「(あれ、彼って同級生じゃなかったっけ…)」

何気なく覗いた放課後のテニスコート。
活気良く掛け声が飛び交うその中に、
白地に青を基調として鮮やかな赤が差し込まれたジャージを着る人物に目がいった。

「(一年生なのにレギュラーなんだ、すごいなー…)」

ぼーっとコート内の様子を眺めていたら、
すぐ横で トンッ と音がして咄嗟に肩をすくめた。
細めた目を開くと、数メートル離れた位置でテニスボールが跳ねていた。

「すんませーん!」

コートの中で、赤ジャージの人がラケットを振る。
拾って、投げ返したい…けど、
ちゃんとフェンス超えられるかな…。

どうしよう…と思っていたら
「すみません、ありがとうございます!」
と横から聞こえてきた。

声の方を向くと、緑色の体操着を来た男の子。
そうだよね、球拾いは一年生のお仕事だよね。

息を弾ませながら受け取りに来てくれたその子に「はい」とボールを手渡した。
顔は上気していて、汗を一杯に掻いて、息が弾んでいて、
大変そうだけど、その表情はとても楽しそう。
釣られて私まで笑顔になってしまう。

「頑張ってね」

そう伝えると笑顔はより一層明るくなって、
ぺこりとお辞儀をするとコートに走って戻っていった。
やんちゃそうだけど、礼儀正しくていい子だな。どのクラスだろ。

背中を見送って、また視線をコートに戻す。
彼は、一年生だけど球拾いには参加しないんだなー…。
トリコロールカラーのジャージに身にまとう同級生の姿をもう一度見、その場を後にした。


それが、私がゆるゆると恋に落ちていくきっかけの最初の記憶。
それと同時、私に恋に落ちていた人もいたなどと
2年越しに知ることになるなんて、この頃は想像してもいなかった。











  * 私の恋人は大好きな人の親友 *












「君のことが…その、すっ、好きなんだ!」

手塚くんに片思いしていた私の元に、その親友の大石くんが現れた。

人の顔ってこんなに赤くなれるんだ、なんて客観視していたことを憶えてる。
暑くもないのに汗を掻きながら、大石くんはどうやって私のことを
好きになったかと色々説明してくれていた。
そういえば、テニスボールを拾ってあげたことなんてあったなあと
2年前を振り返り、当時は知らなかったその相手が大石くんだと今更知った。

大石くんがいい人なのは私もその後たくさん知った。
だけど付き合えない。
だって君は私の好きな人の親友だから。

さすがにそうやって伝えるわけにはいかないし、
さてどうやって断ろうか、と考えていたら。

「君のクラスに手塚って居るだろ」

突然その意中の人物の名前が挙がり、心臓がドキンと鳴った。

「彼、俺の親友でさ。実は色々相談に乗ってもらったんだ」

大石くんはそう言ってきた。

あー、つまり…手塚くんは脈無しなんだな。とわかってしまった。
元々、手塚くんってミステリアスで誰かのことを好きになったりするのかな…って感じだったし
私が告白したところで望み薄なのはもうわかっていた。
だけど自分だけで想像しているのと、事実として突き止められるのは違う。

大石くんが失恋する現場になるはずだったのに、
一気に私が失恋する形成へと傾いた。

「(まあ、そもそも私と手塚くんの距離、そんな近くないし)」

同じクラスというだけで、会話するとしても事務的なことくらいで
楽しくおしゃべりできるような関係ではなかった。

「(早く諦めて、次の恋に進むのもありなのかなぁ)」

告白されたのは初めてだったし、純粋に嬉しかった。
その好意を素直に受け止めても良いのかもしれない、と思った。

「それじゃあ……付き合っちゃいます?」
「本当かい!?」

私はそんな形で大石秀一郎という男と付き合うことを決めたのだ。


もしかして、長い目で見たら手塚くんとの距離も近くなるきっかけになるかもしれない…
なんて打算的なこともこの段階では少し頭にないわけではなかった。
しかし一度そんなことは忘れて大石くんと真剣に向き合おうと思って数ヵ月過ごした結果…。

「大石くん…私のこと好きになってくれてありがとね」
「どうしたんださん、急に」

大石くんがタジタジになるくらい上目遣いでその顔を見つめる。

大石くんと付き合い始めて1週間が経つ頃には私はメロメロになっていた。
変な髪型に意識を持っていかれがちだったけど、
付き合ってみればめちゃくちゃ優しいし意外とおっちょこちょいで親しみやすいし、
おまけに実はめちゃめちゃイケメン。
一緒に居られるのが楽しい、嬉しい。
付き合い始めて数ヵ月、私はその幸せを噛み締めていた。
手塚くんのことなんてどうでもよくなるくらい。

告白してきてくれた割に大石くんは愛情表現が激しいタイプではないみたいで、
私の方ばかりがベタベタしたがって大石くんはそれに応えてくれる…というような状態だった。
もしかして、今となっては大石くんが私のことを好きな度合いよりも
私が彼を好きな度合いが上回ってるんじゃないの、という領域に入る程度には。
だけど、大石くんがたまに向けてくるとてもとても優しい視線一つで
愛されているなぁという実感が沸いて、私は幸せだった。

