* 花嫁物語 〜封土の探察〜 *












その日まで、普通に過ごしてた。

そう、あの日まで。


留守電。いつもは入っていてもせいぜい3件。

今までで一番多くても4件だった。


会社から帰ってすぐ、もう癖になった、
留守電のチェックをする。

ボタンを押すと、電話のすぐ横のソファに腰掛ける。

でも、何かがいつもと違う。

まず、留守電の記録に13件も入っていた。

だれか緊急の用事でもあったのか?と思って耳を澄ませた。

すると…。


“ピッ 

  海堂薫さんへ。
  やぁ、今日も綺麗だね。
  朝はいつもより起きるのが10分遅かったね。
  昨日残業で遅くまで残ってたからかい?
  ちゃんと寝ないと、肌に悪いよ。
  それじゃ、また後でね。

 ピッ

  薫さんへ。
  今日の朝食もバランスいいね。
  トーストにハムにサラダにスープにココア…。
  食事の量は結構多いよね。痩せて見えるけど。
  それとも、脱いだら凄いのかなあ?クスクス

 ピッ

  薫ちゃんへ。
  最近化粧濃くなってないかい?
  折角素顔綺麗なんだから。
  口紅は、赤が似合うと思うよ。
  薔薇のような、血のような、濃い赤。
  もちろん、ピンクでも素敵だけどね。

 ピッ

  薫へ。
  上司に怒られたって、落ち込まなくていいよ。
  失敗は誰にでもあるって。
  なんなら、俺が慰めてやるから。

 ピッ

  俺の薫へ。
  ちょっと今日苛付いてなかった?
  もしかして今セイ”


『バン!!』


「ハァ…ハァ…ハァ……」


…何?

何何何!?

どういうことよこれ!?

よく見たら、留守電の記録全部同じやつからじゃない!!

もしかしてこれって、今流行りの…ストーカーってやつ!?

まさかまさかまさか!?


……深く考えるのは止め。

今日は…早く寝よう。



夕食を食べる気にもなれなくて、
私はシャワーをサッと浴びていつもより3時間早く布団に入った。

でも…なかなか寝付くことが出来なかった。

頭の中には、電話から聞こえてきたあの男の、
感情の感じられない淡々とした低い声が回っていた。

今も誰かに見られてるんじゃないかと思うと、寒気がした。

思いっきり布団を深く被って、
早く寝てしまおうとただそれだけを考えた。


 **


『海堂薫さん…薫さん…薫ちゃん…
 薫…かおる…カオル……、

   俺  の  カ  オ  ル  』


「!!」


身を起こすと、そこはいつもの自分の寝室。


「ハァ、ハァ……夢?」


やな夢見た…。

あの男の声だ。


夢の中、誰かも分からない声が、
少しずつ少しずつ迫ってきた。

始めは、遠くから小さい声が。

木霊して、響いたような声が、
ずっとぐるぐる回ってた。

それが、少しずつ近付いてくるように、大きくなって。

ぐるぐる、ぐるぐる回りながら追いかけてくる。


そして、最後の部分だけは…まるで耳元で聞こえたようで。


「っ!!」


思い出すだけで、寒気がした。

やばい、吐きそ……。


怖い。怖い。怖い!


