* 二人で星を見上げる夜に *












一月の第二月曜日。
この話の始まりは成人の日。

同級生の中では誕生日が比較的早い俺にとっては、
二十歳を迎えた瞬間というのは遠い過去のことであった。
しかし共に勉学に励み青春を共有してきた友人たちと
この良き日に改めて成人したことを祝えるというのは、感慨深いものである。
そして何より、この日まで自分を育ててくれた両親に感謝を伝えたい。

「ただいま」
「おかえりなさい秀一郎」

自宅のドアをくぐると、母さんが出迎えてくれた。

「どうだった」
「青二小のときの友達に何人か会ったよ。みんな元気そうだった」
「あら懐かしい。それは良かったわね」

母さんはまじまじと俺の顔を見て目を細めると「本当に立派になったわね」と言った。
逆に、俺には母さんが前よりも小さくなったように感じた。

「二十年も生きてきたんだなって改めて考えてしまったよ。
 色々なことがあったなって」
「そう?母さんからしたら生まれてきたのがついこの間のようにも感じるけどね」

そう笑う母さんに、頭を下げた。

「本当に。今までありがとう。そして、これからも宜しくお願いします」

再び顔を上げると母さんは指で目の端を拭っていた。

「それ、お父さんにも伝えてあげて」
「…そうだね」

これまでの会話はきっと居間にいる父さんにも聞こえてはいたと思う。
廊下から一歩踏み込んで「父さん、ありがとう」とだけ言った。
「ああ」と簡素な返事が返ってきた。
あまり多くは語らない父ではあったが、
きっと想いは伝わっているだろう、と信じた。

「夕ご飯はどうするの」
「それが、青学の子たちから同窓会をしないかって連絡があって」
「あら青学も懐かしいわね。行くんでしょ」
「うん、そうしようかなって」

そして、一旦部屋に戻ってスーツから私服に着替えた俺は
二時間ほど休憩をして再び出かけることになるのである。
「遅くなっていいからね」と微笑む母さんに
「行ってきます」とだけ告げて家を出た。



  **



小、中、高、大と別の学校に通ってきた俺ではあるが、
その中で同窓会をやろうと連絡があったのが中学生のときに通った青学のメンバーからであった。
私立の一貫校に進んだ者にとっては、地元よりも学校の友達と集まりたいというのは理解できる。
なお俺は他の集まりのメンバーからは連絡がなかったので選択肢はなかった。

青学…卒業してから六年も経つが、みんな俺のことは憶えているだろうか。
高校のクラスとかで固まられてしまったら、輪に入るのは難しいんじゃないか。
テニス部のメンバーは出席しているのか…。

同窓会がどのような雰囲気になるか少しの不安も抱えながら到着したが、
それらは取り越し苦労の杞憂となった。

みんな、久しぶり!と声を掛けてくれたし、気兼ねなく輪に入れてくれた。
中には初対面で話した人たちもいたが、
体育祭や文化祭などのイベントだったり各教科の先生たちだったり、
共通の話題で楽しく盛り上がることができた。

そう言えば、こういう奴らだったな。
自由を尊重する青学の校風を思い出して懐かしい気持ちになった。

テニス部のメンバーとも顔を合わせたが
彼らとは度々集まっているから、今日はなるべく他のメンバーと話すことにした。

後半になって中三のときの同じクラスだったメンバーが自然と集まった。
合唱コンクールの打ち上げでファミレスに行ったことなんかが懐かしい。
こうして一緒にお酒を飲み交わせるようになるなんてな。

「さあ飲んで飲んで!」

陽気な声が聞こえてきて、斜め向かいの席を見る。
だった。
彼女が輪の中心にいるだけでその場の雰囲気がぱっと明るくなっていたのは憶えている。
年をとっても変わらないものだな、と思った。
男女分け隔てなく仲が良いのも相変わらずなようだ。

お酒を強要するような動きだったら止めなければいけないか、と思ったが
勧め合いながら楽しく飲んでいる様子だったのでそのまま見過ごすことにした。

それにしても、だいぶ強いお酒を飲んでいるようだけれど、大丈夫だろうか。
店員さんが席の方に来るたびにウイスキーや焼酎を頼む姿を視界の端で気にしていたが、
そんなことも忘れるくらい飲み会が盛り上がっている最中、時間切れとなってこの会は終了となった。



お店を出ると「帰る人は自由解散な。二次会行く奴らは行こうぜー」という声が聞こえた。
俺はだいぶ満足したしいいかな、という思いと、
たまにしか集まれないメンバーだから…という思いが交錯する。
「遅くなっていいからね」という母さんの言葉もちらりと頭をよぎる。

