* 石の上に三年も待てない *












「無理だと思ってもまずは三年頑張れ」。
先人たちの教えを鵜呑みにするのならば私はあと
二年と十ヶ月この苦痛に耐えねばならない。

こんなはずじゃなかった…。

学生のうちに付き合い始めた彼氏と安定した交際、
社会人になって仕事に慣れてきた頃に同棲開始、
夢だった職業に就いて苦労をしながらも楽しんで、
責任ある仕事を任されつつある入社三年目の頃プロポーズ、
周りに惜しまれつつも祝福されて寿退社、
家族との顔合わせや結納を済ませて半年後に入籍、
プロポーズから丸一年後の大安吉日に結婚式、
子どもは二人、一姫二太郎、
そしてそのまま安泰に暮らしましたとさ…めでたしめでたし。

これが私の理想の人生プランだった。
それがこんな早々に躓くことになるとは露程も思わなかった。


、少し痩せたんじゃないか?」


運ばれてきた料理をぼーっと眺めながら今後の人生どうしたものかと
意識を明後日の方向に飛ばしていた私は正面から掛けられた声にはっとする。
今日は約一ヶ月ぶりの秀くんとのデートだった。

その言葉に含まれた意図は疑問ではなく心配だった。
向けられている視線でそのことに気付いて
無意識に顰めていた眉間を緩めて「そうかな、気のせいじゃない」と笑ってみせる。

だけど私が自分自身を心配する以上に他人である私を気遣ってくれるのが秀くんだ。
私の作り笑いが通用するはずもなく目一杯眉尻を下げて口を一文字に結んでる。
「冷めちゃうよ、食べよ」と私が促すと、不満げな表情を隠さぬまま
「そうだな」と同意して「いただきます」と丁寧に合わせた。
私も同じように続いて、二人で食事を始める。

(痩せたのはその通り…だけど)

働き始めてから毎日忙しすぎて一日三食満足に取れない日もざらだ。
でも元々心配性な秀くんを必要以上に心配にさせたくない。
私はさっきの質問なんてなかったみたいに
「おいしいね」と笑ってオムライスをパクパクと食べ進めてみせる。

秀くんは優しい。まさに理想の彼氏だ。

早々に躓かされて絶望に満ちている私の人生プラン、
唯一の救いは一つ目のハードルだけは越えられていることだ。

秀くんのいいところは優しいだけじゃない。
人としてお手本のような存在。
秀くんに見合った存在で居られるよう、私も頑張らないと。

せっかくのデートなのに不安事で頭を一杯にしていたことを反省した。
危うく休日出勤を入れられそうなところをなんとかもぎ取った休日だ。
今日は秀くんとの時間を全力で楽しもう。

そんな私の意図に気付いたのかどうなのか、
秀くんもまたさっきの質問なんてなかったみたいに楽しく雑談を始めた。
家族の話、久しぶりに会った友達の話、近々ある天体ショーの話…
秀くんはどちらかというと聞き役のタイプだけど
食べるのが遅い私が食事を平らげるまでの間あれこれと話を振ってくれた。

食べ終わったあとは私も色々話をしたかったけど、
楽しい話をしようにも最近は自分の自由な時間も少なくて話題が思いつかない。
結局秀くんの話ばかり聞いてしまった。今日は私が相槌係だ。

一緒に映画を見て、カフェでその感想を語らう。
私はスイーツ、秀くんはブラックコーヒー。
同じ映画を見ていたはずなのに着眼点が違うのが面白い。
すっきりとしたハッピーエンドではなかったその物語に対して
もっとこうすればあんな終わり方にはならなかったんじゃないかと
あれこれ考察しているのはロマンチストな秀くんらしい。
「幸せかどうか決めるのはその後の二人じゃん」と私が言うと
「それもそうか」と頷きながらもどこか不服そう。
目の前で辛そうにしている人を放っておけないのが秀くんだもんね、
と勝手に心の中で納得した。

カフェを出た後は少し公園を散歩した。
コートがなくても外を歩ける気候が心地好い。
小腹が空いてきた頃に時計を確認すると思ったより時刻は遅くって
日が延びたねなんて話をしながらダイニングキッチンに入った。
少し前まではファミレスが当たり前だったのがもはや懐かしい。
秀くんに遅れること数年、私もお酒を飲めるようになった。

