もうイヤだ。


 明日会社行きたくない。


 全部ヤダ。


 もうヤダ。


 ムリ。












  * マグロは動かないと死ぬ *













 「ただいま」
 午後9時。いつもよりは早いが決して早いとは言えないその時間に大石は帰宅した。結婚して2年になる妻、は大抵先に帰宅している。ガチャガチャと鍵を回してドアを開けば「おかえりー。ピンポン鳴らしてくれれば開けるのに」と小走りで駆けよってくる。その姿に毎日些細ながら幸せを感じていた。
 しかし今日は、玄関のドアを開けても中は暗かった。まだ帰宅していないのか。目の前には少しヒールの高いパンプスが爪先を家の内側を向けて更に片方は倒れているという、明らかに脱ぎっぱなしの状態でそこにあった。いつもきちんと踵を揃えて並べ直すにしては珍しい。
 何より、電気が点いていないのがおかしい。でも、靴はあるということはもう帰宅しているということだ。違和感を抱きながら、大石は廊下、居間と順に電気を点けながら歩を進め鞄を下ろした。寝室に目を向ける。寝室の扉は閉じていなかった。中は暗い。
 「…、居るのか?」
 もしかしたら寝ているかもしれない。そう思い抑えめの音量で声を掛けつつそっと中を覗くと、そこには仕事着のままベッドに四肢を投げ出しているが居た。目は開いている。
 「どうした、電気も点けないで。体調良くない?」
 「……しゅういちろう」
 普段聞かないような、掠れた、明らかに弱った声に狼狽した。自分も疲れているだろうのにこちらも元気になるような笑顔で迎え入れてくれるからは想像できないような、普段とはあまりにかけ離れた姿であった。
 どう声を掛けようか。こちらから問いかけて良いものか。大石が頭を悩ませていると、呟くようにの口が零した。
 「もうヤダ。ムリ」
 「…何かあったのか」
 何か原因があってこうなっている、と想像するには十分な言葉が得られた。大石もベッドに腰を下ろした。の目線は変わらず天井を向いている。
 「………言いたくない」
 「……そうか」
 拒絶に近いような言葉に、大石は戸惑った。時たまが口にするああしろこうしろだののわがままなんて可愛いものだ。何をしてやればいいのか、今はそれすらわからない。
 「秀一郎」
 名前を呼ばれて大石はそちらを向いた。宙を見つめるとは目は合わない。まばたきさえしなければ人形に見えるかの如く動かないが、口を動かす。
 「何も言わずにぎゅっとして」
 表情の変わらない顔から涙がポロポロとこぼれ出す。頼まれなくても、そうしたいと思った。動かないその体をぎゅっと抱きしめた。声も何も掛けられないが、その腕の中の存在を確かめるように、力だけを強く込めた。
 …どれほどそうしていただろう。もしかしたらそのまま眠りに就いているのではないか、だったら自分もあまり動かない方が良いかと考えていた大石の耳に、予想外な言葉が届く。
 「そのまま抱いて」
 「え」
 驚きすぎて、まんま声が出た。
 抱いて。そうは言うけど、既に抱き締めた状態である。つまり、更にここから抱け、というのは。
 「どういう意味」
 「わかるでしょ」
 「……」
 もちろん、意味はわかっていた。解釈が正しかったということが、の一言で確信に変わった。
 戸惑いはあった。自分に抱けるのか、この状態のを。そんな気が起きそうにない。だけどそれがの望むことなのだ。その戸惑いを抱えたまま、大石は上半身を捻るとの体に迫った。
 ワイシャツのボタンを一つ一つ外す。抵抗は見せない。袖を脱がそうとしたが、難しそうだ。前だけをはだけさせた。ブラジャーのホックを外そうと背中に手を潜り込ませようとしたが、手が入らない。実はいつも背中を少し浮かせて居たのか、と大石は初めて気が付いた。そして、今日はそれすらする気が起きない状態だということにも。
 下着の上から乳房全体をほぐすように揉んだ。が何一つ表情を変えないのを目の端で視認しつつ、胸元に顔を寄せ、唇を這わせる。お風呂上がりのふんわりと石けんの香りが漂う肌とは違う、一日頑張ってくたくたになった体だ。その体の端々に唇を吸い付かせながら、大石はを労いたい気持ちが増した。タイトスカートのチャックを下ろして引きずり下ろすように脱がせ、ストッキングも少しずつたぐり寄せて脱がせた。何も抵抗もなく、ははだけたシャツと下着だけという姿になった。
 「(俺は、できるのか。こんな相手に。)」
 見る見る乱された姿になっていくを見ても、一向に下半身が反応しない。だって気持ちが良いはずがない。こんな状態で。そう思った。
 はどちらかというと積極的なタイプだ。男性にリードさせるだけでは満足せず、自らあれこれと動く方である。初めての時から、稚拙ながらに大石を喜ばそうと懸命に尽くしたし、疲れてしまったり感じすぎてしまったり自分が動けないときも、声や表情で、いつだって自身の存在は感じさせていた。
 確かに質量と、温度から、そこに居るのはわかるのに、こんなに「生」の感じられないは初めてであった。
 「(いけない。俺まで泣きそうだ。)」
 ぐっと込み上げるものがあって大石は下唇を噛み締めた。でもとにかく進めるしかない、と、秘部を隠す最後の下着も脱がせた。親指を割り入らせるように中心部に触れた。当たり前だが濡れてはいない。舌先で突起を、つついた。わずかにだかピクンとの体が反応し、嬉しいような、安心したような気持ちになった。
