* グッバイ・サンセット *












「ねーねー!夏休み中にみんなで海行かない!?」


盛り上がる祝勝会の最中、英二が大きな声を張り上げて全員が振り返った。

私がマネージャーとして所属する青春学園中等部テニス部は本日の全国大会で優勝を果たした。
今はメンバーの一人である河村隆の実家が経営する寿司屋で恒例となった祝勝会をやっているところ。

「確かにテニス三昧で夏らしいこと全然できてないっスもんねー」
「ね、行こうよ!」

全体に投げかけたのち、英二はこっちに視線を向けてくる。
私?

「来週末にはだって引っ越しちゃうしさ。最後にみんなで思い出作りしよー」
「いいっスね!」

いや私は、引っ越し準備で忙しい…
と言い出す暇もなく、周りはうんうんと納得ムード。

そう。私は親の都合で引っ越しが決まっていて、二学期からは別の学校で過ごす。
私は優勝できた事実とこの祝勝会で思い出は充分なつもりだったけど…
まあ、思い出は多いに越したことはないか。
問題は引っ越し準備をそうそう抜け出すことを家族が許してくれるか。
もう既に一日は予定が埋まっている。

「オレ、水曜以外いつでも空いてる!」
「あーオレは金曜ダメっスね」
「他のみんなはー!?」

毎度のムードメーカーの英二と桃を中心にあれよあれよと話が進んでいく。
みんなの予定を合わせていった結果、選択肢として明後日の日付である8月25日が残った様子。

「(その日は…)」

「25日ならみんな行けるって。大丈夫?」

英二が純真無垢な笑顔で聞いてくる。
どうだったかな、と予定を思い起こすフリをして
私は隣に座る人物――大石秀一郎の視線を盗み見た。

私と秀は2年の途中から付き合っている。
そのことは周知の事実となっている。
だけどまさか8月25日は二人でデートの予定だとは周りは知らない。

秀は私と視線を合わせようとしない。
そして何も言わない。
これは秀もまた私の様子を伺っているということなのか。

「どーしよっかな…引っ越し準備とかあるし」
「えーがいないと楽しくないよ!みんなで集まれるの最後だし」

そうは言うけど、
思い出はもう充分作れたし。
引っ越し準備が忙しいのは本当だし。
秀とデートの約束が先だったし。

「(引っ越し前に秀と会えるのもその日が最後の予定だし…)」

頭の中で理由をいくつも並べて、
よし、これは断ろうと決心して口を開けた瞬間、
隣から「一日くらい空けられるんじゃないか?」の声が聞こえた。
優しげな笑顔がこちらを見ている。
……秀がそう言うんだ。

「ほらほらー、大石だってそう言ってるよ!」
「………」

デートの振り替えが保証できるほど私は暇じゃないんだけど?
秀はそれをわかってるのかな?
疑問に思いつつも、秀の表情と、英二の表情と、周りのみんなの様子を伺って…。

「……行く」
「やったー!!」

結局首を縦に振った私に、英二は両手を上げて喜んだ。
他のみんなも、歓喜というより安堵の様子で、温かい空気になった気がした。

それは、みんなと思い出増やせるのは、嬉しいけど…。


どういうつもりなのか。
ごめんなの目配せでも返ってくるもんじゃないかと秀の顔を伺ったけど
「英二危ないぞ」と言いながら、はしゃぐ英二の近くの湯呑みをテーブルの内側に寄せる作業に忙しそうで
こっちを見てくれる気配はなかった。

どういうつもり、なんだろう。



引っ越しまで、あと一週間。





  **





「海だー!オレ一番乗りぃー!」
「ズルイっスよ英二先輩!ほら越前、オレたちも行くぞ!」
「痛いっス」

パラソルの位置が決まって荷物を下ろすなり英二はTシャツを脱ぎ捨てて浜辺へ走って行った。
すぐ後ろを桃と、桃に肩を組まれて引きずられるようになったリョーマが追った。
秀はその背中に「ちゃんと準備体操するんだぞ!」と投げかける。

「まったく、アイツら…」
「パラソル立てようか」

不二の言葉にウンと頷き、海の家で借りてきた巨大パラソルをタカさんが広げてくれた。
ビニールシートを敷き、四隅にみんなの荷物を置いて風に飛ばないようにして我々の待機所が出来上がった。
腰に手を当て「よし」と秀は納得したように頷いた。