こうやってこれからも一緒に年を重ねていける。
それが私にとっての何よりの幸せだと噛みしめた。

お店を出た後、秀くんはいつもみたく私の家まで送ってくれる。
いいよって言っても「心配だから」って譲らないし
「少しでも長く一緒に居たいから」と言われては悪い気はしない。
本当はすごく嬉しいのに照れくさくって素直に喜べずに
「そこまで言うんだったらいいけど」なんて答えちゃう私はかわいくない。
でもいじらしさは汲み取ってくれてるんじゃないかと勝手に期待する。

「ところで最近、変わったことはないか」
「変わったことー?」

上機嫌で舌っ足らずな返しをする私の元に
何気ない一言のような爆弾が飛んできたのはうちまであと5分というタイミング。


「仕事、随分キツイんじゃないか」


幸せの真ん中にいた私は一気に地獄のような気分に落とされた。
明日からのことを思い出すだけで心の中が真っ黒だ。
さっきまでの気持ちはどこへやら。

デートの序盤でこんなことを聞かれたら
一日憂鬱な状態で過ごすことになるところだった。
聞かれたのが今で良かった。

「大変だけど、自分が入りたくて入った業界だし」
「うん。前も言ってたよな、石の上にも三年だって」

そう。
私は以前秀くんに話したことがあった。
同じ業界に進んだ先輩に「無理だと思ってもまずは三年頑張れ」と
アドバイスをもらったということ。
業界的に忙しいし激務になるのは予想できるけどそれだけやりがいがあるはずだし、
自分が向いているか否かを見極めるためにもそれくらい必要、という話だった。

「そう。私、三年は頑張るんだ」

そう言って気丈に笑ってみせる。

私もまさか秀くんに以前その話をしたときはこんな自体予想してなかったよ。
働き始めて一ヶ月やそこらで社会に絶望していることになるなんて。
そんなつもりで語ったつもりはなかった、
「寿退社は夢だけど、まず最低三年は責任を持って仕事を頑張るんだ」なんて。

逆にいうと、三年経つ頃にはプロポーズの言葉は頂戴よ?
なんていう愛くるしい裏のメッセージを秘めたつもりだった。
それに、それくらい責任を持って頑張れる私だったら
あなたの隣にいても恥ずかしくない存在になれるかな、って。


だから今も嘘をついた。

でも本当は限界だよ。

もう頑張れないよ。


(こんなダメな子、秀くんには相応しくないんじゃないの?)


そんな考えが頭を過って、ヒヤッと体が冷たくなった。

そう考えると、
私の理想の人生プラン、
一つ目のハードルだけは越えられたつもりでいたけど
本当はそれすら越えられてないんじゃないの…?

(……まずい、泣きそう)

喉の奥に何かがぐっと込み上げて来るのを感じる。
このままだともう少しで上手に喋れなくなりそうだ。

「秀くん、ここまででいいや」
「え、どうして」
「ちょっと寄り道したくなって」

自分の家まで歩いてあとわずか、私は足を止める。
不思議そうにしながらも秀くんも同じく足を止めた。

「ありがとね送ってくれて。またね」

そう言ってバイバイと手を振る。笑顔で。
戸惑いながらも秀くんも手を振り返してきた。
秀くんはゆっくり背を向けて、もう一回首だけで振り返って、
手を振り続けてる私を見て手をかざして、前を向き直った。
そしてその姿が小さくなっていく。

はぁー…。
危なかった。

家に着くまでは我慢できなかった。
だけど秀くんには笑顔を見せ続けられて良かった。
良かった。
何が?
何もよくない。
サイアクだよ、何もかもが。


「!」

肩に手が乗るのと声が掛けられるのは同時で、
ビクリと跳ね上がるように反射で振り返ると
そこには心配そうに私を覗き込むよく知った顔が。

え、秀くん?

「やっぱり泣いてた」

掛けられた声にはっとして、
焦って袖で目元を拭うけどもう手遅れ。

「どうして…」
「様子がおかしかったから。
 一人になりたいんだろうなとは思ったんだけど、どうしても気になって」

一人になりたかった。それは間違ってない。
だけど寂しいのはもっとイヤだった。
どうしてわかってくれちゃうの。

「辛いときは頼ってくれよ」

まるで怒ってるみたいに口調を強めて言われた。
本当に怒ってるわけじゃないのはわかってる。
心配してくれてるんだって。

それに配慮できるほど今の私に余裕はなかった。
わかったよ。
そこまで言うんだったら喋ってあげるよ思ってること全部。


「秀くん」


「私もう仕事辞めたい」


「全部イヤになっちゃった」


返事を待つ暇もなく言葉がどんどん溢れてく。
止まらない。

「働き始める前は不安もあったけど楽しみで一杯だったはずなのに
 いざ働き始めたら楽しいことは思ったほどないのに
 不安に思ってたことだけが予想通りで
 考えてすらなかった不満ばっかり増えて
 自分が思い描いてた人生設計なんてちんけだったって、
 自分は愚かだって気付いちゃったんだ。もう無理だよ。ムリ」