「助けて…」


一人暮らしのマンション、
誰も居ないと分かっているのに、私は思わずそう呟いた。

自分の体を抱き締めて、肩が震えていることに気付いた。

嫌な寝汗を掻いて、パジャマが肌にぺたりと張り付いている。


時計にチラリと目をやると、
まだ深夜3時。丑三つ時。

もう一度寝なくては明日体が辛くなる、
そう思って布団にもう一度潜った。


でも、なかなか寝付くことが出来なくて。

恐怖の渦巻く中、浅い眠りにしか眠りにつくことに出来なかった。

夢の中、何度もあの男の声が聞こえたのを憶えている…。

ただただ、私の名前を呼び、追い掛けてきた。

絶対、逃げることは出来ないとまで言われた。


夢の中、夢の中なのだけれど……。




 **




「……」


結局しっかりと眠ることが出来ず、
極端に浅い眠りを何度も繰り返した。

次の日の朝頭はまだボーっとしていて、
顔もなんだかやつれているように見えた。

まあ、それは元々そのように見える顔なのだけれど。

いつも以上に、酷い気がした。

朝起きたら一番初めに開けるはずのカーテンを開けないまま、
私はとにかく仕事に出掛ける準備をした。


朝ご飯は、喉を通らなかった。

いつもの、半分以下の量。

トースト半分、レタス一枚、スープ一口、コーヒー。

カーテンは閉めているのに、
ドアの鍵は掛かっているのに。

どうしても、誰かが後ろから見ているんじゃないかという不安が、
取り除けなかった…。


とにかく、いつも通りに。

お皿を洗って、身支度を整えて。

そして、出掛ける。


「……」


ドアノブを握る手が震えた。

大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて、
ぐっと力を入れて捻った。

鍵もちゃんと閉めて、いつも通りに階段を下りて。


そういえば、今朝は新聞を取っていないことに気付いた。

ポストを開ける。

すると、新聞の他にもう一枚手紙が入っていた。

差出人は、不明。

模様も何もない、白い封筒。

封の部分には、赤いハートのシール。

…今時ラブレター?

古風な……。

指で破いて開けてみると、こんな言葉。


『右斜め下を見てごらん。
 君の身長だと15.3cm屈まないと見えないかも』

「……?」

とにかく、少し屈んで右斜め下を見てみた。

すると、詰まれた箱の陰に何かが見えた。


「……花束?」


そう、そこにあったのは、それはそれは豪華な
真っ赤な薔薇の花束だった。

そっと抱え上げる。


「どう…して……?あ、っつ……」


指にチクリと棘が刺さり、
プクリと血が盛り上がった。

そのとき、手紙が花の中に挟まれていることに気付いた。


「……!!」


私は思わず花束を取り落とした。

だって、その手紙の内容は…。


『愛する薫へ。

  プレゼント、気に入ってくれたかな?
  君に似合う真っ赤な薔薇だ。
  それとも、君の指から流れる血のほうが、もっと綺麗な赤かな?
  愛する君に、捧げるよ      謎の男』


「!!!」


私は花束を拾って階段を駆け下りると、
マンション共有のゴミ捨て場にそれを放り込んだ。
手紙も、文字が読めないくらい粉々に千切って、捨てた。


何?

本当になんなの!?

手紙の内容だって……。

私の行動、読まれてるの?


……怖い。

助けて……!


私は、駅まで走った。

電車が来るまで待つ時間、
ホームに立っているのが恐かった。

トイレの個室に鍵を掛けて入り込むと、
蓋を閉めた便座にずるりと座り込んだ。


「なに…なんなのよ!」


恐怖で足が震えた。

精神的に完全に追い詰められていた。




 **




「……」

「海堂さん、おはよ」

「あ、お早う御座います!」


いけないいけない。

思わずボーっとしてたみたい。

仕事なんだから、きちっと頭切り替えなきゃ…。


幸い、ここに来るまでは何もなかったし。

それとも…今日の痴漢は例の男だったのかしら!?

いや…あれはきっといつもの常習犯よ。

とか考えてる自分も恐ろしいけど…。


「よっス、何思い詰めた表情してんだ?」

「っ!桃城君!」

「おぅ、俺はそんな勢いの方が好きだね」

「……」


コツンと頭を叩かれて、私は振り返った。


この人は、桃城武。

私と同じ時期に、会社の募集に申し込みをしていた。


面接の日、それは忘れもしない出会いの日。




 **




私は、ガラにもなくがっちがちに緊張していた。

すると、後ろから一言。


「よう姉ちゃん、いい足してるねぇ」


……。

振り返ってみると、知りもしない男。

こいつナンパ師?とか思っちゃったわよ。

だって、いきなり…ねぇ?

