* ただ、あなたの笑顔を支えたいのです。 *












27歳、入社5年目、
初めて部署異動になった。


「業務課から来ました、です。
 早く経理の仕事も一人前になれるように頑張ります。宜しくお願いします。」


お辞儀をすると、温かい拍手に包まれた。
異動初日で不安だったけど、
ここなら安心してやっていけそうかな…。

そう思えるのも、おそらくこの部署がそんな温かい雰囲気なのも、
きっとこの人のお陰。


さんはまだ慣れないこともあると思うから、
 みんなでサポートしていこうな。
 それじゃあ今日も一日宜しくお願いします」


よろしくおねがいしま〜す、と皆自分の机に向かっていく。
そしてたくさんの書類に書かれたたくさんの数字を……カタカタ。


「じゃあさん、こっちに」

「はい」


今日からこの人が私の上司。
憧れの、大石秀一郎課長。

最速コースでスピード出世して、今年度から管理職になった大石課長。
上司としては今までで一番年が近い。
上司だけど、おじさんというよりお兄さん。
というか完全に素敵なお兄さま。
他部署に居た頃から良い噂しか聞かない、理想の上司。


異動初日ということで、まずは面談から入った。

簡単な自己紹介、
大学の専攻、
今までやってきた業務内容…など。

不安どころか期待でいっぱいだ。
前から私はこの人の下で働いてみたいと思っていたのだ。
周りにもそういう人は多い。
次は経理課だといったら元同僚には
「いいな〜〜大石課長が上司じゃん!」と言われたほど。

実際嬉しい。
今後の仕事人生に夢広がる。


「俺から聞きたいことは以上だけど、
 さんの方から聞きたいこととか伝えておきたいこととか、あるかな?」

「んー…大丈夫です」

「そうか。こういう機会に限らず、いつでも声掛けてくれな」

「ありがとうございます」


早速いい人だなぁ…。
遠くから見ていたイメージと、実際に喋ってみてのイメージが変わらない。
爽やかで、優しくて、決断力もありそう。
まさに理想の上司…。


会議室を出て自席に着くと、
「さっそく、今日やってほしいことだけど」
と大量の紙が束ねられたファイルを持ってきた。
ファイルを開いて指差しながら、これからやるべきことを説明してくれる。


「このファイルに最近の経費が雑多に挟まれてるから、
 カテゴリ別になるような整理したいんだ」


こ、これを全部…?
広辞苑を超えるのではないかという分厚いファイルを見、
私は瞬きを繰り返すしかなかった。

え、ちょ、期限はいつ?
私に出来るかな?
異動したての人間には厳しすぎる内容だったりしない??

呆然とする私に対して、大石さんは笑った。


「安心してくれ、全部じゃないから。
 今年度の上期の分だけ、宜しく」

「あ、そういうことですね。わかりました」


良かった…全部じゃないんだ。一安心。

大石課長は私のデスクトップを見ながらマウスをカチカチと弄った。
横顔…カッコイイ。


「このフォルダのこのファイル、
 このタブに値を入力していけば自動的に計算されるから」

「はい」


この程度なら、私でも問題なくできそう。
書類と画面を見比べてフンフン頷く。


「量は多いけど、単純作業だからひたすら数字を打ち込むのに慣れるには良いんじゃないかな」

「わかりました、頑張ります」

「本当に単純作業だから、眠くならないようにな」

「はい」


緊張をほぐしてくれるような大石課長の一言に、くすっと笑ってしまう。
本当に気配りができる人だ。
仕事もできそうだし、こりゃ出世するよね…。


「わからなかったらすぐ聞いてくれな」

「はい!ありがとうございます!」


笑顔を残して、大石課長は自分のデスクに向かった。
よーっし、頑張るぞー!!


やり始めて見て、始めは少し試行錯誤する時間もあったけど、
慣れれば作業自体はそんなに難しくないことがわかってきた。
よし、あとは間違いがないように慎重に確認しながら進めて、数をこなすだけだ。

大石課長はあんな風に言ってくれたけど、
集中力は切れることがないまま午前の業務を終えた。


お昼休みは新同僚の皆さんがご飯に誘ってくれて一緒に食べて、
初日は快調な滑り出し。
本当に、上司と同僚に恵まれたなー…。
私もしっかり頑張らないとね!


昼休みが明ける数分前、席に着いて、午後もやるぞー!と
伸びをしたところで大石課長が声を掛けてきてくれた。


さん、進捗はどうだい?」

「んーもうすぐ半分って感じです」


未処理のページ数の厚さを指で測って答える。
大石課長は腕を組んで顎に手を当てると眉を潜めた。

ん?なんかまずいか?


