。

「このへんにしようか」
「うん」

砂浜の空いたスペースに大石くんはビニールシートを広げてくれた。
ピッと張らせようと端を引っ張り直す様子を見て、さすがだなってクスッて笑っちゃった。

その横顔を見ながら、考える。
正直、大石くんは私のことを好きなんじゃ…という手応えはなんとなくある。
大石くんだって、私が大石くんに好意を抱いていることを気付かないわけがないと思う。
感覚として、全然告白されたっておかしくないんだけど…。

「ん、どうかしたか」
「なんもー」

視線に気付いた大石くんは首を傾げた。
私のこと好き?とか、
告白してくれてもいいのよ、とか。
まさか言うわけにいかないので私は首を横に振った。

「(中学のときも告白は私からだったもんな)」

そして、別れ話は大石くんからだったな、
って嫌なこと考えちゃってちょっと凹んだ。

…やめよう。
その記憶すら大石くんにはないんだ。

「…そうだ、日焼け止め塗ってくれない?背中届かなくってさ」

鞄からSPF50++++の日焼け止めのボトルを取り出して、
シャカシャカと振って大石くんに手渡した。
不思議そうにボトルを見る大石くんに背を向ける。
ホルターネックの水着は背中の真ん中がぱっかりと大きく空いている。
いつ来るかと身構えていたけれど…。

「ごめん、無理だ…」
「え?」
「自分で塗ってくれないか」

振り返ったら、大石くんは目元を隠していて、
隙間から覗くぷしゅーって顔は湯気が出るのが見えるくらい真っ赤だった。
……ウブすぎない?

「届かないからお願いしてるんだけど」
「……これでも羽織っててくれ」

そう言って大石くんは自分が着ていた半袖パーカーを私の肩に掛けてくれた。
二回り以上大きくって肘まで隠れた。はっぴみたい。

「(…へへっ)」

なんかご機嫌になっちゃった。
彼シャツ?みたいな。

そういえば冬の部活のある日、
ジャージの上を忘れちゃってくしゃみしながら部活に参加してたら
「羽織ってろ」って、
レギュラージャージを同じように肩に掛けられたことあったな。

あったかかったし嬉しかったけど、恥ずかしくもあって、
あと何より他のみんなに申し訳なくって袖を通すことはできなかったな。
アレの特別さは、きっと着たことがない人ほどわかってる。

「せっかくだし泳ぐ?」
「ああ、そうだな」
「私はいいや。見てるからいってらっしゃ〜い」

大石くんは、そう言わずに一緒に行こう、とは言わなかった。
本当か?という視線は向けてきたものの
笑顔で手をひらひらと振る私を視認してそのまま背を向けた。
砂浜についたと思うとそのままずぶずぶと歩いて行って、
腰に浸かるくらいの深さまで到達したらクロールで泳ぎだした。

「(……はっや)」

浮き輪やビーチボールではしゃぐ人たちを切り裂くように通り抜けて
遥か遠くのブイまであっという間にたどり着いた。
変わらないなぁ、って思い出してしまって苦笑い。

全身を濡らして爽やかな笑顔で帰ってきた大石くんは
さんも水に入らないか。気持ちいいぞ」と誘ってくれた。

それならば…と私も浜辺へ赴く。
太陽光に照らされて肌がジリジリと熱い。
結局自分でしか日焼け止めを濡れなかった背中の中心は心配だけど…。

太陽の位置を確認するべく空を見上げていると、
パシャッと水が腕に掛かった。
その方向を見ると、大石くんはハハッていたずらに笑ってた。

「あ、やったなー!」
「あ、コラ!」

自分がやっといてコラはなーい!と、力の限り水を掛けてやる。
さっきは両手に掬える程度の水だけを掛けてきた大石くんも
対抗して腕ごとばっしゃばしゃと大量の水を掛けてきて、
いわゆるキャッキャウフフ状態。

砂でお城も作って。
焼きそば食べて、イカ焼きを半分こして。
味違いのかき氷を交換して。
結局バナナボートも借りて。

楽しくって、楽しい。

「(これは……デート過ぎてる)」

大石くんは、気のない女と海で一日こんな過ごし方ができる人?
それとも気がないからこんな風に過ごせているというの?
私の中の大石くんのイメージとは合わないけれど。

わかってるけど。
大石くんは、私の記憶の中の大石くんとは
全く同じ人格ではないということは…。

「あー疲れたー!」
「そうだな。そろそろ海から上がるか」
「そうしよっか。でさ、着替えたらちょっとお散歩しよ」
「ああ、いいぞ」

「いい場所を知ってるんだ」。
何気ない一言のはずなのに、うまく喉から出なかった。
それは、4年前に私が大石くんから言われた言葉と
同じだったと気付いてしまった、からかもしれない。