「私、大石くんのこと、好き」
「ああ…俺も大好きだよ」
「ん……ありがと」

大石くんが私を好きになってくれて、良かった。
付き合うことに決めて良かった。
元々は手塚くんに対する悔しさと下心みたいなものも動機にあったけど
きっかけはどうあれ、今こうして一緒に居られることに、感謝。
まだ、恋人らしいことといっても手を繋ぐ止まりで、
キス、とか…それ以上のことはまだできてない。
デートも一回だけ水族館に行ったっきりで、あとはこうして帰り道や公園で喋るくらい。
名前もまだお互い苗字呼びだし。
少しずつ、時間を掛けながらもっと仲良くなっていければいいな。

大石くん……好きだな。
手塚くんに恋してた頃も、こんな気持ちだったっけ。
もう忘れちゃった……。



  **



「(よし、午前の授業はおしまい!)」

4時間目の音楽の授業が終わった。
お昼休みのあとは国語の授業があって今日は終了だ。



今日のお弁当はなんだっけ、とかのんきなことを考える私に
真面目そうな深い声で話しかけて来た人物が居た。
手塚くん。

「お前はピアノを弾くそうだな」
「そうだけど…それがどうかしたの?」
「なんでも今度発表会でベートーベンを演奏するらしいじゃないか」

そういえば、手塚くんはクラシック音楽が好きだと以前調査したとき聞いたことがあった。
それにつけても手塚くんの方から話しかけてくるとか、何事?
もう好きな気持ちは大石くんに完全に移っていたとはいえ、
普段関わりが少ないだけにいざ雑談を振られるとドギマギしてしまう。

「そうだよ。えーなんでそれ知ってるの」
「大石から聞いた」
「あー…なるほど」
「良かったら聴かせてもらえないか」

先生の様子を伺うと「大丈夫よ。最後に電気消して出てね」と言って準備室側に抜けていった。
クラスメイトたちも既に音楽室から出て昼休みに突入している。

「(…二人きりだ)」

って、何考えてるの私!
自分の頭をぽかりと殴る想像をした。
すっかり大石くんとはラブラブカップルになりつつあるのに、
ついつい、長年手塚くんに片思いをしていた習慣が…。

もはや手塚くんに対する恋愛感情は完全に薄れていて、
寧ろ不毛な片思いを続けなくてよくなくなったことを
大石くんに感謝しなくちゃな、くらいに思っていたところなんだ。

「じゃあ、弾きます」
「ああ。宜しく頼む」

膝に手を置いて、大きく深呼吸。
部屋の沈黙で肌がヒリつく。
丁度いい緊張感だ。

鍵盤に手を置いて、すっと息を吸って、指に調べを乗せていく。
一度走り出した指は止まらず、最後まで一気に弾ききった。

最後の一音に全体重を掛けて、余韻が消えるのを待った。
すっと鍵盤から指を離した瞬間に拍手が聞こえてきて、
そういえば手塚くんの前で演奏していたんだった…とハッとする程度には集中できていた。

「いい演奏だった」
「ありがとう…何回か間違えちゃったけど」
「別段気にならなかった。それより、繰り返しの部分の強弱の付け方に引き込まれた。さすがだな」
「本当に!?そこ、先生にすごい言われて一生懸命練習したとこなんだ〜!」

そのまま、何故この不協和音をあえてこの音で表現したのかとか、
階は長調なはずなのに重苦しく聞こえるのはどういうことだろうとか、
これは彼が何歳頃に書かれた作品だから…と考察してみたりとか、
私たちのベートーベン語りが止まらない。

楽しい。
会話が楽しいと、純粋にそう思った。
手塚くんは寡黙に見えて実は饒舌に喋る人だと思ってる。
でもそういうのって誰かを論破するときとか自分の信念を語るときとか
そういう状況でしか見てきたことなかったけれど、
こんな風に趣味のことで楽しく饒舌に喋る手塚くんがいるだなんて。
そしてこの会話のきっかけは、元をたどれば大石くんで。

「(本当に、大石くんと付き合い始めたら手塚くんとの距離が近くなった。皮肉だね)」

いけないと思いながらも、会話が楽しい。
でも別にいいよね、クラスメイトとして仲良くなる分には。
胸が踊るのは、好きだからじゃなくて、
共通の趣味で盛り上がっているのが楽しいから、それだけ。
……だよね?


会話が一段落すると、手塚くんが真面目な顔で、話題を転換してきた。

「大石と順調なのか」
「順調…だと思うけど。どうしてそんなこと聞くの?」

急に大石くんの話になったから驚いた。
二人は親友だし、もしかして何か聞いてる?
大石くんが私に対する不満言っていたとか?
なんとなく、イヤな感じがする。

「順調であるなら、答える必要はない。いや、答えない方がいいだろう」
「なんで、教えてよ!」

私の叫び声の後、沈黙がゆうに5秒は続いた。
さっき演奏を始める前みたいに、肌がヒリつく。

フー、と手塚くんがため息を吐いて沈黙を破る。
そして口を開く。

「大石が告白してうまくいかなかったら、俺が告白しようと思っていた」

………え?
どういう、こと。

「……手塚くん?」
「安心しろ、大石はこのことを知らない」
「ちょっと待ってよ。どういうこと!?」
「意味がわからないならそのままでいい」
「意味はわかるけど…イミワカンナイよ!!」

手塚くんは返事をしてくれなくて、そのまま音楽室から出ていった。
残された私は呆然として、無心のままピアノでぐちゃぐちゃな演奏をして、
お腹が空いていたことも忘れたまま午後の授業に突入した。

手塚くんの席は、斜め後方。
そちらを見たくない。
できれば声も聞きたくない。
そんな想いのままで午後の授業を受けた。

手塚くんのこと元々は好きだったはずなのに。
恋心は失っても、クラスメイトとして仲良くなれて嬉しいと思ったのに。
急に顔すらみたくないほど嫌になってしまった。
ほんの数時間の間に、どれだけ私の感情は揺れ動いたのだろう。


帰宅してからも、私の頭の中は手塚くんのことで一杯だった。

手塚くんが、私のことを好きだった?
だった、というか、今も?
私と大石くんが付き合う前から?
大石くんが手塚くんに相談していなかったら
私は手塚くんと付き合ってる未来があったってこと?