「そうか…定時に間に合うか微妙だな。
 伝えてなかったけど実はこれ、明日の朝一までに必要な書類なんだ。
 誰かと分担させようか?」


あーそうだったんだ。
私が変なプレッシャー受けないように黙っててくれたのかな?

想定されてた速さでできてないのは申し訳ないな…。
そこで分担とは、なんて優しいご提案。
前の部署だったら、定時は回って当たり前で……ゴホンゴホン。


「作業にも慣れてきましたし多分定時には間に合うと思います。
 出来れば、一人で最後までやりたいです」

「そうか、わかった。宜しく頼むよ」


せっかく初めて任されたお仕事だもんね。しっかり頑張りたい!


というわけで、ひたすらカタカタ、
カタカタ、
カタカタ…。

……眠くなりはしないけど、疲れはするな。
正直ちょっと、飽きてきたかも…。

でも、定時まであと1時間弱!頑張ろう!
しかしこれ、間に合うのかな…?


さん、だいぶ画面に顔が近くなってるぞ。疲れてないか?」

「は!すみません細かい数字に慣れていないもので…」

「その調子だと…定時までは少し厳しそうか」

「はい…でもそんなには遅くならなさそうなので」

「わかった。肩の力抜けよ」

「はい、ありがとうございます」


集中力が切れかけた絶妙なタイミングで大石課長は声を掛けてきてくれた。
優しすぎる…。


大石課長が去ったあと、隣の席の先輩も声を掛けてきてくれた。


さん、終わらなそうなら私手伝えるけど?」

「あ、大丈夫です!できれば自分で終わらせたくて…」

「そっか。あんまり無理しないでね」

「はい」


先輩まで優しい…あったかすぎるよこの部署。

定時は回ってしまいそうだけど、そんなに遅くはならずに終えられそう。
任された初仕事、しっかりやり遂げるぞ!


そうして集中し直して、もう少し進めたところで、定時のチャイム。


「お疲れ様でーす」

「お疲れ様でした!」


挨拶をして、一人また一人とデスクから離れて退社していく。
前部署との違い…!
かといって内容が楽と言うこともないはず。
生産性が良いんだろうなあ…みんな良い雰囲気で集中して作業できてたもんね。
管理が徹底されている…。

よし、私もあと少し!


さん、どうだい?」

「はい、もうすぐ終わります」

「そうか。俺はまだ居るから、落ち着いてやってくれればいいから」


その言葉で、気付いた。
そうか。私が終わらないと大石課長も帰れないんだ…。
自分のことばっかりで、そこまで頭が回ってなかった。
私のバカー…。

とにかく、ここまで来たら早く終わらせるしかない!



そして、チャイムが鳴ってから1時間弱。
プリンターから出力したてほやほやの紙束を持って
大石課長のデスクに突進した。


「終わりました!」

「お疲れさま」

「すみません大石課長、お待たせしてしまって…」

「大丈夫だよ、俺も他にやることあったし」


そう言いながら笑顔で受け取ってくれた。
なんて優しいの…。

パラパラと捲りながら印鑑の蓋を開け、
書類に目を通していく大石課長がどんどんしかめ面に。

え。


さん…」

「はい!」

「これ、元データどこ」

「あ、これです」


自分のデスクに駆け戻って、ファイルから抜き出していたバサバサの紙の束の端を揃えて手渡す。
数枚捲ると、大きな溜め息をついて、大石課長は苦笑いした。


「これ…平成30年度版だぞ」

「え。………あっ!」


今年は平成31年からの令和元年。

……ああっ!


なんていう凡ミス〜!!!
これは異動したてとか関係ないでしょ…。



「すみません!すぐに直します!」



ガバッと頭を下げる。

とはいえ、丸一日(+残業)かけて終わったものを、これから…。
明日朝一で必要って言ってた。
どうしよう…!

異動初日からこんな大きなミスして、大石課長にも迷惑掛けて、
最っ低だ私――…。

頭を下げていたせいもあってか、涙が一気に視界を満たした。
そんな私の肩をポンと叩いて「顔を上げろ」と言った。
大石課長……。


「仕方がないから、もう一度やり直そう。俺も手伝うよ」

「そんな、悪いですよ!」

「終わらないと俺も帰れないだろ」


仰る通りで…。
申し訳なさ一杯の私に対して、大石課長は笑顔で、
それが更に申し訳なさを助長させた。


「本当にすみません…」

「途中で内容をきちんと確認していなかった俺にも責任があるよ。
 そんなに気にするな。それより、早く終わらせよう」

「はい…」


そうは言うけど、大石課長は何度も進捗確認に来てくれた。
何百回も「平成30年」の文字を見ていたのに気付かなかった私が悪い。

ううう…普段西暦ばっか使うから…和暦慣れてないから…バカ…私の現代人…。
っていうけど前の部署でも和暦使ってたけど…。
もう、単なる凡ミス過ぎて言い訳すらできない。


「俺が4月から6月をやるから。さんは7月以降を頼む」

「は、はい!わかりました」


ファイルから必要な紙束を確認し直して、各々作業に入った。
会話はなくて、同じフロアの他のエリアの電気が消えていく中、
私たちはひたすら数字の羅列と戦い続けた。


2時間ほど経ったところで、大石課長が私の方に来た。
なんだろう、と思ったら「こっち終わったから、後ろの方もらうよ」って。

え、速!!
私まだ3分の2くらいだけど!?