「とりあえず自由時間にして、昼ご飯はみんなで食べようか」
「ああ、それがいいだろう」
「もう自由時間が始まっちゃってる人たちも若干名いるけどね」
「アハハ」

視線の先には、既に海水の掛け合いを楽しんでいる3名。
眺めていると視線に入らぬ背後から「砂か。砂浜は歩行するだけで足腰のトレーニングになるな…」と重低音の声が聞こえてきた。
引退したのに乾はまたそんなこと言ってる…。

「…歩くだけでいいんスか」
「もちろんそれ以上の負荷を掛けたトレーニングをすることも可能だが…いくか、海堂」
「ウス」

砂浜でのランニングは舗装された道路に比べて…とかぶつくさウンチクを垂れる乾の横に海堂もついて、二人はどこかへいなくなった。
パラソルには今、私を含めて5人が残ってる。

「(あれから、秀と二人で話せてないな)」

別に、明確に喧嘩したわけではない。
なのでもちろん仲直りもしていないのだけれど、そう、
今の心境を敢えて例えるならば「仲直りしてない状態」。

今日は結局みんなで海に来ることになったわけだけれど、
秀、元々の約束を忘れてるわけじゃないよね。
みんなで来られたのは嬉しいし、そのメンバーに秀も含まれているから
約束を破ったとはいえないけど、みんなと二人は違う。
私は今日の集まりを断ろうか迷ったけど、秀は明確に参加を促した。
一体、どういうつもりだったのか…。

パラソルの影の下からちらりと秀の様子を見た。
さんさんの太陽に照らされながら屈伸をしている。
泳ぎに行くのかな。好きだもんね。

私は…泳ぐのは後ででいいや。
体育座りをしたまま水辺ではしゃぐ3人に視線を移した。
リョーマが宙を舞って海面に叩きつけられる瞬間だった。
英二が丁度こちらを見て「おーい!早く来いよー!」と手を振って声を張り上げた。
その声に反応して不二がタカさんに声を掛ける。

「僕たちも行こうか」
「うん」
「ほら、手塚も」
「ああ」

棒立ちしていた手塚も不二の呼び掛けに頷いた。
不二はくるりと振り返って「それじゃあ悪いけど、荷物番よろしく」と告げて去っていった。

その場には、秀と私が残された。

「…………」

二人に、なってしまった。
二人で話せる機会を望んでいたはずなのに、いざ与えられると厄介な状況だと感じてしまった。
先ほどまでは泳ぐ気満々の様子で準備体操をしていた秀だったけれど、
パラソルで出来た日影で体育座りをしている私の隣に腰掛けた。

「…秀、行ってもいいよ」
「いや、俺はいいよ。こそ行ってきたらどうだ」
「日焼けしたくないからいい」
「日焼け?」

何を今更、という表情で秀は私のこんがり小麦色に焼けた腕を見た。
それはテニス部で選手たちに混じって汗を流し続けていればこれくらい日焼けもする。
精一杯日焼け止めで抗おうとしてもだ。

「あ、バカにしたな!」
「してないよ。俺はそのままでもいいと思うけど」
「いいの!テニス部引退したから美白するって決めたんだ!」
「そうか、頑張れよ」
「笑うなー!」

笑ってないぞ、と秀は言ったけど、明らかに顔がニヤついてた。
ぽかぽかと肩を叩いてやった。
見てろよー、次に会うときには美白美人になっといてやるんだから…。

「そうだ、日焼け止め塗ってよ。背中届かなくってさ」

鞄からSPF50++の日焼け止めのボトルを取り出し、シャカシャカと振って秀に手渡した。
秀はそれを何も言わずに受け取って手に出す。私は後ろを向く。
日焼け止めのひんやりとした感触に身構えていたのに、それを上回るくらい秀の手が温かくてどきりとした。

「(触られるの…ちょっと恥ずかしいけど心地好い、な)」
「首の後ろは?」
「あー、もっかい塗っといて」

一応自分でも塗ったけれど、少し汗も掻いているし念のため塗ってもらうことにした。
首沿いを手が這うと、くすぐったいというか、本能的な危機感のようなもので背筋がぞわぞわした。