 いつもならば「気持ちいい?」とか「大丈夫?」とか、なんらか声を掛けている場面かも知れない。ともすればその愛しさにキスを落とすこともあっただろう。だけど、今日のは、どう扱っていいのか。少しでも間違えたら壊してしまいそうで、慎重にならざるを得なかった。
 それでも、この行為自体はの望んだものなのだ。先ほど反応があったその部分に、また舌先を押しつける。ゆっくり、じっとりと舐め上げていく。すると、唾液だけではないもので湿り気が増してくるのを感じた。見上げてみると、いつの間にか表情は変わり、目を閉じ眉間に力が込められている。溢れてきた蜜を掬い上げるように下部から舐め上げ、全体に刺激を与える。舐めても舐めても切らすことなく蜜を湧き出させてくるその部分に、舌先を差し込んだ。下腹部に力が籠もったように見えた。
 快感は与えられているようではあったが、どこか物足りない。などと言っては怒られてしまうかもしれないが、の声が聞こえてこないのは、正直に、張り合いのない感じはした。
 舌先を更にぐりぐりとねじ込み、が感じやすいと熟知している入り口付近を執拗に攻めた。「ンッ…」と喉の奥から振り絞ったような声が聞こえた。もっと攻めた。いつの間にか、自分の下半身にも力が宿っていることに大石は気付いた。
 「指、入れるよ」
 一本、それはするりと奥まで飲み込んだ。前後させながら確認すれば充分に濡れているし、ほぐれている。もう、ここまでくれば挿入の準備であった。指の本数を増やして具合を確認する。二本目も容易に飲み込んだ。三本目も。
 大石はベルトを外してチャックを下ろしながら枕元の小物入れに手を伸ばし、自身を軽くしごくとコンドームを装着した。の両足を抱えて体を割り入れ、そそり立つその棒の先端部をの入り口に当てた。
 「いくよ」
 予想通り、返事はなかったがそのまま奥へ刺し込んだ。
 「…んっ、ふ…っ!」
 「大丈夫か?」
 久しぶりに聞こえたの声に戸惑うように大石は声を掛けた。気持ち良いと感じてくれているだけなら良いが、今のなら、痛くてもそう言い出せなさそうだと思ったからだ。様子を確認しようと顔を覗き込むと、眉間に思いきり力を込めて顔をしかめていた。これは、どっちだ。
 もう一度だけ、腰を大きく前後させる。「あっ!」と今までで一番大きな声が出た。
 顔を覗き込む。眉間の力を緩ませたは、ゆっくりと目を開けた。手を持ち上げてくるから何かと思うと、そっと頬に触れてきた。そして声を出さないまま「キモチイイ」と口が動いた、ように見えた。
 十分だった。大石の中の、への愛しさを爆発させるには。
 「…!」
 ぎゅっと体を抱き締めた。この細い体で、受け止めているのだ。様々な苦難を。先ほど何があったのかと聞いたとき「言いたくない」とだけ言い放ったその言葉の裏には、どれだけの苦しみがあったのだろう。
 大石が様々想像していると、耳元で鼻を啜る音が聞こえた。泣いているのか。
 「いいぞ、我慢しなくて」
 それだけ伝えると、啜る頻度がさらに増えた。そして、ヒックヒックと、ひきつるように胸が上下した。
 「う……えええ」
 「…よしよし」
 「うえぇぇぇぇぇん!」
 小さい子をあやすように頭を撫でると、もまた、小さい子のように泣き叫んだ。
 年を取って。体が大きくなって。傷ついても交わす術を手に入れながら成長して。それでも、心の弱い部分は、何一つ変わっていないのだ。
 泣きじゃくるを見、これはこのまま続きをするのは無理かな…と判断し、大石は自身をの中から抜くことにした。刺激を失って少し強度も下がっているようだった。
 声を張り上げながらしゃくり上げているの頭を撫で続けながら、下半身をズッとずらすと、は「待って!」と叫びに近い声を上げ大石の腕にしがみついた。
 「抜かないでっ」
 顔中を涙でびしょ濡れにしながら、は懇願してきた。しがみついてきた腕の力は弱かったし、たまにやるように、腰に足を巻き付かせるまではしなかった。でも。久しぶりに感じた、からの意思だった。
 「…私の中に居て…!」
 「……ッ」
 再び腰を前後させ、思いきり奥を貫いた。泣き声なのか喘ぎ声なのか両方なのかわからないような声では鳴いた。一番深い部分を抉るように押し当てながら、先ほどからとめどなく声を漏らすその口を塞ぐように、キスをした。もう一度。もう一度。思い返してみれば、今日はの体をどう扱って良いものかと考えているばかりで、今初めて唇を重ねたのだということに大石は気づいた。
 「…俺の前では、無理しなくていいから」
 情けない。大石は自分の不甲斐なさを悔いていた。これはへの優しさではない。自分の甘さだ。無理はしなくていい、そう伝えながら、本当は「お願いだから、俺には無理をした姿を見せないでくれ」と言っているのだ。そんなを見ているのは苦しいからだ。いつも元気づけてくれる存在に、自分は同等に元気を与えられているのか…情けなさしかない。
 の辛さを身代わりすることはできない。でも、たとえそのすべてを請け負うことは無理でも、一部だけでも受け止めてあげたい。そう思った。自分に今できるのはの体を抱きしめることくらいだ。
 腰の反った位置に腕を回して、ぎゅっと引き寄せた。繋がった部位が、より深く交わる。体を前後させるたびに、ベッドがこれほど軋んでいるのだと、初めて気づかされた。声が聞きたい。そう思った。負担は掛けられない、とも。
 