「休憩挟まなくて大丈夫か?」

「はい!」

「適度に休憩挟まないと、ミスも増えるから気をつけろよ」

「はい、気をつけます」


これ以上ミスを増やすわけにはいかないもんね。
細心の注意を払いつつ、出来るだけ速さも意識して打ち込んでいこう。


大石課長は再び席に戻って打ち込みを再開した。
パソコンを真剣な表情で見つめる姿、カッコイイ…。


って、そんなこと思ってる場合じゃない!
気合い入れて終わらせないと!!


そして更に1時間ほどして…。


「終わった〜!」

「よし、今度こそできたな」


集約された紙束をぱらぱらと捲り、時計を見、大石課長は頷いた。


「判押しは明日の朝だな」

「判押し?」

「ああ。確認を終えたら捺印しないといけないんだ」


まだそんな作業があるんだ…。
帰るのも遅くなってしまったのに、
大石課長は明日朝早くに来てそれをやるってこと…?


「さあ、帰ろう」

「は、はい」


大石課長はもうジャケットを着て帰る準備をしていた。
私も急いで荷物をまとめて、コートを羽織ってストールを巻いた。


電気をパチンと消すと、フロア全体が真っ暗になった。
いつの間に、私たちが一番最後になってたんだ。
定時で上がれるように何度も声掛けて頂いていたのに…。


「月が綺麗だ。明日も晴れそうだな」


大石課長はそんなことを言っていたけど、
私は首を上に持ち上げる元気すらなかった。

ああもう、私のバカ。
やる範囲を間違えたっていうミスもそうだけど、
始めから他の人にも手伝ってもらえば良かった。
私の変なプライドのせいで、大石課長にこんなにも迷惑を掛けて…。


「今日初日だったけど、早速大変だったな」

「あ、はい」

「どうだい前の部署と比べて、雰囲気は違うかい?」

「そうですね」

「…………」


自己嫌悪。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
明日からは失敗しないようにしないと。
明日、大石課長にどんな顔して挨拶すればいいんだ。
私も早く来ようかな、意味ないかな邪魔なだけかな。
もう、本当に申し訳なさすぎて嫌。サイアクー…。


「ちょっと待って」


声に反応して横を見ると、大石課長は自販機に向かった。
何か飲み物買うんだな、と思ったら、「どれがいい?」って。


え、私!?


「悪いですよ!私のせいで遅くなったのに…寧ろ私に奢らせてほしいっていうか」

「いいよこれくらい」


必死で全否定する私に対して、大石課長はハハッと爽やかに笑って。


「それよりも、明日はそんな顔じゃなくて
 笑顔で出社してくれさえすれば、俺はいいから」


な?

って首をかしげて笑った。




きゅんっ



と心臓が掴まれる感じがした。




「遠慮しなくていいよ」

「では…お言葉に甘えさせて頂きます。ありがとうございます」


結局私はホットココアを買って頂いて、
横でブラックコーヒーを飲む大石課長は、どうしても格好良くて、

これは……恋だ。

と自覚した。



新たな感情の芽生えに浮かれている私にも気付かずに、
大石課長は“いつも通り”の良い人で、
その後は雑談を交わしながら、一緒に駅まで歩いた。

そのまま改札を通ろう…としたけど、大石課長は足を止めた。アレ?


「乗らないんですか?」

「そこで夕食食べようと思って。あ、一緒に食べていくか?」


大石課長が指差した先は、早い安い旨いが売りの某牛丼チェーン。
こういうところで食べるんだ…意外。


「いえ、今日は帰ります」

「そうだよな。こんなところじゃあ」

「そういうわけじゃないですけど!」


本当は私、結構こういうところで食べがちなんだけど!
これ以上一緒に居たら気を遣わせてしまって悪い気がして、
謹んでお断りすることにした。


「今度改めてお礼させてください」


そう伝えると、
大石先輩は苦笑いをして。


「気を揉む必要はないけど、楽しみにしてるよ」


そうして私たちは別れて、私は帰路に就く。
あーしかし帰ったところで何食べよう…カップ麺かな、とか思いながら。
(うううかっこつけずに牛丼ご一緒すれば良かったかも…でも…)