一見は軽そうな印象は受けなかったけど、結構軽いのかなあと思った。


そのまま、自然と話をした。


年は同じだったとか。

昔テニスをやっていたと聞いて、微妙に話があってしまったりとか。

そいつ曰く、「男はスマッシュでどーん!だぜ」らしいけど、
まあ、私女だし。


そして、彼女居なさそー…とか思って訊いてみたら、


「あん?これでもなぁ、オレにはかっわいい許婚が居たんだぞ!」


だって。

なんだか、過去形が気になったけど…。


「でも、その子は別のやつと結婚した」

「うわ、やっぱり…」

「オイ、お前突然失礼なやつだな!」

「…あんたに比べればマシよ」

「うわっ、そりゃひでーな、ひでーよ」

「……」


やっぱり、軽いから彼女も取られるのよ…。

と、思っていたとき。


「でも、オレにはちゃーんと可愛い彼女が居るわけよ」

「…そうなの?」

「ああ、これがまたべっぴんさんでよぉ!」

「なに、今度はノロケ話?」

「…お前、ホント冷たいのなぁ」

「ゴメンなさい、自前なの」

「あ、そうかよ」

「……」


彼女、居るんだ…。


いや、ショックなんて受けてないけど!

意外だなあと思っただけ。そう。

コイツと付き合うなんて、その子もまた物好きね…ってこれは失礼かしら。



「次、27の人ー!」


「あ、私だ」

「なんだ、一番違いかよ」

「…だからなに?」

「なんか縁起悪いじゃん?」

「どこがよ!」


なんて失礼なやつ。


そんなこと考えながら、私は立ち上がった。

でも、なんだかそんな話のうちに私の緊張は解れていた。


面接の間、私は何度もイメトレした通り、
自然な感じで話すことが出来た。

手応えは、有り。


「はい、じゃあ上がっていいよ」

「有り難う御座いました」


深く頭を下げて、私は部屋を出た。

部屋を出ると、アイツと目が合った。


「どうだった?」

「ええ、勿論バッチリ」

「可愛くねーなぁ…」

「お生憎様」


全く、素直な性格じゃないと自分でも思うけどね。


「次ー、28番の人!」


「おっと、オレだ」

「…あ、そうそう。一つアドバイスがあるの」

「え、なになに?」

「失敗しなさいね」

「…はぁ!?」

「だって、受かったら同じ場所で仕事することになっちゃうでしょ?」

「お前なー!!」



数日後、私の家には合格の通知の手紙が入っていた。

張り切って、指定された日に会社へ向かうと、

「お、また会ったなー!」

「!」

…アイツが居た。


私が嫌そうな顔をすると、
「そんな顔してると運が逃げてくぞ?」
とまで言われた。

何がしたいのか分からない。

でも、悪いやつではないのかも…とは思った。


結構喋るのだけど、ケンカばかり。

そんな関係は、ずっと続いている…。



 **




まったく、良いのか悪いのかも分からない仲。

前から、何も変わらない。


性格なんてそう簡単に変わるわけないもの。

向こうもこっちも、何も変わらない。


いや、一つだけ変わった。



「オレ、今月の末結婚することになったんだ。結婚式、来てくれるよな?」



…数ヶ月前に言われた言葉。

呼ばれて断ることも出来ず、私は出席することになった。


式の間の、幸せそうな表情。

それを見て、心にチクっと棘が刺さったみたいに感じた。

何故かは、分からないけど…。


まあ、そうしてアイツは結婚したわけで。

今では幸せに結婚生活を過ごしてるそうです。

さっきも、愛妻弁当が何とかいう話を聞いた。


それに対して…。

私なんか…こんな………。




 −−−





「……」

「どうしたんだ、桃城。やけに機嫌良いじゃないか」

「あ、分かります?」


しまったしまった。

思い出すとついニヤケが…。


…へへっ。

実は、今朝めちゃくちゃいいことがあったわけだな。



「何があったんだ?」

「実は今日妻が弁当を…」

「お、進歩じゃないか?」