私服に着替えて、私が先導する形で人で賑わう浜辺を後にした。
人が少なくなった海岸線、少し離れた岩場を私たちは歩く。
傾き始めた黄色い太陽見上げながら。

「まだちょっと早いかなー」

夕方5時を回っていて、もう夕方と言うべき時間帯。
夏至を過ぎてだいぶ経ったとはいえ、やっぱり夏は日が長いなって思った。
オレンジ色の太陽が見られるまでには、もう少し時間が掛かりそう。

「これはどこに向かっているんだい」
「夕日がすごく綺麗に見えるの!穴場だから空いてるんだ」
「へぇ、よく知ってたな」

大石くんが教えてくれたんだよ、と言うわけにもいかず笑みだけを返す。

「(最後の切り札……これでダメなら、諦めるしかない)」

ここは、最後の砦だ。
大石くんが記憶を取り戻すことができるくらい、
感情が大きく揺れる可能性のある場所を、私は他に思いつけない。

青学もダメ。
全国優勝した会場もダメ。
大石くんが記憶を取り戻してくれそうなことはあらかた試した。

私たちの最後の思い出の場所。

ここで思い出してもらえなかったら、いよいよ無理だ。
私には大石くんの記憶を取り戻してあげることはできない。

「(元カノより先に、私のことを思い出してくれないかな…なんて)」

変な対抗心燃やしてごめんね。でも、
大石くんが記憶を失ってこんな大変な状況なのに現れない元カノより
こうやって一緒に協力している私の方が、
今の大石くんにとっては近しい存在になれてるのは間違いない…と思う、んだけど。
記憶が戻ったら、それも全部ひっくり返ってしまうのかな。
それは怖いけれど。

「ここらへんに座ろっか」
「ああ」

座り心地の良い岩を探して何回か移動した。
4年前のときは凄くすんなり腰を落ち着けた覚えがある。
さすがにどの岩場だったかまでは憶えていない。

でも大体このへんだ。
ここに居れば、あのときと似た景色がきっと見られる。

「今日楽しかったね」
「ああ。久しぶりにこんなにはしゃいだ気がするよ」
「テストばっかだもんねー!夏休み中の課題も一杯あるしさ」
「そうだな。良かったら今度一緒に勉強しないか?」
「え、するする!」

わー大石くんから誘ってくれるの貴重ー!
と喜ぶのもつかの間、ふと気付く。

私はあのときの景色がまた見たくて、夕日が沈むのを待っている。
だけど大石くんはそれを知らない。
今はただ単に、海で一日一緒に遊んで、
黄色味が濃くなっていく太陽が少しずつ傾いているのを
二人きりで横に座って待っているという状況だけがあるわけで。

「(告白するには、最適なタイミングだったりしない?)」

普通に考えたらそう。
大石くんの方から何か言ってきてくれてもおかしくないんだけど。

大石くん。
私のこと好き?
好き、って、言ってくれない?

「(……いけない。何考えてるんだ)」

この場所に連れてきたのは記憶を取り戻したいからだったはずなのに、違う感情が頭を過る。
でも、あの頃の思い出より今を大切にしたいのは悪いことではないよね?
それに、仮に今私たちが両想いで付き合うことになっても
過去の思い出を否定することではないし。だよね?

だけど…記憶を取り戻したとしたら、
今の関係は崩れてしまう可能性は、ある。
騙してるわけじゃない。
黙っているけれど。
「私たちは以前付き合っていてこの場所で別れたんだよ」って。

「(……思い出しちゃったら、どうしよう)」

もしもこれから私たちが見ようとしている景色で大石くんが記憶を取り戻したとしたら、
私は、またこの場所で傷つくことになるんじゃないか?

「(やっぱり、来ないべきだったかな。いや、覚悟を決めたじゃないか。
 大石くんの記憶を取り戻してあげるのが私の使命だ。
 たとえそれによって今の関係が崩れることになってしまっても)」

考えているうちに、太陽がすっと雲の影に隠れた。
細い筋上の雲がいくつか重なっていて、
また太陽全体が見られるのは切り立った岩場に沈んでいく直前になりそうだ。

視界が薄暗くなった気がして、顔を上げて目を見開いたタイミングで
「二つ、聞きたいことがあって」と大石くんから声を掛けられた。

「なに?」
「ここに来たのは、何か特別な理由があるのかな」
「…え?」

大石くんは柔らかな目線でこっちを見る。
なんだか、心配をしてくれているような、そんな目。

「っていうのは、今日はさんが行きたい場所っていうことでここに来たわけだけど」
「うん」
さんが、本当にただ遊びたいだけで選ぶかなって」
「…………」

言えない。
私と大石くんの最後の思い出の場所だよ、
良い記憶とは言い難いけど強烈に感情が動いた場所だよ、なんて。
それから、4年前の約束を果たすためだよ、なんて。
言えないよ。