アレ、そういえば大石課長って一人暮らし、か。
そういえば、独身だって耳にしたことあるような。

それが本当だとしたら、
どうして大石課長はこんなに素敵な人なのに
35歳にもなって独身なのだろう…。






  **





「大石課長って結婚されてないんですか?」


翌日の昼休み、そんな話題を振ってみた。
噂好きな同僚たちは勢いよく食いついてくる。


「確か独身だよね」

「えっなになに、さん大石課長のこと狙ってんの」

「そういうわけじゃないですけど!
 仕事もできるし素敵な人なのに、どうしてだろうと思って」


焦って否定する。
でも本当は…狙っていないといえば嘘になる。

少なくとも、後半は本当だ。
仕事もできるし素敵な人。
本当に素敵な人だ。

そういえば結局今朝、私は始業より1時間以上早く出社してみたけど大石課長はもちろんもう居て、
それなのに「早いな。疲れは残ってないか?」なんて、
その台詞そのまんま返したいですよ、というようなことを言ってきて、
「昨日の資料は確認ももう済んだから安心して」と。

もう。
配属初日にして私はアナタに頭が上がりません…。

そんなエピソードも知らない同僚たちは、
(そう、昨夜のことも今朝のことも私は誰にも言っていないし、大石課長も言っているとは思えない)
ここぞとばかりに噂話に花を咲かせる。


「実は恋愛対象が男性パターンとか?」

「あーなくはない」

「なんなら大石課長だったらちょっと見てみたいかも」


なんという勝手な妄想…!
いやでもありえない話でもないか…。


「あ、でも」


私もうっかり妄想に乗っかってしまいそうになる寸前、
一人が驚くようなことを口にする。


「バツついてるって聞いたことあるかも」


えー!!!
と全員の叫びが同時にこだました。


「そうなのー!?」

「噂でちらっと聞いただけだけど!
 でも確かそんなだった気がするような…」

「えー意外〜」


意外…本当に意外。

私たちに見せない隠れた本性があるとか?
別れがきっかけで今の性格になったとか?
うーん…。


「どっちかというと、奥さんが原因で別れたパターンじゃない?」

「ありえる。でもわかんないよ意外と付き合ってみると本性が…とか」


きゃいきゃい盛り上がる。
実は亭主関白説。
まさかの浮気性説。
酔うと暴れる説。
DV男説。
ED説。


勝手放題言っちゃって……。
内容がだんだんエグい感じになってきたのを見兼ねて、
食事を食えた私はそっとその場を後にした。




大石課長…バツイチって本当なのかな。
本当だとして、理由はなんなんだろう。

考えたってわかるわけない。

ここは。


「(聞くしかないな)」


私は一つ決心をして、
その機会を伺うことにした。





  **




今の部署に異動してきて、もうすぐ一ヶ月が経つ。
私はすっかり仕事内容にもなれて、一人前に仕事ができるようになったと言って良いくらいにはなった。
もちろん、初日にやらかしたようなミスはもう起こしていない。

今なら、胸を張ってお誘いできるだろう。
自分の中でそう決心がついて、私はついにお声掛けすることにした。


「大石課長」


昼休み、大石課長はいつも自身のデスクでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる。
声を掛けると、新聞を畳んで置いてこっちを向き直してくれた。


、どうした」

「今日もブラックコーヒーですか?」

「ああ、習慣なんだ。飲まないと集中が続かなくてな」


どうでも良い雑談を振ると、
仕事の相談とかではないと察したのか
大石課長の表情が和らいだ気がした。

大石課長の人柄はもうわかっている。
いつでも笑顔で応じてくれる人だという安心感がある。
それでも、大石課長を「いいな」と思っており、やや下心ありな私は
表情に出さないながらもものすごくドキドキしながら「あの」と切り出す。


「先日のお礼もしたいので、良かったらご一緒に夕食でもいかがですか」


言った。
言ってやった…!


笑顔が返ってくるだろうと思っていたが、
予想外に大石課長は無表情に固まって、

「あー、その話か」

と苦笑した。
あ、ダメなやつ?