「いやーそんなもんっスかねぇ!」


思わず惚気モード。

思い出すだけで、またニヤケが…。

いけねいけね、仕事に集中しなくっちゃな。




 ** 





「やーっと昼飯だ!」


昼飯ってのは、いつでも楽しみなものだよな、うん。

でも、今日は更に特別なのだけれど…。


「桃城、今日も食堂でなんか買うだろ?」

「あっ、すんません。今日はここで食べます」

「どうした、仕事そんなギリギリか?」

「いや、そういう訳じゃないんすけど…」

「ふ〜ん…ま、頑張れよ」

「ありがとうございます」


オレは他のみんなが居なくなるのを見計らってから、
鞄の中から包みを取り出した。


「じゃじゃーん」

なんて、口で自分で言ってみる。


そう、実は今朝…。




 ***




「はい」

「…えっ、これ……」


オレは目の前に突き出された包みを、一瞬何か認識できなかった。

でも、数秒後に気付いた。


べ、弁当っ!?


「じ、時間が余ったから作っただけよ!別に要らないなら良いけど…」

「いや、いやいや!ありがたく受け取らせていただきますとも!」


薄く頬を染めてリョーマは言った。

引っ込められそうになる手を急いで押さえて、包みを受け取った。


それを見て、オレは暫く固まった上に思わず声まで出してしまった。


「……うわあ」

「何よ」

「いや、まさか作ってもらえるなんて思わなかったから…スッゲー嬉しい!」


とても嬉しかったのだけど、微かにくすぐったくて、
オレは鼻を指で擦った。

リョーマは、照れた表情でくるりと後ろを向いた。


「……遅れるわよ、早くしたら」

「お、おう!分かってらい!!」




 ***





これは、ニヤケが止まらねぇだろう?

なんつっても、初!愛妻弁当だぜ!?

ああ、オレって幸せ者…。


「いざ、開封〜♪」


鼻歌交じりに弁当箱を開けた。

すると……。


…なんじゃこりゃ。

パンが切って詰め込んであるだけじゃねぇか。

具なんて…何もないし。


……ま、アイツらしいかな。


「頂きまーす」


手を合わせて、食べ始める。

ただの食パンなのに…妙に美味しく感じられたのは、やはり愛?



オレが、そうして優雅に昼休みを満喫していると、
後ろから予想もしない声。


「ねぇ」

「……海堂」

「愛妻弁当をお楽しみのところ悪いんだけど、ちょっと…」

「……?」


オレから向こうに話し掛けるのはよくあることだけど、逆は相当珍しい。

…なにか、あったのか…?





 −−−





私達は、屋上に来た。

屋上では、数人がバレーボールを遊んでいたりするけど、そこまで混んではいない。

適当なところを見つけて、座った。


「……」

「…お前から話し掛けてくるなんて、何があったんだ?」

「ん。実は……」




 **




私は全てを話した。

昨日の夜のことから、今朝のことまで。

いい終わる頃、自分の目には涙が溜まっているのが分かった。

そして、無意識に体が震えてきていた。



「……それは、大変だったな…」

「………」


普段だったら、自分は絶対言わないセリフ。

でも、もう自分の精神はズタズタのボロボロだった。

その言葉は、躊躇いもなく口から出てきた。


「助けて…」

「………」


人に助けを求めるなんて、弱い者のすること。

そう思っていたけど、追い詰められると意外と人間は弱くて脆い。

自分だって、そうだった…。


目の端に浮かんだ涙を、指で掬った。

潤んだ瞳を乾かすために、大空を仰いだ。


果てしなく広がる青。


すると、言われた言葉。



「お前らしくねーなぁ」

「……え?」

「お前だったら、ストーカーなんて逆に後追っ付け回して、
 仕返しぐらいするやつだろうが」

「し、失礼ね!」


な、なんなのコイツ!?

人が真剣に悩んで苦しんでるって言うのに…。

からかって遊んでるわけ!?