元クラスメイトたちはどうするのだろう、と様子を伺ったら。

「家遠いので帰りまーす!ホントはまだ飲み足りないけど」

は元気に手を上げるとそう言った。
は二次会に行かないのか、そうか…。

まあ、だいぶ飲んでいたみたいだしな。
本人は飲み足りないと言っているけれど…。
というかちゃんと帰れるのだろうか、と疑うレベルには飲んでいたように見えた。
正常な判断力を失っているわけではないといいが。

結局、自然と俺は帰る組に紛れ込んで駅まで来ていた。

「こっち方面の人〜?」

がホーム行きの看板を指差す。
都心から離れる方面の電車だ。
他にそちらに行く人は……いない様子。

、結構飲んでたよな。
家遠いって言ってた。
寝過ごさないか。
気分が悪くなるとか。
女子一人で大丈夫だろうか。
……。

『遅くなっていいからね』

と、再び母さんの笑顔が目に浮かぶ。
……。

「あ、俺も!」

思い切って名乗り出てしまった。
そして、と二人で家から逆方面の電車に乗り込んだ。



そこから長時間二人で電車に揺られることになるわけだが、
話が途切れることはなかった。

同じクラスだった頃、とは特別仲が良いわけではなかったけど、
話しかけるといつだって気さくに対応してくれた。
それは六年経った今でも変わっていなかった。

電車に乗ってもうすぐ一時間というタイミングで、もうすぐの最寄り駅だということがわかった。

俺の懸念は完全な的外れで、は口調も足取りもしっかりしていて
体調が悪そうという様子も微塵も見せなかった。
あんなに飲んでいたのに…どうやら本当に強いみたいだ。

余計な気を遣わせるのも申し訳ない。
が下車したらその次の駅で降りて折り返そう、と思っていたのに。

「大石ってどこ駅?」

屈託のない笑顔で聞かれてしまう。

「えーっと、どこだったかな…」
「あ、ごめん。答えたくないならいいんだけど」
「いや、そうじゃないんだ!」
「ふーん?じゃあどこ?」

彼女の純真な心が痛い。
本当のことを言うのは申し訳ない。
しかしそれ以上に嘘をつくのも忍びない。
俺は結局真実を告げる。

彼女がその駅を知らないことを祈るしかなかった。
しかし、都心に程近く、青学があった駅からもそう離れていないその駅名を
もちろん彼女も知らないはずがなかった。

「逆方面じゃん!っていうか飲み会会場のすぐ近くじゃん!何やってんの!」

何やってんの。
本当にその通りであろう、彼女からしてみれば。
気を遣わせるのは申し訳ないけれど、
意味もなく着いてきてしまったと誤解されて恐怖心を与えるわけにもいかない。
結局、本当のことを伝えることになる。

「いやその…かなり飲んでたみたいだからちょっと心配で…。
 でもこの様子だと大丈夫そうだったな。ごめん、お節介で」

反応が非常に不安になったが、
「ううん、ありがとう気遣ってくれて」
とお礼の言葉を伝えてくれた。
更には、思いがけず「ここまで来た縁だしさ、ついでにうちまで着いてきてくんない?」とお願いされた。
聞くと、帰り道は街灯が少なくて暗いのだという。

きっと俺に恥をかかせまいと気を遣ってくれたのだろうとも思う。
でも、役に立てることが純粋に嬉しかった。
俺はその申し出を喜んで引き受けた。



  **



電車を降りると確かに辺りは暗かった。
改札は一つしかないような小さな駅だった。
駅前のロータリーにタクシーが一台。
コンビニが一軒ぽつんと立っているくらいで、駅前の明かりは少ない。
確かに、これは女子一人で帰るのは少々不安を覚えるものかもしれない。
が「こっち」と指差す方向に俺も足を向けた。

その道のりは、暗いだけでなく静かであった。
キャリーケースが地面を転がる音が住宅街の道路に響いた。
都会であれば誰も気にしなさそうな音量である。
だけど、俺たちが口を閉じている限り、他に音というものが聞こえてこない。
それほどに静寂に包まれている場所だ。
心なしか空気が澄んでいるような気もした。

「本当に暗いんだな」と声を掛けると「そうなんだよね」とは苦笑いを見せた。
そして、
「それが気に入った理由でもあるんだけど」
と言った。
気に入った?