「部下と個人的にそういうことするの、
 誤解されたくないから本当はあんまり乗り気じゃないんだけど」


そう言った。

こういう言われ方をする時点で望みないじゃん、これ…。
さすが真面目な大石課長らしいとより見直してしまったけど。

あまり困らせても申し訳ない。
ダメならいいです!と引こうと思った瞬間、
大石課長は顎に当てた手をゆっくり下ろして、柔らかく笑った。


「…うん、行こうか」

「いいんですか?」

「うちの部署に入ってそろそろ一ヶ月経つだろ?
 様子も知りたいし、丁度面談はしたいと思ってたんだ」


異動してすぐに業務上の面談はあったけど
それとは別で気にかけてくれるあたりが大石課長らしいと思った。


「それじゃあ、お酒はなし…っていう約束でどうかな」

「堅いですね?」

「こう見えて俺も管理職なんだよ」

「あはは」


なんだかんだで約束を取り付けることに成功して、
今週の金曜日の仕事が終わったあとにお食事に行かせて頂くことになった。





  **






仕事が終わったあとに建物の外で待ち合わせてイタリアンへ向かうことになった。
会社の同僚なんかに目撃されないか周囲を確認してしまったりして、
悪いことをしているわけではないのにドキドキしながらお店に入った。


「本日はお誘いに乗って頂きましてありがとうございます」

「こちらこそ、お誘いありがとう」


私の誘いを断らないでくれただけでなく
こんな言い方をする大石課長はやっぱり優しいなと思った。
そして、ドリンクメニューを開くと私の向きに見せてくれた。


「何か飲むかい?お酒もあるけど」

「あれ、今日はお酒なしの約束でしたよね」

「俺は飲まないけど、遠慮しなくていいから」


そういうつもりだったのか…。
まさか、お酒を飲むと豹変するとか?いやいや。


「いや、私もノンアルで…」

「じゃあ炭酸水がおすすめだけど、どうかな」

「あ、はい。それを頂きます」


食べ物も、私の意見を聞き入れてくれながら
慣れた感じで前菜、主菜、副菜とバランスよく選んで、
スマートに店員さんに注文してくれた。


「(まずい…本当に好きかも)」


注文をする横顔を見ながら、自覚していた感情が更に強くなる感じがした。
仮にも上司なのに、本当はこんな感情いけないのかな…と思いながらも、
一旦走り出した想いはどんどん加速をしていく。


「それじゃあ…お疲れ様」

「お疲れ様です」


軽くグラスを合わせた。

なんだか、ちょっといい雰囲気だ。
顔が赤くなっているのではないかと恥ずかしくって、
俯き気味にスパークリングウォーターを飲んだ。


「どうだ、仕事はもう慣れたか」

「はい!お陰様ですっかり…」

「他のみんなも、話しやすい人たちだろ」

「はい。大石課長の雰囲気作りがうまいんだと思います」

「そんなことはないよ」


そんな話をしながら、前菜を頂く。
そういえば、今日は面談も兼ねてるんだったな。
とは言ってもお陰様で仕事をする上で困っていることは今はないし、
特に深く踏み込むこともなくその話題は自然と終わった。

アンティパストが食べ終わって少しして、次の料理が届いてくる。
ラグー・ボロネーゼ、ピッツァ・カルツォーネ、舌平目のポワレ。


「どれもおいしそうですね」

「イタリアンなんて久しぶりだよ」

「そうなんですね」

「普段は簡単に済ませてしまうことが多くて」


そういって大石課長は笑った。
この前、私の配属初日のあの日の帰り、
牛丼チェーンに入っていったことを思い出した。


「この前、牛丼屋さん入ってましたよね。ああいうところでよく食べてるんですか」

「いや、たまにだよ。基本的には自炊してる」


そうなんですねー、と相槌を打ちながら、
この流れは、いける…!と、
準備していた質問を私は切り出した。


「大石課長って、一人暮らしですよね。ご結婚はされてないんでしたっけ?」


部署に長くなったら聞きづらい。
異動してきて間もない私だから聞けるこの質問!

本当に噂通りバツイチなのか?

表情、言葉のイントネーションからですら
ヒントを得ようと目を凝らして耳を澄ます。

大石課長はゆっくりと口を開く。


「結婚は、したんだけどな。もう10年近くも前に」


結婚、した。過去形。
からの、だけど。逆接。

や、やっぱり…噂は本当だったんだ!