「ほら」

「…?」

「そうやって、威勢飛ばしてるほうが、お前らしいって」

「………」

「あんまり深く考え込まないでさ、軽くいこうぜ!」


そう言って、明るい笑顔。

私は、振り上げた拳をゆっくりと下ろした。



……優しいんだ。


人をわざと挑発するような言葉を言ったりとか、からかってきたりはするけど。

でも、実際私は今それで救われた。

なんだか、心が軽くなった。


そうだ、悪い方に考えるからいけないんだ。


「そういうストーカーってこっそりどこから見てるんだろ?
 反応見て喜んでるんだから、なんともないふりしてれば案外無くなるかもよ」

「それも…そっか」

「ま、何かあったらまた言ってな。相談には乗るぜ」

「………」


自分に、素直じゃないなあ、と思う。

今、感謝の気持ちで一杯なのに…ありがとう、すら言えない。

でも、心の中でこっそり言うから、今は許して?


……ありがとう。



「さーってと、今なん…ああっ!昼休みあと5分で終わっちまう!オレの弁当〜!!」


そう言って、走って行ってしまった。

その後ろ姿を見て、くすりと笑ってしまった。

前は、こんなことでなんか笑わなかったのに…。


自分の性格も、この人に少しずつ感化されてきてる…そんな気がした。




 **




ふぅ。今日も無事仕事終わった…と。

少し残業で遅くなっちゃったけどね。

9時…か。早く帰らなきゃ。




駅までは徒歩。

そこまでは、約7分ほど。




『カツカツカツ…』



「?」


ちょっと待って、なんか足音がダブって聞こえる…。



『カツカツ…』



…絶対、誰か後ろにいる…。

もしかして、もしかして!?

待って、そうとは限らない。

悪い方に考え込まない考え込まない…。


でも……。


『カツ…カツ……』



どうして、同じスピードで着いてくるの!?


間違いない…後ろに、居る。

多分…十数メートル後ろ。

どうしよう…振り返ろうか?

いや、余分なことはやめよう。

走って逃げようか。

これでも足にはちょっと自信が…。

あ、でもハイヒール…。

気付かない振りして歩いてくか。

でも、どこまで着いてくる気!?

ここら辺で警察…あ、駅の横だ…。

ちょっと遠いな…。

あ、すぐそこにコンビニがあったわ。

そこに逃げ込むとしよう。

よし、決定…。




………!?



「……っ」



やだ…ちょっと待って…。


足が竦んで、動かない……。


ちょっと、状況的に、マズイ…。



『カツ…カツ…』



あ、遂に来た!

やだ、やめて…。



『カツ……カツ……』


「…ゃ……」



やめてよ…来ないでったら。



『カツン…カツン…』



やめて……来ないで!




『今晩は、海堂薫サン』


「!」


声が、真後ろで聞こえた。

電話、そして夢でから繰り返し聞こえてきた、あの声。

表情の読み取れない、低い声。



「お会いできて、嬉しいよ…」

「っ!!」


後ろから、私の肩越しに腕が伸びてきた。

そして、手が頬にピタリと当てられる。

肩が、びくんと震えた。

でも、自分の意思では動かせない。


「あなたは…だれ?」


声を出すのも必死で。

出てきた声も、自分でも驚くほど掠れていた。


「僕たちは、一度遇ってるよ…」

「!?」


…誰!?

遇ったことがある…?

こんな声の奴、いたかしら…。

…憶えてない。

あったことがあるとしても、きっと数回。


「憶えてるかなあ…乾貞治っていうんだけど」

「い…ぬい…さだはる?」

「そっ」


頬に当てられている手とは反対の手が、
私の喉元を撫でてきた。

気付けば、体は密着するほど近くに寄られている。

背中に感じる、嫌な体温。


足がガクガクと震えた。

逃げたいのに、足が動かない。


誰?

だれ?ダレ?


乾…貞治…。

……サダハル!?