どういうことだろうと聞いてみると、
はにこりと笑って「上、見て」と言った。
これまで相手の姿と前に伸びる道のりにしか目を向けていなかった俺は
言われるがままに首を上に持ち上げる。

―――あまりの絶景に息を呑んだ。

「これは……すごいな」
「ね、でしょ?」

吸い込まれるようだった。
自分の体が宙に浮くような錯覚さえあった。
暗くて、視界が広くて、静かで。
自分の視界だけが世界の全てのように感じられ、
瞬く光に心を奪われた。

そこには見事な星空が広がっていた。

「私さ、大学進学をきっかけに一人暮らしを始めることにしたんだけど。
 駅の近くは値段高めだし良い部屋は埋まっちゃっててさ、
 予算内で広めの部屋探したらどうしても駅から離れちゃって」

の語りをBGMにして、再び視線を上に向ける。
何も変わりはしないのに、ずっと見ていたい。
それほどに美しい星たちがそこにあった。

「私、星を見るのが好きなんだ」

はそう言った。
自分自身も星が好きである俺は意外な共通点に心が湧いた。

「内見に来たときこの星空見て惚れ込んじゃってさ。
 この星が見られるんなら、駅から多少遠くてもいいなって」
「確かに…見事だな」
「でしょ!」

なかなかあることではないと思う。
俺自身が星の観察を趣味としているからわかる。
周りの人間はなかなか星に興味を抱いていないということを。
いつでもそこにあるのが当たり前だからこそ着目せずに毎日が過ぎてしまう。
特に都会で生きていると辺りは明るいし空は狭いし、
わざわざ着目しようという気が失せてしまう気がわからなくもない。

それをは、わざわざ選んだのだ、ここを。
この星空を見るために。

「(明るく元気で、気さくで、感性が豊かで、趣味も合って……)」

もっと、この子と一緒に居たい。
その思いが胸に芽生えた瞬間だった。

心なしか鼓動が早くなったのをごまかすように、忠告をする。

「でも、女の子一人でこの暗さはやっぱり不安だな。
 上ばっか見てないで周囲にも注意を払うんだぞ?」
「あはは、リョーカイ。ありがと」

俺の言葉に対して、は楽しそうに笑った。
本当にわかっているのだろうか…という不安もよぎったが、
特に危機感を抱く必要性を感じていないからこの態度なのだろうと思った。
きっと、治安がよくて平和な街なのだろう。

「実は俺も天体観測が趣味なんだ」。
「いつか俺もこんな風に星空が綺麗に見られる場所に住んでみたいよ」。
俺の言葉に、は嬉しそうに笑った。

普段暮らしている場所から一時間もしないような土地で、
こんなに美しい夜空に触れられるのだ…と思った。

いつかこんな場所に住んでいみたい。
その横に君が居てくれたら、どんなに良いだろうか。

うっかり妄想が浮かび始めそうになるのを、の言葉が遮った。

「ごめんね、逆方向乗ってもらった上にこんなとこまで来てもらって。
 大石の帰り遅くなっちゃったね?」

そう言うは、先程までの笑顔を申し訳なさそうな表情に変えていた
俺の「こんな場所」と言う言葉が、「田舎」という風に取られたのだろうか。
そうであったとしたら、寧ろこちらが申し訳ない。
俺が勝手に着いてきたんだし、が申し訳なく思うことは何もない。

「いや、を安全に家まで送り届けられて良かったよ」

これが本心であった。
少なくともさっきまでは。

しかし今、俺の本心は。

「(あわよくば、もうちょっと一緒に居たいな、なんて)」

伝えたら引かれてしまうだろうか…。
それはそうだ。
今日六年ぶりに再会した、ただの元クラスメイトだ。

「じゃあ私の家、そこだから」

十五分ほど歩いただろうか。
は足を止めると、腕を伸ばして少し離れた家を指し示した。



名前を呼び掛けた俺の顔を、は不思議そうに見てきた。

「ちょっと休憩したいから家に上げてくれないか」。
「もう終電なくなってしまったから泊めてくれないか」。
俺がそう伝えることによって迎えることになるあらゆる展開を頭に思い描き……。

「戸締まりはしっかりするんだぞ」

……それしか言えなかった。
意気地なしと言われてしまえばそれまでかもしれない。
しかし、俺のつまらない衝動でを驚かせたり傷つかせることは避けることができた。
自分の理性に感謝する。

俺がそんなことを考えているとも知らない
「ありがと」と笑顔で返してくれた。
わずかな罪悪感を抱きながら、背を向けて元来た道を帰ることになった。



二人で話していた行きの時間はあっという間に過ぎたが、
帰りの道のりはかなり長く感じられた。
駅までも、電車に乗ってからも。
窓の外の景色に光の密度が少しずつ増していくのを見ながら、
実際、随分遠くにきていたんだな、と思った。

先程見た星空を思い起こすと胸が高まった。

「(あれが、が暮らす街)」

また今度、デートに誘ってみてはダメだろうか。
いや、そもそも、にもう恋人がいるかもしれないじゃないか。
あんなに素敵な人なんだ、いてもおかしくない…いや、
いないほうがおかしいとも言える。

