「菊丸と何かあったのか」 ギクッとして恐る恐る振り返ると、そこにはいつも以上に眉をしかめた手塚の姿があった。はは、と薄ら笑いを浮かべながら返答をする。 「別に、何もないけど…どうしてそう思うんだ」 「今日のお前たちはプレイに精彩を欠いているように見えた」 そう言うと手塚は、俺に向けていた視線を、少し離れた位置で水を飲む英二に移した。英二は不二と親しげに話をしている。 考えてみれば、ダブルス練習中の休憩で俺と英二が離れていること自体、異様だ。普通だったら二つ並べたボトルを一人が両方拾い上げて片方をもう一人に渡して、そのまま先程までの練習の反省点なんかを議論するものだ。少なくともこれまではそれが普通だった。もっとも、その"普通”がよくわからなくなっていたのがここ最近だ。そして昨日からは、その普通を取り繕うことすらできなくなってしまった。 「喧嘩でもしているのか」 「いや、喧嘩…ってわけではない、と思うんだけど。何かあったといえば、あったかもしれない…。でも手塚が心配するようなことではないよ!……たぶん」 「…お前らしくなく歯切れが悪いな」 鋭い突っ込みに、それ以上の言葉に詰まった。なんせ、俺自身わかっていないのだ。今、俺たちの間に何が起きているのか。 「理由は言いたくなさそうだな」 「………ごめん」 「…謝る必要はない」 フゥ、と短くため息を着いた手塚は、踵を返しながら最後に一言を残した。 「週末の試合までには調子を戻せ。いいな」 「ああ。わかってるよ」 わかってる…そう返したものの、どうしたらいいのかわからない。調子を戻す方法なんて、俺が聞きたいくらいだ。 ** 「大石とケンカでもした?」 ドキッと心臓が鳴った。振り返ると不二はにっこりと笑ってた。オレはできる限りヘーゼンを装って返事をする。 「や、なんもないよ」 「否定するんだ」 ハハッと不二はおかしそうに笑った。なんだよ。否定するのが笑えちゃうくらいあからさまにヘンだってこと? 昨日家に着いてケータイを見ると、大石からの着信が入ってた。夜寝るまでに、時間を空けて合計3回掛かってきた。オレは全部無視した。話をするのも、声を聞くのもイヤで無視してしまった。けど、なおさら顔を合わせたときにどんな顔をすればいいのかわからなくなってしまって、明日どうしようと思いながら結論が出ないまま寝た。 そんな中、今日はよりによってダブルス強化練習の日だ。オレたちは今のところ不二とタカさんにコテンパンにされている。 「黄金ペアがそんなだと困るよ」 「だから、別になんもないって」 「ふーん。じゃあ、英二も大石も個人的に調子が悪いってこと?」 「……そー」 オレの答えに不二は、英二は嘘が下手だね、と言ってまた笑った。無意識に口先が尖った。「タカさんも変に思ってたよ」って、そんなこと言われたって。 ちらっと大石の方を見ると、大石は手塚と何かを話していた。たぶんどーせ、次は何の練習をするとか試合の日の集合時間はとか、そんな話。普段通りの大石だ。 「ま、何があったかまでは詮索しないけど。コンビネーションミスを連発しない程度にはしっかりしてよ」 「…ほーい」 地面を見つめながらそう返すと、「目くらい合わせたら?」と言われた。ハッと不二の方を見たけど、不二こそこっちを見てなかった。不二は大石の方を見ていた。ああ、そういうことか。不二に、「ちゃんとこっちを見なよ」って意味で怒られたかと思ったけど、「ちゃんと大石と目を合わせなよ」って意味か。そういえば、今日一回も大石の顔まともに見てないかも…。 そう思ってもう一度大石の横顔を見たけど、こっちを振り返られるのが怖くて、あまり長く見ていられなかった。こんな調子で目を合わせるとか……キツ。 ** 結局、その後の練習もコンビネーションはさんざんだった。しまいには竜崎先生に二人揃って呼び出されてしまった。ダブルスの中核を担わなければならないお前たちがそんな様子では困る、と…。それはそうだ。しかしすぐ隣、肘を張ればもう届くくらいの距離に立っているにも関わらず、俺たちは触れ合うこともなければ視線を合わせることもしなかった。そのまま今日の練習は終わった。 手塚の言葉が胸に引っかかっていた。竜崎先生からの注意に関しても反省した。何より、このままではまずいと俺もわかっている。帰りに英二と何か話すべきだと思った。しかし英二はいつの間に帰ってしまったのか、声を掛けるタイミングを逃してしまった。後で電話を掛けようか…でもまた出てもらえないかもしれない。かといって家に押しかけるのも…。とは言えこのままでは明日も今日と同じ調子で迎えてしまう。 