「今日、珍しい髪型してるな」
「うん。濡れた髪って重くなるからさ、お団子にしてみた。どう?」
「似合ってるよ」
「本当に思ってるー?」
「思ってるよ」

感情が籠もっていないような気がして振り返りながら茶化すように問い返してみたら、秀は呆れたように――でもとても柔らかい目元で――笑った。
あまりに目線が優しいものだから目が合うだけで気恥ずかしくなって表に向き直った。

「紐の下も塗ってね」
「紐の下?」
「うん。境目が塗り逃しがちだから」
「なるほど」

そう言うと秀は日焼け止めをボトルから追加で手に取った。
そして。

「(…ひぇ!?)」

するりと肩紐が外されて、ぎょっとそこを目視する。
肩紐は二の腕の部分まで下ろされて、完全にあらわになった私の肩に秀の手が這う。
別に隠れている部分が紐一本分減ったところで大した面積の違いではないのだけれど、局所的に裸にされたような居心地の悪さがあった。
胸の部分が少しぱかりと浮いたのを慌てて腕で押さえた。

「(何これ、天然?わざとやってる?)」

紐の下に指を差し込まれるか少しずらして塗られるのを想像してて、
肩からまるっと紐が外されるとは思っていなかった。
私がこんなに心臓をドキドキさせているのを知ってか知らずか、
秀は右側の肩紐を何事もなかったように戻し、今度は左側の肩紐を外した。
そのやり方はおかしいでしょうと突っ込むべきか否か迷っているうちに両方の肩紐は定位置に戻ってきた。
確実に赤くなっているであろう顔をどう隠すか、バレたらバレたで先ほどの行動を問いただそうかと頭を回す。

「ごめんな、今日」

私の思考を遮るように、ぽつりとしたつぶやきで秀はしばらく続いていた沈黙を破った。
「悪気はあったんだ」と返すと、ハハ…とバツが悪そうに笑った。
背中を向けてたから顔は見えなかったけど、情けない笑顔が頭に浮かんだ。
日焼け止めは塗り終わった。顔の火照りも収まった。
首を捩って秀の方を向こうとすると、秀が私の隣に座り直して横並びの体制に戻った。
…まあ、私も本気で怒っていたわけではない。

「結果良かったよ。みんなとも最後だし。レギュラー全員予定合って良かったね」
「そうだな」
「二人だけなら予定合わせるの難しくないしね」

私のその言葉に対して秀が見せてきた笑顔は、心なしか曇っていて。

「(あ……)」

これは。

「(察し…てしまった、かもしれない)」
「部活引退したら時間に余裕はできるものと思ってたけど意外と忙しいものだな」
「そう、だね」

そう話す秀の様子は、いつも通りで。
さっきは私の言葉に対してわずかに眉を下げたように見えたけれど。

「(…気のせい?)」

気のせいなら、いいけど。
でもこういうとき嫌な予感っていうのは当たるものだ。

私はこっそりと心構えを開始した。


しばらくしたらげっそり疲れ果てた様子でリョーマが戻ってきた。
その様子を見て「どうした」と聞く秀に対して
「何回も海に投げ込まれて……めっちゃ海水飲んだっス」と言ってジュースで口直しをしていた。
確かに何回も英二と桃に抱えられて宙を舞うリョーマを目にしていたことを思い出した。
私に日焼け止めを塗ってくれていた秀はその様子は見ていないだろうけど、
犯人は誰かわかった様子で「まったくしょうがないなアイツら」と呆れた声を出した。

「で、先輩たちは海行かないんスか?荷物番ならしますよ」

私たちは顔を見合わせる。

「お言葉に甘える?」
「そうだなあ、俺も少し泳ぎたいし」

そう言って秀は前腕のストレッチをした。
これはガチ泳ぎするつもりだ…キャッキャウフフはないな。

二人で浜辺に向かって歩いていくと、英二と目が合った。

「あっ!次の獲物来たぞー!」
「え!?」
「行きますよー」
「えっ、ちょっと待――」

…ってくれるやつらではなかった。
私は突進してきた英二と桃につかまれ、勢いよく海に投げ込まれた。
一番に海水に触れたのが背中からとはどういうことか。

「ぷはっ!しょっぱ!!」
「次おおい…しは、げーっ!もうあんな遠くまで行ってる!」

顔の滴を拭って英二が見ている方向を見ると、遥か遠く、ブイに向かってクロールする秀の姿が見えた。
さすが…と泳ぐ速さに感心したような、みんなで海に来て真っ先に全力でガチ泳ぎする姿に呆れたような。
でも普段は統率役なのに自分のフィールドに入るとマイウェイに暴走する姿は秀らしいというか。