喋りすぎた。
と、気づく頃には既に手遅れ。
私の言葉はとっくに口を飛び出していて、
秀くんの耳にも辿り着いたはず。

しまった、という気持ちもあるけど、
言いたいこと言い切ったらスッキリしている自分もいて、
じゃあ言って良かったのかというと、
目の前の秀くんの思い切り顰められた眉を見て失敗だと悟った。
幻滅されないわけがない。
いずれにせよ手遅れ。

今更発言を取り下げるのも。
それに、取り下げるといっても真実ではあったのだ。
どうすべきかと考えつつも硬直状態が解けないうちに秀くんが口を開く。


「ごめん、


あ、ヤバイ。

フラれる。


心が引き裂かれそうに痛くて涙がボロボロ溢れるのに
頭は変に冷静でそんな自分自身を客観的に見てる。

おしまいなんだ。

おしまいだ。

もう何もかも。


これからどうしたらいいのか大声で泣きついてやろうか
どんなに情けない姿をしたって貴方を引き留められるならそれでいいのに
やればやるほど遠ざけることになってしまいそうで四面楚歌。

もうダメだ。

と、絶望する私の体は秀くんの胸元に強く引き寄せられていた。


「三年も待てないよ」


言葉の意味と状況の理解に時間が掛かる。

三年も待てない。それは私の気持ち。
そしてフラれると思ったのに抱き締められている。

どういうこと。
え、え?

「秀くん、今なんて」
が頑張っているのは俺が誰よりも知ってる。
 前に話してた人生設計のことだって憶えてる。
 だけど限界だ。見てられないよ。俺がもう待てない」

理解が追いつかない。
体を離して、秀くんのまっすぐな瞳が、私を貫く。



なに。


「お願いだ。俺と結婚してくれ」


…………え?

「辛いことがあるのはどうしたって仕方がないと思う。
 だけど、そのときそばにいてあげられないのは俺が耐えられない。
 一番近くで励まし合いたいんだ」

何を、言っているの。

「何言ってるの……」
「やっぱり、まだ早いかな…確かに俺もまだ研修医だし
 経済的に安定した状態とはとても言えないけど…」
「そうじゃなくてっ」

涙が止まらない。
意味がわからない。

「なんで……私はきっと秀くんに何もあげられないよ?」
「何を言ってるんだ」

秀くんは首を振ると両肩に乗せた手に力を込めてまっすぐに見つめてくる。
形の整った眉がハの字に傾いて、目線はこれ以上なく優しい。

「俺はと居られるだけで元気が出るよ。
 今日があったから俺も明日から頑張れるんだよ」

涙が止まらない。
でもこれは、喜んでいいんだよね?

「返事は?」
「……そんなの『はい』以外ありえないでしょ」

ぎゅっと抱き付いた。
きつく抱き返されて「良かった」の声が上から降ってきた。

「本当に?結婚?結婚だよ!?」
「もう遅いか早いかの問題だとは思ってたんだ。
 俺にはしかいないよ」

ホントに?とか
なんで?とか
やっぱり思っちゃうけど。

大切な人がいて、
その人にとっての大切な人が自分であれること。
なんて幸せなことなんだろう。

ああ。
絶望しかない明日からの日々。
ようやく光が差してきた気がした。

ゆっくりと体が離れて、目が合う。
私は覚悟を決めて頷いた。

「秀くん、前言撤回しないって誓ってくれる?」
「ああ、もちろんだ」
「……ちょっと本音吐き出したいんだけど」
「何でも言ってくれ」

秀くんの返事を確認して、
私は大きく息を吸って、最後まで吐き切って。

一瞬の間の後に吐き捨ててやった。

「弊社マジでクソ。すぐにでも辞める」

治安悪過ぎな私の一言。
秀くんは声を出して笑った。
そして苦笑いを見せると
「クソは良くないな。でも、が選んだ道なら俺は応援するよ」
と言って頭を撫でられた。


もう。
お陰で私の理想の人生プランは台無しだよ。

目線を当てないまま秀くんのお腹にパンチを食らわした。
























本日お誕生日の大石夢女子ちゃんに捧げます。
この世は無情。強く生きような。。


2021/05/10-24