頭がぐしゃぐしゃ。
告白を受けて、付き合う判断をしたのは私なのに
大石くんを恨みたい気持ちも生まれて。
だけど大石くんは悪くないのもわかってて。
もう、イヤだ。
全部イヤだ。


『時間があるとき話したい。電話でもいい。待ってます。』
それだけの簡素なメールを送った。
数時間後に電話が来た。
部活終わりに見てすぐに掛けてくれたのか、
外を歩いてるらしい雑音が聞こえてくる。
「今家に向かってるから、出て来られるか?」と言われて、
電話から30分後、私と大石くんはうちの近所の公園で対峙することになった。


「どうしたんだ、今日は」
「うん…」

顔を見るのが辛い。
これから辛い話題を切り出そうとしているから。
それもそうだけど、そもそも、大石くんの顔を見るのがツライ。

まともに目を合わせられないまま、視線を地面に向けたまま、
待ってる間に何度もシミュレーションした言葉を口に出す。

「別れてほしいの」

間が、長い。
視線が左右に揺れるけど、見上げることは出来ない。
キツイ。

さん、どうして…」
「…あんまり言いたくない」

そりゃあヘンだよね、
大石くんからしたらこの前までラブラブで、
私も大石くんにゾッコンみたいな態度取ってて、
私自身もそのつもりだったし、
なのに今日一日でその気持ちが全部ぐちゃぐちゃになっちゃって
しかもその原因が自分の親友だとか、
想像もつかないよね。

どうやって説明したらいいかわからない。
手塚くんは大石くんの大事な親友なはずだ。
何も言いたくない。

「もしかして、他に好きな人がいるのか?」

図星。
のようで、そんなに単純な理由じゃない。
否定しようと思った。

「というか……手塚と、何かあったんじゃないか」

なのに大石くんは、ピンポイントで当ててきてしまった。
驚いて顔を上げた。
怒っていても、思い切り傷ついていてもおかしくないのに、
大石くんはこれでもかというほど優しい目線で微笑んでいた。

「ずっと好きだったんだろ?」
「どう、して…」
「見てたらなんとなくね」

今度は大石くんの方から目線を逸らした。
斜め向きのその顔を、いつももっと近くで見ていたはずなのに、今日は遠い。

「本当は気付いていたんだ。付き合う前から。
 想いを伝えたときに手塚を引き合いに出したのもわざとだ」
「…ヒドイ」
「申し訳ないと思ってる」

大きく息を吐きながら大石くんはそう言った。
わかってた、んだ。
私が手塚くんのことを好きだったこと。
それでも想いを告げてきたんだ。
手塚くんに相談したのも、牽制のため…?

「誰にでも優しい大石くんがそんなことするんだね。
 それくらい好きになってもらえたのは…誇らしいや」

自分のことより周りのことに気を遣ってばかりで、
自己主張をするのは誰かを救いたいときばかり。
本当に優しくて、そこが大石くんのいいところだと思う一方で
もっと自分自身を大切にしてほしいと思っていた。
そんな大石くんは、自分の親友の気持ちよりも、
私への想いを優先してくれていたんだ。
それは間違いなく嬉しいよ。

「だけどごめん。今日で終わりだ」

声よりも息の方が多いような掠れた声で
「わかった」と言って大石くんは首を上下させた。
終わった、んだ。私たちは。

少しの間のあと、大石くんは重々しく口を開いた。

「本当はずっと引っかかってたんだ。好きになってもらえて嬉しかったけど罪悪感も消せてなかった。
 …一番幸せになってほしかったのに、こんなことになってしまってごめん」

私が手放しに新しい恋を楽しんでる間、大石くんはずっと葛藤してたんだ。
こんな状況になって初めてその心に触れて、胸が苦しい。
泣きそうになったけど、それは都合が良すぎる。ぐっと堪えた。

「これだけは信じてほしい。
 私が大石くんのこと好きだって言ったこと、
 好きになってもらえて嬉しかったって言ったこと、
 それは本当に嘘じゃなかった」

幸せだった。
一生に居られた時間は全部。
付き合い始めたきっかけは打算的で、
ここまで大好きになれるだなんて思ってなかった。
なのに一緒に過ごす時間が増えるほど
どんどん貴方のことを好きになった。
大好きだった。
でも、過去形だ。
もう真実を知る前の私には戻れない。

「…手塚と付き合うのか?」

大石くんからの質問に、首を横に振る。

「頭ぐちゃぐちゃで。暫く誰とも付き合いたくない」
「…そうか」

私の言葉に、大石くんは眉間に皺を深く寄せて、
心から申し訳なさそうな表情で謝ってきた。

「ごめんな…本当に、ゴメン。
 俺の勝手で君を傷つけてしまった」
「ううん。大石くんは悪くないよ」

結局、デートと呼べることも数えるほどしかしなくて、
下の名前で呼び合うことすらできなかった。
この数ヵ月、私たちの距離はどの程度近づけたのだろう。
あんなに大好きだったはずなのに、
本当に付き合ってたのかすら既にわからなくなってしまった。
ごめん。

