暦の上で春を迎えてからひと月ほどが経った。気候自体も春に相応しいものになりつつある。長袖長ズボンのジャージを上下に羽織れば、湯冷めをすることもないほどの気温にはなっていた。大石はラケットを片手に屋外に出た。 昼間気になったフォームの確認だけのつもりだった。コートには向かわず、宿舎から少し逸れた広場へ移動する。すると、物陰からも姿を見つけやすい上背のある人物の姿を目の端に捉えた。首を上に傾け空を見上げているようだった。釣られるように見上げると、そこには見事な満月があった。 「越知先輩」 声を掛けると、振り返ったはものの返事は特になかった。かといって嫌がる素振りもない。大石はその横に並ぶように歩み寄った。 「今日は綺麗な満月ですね」 「…さして興味はない」 先ほどまで月を見上げていた張本人の口から「興味がない」という言葉が出てくることを大石は少しおかしく思ったが、それもまた越知先輩らしい、と思い何も言わずに頷いた。 もう一度月を見上げる。表面の模様までくっきり見える。越知も横で再び月を見上げた気配がした。無言の時間がしばし過ぎる。その沈黙を破るように、大石はぽつりと呟いた。 「俺、ムーンボレーっていう得意技があるんですけど」 越知から返事はなかったが、聞こえてはいるものと信じて大石は続けた。 「こうやって美しい月を見ていると、俺って全然だなって…もっとしっかりしないといけないなって思います」 返事が欲しかったわけではない、独り言のようなつぶやきであった。信頼のおける先輩に聞いてもらえる、それだけで良かったのだ。不安を吐き出すだけで心が少し軽くなるような気がした。 だけど予想外にも、言葉が聞こえた。 「お前はよくやっている」 それだけ残すと越知はその場を去って行った。どこへ向かうのかはわからない越知を、大石は追うことはしなかった。 月明かりに照らされているだけで、少し不安になって、大きな力が沸いてくる。「もっとやれることはあるはず」。そう噛みしめて、春の夜の空気を感じながらラケットを振った。 |