念のため、先程電車の中で交換した連絡先が
しっかり保存されていることを確認してスマホの画面を閉じた。



  **



一晩明けると、通り過ぎた非日常を思い返すような余裕さえなくなった。
あの出来事は夢だったのではないだろうか。
そう感じられるような忙しい日々が待っていた。

どこにいても、車が通る音、電車が過ぎる音、人の話し声、足音…
何らかの音が聞こえてくる。
店の看板は眩しく、街灯の間隔は狭い。
高層マンションの各部屋にはカーテン越しの明かりが漏れている。

空を見上げる。
息を止めていないと、自分の吐息で星が見えなくなってしまいそうだった。

「(今夜はとても星が綺麗だ、けれど)」

普段の俺だったら満足していた星空だったかもしれない。
だけど、先日あれほど見事な星空を見てしまっただけに。

あの夜に見た、漆黒に包まれた閑寂から見る輝きが、俺の胸を支配していた。



成人の日から、もうすぐ一週間。
もまた、日常に戻っているだろう。
彼女らしく、日々明るく過ごして、
あの日一日、ほんの数時間共に過ごした俺のことなんか
すっかり忘れているのだろう…。
そう思っていたのに。

「(……え!?)」

のことを考えていたまさにそのときに、から着信があった。

何故。
確かに連絡先は交換したが、正直なところ本当に活用されるとはあまり思っていなかった。

どうしよう。
もしから、デートしないかなんて誘われてしまったら!?

…いや、それはさすがに都合の良すぎる妄想か。
クラスでの同窓会をやろうという誘いとか、そういうことだろう。

そう考えて深呼吸をして、通話ボタンを押した。

「もしもし。?」

平常心を装って一言目を発する。
しかし、返ってきた返事は想像を逸脱していて。

「大石…助けて」

の声は震えていた。
どうやら泣いているようだ。

!?どうしたんだ!?」
「こわ、怖くて…」

怖い?
何か危険にさらされているというのか!?

思わず色々問い詰めてしまいそうであったが、
これ以上怖がらせるわけにはいかない。
落ち着いてもらわないと。
そのためには、まず俺が落ち着かないと。

大きく深呼吸をして、なるべく優しい声色を意識して話を続けた。

「落ち着いて話してくれ。今、どこに居る?」
「家の、最寄り駅…」

家の最寄り駅。
この前一緒に降りた、あの駅だ。

「誰か近くにいるのか?」
「一人…」
「そうか」

我ながら馬鹿な質問だと思った。
誰かと一緒にいるならわざわざ俺に電話などするはずがない。
状況が全くつかめない。

「何か、あったのか?」

このままでは状況が改善しない。
にとっては辛いことかもしれないが意を決して聞いた。

「この前、帰り道、歩いてたら……っ」

そこまで言って、は言葉を途絶えさせた。
代わりに嗚咽が聞こえてくる。
この前。帰り道。歩いてたら。
何か、相当怖い思いをしたのだろう。
今、一人で歩き出すことができなくなってしまうほどの。

「ごめん、無理に話さなくていいぞ」

受話器の向こうからは、の嗚咽とうめき声が聞こえてきた。
気付いたら俺の体は勝手に動き出していた。
幸い、駅の近くに居た。
改札を通り抜けて、ホームに向かう。

。俺が今からそこに向かったら、助けられるのか?」

階段を駆け上がりながら耳を澄ませると、
聞き取るのがギリギリなほどの「ありがとう」の声が聞こえてきた。

「わかった。すぐ行くから。すぐと言っても…一時間近く掛かってしまうけど。大丈夫か」
「ん…」

一刻も早く向かいたい。
君の元まで走っていきたい。
だけどそんなことをしても意味がない。
今は電車が来るのを待つしかできない。
電車が到着するまではあと数分。もどかしい。

「近くに待てるような明るい場所はあるか?」
「今、駅で、ここは明るい…あと、近くにコンビニ」
「コンビニか…そこが良さそうだな。
 すぐ向かうから、そこで待っててくれ。動くなよ、絶対だぞ!」
「わか、った」

の声はずっと震えていた。
相当怖い思いをしたようだ。
そのとき、電車が到着する旨のアナウンスが流れた。

「電車に乗るから電話切るけど、何かあったらすぐ掛けてくれていいから」

返事は聞こえて来なかったけれど、聞こえていると信じて通話を切り、電車に乗り込んだ。

席は空いていたが、走り出したい衝動を抑えられずに座ることができなかった。
すぐさま路線情報を調べて、到着予定時刻を調べる。
今から丁度一時間後の時刻だった。
電車が止まるような事故がないことを祈るしかできない。