「もしかして、一回合コンであった…貞治、くん?」

「おや、憶えててもらえるとは光栄だね」


そうだ…思い出した。


友人に、無理矢理連れて行かれたコンパ。

今まで彼氏とか出来たことがなかった私。

いい人が居ればいいけど…と思ったけど、見つからなくて。

ただ、向こうがこっちを気に入ったらしい…人は居た。

それが、貞治くん。

まあ、第一印象としては悪くないかな…って感じだったけど、
必要以上に迫ってきて…なんか嫌だった。

しかし、はっきり言うことも出来ず、そのまま流れに任せていた。

すると、向こうは余計こっちのことが気に入ってしまったらしい。

帰り際に、紙を渡されて、言われた。


「今度会おうよ、その番号にTELしてね」


でも、私はそこまで貞治くんのこと好きになれそうになかったから、電話しなかったんだ。

そうだ…そんなこと、すっかり忘れてた。


「…ずっと、電話待ってた」

「……」

「でも、一回も来なかった」

「………」

「諦めようかとも思ったけど、偶然道で君を見つけたんだ。
 後を着けてみたら、家が意外と近いことが分かって」


手を軽く撫ぜ回しながら、話を続けてきた。


「…毎日、君のことを見てた。どんどんのめり込んでいった。
 写真をこっそり撮ったのが、始まり。もう止まらなくなった。
 君の色々な一面を見たくなったんだ…」

「…っ……」


頬に当てられた手が、顔の中央にずれてくる。

人差し指で、唇を撫でられる。

虫唾が走って、吐きそうになった。


「もう、覚悟は出来たかな?」

「…っ!」

「俺のものに、してみせる…」

「……!」


体を反転させられた。

嫌でも、顔が視界に入る。


そう。

初めて会ったときから変わらない。

表情が読み取れない、眼の見えない眼鏡。



「俺のものだ……薫」

「!!」


顎を押さえられた。

そして、顔が近付いてきた。





 −−−





「あーあ。買い物に行かされるなんてついてねぇな」


牛乳が無いから買ってこいだぁ?


そんなもの自分で行け!

…とは、言えないんだよなあ…。

なんつったって、リョーマは可愛いからよv



「……やっ!」

「?」


なんだ、今の声、聞き覚えが…。

誰だっけ…。


……海堂!?


「ぃや、離し…!」

「離さない、もう放さないよ…薫!」

「いやぁぁっ!!」


間違いない…聞こえた…すぐ近くだ!


「海堂!!」


会社の方向に向けて、少し走って曲がり角を曲がった。

少し人気の少ない道だ。

そこには……。


「助け……っ!」

「……てめぇ!」


知らない長身の男に、海堂がキスされそうになっていた。

海堂は必死に抵抗していた。

目に涙を浮かべて。


許せなかった。


頭の中で何かが切れたような感じがし、俺は気付くと長身の男に殴りかかっていた。

その一発は、見事に男の顔に入った。


「何故だ、薫…確か、恋人はいないはずでは…」

「オレは別に海堂の彼氏でもなんでもねぇよ」


男はよろめきながら言った。


「っ……まあ、今回は君に免じて許してあげるよ。名前は?」

「桃城武、ヨロシク」

「…桃城、か。データに付け加えておくよ…」

「そんなもんもう付けるな!!」


男は、眼鏡をついと上げると、そのままどこかへ行ってしまった。


「なんなんだ、あいつ…相当ヤベェな。完全切れてる…。なあ、海…!」


男が見えなくなるまで見送ってから、海堂のほうを振り返ると、
驚いたことに、地面にぺたんと座り込んで涙を流していた。


「お、おい海堂!落ち着け!」

「怖、かった…」

「もう、大丈夫だからよ。ちゃんと追い払ったって」

「うん……っ…」

「………」


こうしてみると、いつもはがさつだけど…コイツも繊細な女なんだよなぁ、とか思う。

…人って、結構弱いもんだよなぁ…。


「えーと、なんなら何か飲むか?そこのコンビニでよ」


海堂は、ゆっくりと頷いた。

立ち上がるとパッパッと砂を払った。

そして、何も言わずに無言で着いてきた。



コンビニの横の公園で、オレたちはベンチに腰掛けて話をした。

海堂にはとりあえずホットコーヒーを買ってやった。

どんなもんが好きか分かんねぇけどよ、まあ、これなら妥当だろ?