「待て待てー!」と言いながら英二も追いかけるように泳いでいった。
その姿を見ながら一塊にくくった髪をぎゅうぎゅうと握ると少しだけ水が絞れた。

「もー。髪あんま濡らしたくなかったのにー…」
「何言ってんスか、せっかく海に来たのに」

桃が楽しそうに話すもんだから、
「じゃあ部長は投げたの?」と耳打ちすると、
「いや、それは無理っス」と予想していた返事が返ってきた。

「やりなよ」
「いや無理っスよ!」
「じゃあどうして私はいいの!」
先輩はキャラ的にというか…あとサイズが投げやすいですし」
「サイズの問題かーい!」

私はさすがに桃を投げることはできない。
手で水を掬って「喰らえー!」とばしゃばしゃ掛けた。
「あっ、やりましたね!」と二人でしばらく水の掛け合いに勤しんだ。
秀と英二は全然戻ってくる様子はないけど、まあ、二人のことだしほっとこう。

そういえば不二とタカさんと部長は?と思って周りを見渡すと、波打ち際から少し離れたところで砂のお城を立てていた。
あまりにそのお城がゴージャスだったのと、部長がしゃがんで砂いじりしてる姿だけでおかしくって私は「ヤバー!!」と大声を上げて笑ってしまった。

そうこうしているうちに秀と英二は戻ってきていた。
満足した様子で「そろそろお昼にするか」と言った。
言われてみれば、結構お腹空いてる。
喜んでその提案に乗った。




  **




「うへーけっこうお腹すいたー!オレ焼きそば食べよーっと」
「あっオレも焼きそば!あとカレーと焼きもろこし」
「…バカの大食いだな」
「うるせー!腹が減るんだからしょうがねぇだろ!」

そんなやり取りを横目に、私もメニューを眺める。
焼きそばかなー。あーでもイカ焼きも食べたいなー。
あとでかき氷も食べたい!

みんなワイワイしながら並んでお昼ご飯。
楽しいなー…。

「(そういえば、この楽しいのも今日で最後なんだ)」

これまで、平日も休日もほとんどの時間を一緒に過ごしてきたみんな。
一昨日までテニス三昧で全国優勝まで成し遂げたみんな。

「(…考えすぎると、楽しい時間が台無しになりそうだ)」

深く考えることはやめた。
ただ、心構えだけは続けておこう。

「ねっ、みんなで写真撮ろ!」
「おっいいっスね」
「お兄さん今手空いてそうだから頼んでくる!」

海の家のお兄さんに声を掛けると、快くお願いされてくれた。
人によってはイカとかもろこしとか持ってたりして、とても楽しい写真が取れたと思う。


海の家の屋根の下から出ると、日差しがなおさら強くなっているような気がした。

「あー日焼け止め全部塗りなおさなきゃダメかなー!めんどー!」
「いいじゃん日焼け止めなんて、今更っしょ」
「うるさい!私は美白することに決めたの!」
「美白〜?」
「あっ英二までバカにしてるな!?」

ビキニは露出が多すぎる。鞄からラッシュガードを取り出してチャックを引き上げた。
帽子も持ってくれば良かったなーなどと考えていると、横から声。

「えーそれ着ると可愛くないじゃん」
「は?英二のエッチ」
「エッチとかじゃないよ!可愛いか可愛くないかって話してんの!」
「ねえ秀聞いてー!」
「やめろー!大石にチクるな!」

別にエッチとか本気で思ってるわけじゃないけど、
そのやりとりを秀に伝えて秀が呆れかえるとこまで含めて
いつもの戯れって感じで、私は目的の人物がいる方に声を張り上げる。
私の声に反応した秀は振り返りながら「ん?」と微笑を見せてくる。