返事をできずに口を噤んでいると、
大石くんは「それからもう一つ」と次の質問に進んだ。

「もしかしたら、さっきの質問と同じ意味になるのかもしれないけど」

どういうこと、と首を傾げるしかできなかったけど、
次に大石くんの口から発せられた言葉にドキッとした。

「大丈夫かい?」

え……。

「なんだか、元気がなさそうだから」
「…………」

言えない。
ここが私たちの思い出の場所だなんて。
記憶を取り戻してほしいけど、
記憶を取り戻されたら
私たちが付き合ってて別れたことも
その後にできたもっと大切な存在も
全部思い出されてしまって
私たちの今の関係が壊れてしまうかもしれなくて
怖いと思っている私もいるだなんて。

言えない。
けど言いたい。
全部全部、こんな気持ちになるのは君のことが好きだから、って。

口を開いて、発しかけて、言えなくて…。
言葉を飲み込んだタイミングで、横側の視界が急に明るくなった。

「わっ」
「眩し!」

雲の影に隠れていた太陽が、雲の下から姿を現した。
その色は、先程まで見ていたものとは違う色をしていた。

赤みを増して大きくなった太陽が、岩陰に飲み込まれていくまであと少し。

「綺麗だな」

横から聞こえた声に、
声が出せずに頷いた。

あれから何年も月日が流れたのにこの景色は変わっていなくて、
私は前にここに来たときと同じ人とそれを見ているのに
横の人はまるで初めて目にしたかのように瞳を震わせている。

遠くに映えるオレンジ色はあまり眩しくて長く見つめられない。
隣の横顔に視線をずらした。
大石くんもまた眩しそうに目を細めていて、
その美しさを堪能しているかに見えたのに、
その表情はみるみる苦しそうに歪まされていった。

「どうしたの、大丈夫!?」
「ああ、大丈夫だ……ただ」
「……ただ?」
「なんだかすごく、懐かしい気がして……胸が苦しいくらいに」

右手で胸元を押さえて、左手で頭を抱えて、
太陽を見つめて、今度は地面の一点を見つめる。
思い出そうとしているの…?

視線が地面に固定されたまま大石くんの呼吸だけが荒くなっていく。
肩が上下して苦しそうだ。

「無理しないで!」
「でも、思い出せそうなんだ」

そう言って大石くんは眩しそうに目を潜めながら夕日の方を見た。
真っ赤な、大きな太陽だ。

「俺はきっと、ここに来たことがある。誰かと」

大石くんは立ち上がった。

「顔すら思い出せないけど…俺にとって凄く大事な人だった。それはわかる」

私も同じく立ち上がる。
この光景は、私にも、憶えが。

「この景色を、一緒に見たはずなんだ」

私も見たことがある、この景色は。
まさに海日和というような暑い夏の日だった。

人でごった返す浜辺から離れて、二人で岩場を歩いた。
足場が悪くてふらつきながら、
夕日と海と自分たちしかない世界を進んだ。
私は未来の話をしようと思ったのに、させてもらえなくて、
これが二人で過ごせる最後の時間だとわかってしまった。
沈む夕日があまりに綺麗で、打ち寄せる波の音が切なくて。
張り裂けそうな胸を押さえながら、必死に笑顔を作ろうとしたことを憶えている。

さんにも前話したことあったよな…俺が唯一憶えてる、あの景色だ」

それは以前聞いた、大石くんのただ一つの記憶。
もしかして元カノともここに来ていたの?

「こんな風に、世界は真っ赤だった」

記憶の糸を紡ぐように、大石くんはぽつりぽつりと言葉を落とし始めた。
私も、自分の中に思い浮かんでいるその時間の風景が引っ張り出されるように呼び起こされて。


「目の前に居た女の子は、確か、」


そう、4年前、ここに居たときの私は。


「ショートカットで」

――水に濡れないように、長い髪をお団子にまとめた。


「タートルネックを着て」

――日焼けしないように首元までラッシュガードのチャックを上げた。


「メガネが似合ってて」

――太陽があまりに眩しくてサングラスを掛けた。


「儚げな表情をしていた」


――最後の思い出だから笑って終わりたかったのに、
上手に笑えなくて、涙を目一杯に溜めた。

その瞬間を今でも鮮明に思い出せる。


そのときの景色が再生されるように、オレンジ色の景色が歪んだ。


…………私じゃん。

ここに居たのは、私だったんじゃん。


「秀……私だ」
「え?」
「私だよ……その女の子」

胸が一杯になって、瞳に溜まった涙が溢れかえった。
ボロボロ零れて止まらなくなった。

私だ。
私だったんだ。

「本当に…?」
「うん」
さん、俺と付き合ってたのか?」
「……ウン」
「どうして今まで言わなかったんだ!?」
「だって…」

言えない。
思い出してもらえないのが悲しくてつまらない意地を張ってただなんて。
まさか、元カノの存在を自分以外の誰かと勘違いして嫉妬していただなんて。

「ごめん。責めるつもりはないんだ」

大石くんはふっと表情を緩めて、微笑みかけてきた。
そして、何かすごく愛おしいものを見る目で私を見つめる。

「嬉しいし、安心したよ。それなら早く知りたかったくらいだ」

…え?