『コンビニには入れたか?
 今のところ22:13着の予定だ。』

メッセージを送信した。
気になってしまい数秒おきに画面を確認したが、なかなか既読にならない。
他の乗客の迷惑になるかもしれないが、緊急事態だ。電話を掛けようか。

そう思っているうちに、既読のマークが付いた。
それに関しては安心したが、心は全然休まらない。
イライラしてしまって無意味に車両を何度も変えた。

「(一時間も、あの状態のを待たせるのか…)」

もっと早く着ける方法はないかと途中からタクシーを使う方法なども調べたが、
今乗っている電車に乗り続けるのがどうしても最速なようだった。

少しでもの気が紛れれば、とメッセージのやり取りをした。
定期的に返事がくることで、が無事であるということを確認できた。

を落ち着かせるため、と言いながら
そうしていないと俺の気がおかしくなりそうだった。
幸い、メッセージのやり取りは順調に続いていた。
しかし、残り数駅というところで返事が来なくなる。

、無事なんだよな?

返事を忘れているだけかもしれない。
やり取りに飽きてしまっただけかもしれない。
丁度何かをしているのかもしれない。
かもしれない。
可能性だけで言えば、今、何か危ない目に晒されているのかもしれない。

「(……クソッ)」

なんで俺は今あの子のすぐそばにいてやれてないんだ。
胸がはちきれそうだった。



電車がホームに到着するなり、真っ先に車両を飛び出した。
階段を駆け下りて、改札を通り抜ける。
一軒しかない駅前のコンビニに、一目散に飛び込む。
イートインスペースに、俯いた女性が。

!」
「イヤアッ!!」

一刻も早く無事を確認したくて、肩を掴んで振り向かせようとした肩が竦んだ。
落ち着け、俺は何をしているんだ。
俺がを怖がらせてどうする。

驚かせてごめんと謝ると、は首を横に振ったが、
表情は強張りとめどなく涙が溢れていた。

、何故。
何があったんだ。
どうしてこんなことに。
この前まであんなに楽しそうに笑っていた君が、何故。

「どうかされましたか?」
「あっ、すみません、大丈夫です」

俺たちの様子を不審に思ったのか店員さんまでもが様子を確認しにきた。
思わず声を張り上げてしまっていたことを反省する。
落ち着け。俺が取り乱してどうする。
を落ち着かせるんだ。

俺たち以外にイートインスペースに人はいなかった。
俺はの隣に着席した。

まずは身の無事を確認できて良かった。
何があったのかわからないが、聞き出すまでもないだろう。
予想できる内容としては、夜道で変質者にでもあったか、
優しさを装って送ってくれた男に何かされそうになったか…そんなところだろう。

やっぱり危険だったんだ。
どうしてあのときもっと強く注意しておかなかったんだ。
防げた事故だったんじゃないのか…。
後悔の念に襲われる。

このあと、どうしようか。
とりあえず家まで送り届けてあげたい。
呼吸が落ち着いてきた様子を確認して声を掛けた。

「とりあえず家まで送っていくよ。歩けるか?」

は何も言わずに、ゆっくりと立ち上がった。
数歩前に進むと、小声で「大丈夫」と言った。
しかしその足取りはだいぶ不安なものだった。
できればタクシーに乗せてあげたいと思ったが、あいにく出払ってしまっているようだった。
すっかりバスも終わっているような時間だ。
タクシーの利用者は思いの外多いのかもしれない。
呼べば来てくれるものだろうか…。

は「大丈夫、歩ける」と言い歩き始めた。
しかし一歩一歩は小さく弱々しかった。
この前家まで送り届けた距離を考えると三十分近くかかってしまうのではないだろうか…。

不安ではあったが、の意思を尊重することにした。
二人肩を並べてこの前も歩いた道のりを進み始めた。
何か話題を振った方が良いかと思ったが、
話など聞ける状態でもないと思ってやめた。
余計な気を遣わせたくない。

の体は線が細くて、その気になれば簡単に持ち上げられそうだった。
いざとなったら抱きかかえるなり、どうにもでもなるだろう。
は嫌かもしれないけれど…。

「(は、嫌かもしれないけれど)」

本音を言うと、俺は触れたかった。
震える肩を抱き寄せてあげたい。
正面から抱き締めてあげたい。
手を握って、身を寄せて、その瞳を見つめて。

「(何を、考えているんだ俺は。こんなときに)」

頭を横に何度か揺すった。
この緊急事態で、は苦しんでいるというのに、
欲望にまみれた考えが浮かぶ自分が嫌になる。

だけど俺の心は正直で、弱々しく震えるその姿を見ていると
触れたい衝動が湧き上がって治まらなかった。
それは「守りたい」という建前を通り越して、君を傷つけてしまいそうな。