「楽しかったよ、水族館。図書館で一緒にお勉強したことも。公園でのおしゃべりも」

共有してきた思い出はそんなに多くない。
だけど、ほんの些細な出来事一つ一つが、もう手放してしまった宝物のようで。

「短い間だったけど…私はとても幸せだったよ。私を好きになってくれてありがとう」

限界だ。
いよいよ泣きそうになって、立ち去る前にと最後の一言を伝えた。

「私こそ勝手で、ごめん」

頭を深く下げた。
その頭をまっすぐ持ち上げずに、振り返りながら走り去ろうとした。
なのに。

引き留められて、ぎゅっ…と正面から抱き締められた。
振りほどけないほどの強い力で。

「大石く…」
「腕を離したら、俺を殴ってくれて構わない」

そう言って、背中に回る腕に更に力が加わる。
苦しいくらいに。

「これが最後だから」

最後も何も、初めてだったじゃんか。
空を見上げてるのに、溢れてきそうだ。

…」

これでもかというほど愛おしさを込めて、
耳元で泣きそうな声で、初めてそう呼ばれて、
今度こそ私の目のダムは決壊しそうだった。

でも堪えた。
ここで私が泣いたらダメ。
私は泣いていい立場じゃない。
私から別れを切り出したんだもん。
泣かれても殴られても文句を言えないのは私側のはずだ。

顔が離されて、
私は手を持ち上げた。
大石くんは目をぎゅっとはつむらないものの軽く眉をしかめた。
殴られるとでも思ったのかな。

だけど私はそのまま手を頬に添えて、
一歩近づいて背伸びして顎を持ち上げた。

チュッ
と触れた。

「ファーストキス、あげる」

ぱちぱちと信じられない顔で瞬きを繰り返すのが見える。

「短い間だったけど幸せだったよ。じゃあね。バイバイ」

笑顔を見せたまま数歩下がって、
背中を向けて、逃げ帰るようにその場を後にした。
止まらず家まで走り抜けて、
靴も揃えず脱ぎ捨てて、
階段も勢いで駆け上がって、
ボスンとベッドにダイブ。
涙が枕にどんどん吸われていくのがわかった。


失 恋 だ ー ― … 。



  **



「(……何この顔)」

泣き疲れて寝落ちして、
仮眠から目覚めた私は鏡に写る自分の顔を見て絶句した。
その目は、瞼が全開まで持ち上がらないくらい腫れ上がっていた。

この涙は手塚くんに対してじゃない。大石くんに対してだ。
こんなに泣くなら別れなきゃ良かったのかな。
だけど絶対、大石くんと付き合い続ける限り手塚くんの顔がチラついてしまう。
だからといって今更手塚くんと付き合う気持ちにもなれない。

恋を失うと書いて失恋。
まさに失恋だ。
実れたはずの恋を二つ同時に手放してしまった。

自業自得だけど、さすがに堪えた。




  **




そこから一ヵ月も経たない頃、手塚くんはドイツへ留学することになったと発表があった。
まさか…と頭はよぎったけど、さすがにこの前の件は関係ないよね。
手塚くんはそんな人じゃない。
テニスのために、自分の夢を追って行くというのが言葉通り真実なのだろう。

暫く日本を離れるんだ。
丁度良かったのかもしれない…なんて安心している自分がいる。
あの日以降、手塚くんとはうまく話せていない。
このまま、会話をしないまま手塚くんはドイツに旅立っていくんだろうな…。

と思ってたのに。

「大石と別れたらしいな」

普通に話しかけてくるー!?
しかもしれっと核心を突くような話題。
帰りの会が終わってさっさと帰ろうとしていた私は
自分の鞄を掴もうとしたまま固まってしまった。

「だから?」

ちょっと鼻にかけたような言い方になった。
もう、今になっては手塚くんに対する「好き」の気持ちはほとんど消えていた。
私の神経を逆撫でるようなことを言うのはやめてよ、
くらいの気持ちでいたのに…。

「帰ってきたら俺と付き合ってほしい」
「…え?は?」

周りにはクラスメイトたちが普通にいる。
見渡したけど、それぞれガヤガヤしているみんなは
あまりに普通に会話しているように見える私たちの話題には着目してこない。
え、だからって、ちょ。

「今は誰とも付き合っていないのだろう」
「そうだけど…だからって手塚くんと付き合う理由にはならないけど」
「そうか…?」

ハテナが見える。
手塚くんって本当に、しっかりしているように見えて天然というか…。
そういうところを元々魅力に感じていたのは、事実なんだけど…っ!

「ではこうしよう」

手塚くんは私の机に手を突いて、
身長差のある私の耳元に口を寄せて、こう囁いてきた。

「帰国したときにお前が誰とも付き合っていなかったら、改めてお前をもらいにいく」

顔色一つ変えずに、真顔。
思わず赤面。

「いいな」
「ハイ…」

勢いでそう答えてしまった。
私の返事を確認してウンと頷くと、手塚くんは鞄を掴んで早々に教室を出ていった。
一旦立ち上がったのに、私はフラフラと再度着席。

「(やっぱりかっこいいな手塚国光!?)」

まず顔面が良い!
眼鏡男子どストライク!
声までいい!
背も高い!
クールだし!
頭も良いし!
厳格なオーラとか!
なのにド天然なとこ〜!!