と思っていたら、そのあとはまさかの言葉が続いて。



「妻とは……死別してしまって」



えっ……。


「ご、ごめんなさい!何も知らなくて…」

「あんまり話してないからな」


嘘、まさかそんな…。
結婚、してたけど、奥さんを亡くしてしまったんだ。
想像すらしなかった…。


「もう8年くらい前だしな」

「そんな…」


じゃあ、結婚2年目。
まだ、20代の頃に…。


「同級生でな。社会人になって比較的早めに結婚したんだけど」


ぽつりぽつりと、大石課長は呟くように喋る。
逸らされた視線の、その目から、光が消える。


「交通事故なんて、防ぎようがないよな」


フォークを一度下ろして、水を一口含むと、軽く俯いた。


「お腹には…新たな命も宿っていたんだ」


指を組んで、首をうな垂れた。


毎朝、毎日帰宅すると、
仏壇の前で手を合わせる大石課長を想像したら、
胸が苦しい……。


バカだ。
私のつまらない興味で。
些細な下心で。
大石課長に辛いことを思い出させてしまった。

泣きそうだ。
でも泣いたらダメだ。
私が慰められる側になってはいけない。


店内にBGMが流れていたことを改めて意識するくらいには沈黙が続いてから、
大石課長はゆっくりと顔を上げて、笑った。


「悪い。重たい話になってしまったな」


ぶんぶんと首を横に振った。
悪いのは大石課長じゃない。私だ。


「久しぶりにこんなこと人に話したよ」

「嫌なこと思い出させてしまってすみませんでした…」

「気にするな」


そうは言うけど、今日は大石課長にお礼をしたくて誘ったのに…。


「ごめんな、食事時にこんな話。温かいうちに食べよう」

「はい…」


そう言ってお料理を食べ始めたし、
大石課長は色々な話を振ってくれて、楽しい食事となった。
だけど、聞かされた衝撃の事実は頭の端からずっと離れなかった。

だって、大石課長、ずっと悲しそうな顔をしているんだもの。

笑っているつもりなんだろうけど、
確かに笑顔ではあるんだろうけど。
たまに見せる柔らかな下がり眉の笑顔ではない。
顰めたみたいに、眉間に力の籠もったような表情。
そしてその瞳の奥は、言葉には言い表せないくらい、寂しそうで…。


『明日、そんな顔じゃなくて、笑顔で出社してくれさえすれば、それでいいから』。


この前大石課長にかけてもらった言葉をそのまま返したい気持ちになって、
でもそんなお茶目もできないくらい、申し訳ない気持ちになっていた。


お礼のつもりで誘ったので私に払わせてくださいと言ったけど、
結局ほとんど大石課長に出してもらってしまった。
「本当は部下に払わせるわけにはいかないんだけど。
 お気持ちありがたく頂戴するよ」と言って、千円以上は受け取ってもらえなかった。

せめて今日が何の翳りもなく楽しい食事であれば良かったけれど、そうではなかった。
感謝と申し訳なさに相まって、罪悪感が消えない。


「今日はありがとうございました。お疲れ様でした」

「ああ、お疲れ」


挨拶してお別れして、それぞれ別のホームに向かう。
こっそり大石課長の背中を見送った。
意識しているせいか、その背中が寂しそうに見えた。

こうして今日もまた、誰もいないおうちに帰って行くんだ…。





  **





帰宅して、溜めた湯船に肩まで浸かりながら、
ぼやぼやと今日の会話を思い返す。

8年前…27歳。


「(今の私と同い年くらいか…)」


そんなときに、大石課長は奥さんを失ったんだ。
再婚の予定はないんですか、とか、
とても聞ける感じじゃなかった…。


逆の立場で、私がもし大石課長の奥さんで、
27歳のとき、結婚して2年目で、
相手に死なれてしまったら……。


背筋が凍った。

辛い。辛すぎる。


そんな思いを抱え続けて、大石課長は笑ってるんだ。毎日。


顔まで湯船に鎮める。
ぶくぶくと音を立てながら息を吐き切って、上がった。


どちらにせよ大石課長の中に私が入り込む隙間はない。
それだけわかった。






  **






週明け、月曜日。


「おはようございます」

「「おはようございまーす」」


挨拶をすれば元気に挨拶が帰ってくる。
先輩と後輩の上下関係も少ないし、本当に治安の良い我が部署。
大石課長の様子を伺おうとしたけど、あんまりよく見えないなー…と思いながら自席に向かう。
着席するなり、隣の先輩が私に椅子を寄せてくる。


「ね、さん。なんか今日の大石課長さ」

「はい」


ドキンと心臓が鳴る。
やっぱりみんなも見てわかるくらい様子がおかしいのか。
その原因の一部が私が担ってるだなんて、言いづらいな…。

と、思ってたら。


「なんか気だるげでカッコイイけど寝不足とかかな?」


そんなことを楽しそうに耳打ちされた。
気付いてない…か。

違いますよ、きっとあれは落ち込んでるんですよ…なんて。
さすがに言い出せずに、「何かあったんですかね」とだけ笑って返した。

事情を知らない人からしたら、わからないもんか。


「(というか、私が意識しすぎ?)」


そう思いながら業務に挑もうとしたけど

どう見ても

一挙一動

大石課長には

元気がなくて…。


あからさまに落ち込んでいるというわけではない。
いつも通り笑顔だし、普段と変わらぬ様子で声掛けしてくれるし。
だけど、
ふとした瞬間の表情とか。
声の張りとか。
首をもたげる角度とか…。

意識していなければ気づかない程度のほんのわずかな違いだけれど、
その“わずかな違い”を複数回繰り返して観測してしまうと
さすがに気のせいで済まされることではないなと思った。