……
これだけは許してほしい。



涙に濡れた瞳が、俺を見上げる。

「触れても、大丈夫かな」

目線を外さないまま、こくんと頷かれた。
様子を伺いながら、背中の後ろに腕を伸ばした。
これは、俺が触れたいから触れるのではない。
不安定な足取りで歩いているのを支えずにはいられないんだ。
これだけは本当だった。

そっと肩を掴んだ。
先程のように怯えられなかったことに安堵した。
しかしその肩は細くて、弱々しかった。
力を込めたら壊してしまいそうで怖かった。
だけど、しっかりと掴んでいないと崩れ去ってしまうような気もした。
あまりに不安定だった。

「やっぱり、女性一人でこの道は危ないよ。
 遅くなるときは誰かに送り迎えしてもらったほうがいいかもな」
「ん……そだね」

久しぶりにの声が聞けた。
話せる状態になったみたいでひとまず安心した。
今ならば、問いかけに答えてくれるだろうか。

は、今は恋人とかはいないのかい」

自分から問いかけたものの、返事が怖くて胸が騒いだ。

ごく自然な質問だ。
送り迎えをしてくれるような存在はいないのかという確認だ。

ただ、その返答に淡い期待をしたのも事実で。

「……いたら大石のこと呼ばない」

に恋人は、いないんだ。良かった。
だけど喜ぶわけにもいかない。
笑みを噛み殺して「それはそうだな」と返した。

この流れであれば、自然に名乗り出ることができるだろうか。

…俺で良ければ、送り迎えさせてくれないか?」

今日のようなことがまたあってほしくない。
怖い思いをしてから駆けつけたのでは遅すぎる。
さえ迷惑でなければ、俺は喜んでその役を買って出たい。

しかしは、眉を顰めて「なんで?」と問う。
やはり、駄目だろうか。

「いやその、あくまで迷惑じゃなければ…なんだけど…」
「だって、大石、家遠いじゃん」

それはそうだ。
現に今日だって到着までに一時間もかかった。
いつもそれではも困る。
だけど、送り迎えをすると元々決めていれば。

「そうだけど、遅くなるって予めわかっていれば今日みたいに待たせることはないし」

俺はそう伝えたけれど、は眉をしかめて俺の顔を睨む。

これは、警戒されている…?
それもそうか。
からしたら俺は下心を持って近寄ってくる男そのものじゃないか。

「ごめん、忘れてくれ」

焦って取り消した。
は何も言わずに下を向いた。

……伝えようか。
「君のことが好きだ」、と。
正式に、俺が君の恋人になれれば、
君を守ってあげられる。
確認なんてとらずに触れることもできる。
暗くて静かな帰り道を幸せな時間にきっと変えられる。

だけど弱みに付け込むようになってしまうだろうか。
今の君に、なんと言ってあげれば良いのかわからない。

考え込む俺の顔を、がふいに見上げてきた。
肩を抱いた状態だったので、顔は三十センチと離れていなかった。
ドキンと胸が高鳴った。
そんなことに気づかれないように平然を装って、「ん、どうした?」と問う。

の瞳は揺れていた。
俺の顔ではない。そのもっと遠くを見ている。

「大石……星」
「え?」
「星が、綺麗だ」

が見ているであろう、背後の空を振り返った。
この前と同じくらい、いや、この前よりも更に鮮明な星空がそこにはあった。
今日の空は冬らしい雲ひとつ無い快晴だった。
それは夜になっても変わっていなかった。
キラキラと光るの目は、この星空を反射していたのだとわかった。

は漏らすように「良かったー…」と言った。

「ん?」
「星、あったんだね……見る余裕もなかったんだって、今気付いた」
「……そうなのか」

余程怖い思いをしたのだろうと想像できた。
胸が痛んだ。

「ありがとね、大石」
「いや、俺は何も」

そうやって笑い返しながら、
俺は頭の中でシミュレーションを開始する。


好きだ。
付き合ってほしい。
俺の恋人になってくれないか。

ドクンドクンと、心臓の音が頭まで響く。

伝えたい。
伝えていいのだろうか。
にその気がなかったら、
ただただ迷惑を掛けるだけじゃないか…?

溢れ出す衝動を理性が邪魔をする。
でもいいんだそれで。
を驚かせたり傷つかせることを避けられるから。

……本当に?
本当は、意気地がないだけではなくて?