そして何より、なんといっても、
テニスのために海外留学するというその行動、
誰よりもテニスが強くてテニスに一生懸命な姿勢は
私が恋に落ちたあのときからどこも変わっていなくて。

「ちくしょ〜…」

勝てない…。
ゴンと自分の頭を机に打ち付けた。

「何してんのちゃん、机動かしていい?」
「あーごめん…」

もう放課後で私はいつでも帰れて、教室は掃除の時間だ。
そのことを思い出して、足が地に着かない感じがしながら立ち上がって、帰路についた。


やっぱり手塚くんのことが好きなのか?
大石くんに対する気持ちは?
数日間ぐるぐると思い悩んだ。

私の気持ちの整理がつかないまま、手塚くんはドイツへ旅立っていった。



手塚くんの居なくなった3年1組はどうなるかと思ったけど、
意外と変化のない日常が待っていた。
手塚くん一人が居なくても、変わらず世界は回るんだなぁ…なんて。

今頃テニス三昧なのかなとか。
授業中時計を見て、7時間差を計算して、今頃向こうは何時か、とか。
帰国まであと何日…なんて指折り数えるけれどまだ先は長い。

一つの空席を目にするとなんとも言えない気持ちになるけれど、
私も手塚くんが居ない生活に少しずつ慣れていった。
だけど、見たことのない手塚くんの今の生活を想像しては、
向こうで別の人を見つけちゃったりしてないだろかとか、
付き合ってもいないのに勝手にヤキモチ焼いちゃったりして。
私って勝手だな…。


廊下でたまに大石くんとすれ違う。
それはそうだ。隣のクラスだもん。
目が合ったとしたら、微笑むべきなのか、
申し訳なさそうな顔をするべきなのか。
わからなくって、結局、うつむき加減に横を通過する。
向こうがどんな顔をしているか、私は未だに知らない。
そんなことが週に数回。


手塚くんが留学している間、私は気持ちの整理をつけながら待つことになった。
本当に手塚くんと付き合っていいのかな?とか。
もはや好きなのかわかんなくなっちゃったけどな、とか。
でもこんな重たい感情抱えてる時点で好きじゃん?とか。

いやでも“好き”と違くない?
少なくとも以前の純粋な感情とは違う。
大石くんと別れた瞬間、あの気持ちこそが本当の”愛”なのだとしたら
これはそれとは到底かけ離れた感情だ。


帰国が楽しみなような一生その日に来てほしくないような複雑な思いに駆られること暫し。

でも私がどんな気持ちでいようと時は流れる。
出発したときは、先は長いな、と思ってたのに、
過ぎてみたらあっという間だった。

手塚くんは帰ってきた。


「手塚くん、久しぶりー!」

教室の入り口の人だかりの中、顔一つ飛び抜けた高身長のその姿。
ひと目見た瞬間、心臓がドキッと鳴った。

「(って、軽率にトキめいてるんじゃないよ私…!)」

でもやっぱり……いいな、手塚くんが教室に居ると。
胸に手を当てて、速くなった脈を少しでも治めようとする。
だけど呼吸をするたびに肩の上下と一緒に鼓動まで弾んでいく気がする。

「(やっぱり好き……かも)」

この数ヵ月、頭の中では何回も思い描いていた姿だった。
なのに、本人を前にするとこんなにも胸が揺れ動いてしまうものか。
どんな想像も、実物には勝てない。
そう思った。

もう一度手塚くんが留学行く前のその姿を思い返してしまう。
『帰国したときにお前が誰とも付き合っていなかったら、改めてお前をもらいにいく』と言った、
あのときのあの言葉…。
想いは、今も変わっていないのだろうか。

当の手塚くんを見ると、みんなにキャアキャア囲まれてる。
これはダメだ。暫く近づける気配はない。
それになんといっても、数ヵ月海外でテニス漬けの日々を送っていたんだ。
なんならあの言葉も、私のことももう忘れてるかもね…。

と思っていたのに



囲いから解放されるや否や、こっちに来て声を掛けてきた。
心臓がドキンと鳴る。
数ヵ月ぶりに近くで見る手塚くんは、やっぱりカッコよくて、
より引き締まったようにも見えるけど
前からこんなだったような。
なんか直視することすら難しい。

「久しぶりだね、手塚くん。元気にしてた?」
「ああ」

とりあえず場を和ませようと思ったのに。
早々に「場所を移そう」と、

そんな大胆な。
海外の経験が、彼を変えたのだろうか。
周りの視線を浴びているような気がしながらも
促されるままに私はその背中を追った。
大胆になったのは、私も同じかもしれない。

非日常みたいだ。
手塚くんが居るなんて、この前まで当たり前だったはずなのに。
廊下を歩く足でさえ緩やかに震える。

後をついて屋上に出た。
昼休みは賑わう屋上だけれど、始業前のその時間に人は居なかった。

「今、付き合ってる人はいるのか」

前置きもなく本題に入った。
チャイムが鳴るまでそんなに時間もない。
焦らす理由も特にない。
素直に答えた。

「いない、けど」
「良かった」

ほっ。
と、笑ったように見えたのは、気のせい…?
そんな、一度も見たことのないような表情を私の目の前で。
かと思えば、途端にいつものような真面目な表情に戻して、
目を覗き込むくらい真っ直ぐ見てくる。
そして。

