「わ、満月!」 お店に入った段階ではまだ西の空は薄暗かった。夕食を終えて建物を出るといつの間にかすっかり夜になっていて、その空の正面に真ん丸の月が煌々と輝いていた。 ふと頭に浮かんだフレーズに、私はちょっとした戯れを思いつく。 「ねっ秀、『月が綺麗ですね』って英語だとどういう意味かわかる?」 様子を伺うように笑顔で問いかける。これはかの有名な、夏目漱石が"I love you."を「月が綺麗ですね」と訳したという話から。私はあなたのことが好きですよっていう含みもある、愛らしさといじらしさを込めた問いかけ……のつもりだったんだけど。 「ああ、それ"I love you."を夏目漱石がそのように和訳したっていう逸話だろ?あれ、実は歪んで伝わってしまっているんだ。"I love you."を愛してると訳そうとしたお弟子さんに対して、日本人はそんな直接的な言葉を使わないから『月が綺麗ですね』のような一言で気持ちが伝わるものだ、と発言したという話が元なんだ。しかもその発言自体も伝聞的に伝わっている俗説で、夏目漱石が言ったということ自体も信憑性は低いしな」 「あ……そうなの」 秀のこういうとこは、ちょっとイヤ。文学好きでロマンチストなくせに、変なところでザ・理系男子みたいな思考をするんだもんだから。不満が募った私は、秀からは見えない角度で口を尖らせる。 (真実がどうとかそういうんじゃなくて、こんな夜空の下で好きな人に“月が綺麗ですね”とか言われてみたいじゃん) 私はそんなことを考えているけど、秀は私がそんなことを考えているとは思いもしない様子でスタスタ歩く。二人の靴が少しずれたペースで一歩一歩と進んでいくのを見つめながら私は考える。こんな日常会話ですらすれ違いを感じることがあるっていうのに、“好き”とか“愛”とかいった言葉を使わずに想いなんて本当に伝わるものなのだろうか?って。 「それより、星が綺麗だぞ」 こっちは月の話をしてるのに、相変わらず秀は星に夢中。私の気持ちなど知りもしない様子で嬉しそうに首を持ち上げた横顔には、普段とは違った無邪気な一面が垣間見える。 「月明かりが眩しいから暗い星は見えないけど、星座を見るにはもってこいの天気だな」 「私オリオン座くらいしかわかんないよ」 「そのすぐ上におうし座もよく見えてるぞ」 「えー、どれー?」 嘆く私に、しょうがないなぁと言う困り笑いで秀は歩みを止める。私も立ち止まると、背中の後ろを通って右肩に手が掛けられた。その手に顔を向けるとすぐに「ほら」と左耳に声が聞こえて、見ると私の身長に合わせて膝をかがめた秀が嬉しそうに夜空を指差していた。 「あそこの赤っぽい星が目で、二本伸びてるのが角」 「あーなるほどねー、見えた見えた」 「それで首元のあたりに星の固まりが見えるだろ。あれがプレアデス星団、通称すばる」 「えっ、すばるっておうし座の中にあったんだ」 元々そんなに星に興味があるわけではないけれど、こうして見上げてみると純粋に綺麗だなと思うし、話を聞きながら見上げると色々わかって面白い。冬の冷たいキンとした空気の中で瞬く様子を見上げていると、星に興味を抱く気持ちが少しだけわかったような気がした。 「な? 星も綺麗だろ」 秀は私の肩を抱いたままに真っ直ぐに立ち直っていた。高低差約二十センチの顔を見上げる。優しく微笑むその笑顔の後ろには、月も、星も、綺麗に光ってて――……。 「もう……秀のそういうとこ、本当にイヤ……」 「えっ、どうしてだ!?」 うろたえて肩の手を外す秀と、真っ赤な顔を両手で覆う私。 イヤになる。そんなに優しい目線で私を見つめるんだもんな。これだから、私は秀を好きな気持ちを消せない……し、秀も私のことを好きで居てくれてるのかなって感じてしまって、それが嬉しくて嬉しくて悔しい。 (愛してる、なんて。確かに日常で使うことなんてないけど) もしも私が英語を使う人だったら、今の気持ちが"I love you."なのかもしれない、なんて私らしくもないことを考えながら、隣で嬉しそうに空を見上げる人物の手をそっと握った。 |