「英二がさ、これ脱いだ方が良いとか言うんだけどどう思う?」
「大石も脱いだほうがいいと思うよね!?」

開き直った英二は同意を求める作戦に出た。
そう来たか…。

「どっちでもいいんじゃないか」
「何それヒドー!」

ギャースカ騒いでる私たちが馬鹿らしくなるくらいの
素っ気ない反応で秀は微笑んで、表を向き直った。
そんで部長と何やら話し始めてしまうものだから、
秀のやつー…と恨めしさを込めて背中を睨み付けていると英二が楽しそうに耳打ちしてきた。

「大丈夫だって!大石ムッツリスケベだからさ、
 絶対心の中では脱いでた方がいいって思ってるよ」
「うーん、喜んでいいのか…」

とりあえず、日がもう少し陰ってくるまではこのまま着ていようという結論に至った。

「それよりさ、海のほう行こうぜ!オレまだと全然遊べてない」
「そだね。あ、せっかくだし海の家でバナナボートレンタルしない?」
「さんせー!!」

英二と相談してバナナボートとイルカのうきわをレンタルした。
自主的にはしゃぐメンツはもう英二と桃と私で固定になっている。
誘えば乗ってくれる受け身メンツを巻き込んだ。
その受け身メンツの中には秀もいる。

みんなの中に紛れると、秀はなかなか私に話しかけてこない。
部活中のけじめなのだと思っていたけど引退したしオフ日である今日でもそれは変わらなかった。
ただ、なんとなく視線を浴びているような気はした。
でも気のせいかもしれない。
頭の端では気にしながらも、まるで何も気づいてない風を装っていつも通り元気に振る舞った。

ボートに乗って波を乗りこなしたり水を掛け合ったり意味もなくちゃぷちゃぷ浮かんだり。
トンネルを通した砂山が少し波に浸食されるのを見て潮の満ち引きを感じたり。
海の時間は穏やかであり忙しない。

気づけば真上から差し込んできていた真昼の太陽が少し夕方に近づいて黄色くなっていた。

「私もう浜辺はいいや。シャワー浴びてくるね」
「えーもう上がっちゃうのー?」
「さすがに疲れたよ。君らとは体力も違うんだから許して」
「ちぇーっ」

英二と言葉を交わしたのち、私は荷物一式を持って海の家のシャワールームを借りに行く。
水着を着たまま水を浴びると砂がありとあらゆる場所から落ちてきた。
あらかた流し終えたところで水着を脱いで、私服に着替える。
荷物は日陰に置いていたのに、今日の気温のせいで服は乾燥機から出したてみたいにあったかい。

髪……どうしようか迷ったけど、ほどいたらバサバサになるのはわかってる。
家に帰ったらおうちでもう一回お風呂に入る直すのは決まってる。
海水も砂も潮風も全部吸い込んでしまっているのは知っているけど
家に辿りつくまではこのままお団子の状態で封じ込めておくことにした。

さっぱりと体を拭いて待機所に戻ると、
初めてその場所で桃と遭遇した。

「あっ先輩、グラサン似合うっスね」
「でしょ?」

掛けていたサングラスを構えてモデルポーズを取った。
私服を着ている私の全身を見渡して「もう海入んないんスか?」と聞いてくるので
「もういいやー」と苦笑いを返す。
「もっと遊びましょうよー」って言うけど、
だから君たちは自分が男子で現役のバリバリ運動部でその中でも体力バカということを忘れているよ。