「俺と付き合ってほしい」

単刀直入にそう言われた。

「喜んでお受けいたします」?
「謹んでお断りします」?
頭の中を言葉がぐるぐる回って……

結局、何も言えずにコクンと頷いた。
それで精一杯だった。

先ほど以上に、あからさまに安堵を浮かべてみせたその表情は
やはり笑顔と呼んでもいいものなんじゃないかな。

「負けた…」
「これは勝負事ではないだろう」
「でも、負けた気持ちになってるの!」
「そういうものか?」

またハテナが見えた気がした。
頭は良いしあんなにしっかり者なのに、相変わらず天然なんだから。
……ぷっ。

「何故笑う」
「だって、アハハハハ!」

ハテナを掲げ続けているから、思わず大声を上げて笑ってしまった。

ああ。
やっぱり私は、この人のことが好きなんだ。

「手塚くん、好きです」
「……俺もだ」

目を合わせるのが、恥ずかしいけど、嬉しい。
昨日までの懸念はどこへやら、
最高に幸せになってしまっている私が居た。




  **




前日までは手塚くんがいなかったなんていう事実が嘘みたいだ。
その日以降、私たちは急速に距離を縮めていくことになる。

学校から一緒に帰ったり。
休日にデートしたり。
下の名前で呼ぶようになったり。

私たちの仲は順調に進展しているように見えた。
しかし、気掛かりな点が一つ。

「これは以前大石から聞いたんたが…」
「(まただ…)」

国光は、交友関係がそれほど広い方ではない。
テニスの実力と持ち前の性格も相まって、他人から一目置かれることは多いみたいだけれど、
気楽に話せる関係の友人というのは、それほど多くないみたい。
大石くんは、その貴重な人材の一人であるということだ。
でも。

「(デリカシーなさすぎない!?)」

国光の口から大石くんの名前が出ると、苛立ってしまう。
だって失礼じゃない?
私にも、大石くんにも。

元カレを話題に出されたら複雑な気持ちになるってことくらい察してほしいし、
大石くんだって元カノの前で自分を話題に上げてなんてほしくないに違いない。

この前から、大石くんが話題に上がるたびに「ふーん」ってそっけなく答えて
口を尖らせて不機嫌な態度を取るようにしてみている。
しかし、今日もさらりと話題に上がったところを見ると改善の気配なし。

「(自分が言われる側にならないと、不快だって気付かないものかな…)」

いつも、大石くんの名前を出すのは国光の方だ。
私から名前を出したことはない。
一回私の方から言って、気付かせてやるのもありかもしれない。
お返しだ!

「このお店、大石くんと入ったことあるんだ」

それは、今まで何回も前を一緒に通過してきたことのある、商店街の一角のアクアリウムショップ。
さあ、どんな反応をするか…と斜め上の顔をちらりと盗み見ると。

「そうか」

真剣な面持ちで眼鏡を釣り上げる姿が見えた。
さあ、嫌な気持ちになれ…そして、気づけ…!
そう思ったのに。

「そういえば大石はアクアリウムが趣味だったな。
 俺も釣りを嗜むから、共通の話題として魚のことでよく盛り上がったものだ。
 大石は確か淡水魚に詳しかったな」

話膨らませおったー!
しかも、普段無口なくせに大石くんの話題だとやたら饒舌じゃん!?
待てども待てども話が止まる気配がないしなんなら楽しそう。

「(逆効果、だと…?)」

その後もずっと、大石くんの話が止まらない。
ベートーベンの話したときの次くらいに饒舌だ。
国光…さては……大石くんのことめちゃくちゃ好きだな!?

「(…しんどい)」

聞き流そうと思ってたけど、流し切るにはあまりに長く続く。
これ以上続けられるのは辛い。止めることにした。

「…やめてよ」
「ん、何をだ?」
「大石くんのことばっか話すの!」

自然と語調が強くなってしまう。
対して国光は顎に手を当ててしばし考え込んだ。
間のあと、どんな返事が来るかと思ったらそれはド正論である反論だった。

「お前から話題を振ってきたのだろう?それに、
 共通の知人である大石が話題に上がるということはごく自然な成り行きであると思うが…」
「そうかもしれないけど!!」

つい感情が先走ってしまう。
公共の場だということを思い出してなんとか自分を宥めた。

「…大石くんはさ、国光にとってはいい友達なんだろうけど、
 私にとっては……元カレだから」

声が小さくなって、空気まで冷たくなった気が自分でもした。
国光はついと眼鏡を押し上げた。

「気に留めていなかった。大石は大石だし、お前はお前ではないのか」
「そう、だけど…」

正論だ。言い返す術がない。
だけど…理解し合えない気持ちのすれ違いが、苦しい。
黙り込んだ私を見かねたのか、国光はふぅと一息ついて言った。

「気になるというのなら今後は配慮する。すまなかった」
「わかってくれたなら、大丈夫…アリガト」

理解を示そうとしてくれたことが、嬉しい。
でも本当にわかってくれたのかも不安がある。
また明日になったら忘れて話題に上がったりしそうだな。

国光のこと、前からそうだとは思っていたけれど
いざ一緒に居てみると傍から見ていた以上に天然だ。
そんなところも魅力の一つと感じていたけれど、ネックになってしまうだなんて。

その点、大石くんは気配りだったな…って、
ダメだ。
こんなこと考えちゃいけない。
大石くんは元カレで、私がフって別れたわけで。

国光は、ずっと憧れの人で、
色んなことがあってやっと付き合えた人で。
今のカレシなわけで。

…でも不安だ。
これからずっとうまくやっていけるか、ちょっと自信が揺らいでしまった。
大石くんの件でもわかっていたけれど、
好きって気持ちだけで付き合っていくのは難しいんだな……。