心配だからと都合の良いことを言って、
このまま君の家に上がって、
震える体を抱き寄せる、そんな想像が思考を支配する。

「(何を考えているんだ…!)」

俺は悪い男だ。
相手を気遣った行動と見せかけて
本当は、頭の中では邪なことばかりを考えている。
こんな俺に、君の恋人になる資格なんてあるのだろうか…。

「この辺だったよな」

無言で歩いているうちに、先日別れた場所にたどり着いた。
俺の役目は、ここまでだ。

「あ、うん。その白い家」
「いいアパートだな」

の返事に対して人並なコメントしかできない。
頭の中では別のことしか考えられない。


俺はこの手を離したら
次に君に触れることができるのはいつだろう。
また触れることはできるのだろうか。

「(本当は、この手を離したくない。もっとずっと君と居たい……)」

その思いを振り切って、肩から手を離した。
俺たちはあまりに簡単に切り離された。
ここまでだ。

「それじゃあ、戸締まりはしっかりするんだぞ。
 あと明日以降も、夜遅くなるときは誰かと一緒に帰るようにな」

は無言で頷いた。
それを確認して俺も頷いた。
それ以上は、ない。

これでいいんだ。
を守ることができた。
傷つけずに済んだ。

「それじゃあ」

本当はその場に留まりたい思いを押し留めて踵を返した。
そして一歩を踏み出そうとしたのに、後ろから力が加わった。

が俺のコートの袖部分を掴んでいた。

「…?」
「うち、窓から見える星もキレイなんだ」

、何を言っているんだ。
そんな震えた体で。
星?

「良かったら上がっていかない?」

これは……さすがに誘われている。
そう考えた方が自然だろう。
普通だったらそうだろう。
俺には断る理由なんてない。
待ち望んでいた展開だ。

でも落ち着け。本当にそうか?
今のは平常心ではない。
考えろ。どうしてこんなことを言ってきたか。

……簡単なことだった。
これは、誰かと一緒に居たいだけだ。
俺を男として認識しての言葉ではない。

俺はこれを承諾するわけにはいかない。
本当は断りたいはずはないけれど。

……ごめん、それは出来ないよ」

大きく深呼吸をして、の肩を掴んだ。

「きっと一人になるのが不安なんだろうけど」

が見上げてきているのがわかるが、俺は顔を上げられない。
目を合わせる勇気がない。
目を合わせたら、理性を保てる勇気が。

「俺が君の家に上がることで…安心していいからって言い切る自信がない」

こんな言い方をしたら、軽蔑されるだろうか。
でも許してくれ。俺は君を守りたいんだ。
俺を信用してくれている君を、裏切るわけにはいかない。

「本当に申し訳ないけれど」

そこまで伝えて、ゆっくりと顔を持ち上げて前を見た。
はまっすぐに俺の目を見てきていた。
肩に乗せた手を、そのまま引き寄せたい衝動に駆られた。
だけどそれは出来ない。

「…意味、わかるかな」
「わかるよ」
「じゃあ…」

の瞳が揺れた。
さっき星空を見上げたときのように。
だけど間違いなく、その瞳は俺を捕らえていた。

「お願い、上がっていって」

恐怖に怯えた表情では、ない。
街灯と星明かりだけに薄暗く照らされたその顔、
目、頬、唇が、心なしか熱を帯びた色味に染まったように見えた。

これはただの都合の良い解釈か?
確かめても、いいだろうか。

「……わかった。その前に、一つだけ確認させてくれ」

コートの裾から覗く細い指を掴んだ。
振り払われない。

「俺を、君の恋人にしてくれるのかい」

の首は、縦に大きく揺れた。

その体を強く抱き締めた。
そしてその星空の下で、俺たちは引き合うようにキスをした。
顔を離すとの瞳は涙で滲んでいた。
そして、幸せそうにわずかに目元を細めた。



そのまま俺はの部屋に通された。
は電気を点けないまま俺の手を引いた。
荷物もコートも何もかもベッドの周りに散らかしながら
俺たちは冷えた体を温めあった。

相手の姿もほとんど見えない暗闇の中でお互いを求め合い、
一つ一つ、確かめるようにその行為は進んだ。

大切に、傷つけないようにしたいのに、
愛情が増すほど壊してしまいそうで怖かった。
「大丈夫か?」以外に掛ける言葉も見つけられない俺に対して
は一言「幸せだよ」と言った。


  **


体を抱き締めて眠ろうとする俺の腕を抜けると
はおもむろに体を起こした。
そして、カーテンを引く。

「ほら見て、星」

促されるがままに体を起こして同じ方向を見る。
窓の外には満点の星空が広がっていた。
君がこの街に住みたいと感じた理由がよくわかった気がした。

「あの夜から、また一緒に星を見たいと思っていたんだ」

そう伝えると、星明かりに仄かに照らされた顔は嬉しそうに笑った。


『これからもずっと一緒に星を見たい』。
横の笑顔を見ながらそう思った。






―――それから数年の月日が流れ。





「秀一郎、お待たせ」

改札を真っ先に通り抜けてきたに声を掛けられ
俺は読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。

「いつもわざわざありがとね」
「いいよ、俺が来たくて来てるんだから」

かの事件から時も経って、はすっかり一人で夜道を歩けるようになった。
だけど習慣が如く、帰りが遅くなるときは俺は駅まで迎えに行くと決めている。
「もう大丈夫だよ、過保護だなぁ」とは笑うけれど、
どうにも心配性な俺は、迎えに行けるときは行かないと落ち着かないのだ。