「オレはもうちょい泳いできます」
「行ってらっしゃ〜い」

ひらひらと手を振って、私はパラソルの下で体育座り。
日除けにも使いたいラッシュガードがびしょ濡れだから日に当てて乾かす。

さっきから距離は変わってないはずなのに、
海辺がなんだかすごく遠くに見える。

…なんだかちょっと眠くなってきた。
腕に顔を埋めて、うとうと……。

…………。



  * *



、もう帰るぞ」

秀が私の肩を揺する。
その後ろでみんなも荷物を持って立っている。

いつの間にか夕日が沈んでた。
空は暗いのにやたら熱い。
まだまだ残暑は続くのに、日はもうだいぶ短くなってるんだな。

「ごめん…寝ちゃってたみたい」
「早くしないと電車に間に合わないぞ」

秀はやたらと急かすようにそう言う。
だったらもう少し早く起こしてほしかった、
なんて文句を言う暇もなく私は出発の準備をする。

「あれ、私のラッシュガードは?」
「見てないぞ」
「えー風で飛ばされちゃったかな」

周囲を見渡すけど薄暗い砂浜が広がるばかりで何もない。
胸元に手を当てる。

「サングラスもない」
「ほら、早く行くぞ」

襟ぐりに引っかけたはずなのになくなっていた。
首回りには自分の髪が揺れるばかりで。
アレ、いつ髪ほどいたっけ。

なんか、変。

「なんか、変じゃない?」
「何がだ?」

いつの間にかみんながいない。
もう行っちゃった?
秀は置いていかないでよ、私のこと。

「おかしなこと言ってないで行くぞ」

そう言って秀は背中を向けて歩き始める。
追いかけたいのに足が上手に動かない。


「待って……秀!秀!」


いくら呼びかけても秀は足を止めてくれない。
まるで私の声なんて聞こえていないみたいに。

秀………。



  * *





ん……?

声を掛けられると同時に肩に手を置かれて意識を手に入れた。
ゆっくりと目を開ける。
まだまだ太陽が黄色い。
横には秀がいた。

「大丈夫か、うなされてたぞ」
「……いつの間にか寝てた」
「疲れたんだろ。だいぶはしゃいでたし」

秀もいつの間にか私服に着替えていた。
だいぶ傾いた太陽からの日差しは斜めに差し込んできていて、
パラソルの日陰に潜んでいたつもりだったのに私はすっかり日向の下にいた。
パリパリに乾いたラッシュガードに袖を通す。
ラッシュガード…。

「なんか…夢見た」
「どんな夢だ?」

………どんなだっけ。
起きる直前まではしっかり憶えてて、っていうか、
そっちが現実だと思い込むくらい鮮明だったのに。

…思い出せない。

「忘れちゃった」
「はは。夢ってそういうものだよな」

秀は穏やかに笑う。
なんだかその笑顔が懐かしく思えたのは、何故か。

「ちょっと散歩しないか」
「うん、いいよ」

日に当たる準備をするために私はラッシュガードをしっかり着込んでサングラスを掛けた。
秀は「いい場所を知ってるんだ」と言って微笑んだ。

その笑顔が陰を宿したように見えたのは、私の考えすぎなのか。

「それじゃあ、6時にここ集合な」

予定をそこにいた数名に周知して「行こう」と歩き出す秀の後ろに着いた。
太陽は黄色く傾いていて少しずつオレンジみを増していた。

「あっ見てみて大石とどっか行くよ、後着けちゃおー!」
「英二、やめておきな」

そんな会話が耳の端に聞こえた。
心の中で、ありがとう不二、と感謝しながら、
私は秀の背中だけを見て後を追った。

秀が声を掛けてきたら横に並ぼうと思ったけど、
何も言わないからそのまま1m後ろを歩き続けた。
ちゃんと着いてきているか確かめるように幾度かこちらを振り返る素振りを観測しながら、5分くらい歩いただろうか。