その数日後の休日、街中でのことだった。

「あ」

思わず間抜けな声を出してしまった。

真正面から人が来るから道の端に寄って避けよう、
と思ったその目の前の人物が、大石くんだったのだ。
学校では意識して避けてたのに、完全に油断してた。
ばったりと対峙してしまった。
こんなに真っ直ぐ目線を合わせるのは、いつぶりだろう。

「ごめ…」
「あ、待ってくれ!」

早足に横をすり抜けようとした私の背中に、大石くんは声を投げかけてきて。
恐る恐る振り返ると、そこには見慣れた八の字眉で笑う大石くんがいた。

「よかったら、少し話さないか」

大石くんのその柔らかい表情には何も悪意も策略も感じられなくて、
少し一緒に歩きながら話をすることになった。


別れてから会話するの、初めてだ。緊張する…。
学校ではなるべく顔を合わせないようにしてたし、
すれ違うときも顔は伏せてたし…。
避けてるの、さすがに気付いただろうな。

そういえば、国光と付き合ってること、知ってるかな。
ちょっと噂になってるし誰かから聞いてるかもな。
国光のあの様子だと直接話しててもおかしくないな。
どうして呼び止めたんだろう。
何か私に聞きたいことでもあるのかな。
いや、言いたいことがあるのかもな…。

そんな風に思考をグルグル巡らす私。
歩き始めてもしばらく沈黙が続いた。
100mくらい歩いたかな、大石くんが明るい声色で聞いてきた。

「手塚とは順調なのか?」

心臓が鳴る。
ドキリというより、ギクリみたいな。
とりあえず、付き合っているということは知られている。それはわかった。

『大石とは順調なのか』。
この一言が私たちを破局に導いたことを思い出す。
あのときの私は、なんの疑いもなく順調だよと答えたけれど…。

「…わかんない」
「そうなのか?」
「ちょっと、色々あって…」

大石くんはあっけらかんとして聞き返してくる。
さっきから、大石くんはずっと明るくて、軽い。
暗くて重々しい雰囲気をかもし出している私のテンションを中和するように…。

私の心境を想像して、話しやすいように気を遣ってくれてるんだろうな。
自分のことは二の次で、周りにばっかり気を遣ってたもんね。
申し訳ないくらいの気配り。
かたやデリカシーのない誰かさん、だもんなぁ…。

今大石くんに「手塚なんてやめて俺のもとに戻ってきてくれよ」なんて言われたら
私はころりと落ちてしまうのでは…。

「(って、何考えてるの、私!!)」
「俺としてはなんて声を掛けていいかわからないな」

笑いながら頭をかしかしと掻いた。
その横顔を、見る。

「手塚って人間関係に関して不器用なとこあるけどさ、本当にいいやつなんだよ。
 って、そんなこと俺に言われなくてもわかってるだろうけどな。ハハ…」

情けなく笑う。
そんな様子が、とてつもなく好きだった、数ヵ月前。
でも今は違う。今の私は。

今もし本当に「手塚なんてやめて俺のもとに戻ってきてくれよ」なんて言われたら、
私は喜んで戻ってしまうかもしれない。
でももし戻っても、あのときの気持ちは二度と取り返せない。
何より、大石くんは絶対にそんなことを言わない。
それがわかってしまった。

「相変わらずお人好しだね、大石くんは」
「ん、何のことだ?」
「…弱ってるときはチャンスだよ」
「ハハハ」

笑い飛ばすみたいに、大きな口を開けて笑って、
すぐにまたいつもの八の字眉の笑顔を見せた。

「俺は、俺が好きな人たちが幸せそうにしてるのが一番嬉しいんだよ」

その言葉で、確信した。
大石くんは私と復縁する気は微塵もない。今後二度と。
そして向こうには、私の心が揺れていることも察せられていたのかもしれない。

「…ありがとう」
「ん、俺は何もしてないよ」

ううん、と私は首を横に振った。

「話せてよかった」

バイバイ、と手を振って別れた。

ごめんね大石くん。
ありがとう。



私はそのままの足で国光の家に向かった。
今すぐに、会いたくて。
小走りになりかけの早歩きで電話を掛ける。

「国光、これから会えない?」
『時間なら作れるが…どうしたんだ?』
「さっき、大石くんと偶然会ってちょっと話したんだ」
『大石と?』
「うん」
『……わかった。場所を指定してもらえればそこへ向かう』


そうして電話から30分後、私と国光は国光の家の近くの公園で落ち合うことになった。

「急だから驚いたぞ」
「うん、急でごめんね」
「いや」

……沈黙。

「ね、なんかさ、言いたいこととか聞きたいこととか、ない?」
「ん?ああ…先ほど、大石と会っていたそうだな」
「うん」
「どんなことを話したんだ?」
「……」
「あ、すまない」
「え?」
「大石のことを話題に上げることは止められていたな」
「今日みたいなときはいいよ」
「そうか」
「…で、どう思った?」
「ん?」
「……何か思うところはない?」
「……だから、どんなことを話したのだろう、と」
「…その程度かぁ」