「唯一憶えているくらい大切な存在だったはずの人のことを詳細に思い出せないのが申し訳なくて。
 そのことが胸に引っかかっているのに、他に気になってる人もいて…
 その人に対しても失礼だと思っていたんだ。
 でも良かった…両方とも君だったんだな」

え、大石くん?
それって、そういう意味?

驚きと戸惑いで硬直する私に対して、大石くんは苦笑いを見せた。

さんが付き合ってた人、絶対に俺なわけがないと思っていたよ」
「どうして?」
「前に言ってただろう、“太陽みたいな人”って」

俺のことを形容しているとは思えなかったから、と大石くんは言った。
私は首を横に振る。

「私にはずっと眩しく映ってたよ。当時も。今も」

そう伝えて、視線を大石くんから夕日に移す。

「それと……最後に一緒に見たのが、この景色だったんだ」

太陽が岩場に見切れていく。
世界がどこもかしこもセピア色。
あのときより更に大人びた表情の大石くんの顔がオレンジに照らされている。
泣きそうだ。

やっぱり私は、あなたが好きです。

さん、好きだ」

はっと顔を上げた。
夕日に照らされた優しい笑顔が見えた。

「これからも俺と一緒に居てくれませんか」

嬉しさのあまり、「はい」って声が掠れた。
「私も大石くんのことが、好きです」って伝えた。
大石くんは「良かった」って微笑んでくれた。
幸せで、胸があまりに一杯だ。

一番大好きで大切な人が、また、私の彼氏になってくれた。

「ね、大石くん」
「ん?」
「秀一郎って呼んでいいかな」
「ん、さっき秀って呼んでなかったか」
「あー、そうなんだけど……元カレと同じ呼び方ってどうかなって思って」

私の言葉に秀一郎は、なんだそれ、って情けない顔をして笑った。
ちょっと…秀一郎は憶えてないから関係ないかもしれないけど
私にとっては死活問題なんだからね…。

そういえば、記憶……。

「記憶、全部戻るってわけにはいかないか」
「ああ。でも、唯一の記憶が君のことだってわかって良かったよ」

そう言って笑顔が向けられたから、私も笑い返した。
そして、どちらからともなくぎゅっと抱き締めあった。
波が打ち寄せては引いていく音だけが静かに聞こえる。
その中で、



と呼ぶ声が聞こえた。

思い出した!?と思ってバッと顔を上げたけど、
さっきから変わらない優しい笑顔があるだけで。
ああ、私が秀一郎って呼ぶことにしたように向こうも…。

もしかしたらなんて期待をしてしまったけど、いい。
いいんだ。思い出せなくたって。
だって本物がここにいるから。これから増やしていけるから。

瞳と瞳が合わさって、そのまま二人の物理的な距離が近づくまでに時間はかからなかった。

私たちが最後のキスを交わしたあのときも、こんな夕日の前だった。
秀一郎にとっては、記憶の中でのファーストキス。
私にとっては、あの日の続き。

これからも、ちょっとずつそういうすれ違いを体験するかもしれない。
だけど大丈夫だよね、これから先の、ずっと長い時間のことを考えれば。

合わせた唇を離して、照れ笑い。
懐かしいような、新鮮なような。
これからまた私たち二人の物語が始まっていくのだろう。
























大石の元カノが主人公シリーズ、本作を以てついに完結ー!(ドンパフ)
『グッバイ・サンセット』が過去編でこちらが本編です。
前作は厳密には「主人公が大石の元カノになる話」だもんねw

時が経ってるのと記憶がないことで、
中3(テニプリ原作)の大石とはちょっと違う性格にしたつもり。
中1と中3の大石って結構キャラ違うじゃん、
性格が変わっていった理由に関する記憶を排除したら
大石ってもっとやんちゃなんじゃないかなーと思って。

前作が切ない感じの終わり方だったので
こっちではハピハピな展開にしたかったのだよ!
やっぱりちょっと切なさはあるけどね。

大石の元カノシリーズ全部楽しかったが、大石編も楽しかったなw
大石への激重感情を思う存分拗らせられるのが良かったw


2020/07/30-2021/08/13