それに何より。

「今日は四等星までよく見えるぞ」
「やったー!」

そう。
俺は、駅からの帰り道にと一緒に星を眺めるのが楽しみになっていた。
特にこんな寒い日は、空気はより一層澄んでいる。

駅を出てすぐは目が明かりに慣れていて星は見づらい。
しかし雑談をしながら歩いているうちに見える星の数が増えてくる。

「すばるチャレンジ!1!2!3!4!……6?いや7?
 ヤバイ今日マジでめっちゃ見える!」

嬉しそうに空を指差す。
振り返った笑顔から息が白く弾む。

幸せだ。
夜空を背景に背負ったその存在を見て、改めて噛み締めた。

「ところでどうして手袋しないんだ、冷たいだろ」
「秀一郎が手つないでくれるから」
「……」
「わーい!」

先程まで星団を指差していたその手を掴むと、は子どものようにはしゃいだ。
甘やかせすぎだろうか…とも思うが、まあいいだろう。
君も幸せでいてくれるなら、それで。

あのときは想像していなかった。
こんな日が来ることが。

「初めて二人で一緒に見た星、綺麗だったよな」

空を見上げながらぽつりとそう漏らした俺を、
は斜め下から見上げてくる。

「それって、私の部屋から見たときの話?」
「ああ、それも綺麗だったけど、初めて家まで送ったときの話だよ。成人の日だっけ」
「あーアレね!あの道本当に暗かったよねー」

その話題が嫌なことを思い出させないかとヒヤッとしたが、は変わらず笑顔だった。
も空を見上げたので、俺の再び空に視線を移した。

良かった。
一緒に夜空を幸せな気持ちで見られる未来が待っていたことが。


しばらくは心配でしかなかった。
二人で歩いていても度々後ろを気にする仕草を見せる君が。
「二人でいるときくらいは、気にせず夜空を見てほしい」、
そう伝えると幸せそうに微笑んだことを憶えている。
「もしくは、俺のことだけ考えていてほしい」と伝えたら、
俺は本気だったのに、和ますための冗談だと取られて
笑われたことも心外ながら憶えている。

色々あった。
きっと、これからも。


『私、もう一人でも大丈夫そう』
『秀一郎のおかげで怖くなくなったよ』
『家遠いのに今までずっとありがとね』

俺がいなくても大丈夫だと君が笑って言った日。それは、
夜道が怖いなんていう理由がなくても一緒に帰り道を歩きたい、
そう思った俺が、一大決心をした日になった。

あの日も、夜空には満点の星が広がっていた。

「(懐かしいな…)」
「はい、うちここでーす。送ってくれてありがとね」

間もなく到着というタイミングでは立ち止まって手を解いた。
そして一歩前に出ると、家を背にして立ち止まる。

「良かったら上がっていかない?なんならそのまま泊まってく?」

は親指を立てて家の方を指し示した
……どういうつもりだ。

ここは俺たちの家だろう。

「何ふざけてるんだ」
「だって秀一郎が付き合い始めの頃の懐かしい話なんてするから!」

は笑って俺の袖を掴んだ。
笑顔を交わしながら俺たちは足を揃えて家に踏み入れた。


『これからもずっと一緒に星を見たい』。
その願いは、いつしか永遠に続く約束へと変わっていた。
























パンパカパーン!(鳴り響くファンファーレ)
はい、結婚しました!おめでとうございます!!!
満点の星空の下で「これからもずっと一緒に星を見たい」
などと大石にプロポーズされたい人生でした!(早口)

大石視点でしか見えてない部分が色々浮かんじゃったので
アナザーサイド書きたいなーとはじんわりと思ってたんだけど
なんか暗い切ない話だしちょっと気持ちを落ち着かせて
またいつか気が向いたら書こうと思ってたんだけど、
「続編を見たい」という感想を頂いて嬉しかったので
単純な私はすぐさま続きを加えた大石視点をいっきに書き上げてしまいました。てへり。

頭の中では邪なこと考えまくってるけど
色々考えた末にそれを口に出していない結果
周りから見たら聖人みたいなふるまいになってる大石が好きなんだ。
そしてそれを「違うんだ本当は俺は悪いやつなんだ」とか思ってる大石が悦なんだ。好き。


2021/01/16-17