昼休み。
特に誰も大石課長のことには触れないままランチタイムは終わった。
事実を知っているのは、私だけで、
他の皆さんからすれば大石課長はいつも通りにしか見えなくて
様子が違うことには気づいてもまさか落ち込んでいるとは思わなくて
その落ち込んでいるのが、8年も前に死別した奥さんのことだなんて。
そしてそれを思い出させてしまったのは、私で…。


「(本当に、サイアク)」

さん、何かあった?大丈夫?」

「え?あっ」


無意識の行為に、声を掛けられて気づいた。
今、思いっきり眉を潜めた状態でうつむきながら10秒くらい長く続くため息をついていた。
誰から見てもあからさまにおかしいとわかるような仕草だったと思う。


「ちょっと、迷惑を掛けてしまった人が居て。申し訳ないなって」

「えーどうしたの?良かったら話聞くよ」

「いや、大丈夫です。個人的なことなので……ありがとうございます」


優しい先輩。
私は、何も気にせず落ち込むような仕草を見せていて、それに気づいてもらえて。
それに比べて大石課長は、立場上そんな仕草を見せないようにきっと気をつけていて。
誰にも労ってもらえることもなく、笑顔で振る舞っているんだな。
はぁー………。


「またため息。本当に大丈夫?」

「あ、大丈夫です!すみません!」

「謝らなくていいけどさ。あんまり抱え込みすぎないようにね」

「ありがとうございます」


私には、支えてくれる人がいる。
本当にありがたいことだ。

……大石課長は?
大石課長は誰に支えてもらうの?
支えてくれるような人は、大石課長にはいるんですか…?





  **





「(よし、終わった)」


予定していた業務を仕上げて時計を確認すると、定時の丁度5分前。
机の上に散らばった書類を片付け終えたところでチャイムが鳴った。


「お疲れ様でーす」

「お疲れ様でしたー」


今日も安定して続々と帰っていく我が部署。
さあ、私も帰ろう。

パソコンがシャットダウンするのを待ちながらストレッチをして
首をぐるりと回したタイミングで背後から声が掛かった。


、もう上がりか?」

「あ、はい!」

「うん。今週もお疲れ様」


それだけ残して大石課長はデスクに戻っていった。
部下の最後の一人が帰るの、毎日必ず確認してくれるんだよなー…。
異動してくる前から大石課長のことは理想的な上司だと思ってたけど、
いざ部下になって一ヶ月以上経ってもその認識は変わらない。
だけど私の大石課長に対する感情は、理想的な上司、には留まっていなくて。


「(大石課長…)」


歩き去る後ろ姿を見守って、
カチカチとマウスを操作する仕草を横目で盗み見て、
ふぅ、と息をついたその目線が窓の外はるか遠くに向いていることに気づいて。


「(胸が、苦しい)」


申し訳なさと恋焦がれと。
複数の感情が相まって、絞め付けられるようだ。

何か声掛けたいけど、なんて声掛ければいいかな…。
変に慰めようとしても墓穴掘りそうだし。
謝るのも微妙っちゃ微妙だよね…。

うーん……。


「(そういえば、先週のお礼伝えてないな)」


何か話しかけるうまい理由がないかなと考えているうちにそう気づいた。
理由付けできたなって確認して話しかけるタイミングを伺った。

私が先に帰らないと大石課長は帰らないから、とりあえず先にオフィスを出て、
トイレで少し時間を潰してから会社を出た。


「(居た居た…)」


会社を出てすぐの自販機で大石課長はコーヒーを買っていた。
その横顔は、いつも通り…のように見えて、やっぱり、
客観的に見ても渋い表情をしているように感じた。


「(気だるげでカッコイイ…か。私も、何も知らなかったらそう目に映ったのかな)」


その姿を少し離れたこの位置でもっと観察していたい気持ちもあるけど、話しかけないと。
心臓がこれでもかというほどドキドキする。
何回か大きく深呼吸…して、走り寄って声を掛けた。


「大石課長、お疲れ様です」


普段通りを装って話しかけたけど、本当は胸がバクバクしている。
緊張もだけど、怖さみたいなものもある。
今日の大石課長は、いつもと違うのわかっているから…。

振り返った大石課長は、「ああ、」と笑いかけてくれた。
それは私をほっとさせてくれるいつもの笑顔で、
今日一日がすべて私の考えすぎの思い過ごしなのではと思えてしまうような表情だった。