喉の奥がずっとぎゅっとなってたみたいのが、
ゆるゆる溶け出してくる感じがする。
頭の上まで溢れそうだ。

大石くんにも応援してもらって。
きっとうまくやっていけるって思えそうだったのに。
私はもう、この人のことがよくわからない。

好かれてる自信がない。
うまくやっていける自信もない。
もう私たち、無理なんじゃないかな……。

「…………ッ」
「?」
「……グスッ」
「……、泣いているのか?」
「ふっ…う、っ、うえぇぇ……」

一度溢れ始めたら、もう止まらなかった。
目から涙が溢れるだけじゃない。
口からも嗚咽が漏れて、
私はいい年して泣きじゃくってしまった。
だって、こんなにも辛い。

「なんで、国光が、普通に、してられるのか、わかんない」

拭っても拭っても涙が溢れる。
私は前を見られない。
そこにいるはずの人の顔すら見ずに吐き捨てる。

「私のこと、本当は好きじゃないんじゃないの…?」

苦しくて、苦しくて、悲しい。
距離が近づけば近づくほどに、辛いことが増えるみたいだ。
なのに離れたくない。
だって、私は国光のことが好きだから。
なのに、だから、苦しい。

「うっ……ヒック」

いつぶりだろう、しゃくり上げて泣くなんて。
情けない。
こんなコドモみたいな。
国光はいつだって涼しい顔してるのに、
どうして私ばっかり。
私だけが辛い気持ちになってる。
もうイヤだ。


「…………、悪かった」


聞こえてきた声に思わずぱっと顔を上げる。
聞いたことがないほど声が不安げだったからだ。
聞いたことがないほど不安げなその声は、
見たことがないほど不安げな国光によって発せられていた。
こんな顔、初めて見た。

「俺は、人の気持ちを察することがあまり得意ではない」
「…うん」
「そして知っての通り…表情が硬い」
「うん」

あまりに真面目な顔で(それこそ硬い表情で)言うものだからプッと笑ってしまった。
私が吹き出したことで国光は眉を少し潜めたけれど、そのまま続けた。

「だが、お前のことを大切に思っていないわけではない」

そうなんだ。ちゃんとそうやって、思ってくれてただんだ。
気持ちを伝えるのと、受け取るのが少し苦手なだけで、
国光も心の中では色々感じて考えてくれてたんだ…。

「伝えてほしい。どんな些細なことでも。
 今みたいに感情を爆発させてしまうことがあっても構わない。
 だけどできれば、辛い気持ちになる前に教えてほしいと思う。
 …恋人同士であるのだから」

恋人同士であるのだから。
その言葉が、妙に胸に響いた。

そうだよ。私たち、恋人同士なんだ。

胸の中にあった黒い塊みたいなものが、
じわじわほぐされて、ゆるんで、
溶け出していくみたいだ。

邪魔をしてくる感情がなくなって、再認識する。
好きの気持ちが、こんなに大きかったこと。

「…じゃあさ、言いたいことと聞きたいことがある」
「なんだ。言ってみろ」
「まずね、言いたいこと。私、国光のこと大好きだよ!」

そう伝えると、国光は驚いたように片眉をピクリと震わせた。
自分でも硬いといったその表情を、少しでも動かせるのが、不覚にも嬉しい。

「それから、聞きたいこと。国光は?私のこと、スキ?」

こんな質問、国光は苦手だろうし、まともに答えてくれないかもとも思ったんだけど。

真っ直ぐ目を覗き込まれながら、言われた。


「愛している」


あまりに真面目な顔で言うものだから、笑っちゃった。

「…今は笑う場面なのか」
「ごめんごめん」

笑いすぎて目の端に浮かんだ涙を指で拭う。

「嬉しすぎちゃった」

私の彼氏は、
ヤキモチ焼かない。
なのに焼かすようなことする。
表情硬い。
なのにこっちの表情は読み取ってくれない。
これまでも苦労してきたし、きっと今後も苦労するのだろう。

だけど大丈夫だ。
こっちが真っ直ぐ向き合えば、
真っ直ぐに返ってくることがわかったから。

端正な顔を見上げると、口元に目が行った。

「(キス……)」

してほしいな、なんて。
お願いすれば、すぐにしてくれそうでもあるだろうけど。

「(こればっかりは、国光の方から察してほしいなあ)」

そう思って、顔を見つめたけれど。

「どうした、俺の顔に何か付いているか」
「…なんでもない!!」

相変わらず鈍感だけど。
もしかしたらまた嫌になることがあるかもしれないけど。
だけど、この真っ直ぐな気持ちに嘘はないってわかったから。

「おかしなやつだ」

その瞬間 ふっ と、
空気が柔らかくなって。

「(あ、今、笑った?)」
「…やはり何か付いているんじゃないのか」
「わー違う違う!」

一筋縄では行かないけれど。
まだまだ先は長そうだけど。

いつか迎えるそのときを心待ちに、一つずつ、想いを受け渡し合っていこう。
























大石の元カノ世にはびこるシリーズ第二弾。

天然にもほどがある手塚(笑)
いえね、手塚ってテニスに関しては天才的なのに
意外とポンコツな面もあるのも好きなのよね…。
100%パーフェクトな手塚が好きな人ごめんちゃい。

かたや、親友である手塚と好きな人が被ってることに気付きながら
出し抜くために敢えて相談して牽制して、先に告白した大石。
主人公ちゃんが自分を好きだと言ってくれると嬉しいと同時に罪悪感は大きくなってたから
フラれたときには「ついにこのときが来てしまったか」という覚悟ができてたのさ。

これは、大石に激重感情を抱える私が書いたからこうなったのであって、
激重感情を抱えている相手が手塚だったら
同じ設定の作品でも全然違う仕上がりになったんだろな。
とにかく大石がいい人すぎる(笑)
愛おしすぎて泣くかと思った…私なら大石を取る(←)


2020/07/26-10/06