海堂は暫く無言でコーヒーを飲んで鼻を啜っていた。




 −−−




買ってもらったコーヒーを飲んでいると、
その温かさからか自然と気持ちも落ち着いてきた。

向こうが話し始めるのを待つのもなんだから、こっちから話を始めた。


「悪いわね、時間とって」

「いや…」

「でも…ほんと助かった」


自分でも、凄い涙声なのが分かった。

すると、向こうも戸惑いながらしどろもどろと話し始めた。


「その…オレもごめんな。昼話聞いたとき…、
 そんなに重大に考えないで適当なことしか言えなくてよ。
 もっと真剣に考えてれば…さっきのも防げたかもしれねぇのに」

「ううん、それはもういい」

「そっか…」


一瞬、沈黙が走る。

上を見上げると、少し細めの丸い月が見えた。


「でも、気を付けろよ?残業も、あんまり遅くなりすぎないほうがいいぞ?
 一生懸命なのは分かるけどよぅ、やっぱり…な?」

「…これからはそうする」

「そうだ。それがいい」


うん、うん!と一人で勝手に頷いていた。

その様子を見て、なんだか心が温かくなった。

何故か、私は笑ってしまった。


「でも…本当にありがとうね!」


「――」

「何よ……あ」


そのとき、私は初めて桃城君に素直に礼を言った。

しかも、満面の笑みで……。

な、なんかキャラ違う!?

不審に思われたかしら……。


「お前、さぁ……」

「なに…」

「いや、笑うと……結構可愛いのな」

「!」


不意を突かれたセリフ。

不覚にも、ちょっと赤面してしまう。

しかも、少し、ほんの少しだけ…嬉しかったりして。


「…って何言ってんだオレ!今言ったこと、全部忘れろ!!」

「………」


向こうも少し照れたふうな表情をしてるのが、なんだかくすぐったかった。

缶コーヒーの最後の一口を飲み干すと、桃城君は言ってきた。


「海堂って、意外と良いやつなのな!」

「意外って…どういう意味よ」

「まあ、気にすんなよ」

「……」


こっちとしては、良いやつなんだかやな嫌つなんだか…掴めない。

でも、まあ…分かったよ。

私は、桃城君のこと…好きなんだね。


「…オレさ」

「ん?」

「リョーマが居なかったら、お前のこと好きになってたかもなー…なんてな!」

「―――」

「はは、今日のオレおかしいべ。何でこんなこと言ってんだろ。こんなヤツに」

「こんなヤツとは失礼ね!」


そうして、またど付き合いが始まる。

そのときの心境は、複雑だった。


好きになってたかも、と言われて嬉しかったり。

リョーマが居なかったら、という言葉が哀しかったり。

ケンカばかりなんだけど、そんなやり取りが楽しかったり。

こんなときがずっと続けばいいのになー、なんて考えていた。


そして、いつのまにかさっき起こった出来事のことはすっかり忘れてた。



本当に、色々と、アリガトウ……。






 −−−





海堂も落ち着いたところで、オレ達は別れた。

オレは送ってくって行ったんだけどよ、もう大丈夫だって。

家で奥さん待ってるんじゃない?早く帰ってあげなさいよ…だって。

もう、何もないことを祈るぜ、ホントに。


ところで…アイツ……。


「………」


一瞬、思ってしまった。


自分は、アイツのことが好きなんじゃないかって…。


数秒後、その考えは否定されたけどな。

なんてったって、オレはリョーマのこと愛してるし!

でも、少なくとも嫌いではない。

ケンカだってよくするけど、それは、話すきっかけが欲しかったからで。

そんな関係が、妙に心地良かったんだな。

…アイツ、笑うと可愛いしな!

いつでも笑ってればいいのに…。

ま、そうしたらアイツじゃないけどな……。

ありのままが一番いいってことか、うん。


「あ、そういえば買い物頼まれてたんだ……あれ?
 そういえば、オレ牛乳一本分の金しか持ってきてねーぞ…」


海堂に…コーヒー奢っちまった……。

どうしましょ。

……リョーマさん、許してくれるかしら?