なんなら本当にいつも通りなのでは…?いやそんなまさか。
様子を伺いながらお礼の言葉を伝える。


「先日はありがとうございました」

「こちらこそありがとう。楽しかったよ」


大石課長はそう言って笑顔を向き続けてくれたけど、
私はどうしても謝らないと気がすまなくて。


「イヤなこをと思い出させてしまってすみませんでした」


そう伝えると大石課長の表情はわかりやすく曇った。
口では「気にするな」と言ってくれたけれど、
大石課長自身がすごく気にしている様子は伝わってきた。


「今日、元気がないように見えたので」

「そうか、気のせいだろ」


気のせいだろと言いながら目は逸らされた。
いつもの大石課長ではない。

支えたい。
すぐそばにいて励ましてあげたい。
その思いが高まって、口が勝手に動いていた。


「大石課長は、これから一生一人で生きていくんですか」


あまりに思い切ったことを聞いてしまった。
もしかしたら嫌われるかもしれない。
あからさまに眉を潜めた大石課長。
見たことのない表情に、胸がバクバクする。


「…何が言いたいんだ」

「…………」


何が言いたいのか、私もよくわからない。
大石課長の顔を睨みつけるように見つめたまま黙り込んでしまう。
大石課長にこんな顔をさせたくない、それだけはわかっているのに。

何も言えずにいると、大石課長は長い間のあとに重々しく口を開いた。


「わかるよ、が何を言いたいか」


大石課長は空を見上げながら、ふぅーと長い息を吐いた。
釣られて見上げると、いつの間にか空には星が出始めていた。


「本当は、俺が怖いんだろうな」

「怖い…?」

「亡くした妻を、忘れてしまうことが」


その言葉を聞いた瞬間、心臓がドクンと鳴った。
大石課長の奥さんはこの世にもういないという事実を再び突きつけられたから。
なんというむごい現実なんだろう、と。

でもきっとそれだけじゃない。
大石課長の気持ちはまだまだその奥さんに向いているということがわかってしまったから。


「忘れるわけないですよ…忘れられると思いますか?」


大石課長の顔を見る。まっすぐ。

目線が合ったまま数秒間静止。

瞬き一つしないくらい固まったまま、

心臓だけが動き続けて頭の端まで震えてる。


「それもそうだな」


そう言って、ふっと笑った。
嘲笑にも感じられるような、でも、
目が合った大石課長は慈愛に満ちた目をしていた。


は強いな」

「…それはきっと、私は失ったことがないからです」


私の言葉に反応して、大石課長は「おや」という反応をする。

わかってる。
私は強いんじゃない。
「失うことは怖いこと」だとわかっているだけで、
「失って怖かったこと」の経験がない。
そして「失いたくないもの」がない。ただそれだけ。
それだけだけど。


「失う辛さは私には想像しかできない。
 でもその分…辛い気持ちを抱えて生きている人たちを
 少しでも支えられたらいいなって思ってるんです」


踏み込みすぎたかなとも思ったけど、
「ありがとう」と言ってくれることが救いだった。
あまりに寂しそうで優しい目元に、胸の奥底が切なくなった。


『私だったら、大石課長が前の奥さんのことを好きなままでも
 大石課長のことが好きだし、支えたいです』……。

そんな言葉が頭に浮かんだけど、口からは出せない。


フラれたらって思うと勇気が出ないから。
それもそうだし、たぶん、
本当はそうできる自信がない。
あまりに切なく、真っ直ぐで、純粋で、重たい、
大石課長の愛に触れてしまったからこそ。


『忘れるわけない』…それは、大石課長に伝えているようできっと私は自分に言い聞かせてた。

もしかしたらこの8年間に、私みたいな思いをした人は他にも居たんじゃないかな?


ああ。
大石課長がこんなに素敵な人なのに、
35歳で独身である理由がわかってしまった気がする。



大石課長、やっぱり私は貴方が好きです。

その辛い運命を支える自信は持てないけど、
今日も明日も、
貴方には笑顔で居て欲しいと思う。

その相手が私でなくてもいい。
大石課長に前さえ向いてもらえれば。

今の私は、笑顔のお手伝いさえできるなら、それだけでもいい。


決心をして、大きく息を吸い込んだ。


「いいんですよ!」


やや張った私の声に反応して顔を上げる大石課長に、したり顔で言ってやる。


「明日はそんな顔じゃなくて、
 笑顔で出社してさえくだされば、それで!」


私の茶目っ気を理解したらしい大石課長は、見慣れた下がり眉を作って笑った。
























大石が上司だったら仕事めっちゃやる気出るよなぁ、
と思って書き始めたらなんか暗い話になってしまった。
いえねルンルンと楽しく大石が上司妄想してたら、
「でもこの大石、新婚のとき奥さん失ってるじゃん…」て気付いてしまったんだよ…。
(気付くとは)(まともにプロット切らずに発進してるのモロバレ)

本当は2019年か最低でも2019年度のうちに書き上げたかったけど無理だったーー!
(「今年は平成31年からの令和元年。……ああっ!」のために)
普通に2020年も越してもうたwさあせんw


2019/11/07-2021/01/11