 
 ……。
 本当は声に出して何度も呼びたい衝動が湧き上がりながらも、大石はそれを抑えた。今は何をしても、琴線に触れてしまいそうで。
 それでも目の前の、自分の動きに合わせて揺さぶられるだけの、壊れそうなほどに儚く細い体を抱きながら、どう、この感情をコントロールしたら良いものか。
 「…」
 留め続ける術もなく、それは口から滑り落ちた。すると。
 「しゅーいち…ろう」
 大石の振り絞ったような声に応えるかのように、聞き取るのもギリギリな程に小さく囁いた。硬く瞑った目を開くと、わずかではあるがの口角が上がるのが見えた、かと思うと、次の瞬間には眉を顰めた。
 「大丈夫、キツイ?」
 腰の動きを緩めて問うと、ふるふると首を横に振った。
 今度は笑った。間違いなく。
 「きもちい。ありがとね。すきだよ」
 …胸が一杯だ。
 「…俺も、好きだ。本当に…」
 今がどういう状況とか、一度忘れた。君が好きだ。愛している。それだけの感情で腰の動きを早めた。
 果てが見えてくる。
 「、そろそろ…イクよ」
 「ん…」
 「ハァッ………ん、うっ!」
 体に力が籠もり、抜けていった。熱くて、恍惚として、でも頭の端の方には罪悪感に似た何かがあるような…切れた息が戻る頃には、その感情も薄れていた。
 汗がすごい。思い切り覆い被さっていたが重くなかっただろうか。そういえば入れたままだ。
 様々なことが頭をよぎったが、それ以上に、この存在を抱き締め続けていたい。その思いで大石はの頭を撫でて体を抱き締め直すと、の方からも背中が腕に回されてきた。
 着替えていないし夕食も食べてないし風呂にも入っていない。でもいい。今日はこのまま、少しだけ休もう。
 そう心に決めて、大石は大きく深呼吸した。連動するようにの胸も大きく上下した。
 何も解決はしていないかもしれない。それでも、せめて今だけは安らぎを。そう祈りながら、そっと瞼を下ろした。

























調べるのも気が遠くなるくらい超々々久々のナレーター視点だ!!
と意気揚々と書き始めたが、完成させる間に他のを先に書き終えてしまった笑
(多分大石夢ナレーター視点は10年レベルで書いてなかった)

こんなシリアスな話にふざけたタイトルを付けたことは
どうかと思っているがタイトル自体は割と気に入っている笑

あ、この夫婦は避妊したいつもりはないけど処理が大変だから
いわゆる危険日付近以外はゴムつけてます(細かい設定)

ちなみに落ち込んだときの「何も言わずにぎゅっとして」って台詞は
知り合いの先輩から頂いた言葉なんだが、す、すげぇな、
その発想は私には一生浮かばん…(←メンタル鋼ちゃん)


2019/09/01-2020/04/10