――どうなったのかというと…。


「………(怒)」

「ご、ごめんなさいぃ!!」


逆鱗に触れてしまった。


「許してくれ、マイラブハニー!」

「…英語がなってない」

「あああ……」


頭は上がらないんだけどよ。

でも……好きなんだよな。


「オレの愛で許してv?」

「………もう、分かったわよ」

「リョーマ、愛してる〜!」

「わ、分かったから、ちょっと離してよ!!」


リョーマに抱きつきながら、幸せだなあ、と思った。

そして、リョーマの腹に耳を当てた。


「結構大きくなったな!もう動いたりするのか?」

「いや、まだそれは感じたことない」

「…可愛い子が産まれるといいな。ま、オレ達の子供だから可愛いに決まってら!」

「なによ、その妙な自信…」


毎日が充実してる。


愛する人と暮らして。

新しい命まで授かって。


本当に、オレってば幸せ者。





 −−−





「ふぅ」


今日は、なんだかちゃんと寝られそうな気がした。

怖い、という気持ちは無かった。

きっと、ちゃんと眠れる…。


と、思ったけど。

色々と考えてしまって、やっぱり眠れなかった。


貞治くんのこと。

もう、合コンなんて行かない、と思ったこと。

そして、桃城君のこと…。


………。

報われることがないの、分かってる。

でも、向こうが幸せなんだったら、それでいいと思う。


辛いけど、それで幸せ。


矛盾してるけど、本当にそう思うんだ。


…大体、本当に好きなのかも分からないわ、あんなやつ!

いっつも人のことからかってくるし。

ケンカ吹っ掛けてくるし。


でも……。



良いやつ、なんだ……。






 **





考えているうちに、気付けば私は寝ていた。

次の日の朝はすっきりと目覚めることが出来た。

ポストの中には何もなかったし。


あ、そういえば、昨日の夜。

留守電には、「さよなら」と、一言だけ入れられていた。

…貞治くん。

あんな、必要以上に迫ってこなければ、嫌いじゃなかったかもしれないけど。

ま、そんなこと関係ない。




「おはよ、桃城君」

「おう、海堂おはよう!」

「今日も機嫌いいけど…愛妻弁当なの?」

「いやー、それが昨日ちょっと怒らせちまって…」

「やっぱ、行いが悪いんだ…」

「うわ、それひどっ!」


そうして、笑い合った。

何でこんなに話し掛けてるんだろう…と自分で疑問を持った。

でも、素直な気持ちが口から自然に出たんだ。


「じゃあ、どうしてそんな機嫌いいの?」

「さぁ……なんでだろうな」

「ま、いいや」


質問を質問で返されたので、答えなんて分からないし
さっさと退散しよう…と思ったとき。


「あ、そうだ海堂」

「ん?」

「良かったら、今日一緒に昼飯食わねぇか?」

「…いいわよ」

「それじゃ、約束だからな」


素直に返事をすることが出来て、
なんか、自分は素直になったのかなあ、と思った。


「でも、お前も毎日昨日みたいでいればいいのになあ…」

「…どうして?」

「だってよ、普段のお前ったらがさつだし可愛くねぇし…」

「っ女らしくなくて悪かったわね!!」

「その辺が、いけないんだって」

「五月蝿い!!」


…完全に素直になるのは、やっぱ無理かな?

でも、いつもケンカしちゃうような関係が、
微妙に心地良かったりするから…いいのかもしれない。






















花嫁物語第三弾!
乾→海v桃×リョなイメージで。
桃海…微妙ですね。それなりに仲良く。でも本命は桃リョと。
薫ちゃんが微妙に切ないですね。
っていうか君付けって抵抗あったけど良かったのかしら?
(無くすと余計不自然な気がしてつけちゃいましたが)

ところで題名には特に意味ありません。(こら)


2002/12/24