道が途切れて、岩場に差し掛かった。
足場が悪くてよろけながら前に進んでいると、秀が手を差し伸べてくれた。
その手を取った。

そうして更に1分ほど歩いただろうか。

「着いたよ」
「…わぁ!」

右から差し込むオレンジ色の光には気づいていたけれど、今初めてそちらを見た。

周囲に視界に入るものは何もない。
海と太陽と、遥か遠くの陸地のシルエットだけ。

「キレー……」
「時間も丁度良かったな」

太陽はキレイな橙色で、世界をセピア色に染めた。
秀がその場に腰掛けたので、
私もすぐ隣の座りやすそうな岩に腰を下ろした。

「そこに灯台があるだろ?あそこからだと夕日が水平線に沈むのが見えるんだ」

そう言って秀は斜め後ろにある高台の方を見た。
私はその灯台と海を見比べる。

「へー。太平洋側に住んでるとなかなか見る機会ないもんね」
「行ってみたかったか?」
「んー…」
「あそこはこの時間帯は人でごった返してるんだ」
「なるほどね」

ここにいるのは私たちだけで、
聞こえるのは打ち寄せては返す波の音のみ。

「こっちで良かった。ありがとね」

秀はにこりと笑い返してきて、海を見た。私も同じ方を見る。

会話はない。
二人で夕日だけを見つめる。
切り立った崖の陰に太陽が隠れるまで、そう長くは掛からないだろう。

「元々ここに来ようと思ってたんだ」

秀はぽつりとそう言った。
元々、の意味を考えて、それは今日に予定していたデートのことだと悟った。

「そうだったの?」
「ああ。まさかこんな形になるだなんてな。どこかいい海を知らないかって聞かれたからここを提案したのは俺なんだ」

そうなんだー…。
確かに良い場所だと思う。今日一日楽しかった。
想定していた形とは違っちゃったけど、結果的に私たちは今二人で海を見ている。

秀の横顔を見た。
夕日の方向を見つめる目元は眩しそうに細められていた。

そこで自分はサングラスをしていたことを思い出した。
本物のオレンジを見たくなってそれを外した。
眩しい。
あまり長くは直視していられないほどに。
秀はこんな太陽を見ていたのか。

ああ、景色がぼやけそうだ。

「今度は改めて二人だけで来たいな」

私がそう伝えると、秀は微笑んだ。
得意な八の字眉の笑顔。
でも、これは。

「(やっぱり……これはそういうことだ)」

頭の中ですらその言葉を明確に出したくなくて、うやむやにする。
だけど心構えはしないといけない。
その時がきっと近い。

秀は何も言わない。
チラッとケータイの時間を確認する。
5時51分。

「秀、もうすぐ時間じゃない?」
「…そうだな」

いつも時間には早め早め行動の秀が珍しい。
ここから集合場所まで歩いて5分はかかる。
待ち合わせまで10分切った。
私は立ち上がって、続いて秀も立ち上がった。
岩場から抜ける方向に体を向けかけた。



名前を呼ばれた瞬間、ドキッとした。
秀の方を見ると、悲しそうに眉尻が下がって、更に胸がギュッとなった。

イヤだ。
わかってしまう。
秀が何を言おうとしているのか。

「な、に……」
「…………」

オレンジ色がどんどん濃くなっていく。
黄色が橙色になってもうすぐ茶色で黒で暗闇になってしまいそうだ。
顔の片側だけが綺麗にオレンジ色だ。

「俺、ずっと考えてたんだけど」

オレンジに照らされた顔が、眩しく揺れる。
あまり直視はできそうにない。


「俺たち…今日別れるべきだと思うんだ」


………………あー……。

うん。

「知ってる」
「……知ってる、って」
「イヤだけど」

やっぱりだ。

そんな予感は察知していたんだ。

良かった、心構えを開始していて。

なんとか泣かずに済みそうだ。

だけど、全然上手に笑えない。


「わかってる。別れよ」


そう、私はわかってた。

私たちはそうそう簡単に会える距離ではなくなってしまうこと。
テニス部も引退してそろそろ受験戦争に駆り出される予定で区切り的には丁度いいってこと。
大石秀一郎は、大切だからこそ負担にはなりたくないって考え方をする人だってこと。
今日一日笑顔が晴れやかじゃないこと。
私が今後について話すと返事をせずに微笑んでたこと。
思い返せば、二人だけで会う予定を変えてきたことも。
それでも二人だけの時間を作ったことも。