「大石……大石!」 呼ばれる声にハッと横を見ると手塚が硬い表情をしていた。しまった。確か、今日の練習の振り返りは終えて、それから……どこから集中が切れていたんだ、俺。 「聞こえていたか」 「悪い、ちょっと…よそ事を考えてた」 「……」 手塚はその話題にはそれ以上言及せず、淡々と明日の練習メニューについての話をした。部誌に書き記しながら手塚の表情を盗み見、今日は多めに見てくれるということだろうか…などと考えていた。 明日までには、なんとかしないと。しかし、どうやって。 「大石、今日は一緒に帰らないか」 「ああ。いいけど…」 どうして…と聞くまでもなく、「詳細までは話す必要はない。解決のために俺や他の部員が一役買えることはあるのか、それだけ教えろ」そう述べて、俺がコメントする暇もなく職員室の中に消えていった。 何をどのように説明しようか、もういっそ喧嘩した体で話をしてしまうか…しかしそれでは根本解決にならないような…と、手塚が竜崎先生との話をしている間に考えていた。結局明確な結論が出ないまま、手塚は職員室を出てきた。 さてどう切り出そうと頭を悩ませながら靴を履き替え、校舎を出て、学校の敷地を離れたあたりから話しだそうかとなんとなく考えていた。しかしその考えは、学校の敷地を出たまさにその瞬間に吹き飛んだ。 「英、二……」 校門の前、てっきり先に帰ったと思っていた英二が、そこに居た。英二は俺と手塚をチラチラと交互に見比べた。どう考えてもこれは、俺が、待たれていたのではないだろうか。 「俺は先に帰る」 「手塚…」 「明日も今日のままの様子であれば、許されることではないぞ」 状況を察したらしい手塚は、一言残して足早にその場を去った。手塚が歩き去ったその方向に伸ばした俺の手が、虚しく宙に浮かんだ。みるみる小さくなるその姿に観念して腕を下ろす。さあ、どうやって英二に声を掛けるか…。 「怒られちったね」 思考に結論を出すより先、横からいたずらっ子のような声が聞こえてきた。引き寄せられるようにその方を見ると、英二は少し上目遣いにこちらの様子を伺いながら笑っていた。英二の笑顔を見るのは、一日ぶりなのに、やたら久し振りに感じた。 胸がぎゅっと握りつぶされるような感じがした。気を抜けば涙すらこみ上げてきそうだ。こんなに健気で無邪気に笑う英二のことを、俺は突き放したのだということを再認識して苦しくなった。 この苦しさは、罪悪感だけではない。 「(英二……俺はやっぱり、お前のことが好きだ)」 ** アイツがあっちに動くはずだから、オレはこっちに動こう。これはオレが届かなくても、アイツがカバーしてくれる。この球は本当はオレの守備範囲だけど、きっとアイツが走り込んでるから任せてみよう。 オレと大石のコンビネーションって、いつもそんな感じ。暗黙の了解の連続みたいなものの積み重ねで出来上がってた。なんで相手の動きがわかるのかって言われると、なんとなくとしか言えない。長年ダブルス組んできたし、日常生活でも一緒に居ることが多いから、今何考えてるとか自然と予想できるっていうか。そしてその予想が何故かいつもぴったりあってしまう感じ。 なのに今日は、なんもわかんない。はっきりいって今日の練習はヒドイもんだった。こんなにも大石の気持ちがわかんないと思うのは初めてだ。 でももしかしたら、今までもわかってた気になってただけで本当はずっとわかってなかったのかもしれない。暗黙の了解だったから。毎回口に出して確認なんてして来なかったから。 一旦そう思ってしまったら、そうとしか思えなくなってきた。怖いし悲しいし恥ずかしいし。なんでオレ今まで、大石のことならなんでもわかるとか思えてたんだろう…。 …聞かないとわかんないことって、あるんだな。今更ながらそう気付かされた。だから、ちゃんと聞かないと。大石がオレのことどう思ってるのか。 それに……オレの気持ちも伝えるんだ。今日の練習が終わったら、大石と話そう。 だけど声を掛けるのも気まずいな…待ってればいっか。大石は鍵当番だし、最後一人になるはず。 「エージ先輩、今日帰りバーガー行きません?」 振り返ると、そこには桃とおチビの姿。 いや、今日は予定あるから……そう言えばいいのに。 「あ……オッケー」 大石と話がしたいから、というのがなんだか気恥ずかしくて、隠してしまった。別に隠すようなことなんかじゃないはずなのに。何やってんだ、オレ。 いいや。あとで電話しよう。昨日は大石の方から何回もかけてくれたんだ。まずは昨日は出なくてごめんねって謝って、そのあと、色々な話をしよう。そう決めて、桃たちと一緒に学校を出た。