秀は、いつからこのことを決めてたんだろう。

のことが嫌いになったわけじゃないんだ、ただ…」
「いいよ言い訳は」

少し語調が強くなった。秀は更に眉を顰めた。
強引に制してでも、私はそれ以上聞きたくなかったんだ。

「わかってるから…」

夕日の方を見た。
橙色に輝く太陽が岩場に差し込んでいくところだった。

ああ、なんて美しいのだろう。


「この景色を一緒に見られて良かったよ」


できる限りの笑顔でそう伝えた。
喉の奥が詰まって少し声が変になった気がした。

「(まずい、泣く)」

笑いたいのに、景色が歪む。

サングラスを掛けて隠そうとした。
その手を秀が止めた。
もう一方の手が私の肩に乗った。
顔が近付いてきて、唇同士が触れた。
決壊した。

口がゆっくり離されて、
耳のすぐ横でなければ聞き取れないほどの音量で
「ごめんな。今までありがとう」
と聞こえた。

苦しい。
辛い。
心構えなんてなんの意味もなかった。
それともそれがなければこんなでは済まなかったというのだろうか。
今でも限界くらいには悲しいっていうのに。

悲しいけど、大人になってもっと色んな経験積んだら、
あんな思い出もあったなって幸せに振り返れるのかな。
少なくとも今の私には受け止めきれないけど。

「う、うぅ〜〜……」
「………」

その場にうずくまる。
涙が止まらない。
秀は何も言わない。
時間だけが過ぎていく。

、そろそろ行かないと」
「……まだ無理」
「……わかった」

腕に顔を埋めたまま立ち上がれない私。
横で秀が電話を掛ける音がした。たぶん相手は部長。

「ごめん、ちょっと遠くまで来すぎちゃって…少し遅れる。ああ。ごめんな。
 うん、なるべく急ぐよ。じゃあ」

ピッという音がして電話が切れたのがわかった。
なるべく急ぐと伝えたくせに、秀は私を急かすようなことを一切しなかった。

日が陰ったのか少し肌寒くなってきた気がした。
しゃくり上げは落ち着いた。
もう大丈夫って言おうと思って顔を持ち上げたけど、
秀の顔を見た瞬間に溢れ出しそうで顔に力を込めた。

「行けるか?」
「……イケル」

その言葉だけなんとか返して立ち上がった。
秀が先に歩き出して、私が後ろを歩く。さっきみたいに。


夕日が沈んで、空は一気に夜に向かっていた。
西の空の端はまだ橙色の名残を残していたけれど、
上を見上げると星が出始めていた。

せっかく涙が収まるのを待ってもらったのに、
歩いているうちに何度も溢れかえってきた。

来たときと違って、秀は一度も振り返らない。
悲惨な泣き顔をこれ以上見られずに済んで良かった。
そもそも、私が鼻をすする音が定期的に聞こえたから
着いてきているかの確認が必要なかったのかもしれない。

「(みんなと合流するまでにはなんとかしないと)」

ズビビと鼻をすすって、今度こそ終わりだと決意して最後の涙を腕で拭った。




  **




「あー!大石に、おっそい!」

15分ほど遅れて集合場所に着くともちろん私たち以外は全員揃っていた。
英二がすぐさま秀に絡みにいって、秀は「悪い」と素直に謝った。
本当は私も謝るべき場面だけど、絶対に鼻声だから申し訳ないながらだんまりを決め込んだ。

たぶん、目も鼻も赤いんだろうけど、
あたりはすっかり暗くなっているのが救いだった。
きっと黙ってればみんな気付かない、よね。

ガヤガヤと歩き始める集団に紛れて私も最後尾を歩き始めると
「あ、俺の」とリョーマの声の直後に「はい」と私の頭に帽子が深く被せられた。
その犯人の顔を見上げると、慈愛に満ちた表情で不二が微笑んでいた。

「っ…!」

そのまま不二に抱きつきたかった。
大声を張り上げて泣きたかった。
だけど何をしたって状況は変わらない。


何事もなかったように駅に向かって、
電車に揺られて、
帰り際にリョーマに帽子を返して、
私は笑顔で手を振った。



「みんな、今までありがとう。元気でね!」



全国大会の2日後。

引っ越しの5日前。



中学3年、夏の終わり。

私は秀と別れた。
























え、こんなの泣くじゃん……?????????
これが誕生日アップでいいの?????(笑)

大石の元カノシリーズ、ついに大石編!
やっぱり大石編だからと気合い入れて取りかかって、
今カノの状態を前編、元カノになってからを後編と分けることにしました。
後編はハッピーサマーバレンタインデーにアップする予定です。
(これで、海堂編と乾編も終えてから大石編を最終回にできるw)

いやーーー大石さーーーホントそういうとこー…。
でも主人公以上に大石も色々悩んだんだろうねだって大石だもんね。。
でも大丈夫!後編はハッピーになる予定だから!!!
それに大石にフラれて辛くなるのもそれはそれで気持ち良いしな(?)

仮タイトル『グッバイ・サンセット』気に入っているのですが
後編書き終えたら全体のバランスで変更するかもしれないので仮で。
↑結局そのままにしました!(後日談 2021/08/14記)

総評:不二が良い人すぎる(笑)


2020/10/20-2021/03/19