そして、いつの間にかいつものバーガーショップに着いていた。歩いてる間、なんか話してたっけ。それすら憶えてない。頭の中は別のことでいっぱいだ。 「英二先輩、決まったっスか?」 「あ、ごめんまだ…」 「一緒に頼みましょーたまにはオレ奢りますよ」 「え、なんで?いいよ別に…」 「いいからいいから!」 そう言って、桃はオレにバーガーセットを奢ってくれた。なんだろ…今日はオレの誕生日でもなんでもないし。もしかしてなんかたくらんでる?今日はおふざけに付き合えるようなテンションじゃないんだけどな、オレ。 そう思いながら席に着けど、特に何か話を持ちかけられる様子もない。暫くは三人とも食べるのに夢中で無言だった。1つ目のバーガーを食べ終えたタイミングで桃が口を開く。 「今日、ダブルスの練習どんなだったっスか?」 聞かれてドキンと心臓が鳴った。もしかして…不二も気付いてたみたいに、桃たちもヘンに思って、何か様子を探ろうと思って呼び出されたとか? 「や……別にフツーだけど」 「そっスか」 聞いてきた割には興味なさそうに、桃は勢いよく2つ目のバーガーを頬張った。なんだただの雑談か、と胸をなでおろしたとき。 「英二先輩、そっちの練習終えてから元気ないから、ちょっと気になって」 桃はそう言って、ちらっとこっちを見てきた。越前も見てきてた。 「え……うそ」 「いや、なんもないならいいんスけど。もしかしてなんかあったのかなー、って」 桃は喋りながらもむしゃむしゃとハンバーガーを頬張ってて、横で越前は無言でポテトを食べ進めてた。オレは胸がつかえたみたいな、うまく飲み込めなくて、ハンバーガーが半分食べかけのまま止まってる。 なんかあったよ。大アリだよ。今日はダブルスのコンビネーションがなんもうまくいかなかったんだ。いつもだったらしないようなミス連発しちったし、修正も利かなかった。片方がミスしたらもう片方がフォローするはずなのに、それもうまく噛み合わなかった。ボロボロだったよ、今日の練習は。 コンビネーションがうまく行かないことは、今までだってなくはなかった。だけど話し合って、反省して、少しずつ改善していくものだった。いつもだったら。なのに今日は相手のミスに対して癖のように「ドンマイ」「次行こう」と声を掛けるのが精一杯で、まともなコミュニケーションなんてありはしなかった。 苦しかった。だって大石は、オレのダブルスパートナーは、オレの好きな人なんだよ。お互いの気持ちを確認できたつもりだったけど、それはオレの勘違いだったかもしれなくて。そう思うと怖いし、悲しいし、恥ずかしいし…色んな気持ちがごちゃごちゃになっちゃった。そうしたらもうわかんなくなっちゃった。いつもどうしてたかも。どうやってテニスしてたかも。わかんなくなっちゃったんだ。 今日は結局大石と目を合わすことすら出来なかったんだ。オレは、大石のことが、こんなにも好きなのに……。 「―――」 会わなきゃ。 ダメだ、電話なんかじゃ。明日でもダメだ。今日のうちに、今すぐにでも、大石と会って、顔を突き合わせて、話したい。 オレ、大石のこと、好きなんだ。 「オレ、忘れ物気付いたから学校戻んね!」 「えっ?あ、了解っス」 荷物を持って、自分のトレイを持ってその場を後にする。お店を出ようとするあたりで「やっぱり今日の英二先輩、変だよな」って桃の声が聞こえた。やっぱオレ、気ぃ使ってもらってたんだな…。 そう思いながら学校へ向けて走った。時計を確認して、丁度もうすぐ大石が来る時間のはず、と思ったのに…。 「(なんで手塚がいんの!)」 「英、二……」 大石は手塚と一緒に校門を出てきた。オレは大石と話がしたいんだけどって言う?なんとなく3人で帰って大石と二人になれるタイミングを探る?どうしようかと考えてるうちに、大石と手塚はなんかごちゃごちゃ話してて、手塚は先に帰ることになった。「明日も今日のままの様子であれば、許されることではないぞ」と、おそらく今日のダブルス練に対する苦言を呈して。 オレと大石が残った。大石はぽかんとしていて、その横顔におそるおそる声を掛けた。 「怒られちったね」 その切り出し方は、なんだか、今までも何回もあった仲直りのときと似ていると、自分で言いながら思った。 ただ違ったのは、いつもは釣られて笑う大石が、今日は笑わなかった。悲しいみたいな申し訳ないみたいな顔をした。オレがみたいのは大石のそんな顔じゃないのに。 「……ごめん」 ズキッ……って、心臓が痛んだ。次の言葉はだいたい予想ができる。「俺はやっぱり英二を特別な意味で好きでは居られない」とかそんなとこだろう。 涙で目が一杯になって視界が揺れる。本当は泣きたくなんてないけど、ウソでも笑うなんて無理だ。 苦しい。苦しい。 ** 色々話さなければいけないと思っていた。昨日、通話が繋がることのないコール音を何十回と聞きながら、どうやってお互いの気持ちを確認して、今後どのような関係性を築いていけば良いかと考えていた。先程手塚にどう切り出そうとは考えていた通り、俺たちゴールデンペアは今あまり良くない状況にあるからどうやって改善するべきかをもっと真剣に考えるべきである。 だけど、もう俺の想いは止まらなかった。 英二……俺はどうしたって、お前のことが好きだ。 「本当はダブルスパートナーとしてどうしたらいいかを話さなきゃいけないのに、俺はもうお前をただのダブルスパートナーとしては見られない」 週末に控えた試合のことが頭をよぎった。こんな会話、何の解決にもならない。寧ろ悪化させるだけだ。もう黄金ペアは解消かもしれないと頭の端で思って、心臓がズキンと痛んだ。 「ごめん。でも、好きなんだ……英二」 そう伝えた瞬間、ドン!という胸の痛みにハッとした。英二に思い切り胸を叩かれていた。 「英……」 「なんで謝るの!」 英二は目に一杯の涙を溜めていた。 「なんでオレのこと信じてくれないの!」 「昨日から…っていうか、初めてキスした日から………っていうか、そのもっと前から、オレの頭の中はずっと大石でいっぱいだよ」 え………?本当に? 「オレも大石のこと信じるから、大石もオレのこと信じて!」 「でも、英二…」 「でもじゃないよ!!」 ガシッと俺の肩を掴んできた。大きな両目が覗き込んでくる。 「信じてくれないんだったら、大石が信じてくれるまで、オレは言い続けるから!」 俺が信じる、まで……。 そうか。信じられていないのは、俺だけだったのか。英二は俺のことを好きでいてくれて、信じてくれていたのに…。 って。 「ちょ、ちょっと待て英二!」 顔がそのまま近づいてくることに気付いて、思わず突き放した。 「なに、まだ止めんの?」 「だって、こんな道の真ん中で…」 ここは校門を出た目の前であり公道だ。今は丁度人通りはなかったが、いつ人が通りかかるか…! 「初めてのときだって道の真ん中だったじゃん」 「そうだけど…アレは英二の不意打ちだっただろ!?一瞬だったし…」 そう、アレは一瞬だった。瞬きをしていたらいつの間にか通り過ぎていたような、本当にキスをしていたのかさえ疑わしいくらい、刹那的なものだった。 充分な理由付けをしたつもりになっている俺に反して、目の前の英二はニヤニヤと笑っていた。 「何、大石、長いの期待してた?」 「そ、それは…!」 昨日までそういう行為に勤しんでいて、いつの間にか習慣化してしまっていたからで。だから、別に期待してたってわけではなく…! ………いや、期待していたかもしれない。また、君とあのように触れ合えると。 「じゃあ、大石ンち行こ」 「えっ、うち!?」 「だってここじゃあダメなんだろ?」 そう言ってさっさと英二は帰り道を歩き始めて、本当に、俺の通学路をそのままなぞって…俺の家まで来てしまった。その間も会話はほぼなくて、ただずっと隣に居るだけでだけどそれがとても、幸せだと思った。 「ここなら大丈夫だよね!?」 俺の部屋に入って扉を閉じた途端、待ちきれなかったみたいに、英二が掴みかかってきた。不安な気持ちにしていたことを思い知って、もっと大切にしたいと思って、それは拒絶をすることではないのだと、やっとわかった。 「英二」 自分の鞄を下ろして、英二にものも受け取って床に置いた。英二の両肩に手を乗せた。 「これはただの友達同士がすることじゃないぞ」 「わかってるよ!」 「後悔しない?」 「しないってば!何度だって言ってやるっていっただろ、オレは大石のことが好…」 言い終わるより先に、唇同士を合わせた。昨日までも何度も感じたことのあるはずのその感触で、胸の奥がグラグラと燃えたぎる。抑えられない感情が走り出しそうだ。でも、もう抑えなくていいって英二、そう言ったよな?今更無理だなんて言わないよな? もしも言われたって、今更無理なのはこっちも同じだ。英二、お前が好きだ。もう止められない。 顔を離して目の前を見ると、英二もゆっくりと目を開けるところだった。至近距離で目が合って、くすぐったくって、俺たちは二人で声を出して笑ってしまった。 「どうやって仲直りしたのって聞かれても、答えられないね」 英二はそう言って舌をぺろりと出していたずらな顔をした。「そうだな」と返しながらも 明日はダブルスの調子は良さそうだ と思った。 |